城郭探訪

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鞍掛神社遺構(衣川城の一部か?) 近江国(大津)

2015年04月30日 | 丘陵城
衣川城の近くに、鞍掛神社に城郭遺構『衣川城の一部か?』

お城のデータ

所在地:大津市衣川町2丁目  map:http://yahoo.jp/R3Wbhv

区 分:丘陵城

築城期:鎌倉期・文暦元年(1234

築城者:山内義重

城 主:山内駿河守宗綱

遺 構:説明板

訪城日:2015.4.30

駐車場:路上駐車

歴 史  

築城年代は鎌倉期に、山内義重によって築かれたと云われる。 文暦元年(1234年)正月の『粟津の合戦』で功を挙げた義重が衣川を領して築城したのが始まりと云われる。

十一代の山内駿河守宗綱は戦国期・永正5年(1508年)~永正8年(1511年)にかけて浅井公政・京極高清とともに朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめたが、大永6年(1526年)に細川高国の奇襲によって衣川城は落城、重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて土着したという。

 日本城郭大系では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったと紹介されいる。比叡山も近い場所で、織田信長の時代に多少は関係したのか。

 
 大津市衣川2丁目の衣川住宅地北側にある鞍掛神社の祭神は天智天皇の第1皇子である大友皇子。のち明治になって弘文天皇と追称された壬申の乱悲劇の人である。
 
 壬申の乱の時、皇子は瀬田橋の戦いで敗れると、「山前」で自殺をするのではなく、社伝によると実は衣川のこの地にいた本田家の屋敷まで中村姓の侍臣とともに馬を馳せて落ちのびて来た。そこには三尾城落城の知らせが待っており、皇子は馬鞍を下ろして庭前の柳の老樹の枝に掛け、その場で自刃したという。
 付き添ってきた侍臣たちは、この地で帰農し、子孫が代々にわたって皇子の神霊を祭ってきた。神社が建てられたのは堅田の浮御堂より前の元慶6年(882)で、惟喬親王の子兼覧王が大友皇子を哀れみて立派な本殿を建立し、保元元年(1156)に源義朝が同社殿で武運長久を祈願。のちに義朝の子、頼朝が文治元年(1185)、社殿を改修したと伝えられている。

 この鞍掛神社の例祭は毎年、7月23日だったが、勤め人が多くなったため、近年は祝日「海の日」(今年は7月20日)に営まれている。
 
氏子は中村姓の「八人の侍」だけ。祭りには衣川の自治会も参加しているものの、神社の維持は1300年の昔から中村一族で守り継がれてきた。
 その侍臣魂に驚かされた。明治維新まで腰に刀をさして例祭に参列していたという侍臣の子孫ら。中村貫二氏ほか、平三郎、英男、吉三、清、昭作、うた、五栄各氏8軒の中村家は裃姿に正して近江神宮神職の祝詞を受け、永遠の弘文天皇への忠誠を誓うのだった。
 
神社土塁と天神川の間に、曲郭区割りが残る ・・・中村姓の「八人の侍」曲郭跡か?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝


衣川城 近江国(堅田)

2015年04月30日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:大津市衣川町2丁目30

 map:http://yahoo.jp/R3Wbhvこの地図のURL

区 分:丘陵城

築城期:鎌倉期・文暦元年(1234

築城者:山内義重

城 主:山内駿河守宗綱

落 城:戦国期・大永6年(1526年)

遺 構:城址碑・説明板

訪城日:2015.4.30

駐車場:路上駐車

お城の概要

 衣川城は琵琶湖に注ぐ天神川の南側にある丘陵に築かれていた。 現在は衣川台の団地の北東部にある「北公園」に石碑と案内板が建っている。

公園は斜面状の中央部に1m程の段差がある、曲郭をそのまま利用したもの。下の曲郭に土塁状の高まりがある。また、琵琶湖側に住宅があり見晴しはきかないが、下の道路に出ると三上山まで見え、往時は西近江路を監視できる丘陵城である。

 衣川地域には城の口や開城道などの地名が残り、昭和43年滋賀県教育委員会の調査によって城跡の一部(溝跡、建物跡など)が確認され、壺等多数の遺物が出土した(『現地説明板)

歴 史  

築城年代は鎌倉期に、山内義重によって築かれたと云われる。 文暦元年(1234年)正月の『粟津の合戦』で功を挙げた義重が衣川を領して築城したのが始まりと云われる。

十一代の山内駿河守宗綱は戦国期・永正5年(1508年)~永正8年(1511年)にかけて浅井公政・京極高清とともに朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめたが、大永6年(1526年)に細川高国の奇襲によって衣川城は落城、重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて土着したという。

 日本城郭大系では山内駿河守宗綱の居城で、朝倉勢と戦ったと紹介されいる。比叡山も近い場所で、織田信長の時代に多少は関係したのか。

無心庵
 
近くに、鞍掛神社
 大津市衣川2丁目の衣川住宅地北側にある鞍掛神社の祭神は天智天皇の第1皇子である大友皇子。のち明治になって弘文天皇と追称された壬申の乱悲劇の人である。
 
 壬申の乱の時、皇子は瀬田橋の戦いで敗れると、「山前」で自殺をするのではなく、社伝によると実は衣川のこの地にいた本田家の屋敷まで中村姓の侍臣とともに馬を馳せて落ちのびて来た。そこには三尾城落城の知らせが待っており、皇子は馬鞍を下ろして庭前の柳の老樹の枝に掛け、その場で自刃したという。
 付き添ってきた侍臣たちは、この地で帰農し、子孫が代々にわたって皇子の神霊を祭ってきた。神社が建てられたのは堅田の浮御堂より前の元慶6年(882)で、惟喬親王の子兼覧王が大友皇子を哀れみて立派な本殿を建立し、保元元年(1156)に源義朝が同社殿で武運長久を祈願。のちに義朝の子、頼朝が文治元年(1185)、社殿を改修したと伝えられている。

 この鞍掛神社の例祭は毎年、7月23日だったが、勤め人が多くなったため、近年は祝日「海の日」(今年は7月20日)に営まれている。
 
氏子は中村姓の「八人の侍」だけ。祭りには衣川の自治会も参加しているものの、神社の維持は1300年の昔から中村一族で守り継がれてきた。
 その侍臣魂に驚かされた。明治維新まで腰に刀をさして例祭に参列していたという侍臣の子孫ら。中村貫二氏ほか、平三郎、英男、吉三、清、昭作、うた、五栄各氏8軒の中村家は裃姿に正して近江神宮神職の祝詞を受け、永遠の弘文天皇への忠誠を誓うのだった。
 
神社土塁と天神川の間に、曲郭区割りが残る ・・・中村姓の「八人の侍」曲郭跡か?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


山中城 近江国(大津)

2015年04月30日 | 戦国山城



お城のデータ

所在地:大津市山中町       map:http://yahoo.jp/bDtWGC

区 分:山城

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:磯谷氏

遺 構:郭・土塁・竪堀

標 高:377m 比高:87m(元・山中保育所290m) 

目標地:元・山中保育所

駐車場:元・山中保育所

訪城日::2015.4.30

 京側山中バス停

集落内へ

極楽寺

お城の概要

 登り道は保育園のグランドから尾根状を直登し、保育園は背後のピークにまず登り、尾根上を東南に進んで、最後は急坂を30mほどよじ登ったところの山頂が城跡でした。

 山中町には、節(武士)ヶ谷、陣ヶ谷、陣見山、奥ノ城、口ノ城と云った地名があったようで、奥ノ城は山中越沿いの比叡平の京都側(山中町)辺りとされ、まさに山中城跡はそこに位置している。

 城跡の遺構は、不明瞭で薄いものが僅かに残る程度で、縄張りも不明瞭で詰め城・砦。

山頂部は十分な削平でなく不明瞭。その山頂部から南に緩やかに下る尾根筋に二ヶ所の三日月状土塁が築かれた郭を形成している。喰い違い状の虎口を伴っている。東に伸びる支尾根には浅く薄い堀切が入っている。下段の郭から南西へ鞍部を経て小ピーク、その南側に土橋を伴う堀切が微かに残る。

頂部から南尾根へ自然の地形をそのままに、平坦とは言えない郭(街道からは、見えない武者溜りか)。やや下がった郭は土塁が三日月状の城郭遺構の痕跡。

帰りは城道を、プールまで下りてきました。

元・保育園グランドこの階段かえあ元・山中保育園・自治会館。この保育園のグランドに入る、グランド沿いに山へ小道があり、左手に登ります。支尾根に挟まれた平坦地に出ます。上下二段になっていて、中央にスロープ状の道もあり、また、滋賀県の史跡標柱が建ってます。

山中城の居館?寺跡・神社跡?

右手から尾根へ登る。城道か?尾根を登って行きます。街道側に身隠し土塁・銃座(射て座)の空堀が頂部下まで続く、山中に虎口のような箇所があり、ここから右手方向の尾根へ登って行きます。

城道の武者止め!

急坂を登りつめると頂部城跡。

頂部の郭と土塁

山頂から南尾根へ平坦とは言えない郭があります。やや下がった郭は土塁が三日月状になんとか確認できる、城郭遺構 

歴 史

 山中城は、京都と大津を結ぶ重要なルートの一つである山中越の中間に位置する志賀郡山中村を領した磯谷氏の居城。

 磯谷氏のなかで久次新右衛門尉と彦四郎父子に関する記録が比較的よく残っているようである。久次の二人の娘は、織田信長の目附に就く道家尾張守と、禁裏御倉職を務める立入城主(近江国・守山)立入宗継へ嫁している。久次は、その関係から身分は幕臣ながら禁中・公家との繁がりも強かったようで、永禄7年(1564)10月尾張清州へ、さらに同10年(1567)11月岐阜城へ、正親町天皇の勅使として宗継とともに下向し、信長と対面する重責をはたしている。

 元亀元年(1570)9月23日信長は、久次に湖西を南下し比叡山に陣を張る浅井・朝倉軍の進路を阻むため、山中越の京都・山中間の封鎖を命じている。また、同2年11月15日久次の息子千代寿が元服して彦四郎と称するが、鳥帽子親は明智光秀の与力山岡景佐(瀬田城主山岡景隆の弟)で命名者は光秀とされ、当初、久次は信長に従っていたことが窺える。

しかし、元亀4年(1574)2月信長との不和が決定的となった将軍足利義昭の檄により、石山・堅田両城で反信長の挙兵がなされた。信長から離反した久次は、堅田城に立て籠もったが、同月29日光秀らに攻められて敗退。同年7月義昭が再び挙兵し、久次も京都の一乗寺に籠り信長軍と交戦するが再び敗れ、紀伊山中へ逃亡中吉野で土民に殺され、首級は信長のもとに持参された。

 久次の息子彦四郎は、信長没後の天正11年(1583)6月羽柴秀吉から山中の旧領を返され、7月には山中越普請の奉行に任じられている。

 帰りは城道を、プールまで下りてきました。

プール

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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源満仲(みつなか)館  近江国(大津)

2015年04月30日 | 居館

お城のデータ

所在地:大津市仰木町4-2-50 map:http://yahoo.jp/IFjb-2

区 分:居館

居 館:紫雲山来迎院満慶寺(現・真迎寺)

築城期:平安期

築城者:源満仲

遺 構:「多田満仲公頌徳碑」。遺構はない。

目標地:仰木太鼓館(滋賀県大津市仰木4丁目2−50)

城 主:源満仲(多田満仲)

訪城日:2015.4.30

駐車場:仰木太鼓会館

仰木太鼓会館

 

お城の概要

源満仲館は仰木小学校の西側にある「御所の山」と呼ばれる丘陵にき築かれていた。

現在は公園となって「多田満仲公頌徳碑」などが建てられているだけで遺構などはない。

歴 史

平安時代中期に活躍した源満仲(多田満仲)の館と伝えられる。

満仲は天禄2年(971年)に摂津国多田から仰木に来住し、十年余りを過ごしたという。

満仲は比叡山横川の恵心僧都に帰依して満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称して善政を敷いたという。

居館:紫雲山来迎院満慶寺

(滋賀県大津市仰木2丁目7-10)http://yahoo.jp/hnkvc0

 日本浄土教の始祖である恵心僧都によって開基されました。本尊は恵心僧都の御作と伝えられている阿弥陀如来です。

 北東にある「御所の山」は、多田源氏の源満仲が天禄2年(971)に摂津多田から来往して10余年間に亘り、居館を構えた跡とされ、満仲の遺跡を示す石碑が今も残されています。満仲は恵心僧都と信仰が深く、僧都を戒師として出家し、法名を満慶と号し、居館を紫雲山来迎院満慶寺と称したと伝えられています。
 寺域内には、満仲の念持仏とされる薬師如来をお祀りしている薬師堂や「横川のお大師さん」に対して「辻のお大師さん」とか「仰木のお大師さん」と呼ばれている元三大師堂があります。
 又、飛地境内には、国の重要文化財に指定されている延命地蔵をお祀りしている地蔵堂があり、毎年、自治会の協力のもと、地蔵盆法要が奉修されています。

元三大師堂バス停前

満仲の生涯

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許された。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない。

二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した。

また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。長徳3年(997年)8月27日に卒去。遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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八木浜城(中村氏屋敷) 近江国(びわ町)

2015年04月28日 | 居館

 

お城のデータ

所在地 : 長浜市八木浜頂(旧東浅井郡びわ町八木浜)     map:http://yahoo.jp/3m8zXt

別  名 : 中村氏屋敷・市右衛門・代官屋敷

区 分 : 平城(居舘) 

築城年 :織豊期期

築城者:中村市右衛門

城 主:中村氏

遺 構:江戸期の屋敷跡(石垣・門・館・堀)重厚な茅葺の母屋・水路になっている堀・船着場の石段

目標地:八木浜漁港・八木浜会館

訪城日:2015.4.25

駐車場:八木浜会館

江戸期の建物(重要文化財)と石垣が現存

主屋中庭

お城の概要

北側に堀川とそれに沿っての石積み、中央に船着場の石段、西側に石積みの土居と門、東側に堀と石積みが残る。南側の屋敷境の遺構は、認められない。
主屋の南に展開する4反余りの空地は、「馬場」と呼ばれ(現在は新築の末裔宅)ている。また、北西隅の小屋は、「馬小屋」と伝えられている。
葦葺きの主屋は風格があり、旧家。

船着き場

歴 史

「淡海小間攫」には、「八木浜村、当村ニ中村市右衛門ト云人アリ、元祖ハ幸野市右衛門ト云シ由、志津ケ嶽一戦ノ時、秀吉ヨリ感状玉ハリシト云、後孫帯刀ト云人有ト云」と記されている。

八木浜の土豪中村氏の屋敷跡である。中村氏屋敷との別名がある事や中村氏が豊臣秀吉からの書状を保有されていることなどからして、長浜城主時代の豊臣秀吉からなんらかの代官に任じられていた。

家伝によれば伊予河野氏の出で、初め越智姓を名のっていた。当地に来てからは、浅井氏に仕えたと云われ、

江戸時代には井伊家(彦根藩)の代官をしていた。現在も地元では、当家を屋号で「市右衛門」と呼ぶ。他に「代官屋敷」と称するのは、この歴史的背景によるとされる。

駐車場:八木浜会館

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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安養寺城 近江国「びわ町」

2015年04月28日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:長浜市安養寺(旧東浅井郡びわ町安養寺)

      maphttp://yahoo.jp/ZTy1-Yこの地図のURL

別名:安養寺館

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:安養寺氏久

城 主:安養寺氏久・安養寺八郎右衛門光頼・安養寺河内守勝光・安養寺三郎左衛門・氏久・氏秀・氏種(経世)

遺 構:曲輪・土塁・

現 状:神社

城 域:54m×54m

目標地:大安養神社・応徳寺

訪城日:2015.4.25

駐車場:安養寺農業用拠点施設駐車場

神社の本殿裏手にわりと明瞭な空堀が残り、西側にも堀跡が判ります。

お城の概要

 

  安養寺城は、現在の大安養神社の敷地一帯に築かれていた。 城の縄張りは推測の域を出ないが、主郭部分は約30間四方の方形で、周囲には土塁と堀が囲繞していたと考えられる。 現在は、神社境内の西から北側にかけて堀と土塁の一部が残存してる。

 

 同社には、戦国期、京極氏奉行人や浅井賢政(長政)から当社の前身にあたる薬神社に宛てた禁制が残っている。

その他安養寺氏が寄付したという天文十一年(1542)の木造狛犬1対(びわ町指定文化財)や同じ所伝をもつ戦国時代の六十二間筋兜鉢も保管されている。

 

 地元では、神社が安養寺氏の城跡であると伝えられている。社地は、北・東・西を堀とで今も囲まれており、西側には、低いなりにも土塁が確認できる。現状から見る限り、当地を安養寺氏の城館跡のその有力候補である。

歴 史

 安養寺城は、築城年代は定かでないが安養寺氏によって築かれた。 安養寺氏は、浅井氏の家臣で、当地の土豪。安養寺氏久・氏秀の名が伝えたれている。

 明応七年(1498年)頃、安養寺八郎右衛門光頼がここに居住したようです。安養寺河内守勝光は京極氏に仕えたようです。その後は、安養寺氏も浅井氏に仕え、安養寺三郎左衛門を代々名乗ったようで、氏久・氏秀・氏種(経世)と続いたようです。氏種は浅井氏の後、京極高次に仕え、慶長十一年(1606年)に没しているようです。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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益田城 近江国(びわ町)

2015年04月26日 | 平城

増田長盛出生之跡と記された碑 山門

お城のデータ

所在地:長浜市益田町 (旧東浅井郡びわ町益田) map:http://yahoo.jp/Ijn65X

区 分:平城

現 状:寺・田畑・宅地

遺構等:石碑・堀?

築城期:織豊期

築城者:増田氏

目標地:真宗寺・益田農村集落センタ-

訪問日:2015.4.25

駐車場:益田農村集落センタ-

お城の概要

益田城は、現在は真宗寺境内。城の遺構はないが、寺の山門脇に『増田長盛出生之跡』と記された石碑が立てられている。

この碑のところから寺を巡るように堀らしき水路があるが、遺構か?。益田集落は湧水が

歴 史

益田城は、豊臣政権五奉行の一人増田長盛の出生の城。 

長盛は、真宗寺9世祐愍の次男増田右衛門尉照澄(お寺の次男坊)であった。

(出身地は近江説の他に、尾張中島郡増田村との説もあり、増田長盛は愛知の出身ともされ、稲沢市に増田屋敷の跡もある)

 増田長盛は、天正元年に羽柴秀吉に召し出され、天正18年に水口岡山城主、文禄4年には大和郡山城主となった。 関ヶ原の戦いには西軍に組みし、戦後改易となった。

増田 長盛(ました ながもり)・・・秀吉近臣時代

天正元年(1573年)、織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され300石で仕える。このとき28歳であったという。この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉麾下にあっては中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。

天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げる。翌年3月の紀州攻めでは、『根来寺焼討太田責細記』によると大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功も記されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見氏担当の申次となり、里見義康が臣従する際の条件について助言を与えた。後北条氏が滅亡すると長盛は下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった。 この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江水口を拝領する。

太閤検地では石田三成と共に中心的な役割を担い美濃国・越後国といった要地の検地奉行を務めた。三条大橋・五条大橋の改修工事など作事も担当し、三条大橋には今も長盛の名が刻まれている。

文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し奉行として占領地統治や兵站に携わり、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

秀次事件では長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。

長盛屋敷跡

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

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茂山陣所・権現坂   近江国(余呉)

2015年04月26日 | 陣城

事前予習【賤ヶ岳合戦 柴田軍 前田利家・利長隊の軍行】

余呉町観光協会絵図

 柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いが行われたのは、天正十一年(1583)4月19~20日(新暦6月9~10日)のことであった。

 前年の冬、領有する北陸からの行動が雪で制限された勝家は、一時の休戦を欲した。
そこで、天正十年十一月、勝家は、前田利家、不破勝光、金森長近を宝寺(山崎城)に派遣して秀吉と会わせ、和平の承諾を得た。

 利家は交渉が成功したものと思い込み、京都の織田信長の墓(大徳寺)に詣で、和平が成ったと信じて帰国し、勝家も油断したという(『太閤記』)。
また、この時に、すでに内応の約束がなされていたといわれている(高柳光寿氏)。

 しかし、秀吉の言は表面上のもので、着々と勝家討伐の軍を編成していた。これを察知した勝家は決戦に臨む。

 利家は京都からいったん能登に引き上げ、三月四日頃勝家本隊に所属して北ノ庄を出陣し、その時に勝家に人質を差し出した。(『前田家譜』『古今消息集』『土佐国蠧簡集』)。 

三月十二日、柴田軍は、北国街道の要衝である柳ヶ瀬を中心に布陣し、しばらく前田利家は勝家本陣の玄蕃尾城(長浜城主 柴田勝豊(勝家の甥)が事前築城していた)にいた(『富田文書』)。

 前田利家隊その後に、別所山砦に配置された(『近江輿地志略』)。

別所山は遠く鎌倉の頃より天台宗の別所山・万福寺のあったところであるが、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いたという(楠戸義昭氏『戦国佐久間一族』)。

 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにおいて、別所山砦には勝家方の七尾城城主・前田利家と府中城城主・前田利長父子が砦を構築し、天正11年(1583)2月初旬から4月20日の戦いに至るまでの約2ヶ月間布陣したしたところである。

 柴田勝家の玄蕃尾城の本陣より行市山頂を経て別所山・中之谷山・林谷山の各陣地は、尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれた強力な陣地として構築された。
 しかし、4月20日未明に佐久間盛政の大岩山砦の急襲から始まった戦いは、前田利家父子の離反により柴田勝家軍は敗走することとなった。

佐久間盛政進路・前田利家進路

前田利家進撃路利家退却路

 佐久間盛政の深追いによって佐久間隊が賤ヶ岳に破れ、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

この前田隊の退却は、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城(武生)に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

 

城郭フォーラム『前田利家の茂山陣・交通の要衝権現坂』

『茂山陣所と権現坂を探る。』

秋葉砦(遠望)・・・研修バスをここで降り

長谷川講師の挨拶・ウォキングアップ・自己紹介・・・・・。

茂山砦は柴田軍の最前線・・・明神山砦・堂木山砦の尾根続き

茂山砦(しげやまとりで)

茂山に陣する前田勢・・・・賤ヶ岳合戦絵図より

 鍾馗に金軍配団扇の馬印、その周辺には梅鉢文の旗がなびき、茂山に陣した前田利家の陣であることがわかるが、利家は描かれていない。利家が二千余の軍勢を二段に備えたという記述は、甫庵『太閤記』による。

 体勢を整えた佐久間盛政が秀吉方と激戦をくりひろげている最中、前田勢は突然退却をはじめ、柴田方総崩れの直接的原因を作った。『川角太閤記』では、秀吉と利家の間で、利家が直接戦闘に加わらないという密約があったという

 利家と勝家の関係は、天正三年(一五七五)勝家が信長から越前の支配を委ねられた際、不破光治・佐々成政とともに柴田目付とされたことにはじまり、直接的な主従関係はない。

敗北して北ノ庄城へ逃れる途中、勝家は越前・府中城の利家のもとに立ち寄り、労をねぎらっている。

鶴翼の陣立て

近江ノ国米ちゃんblogより【今日の見学ルート図】

林道(登山口)から茂山砦の西群に

武者控え(野営宿所小屋)

茂山砦 東群

 

http://yahoo.jp/7HQek9

 茂山砦は、急拵えの砦(塹壕/伏兵や銃座/見隠土塁)であろう。

頂部に土塁と思しき遺構が見られる程度で、それ以外は塹壕遺構が多く残る。
別所山の前田利家・利長は、佐久間盛政による4月20日未明の大岩山への中入り攻撃を助けるため、神明、堂木の上方に位置する茂山に移動した。
前田父子が茂山に陣を構えたのは、ほんの数時間だけであり、陣城遺構は銃座/身隠土塁・塹壕のみ、当然のことか?

銃座・塹壕銃座・塹壕塹壕や窪みが南斜面の余呉湖に向かって銃座/見隠土塁。頂部標高350m~300m(余呉湖・標高140m)より比高160mまで下る

ここで、昼食・・

特製弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

昼食後、再び頂部布陣の方へ登って、午後から利家の退却路へ。布陣跡から午前中に来た道を戻り比高100m程で林道へ降りる。

塹壕・銃座を再度確認しながら頂部~西群~林道へ

林道に戻り、地蔵堂(たるみ坂)の両側に堀があり、一方は余呉町川並へ下りていくルート。

研学バスで来ない場合は、ここまで(標高300m程)歩いて登って来なくてはならない。今回は塩津から林道を見学バスでした。

東側の堀切1は浅い地蔵堂は、櫓台跡に祀られ(林道整備や改修で半分以下に)堀切2「小字おかお」岡尾と文室でよばれる

「たるみ坂」・足海/川並側遺構には、峠は関門機能を持つ切所(せっしょ)で要害地形。江戸期に何度か改修されいる

=『茂山砦西遺構』

茂山砦西遺構は、なだらかな山道で、たるみと呼ばれ、佐久間隊・前田隊・羽柴隊の通過軍道。

塹壕~土橋の両側は止め土塁

権現峠へ

権現峠

秋葉権現

権現峠~利家が塩津方面へ撤退した退路

参加者20名で記念撮影(見学会人数)

ここで、講師:長谷川博美氏より、再踏査図の説明会

 『余呉町秋葉城』城郭遺構の再踏査図

余呉・文室へ

深山イカリソウ

林道脇の旧秋葉神社跡

文室集落に下山!

見学バスで、森林センターへ

鳥居扁額

集落内の北野神社 

境内社の足前神社に関して。

かつて、余呉湖の西に足坂という坂があり、権現神が祀られていたという。
足坂は、足前の変化であると考え、式内社・足前神社の古跡であるという。
そこに祀られていた蔵王権現の石像を北野神社境内へ移して祀ったものが、この足前神社。

見学バスで、森林センターへ

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・余呉観光協会・賤ヶ岳合戦記・ウィキペディア

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

本日歩数    12,027歩

歩行距離     9.0km

実歩行時間    2:17

消費カロリー 249.1kcal

脂肪燃焼量  35.5g


相谷万灯山城  近江国(永源寺)

2015年04月24日 | 山城

最高所(TVアンテナ塔)

万灯城踏査図(滋賀県中世城郭分布)

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町相谷  map:http://yahoo.jp/Lk9zit

築城年:南北朝期

築城者:小倉右近太夫・小倉三河守良秀

城 主:安養寺(小辰)勝光・小辰勝徴

区 分:山城

城 域:頂部 東西50m×南北100m

標 高:370・8m 比高差:150m(旧街道~170m位)

遺 構:土塁・竪堀・物見櫓

目標地:相谷南バス停・手坂吉右エ門の墓所

訪城日:2015.4.23

駐車場:3~4台可(看板 食事と喫茶 古今)

国道421線相谷口の駐車場3~4台可(看板 食事と喫茶 古今)~電柱の右が登城口

登城口

山に入るとすぐ古屋敷の石垣、下屋敷カ?

先ずは、送電鉄塔を目指し、竪堀の様な?城道の様な?直登!

城への登城道は、北側山裾を走る道路が国道421号に出る所の山側に「火の用心」の看板が建っている所から山道がある。頂上手前は、テレビの共同受信施設の管理道で急坂が続く。

中腹に、石積・土塁痕・木場痕・土取り痕もあるが、城跡なのか?

送電鉄塔手前の削平地

お城の概要

相谷万灯山城は、八風街道沿いの相谷集落南の万灯山山頂に築かれている。相谷集落を過ぎると山深くなるが、万灯山はその山間部の入口に位置している。

 城への登城道は、北側山裾を走る道路が国道421号に出る所の山側に「火の用心」の看板が建っている所から山道がある。頂上手前は、テレビの共同受信施設の管理道で急階段が続いているようである。

城の規模は、南北約80m、東西約20mで北と南に城域を区分出来る。北側中央に土壇があり東から北に幅の広い腰郭が取り巻いている。その南側は東縁部に土塁を伴う削平地が設けられた簡単な縄張りである。山頂から東西に延びる尾根の先端に位置しているが、ほとんど自然地形に近い。
 城郭遺構としては、東端に切出してつくられた曲輪地形の虎口を固めるように竪堀がある。

南の尾根は細く削り出し、複数の竪堀も入れて守りを固めている。また、四方は急峻な斜面となって堅牢な山城。

頂部TVアンテナ狼煙台

頂部から、南側へ下りるが獣道の様な斜度70度をジクザグに東に向かい下りる

小清水川を渡るとすぐ古屋敷の石垣、下屋敷カ?

古屋敷の石垣、下屋敷カ?

相谷万灯城(頂部)・・・(東側遠景)

お城の歴史

 小倉氏は承暦年代(1077~1080)に清和源氏の後裔小倉景実が、背後に鈴鹿山脈を擁し、眼下に愛知川を望む天然の要害に築いた。

 清和源氏の後裔である小倉氏は、南北朝期から室町期にかけて愛知川流域を支配したが、室町中期に3~4家に分家し、愛知川小椋庄を支配した小倉東家は高野城ならびに小倉城を居城とした。

また、神埼郡御園庄を支配した小倉西家は山上城を本拠とした

小倉西家の小倉右近太夫、山田城主・小倉三河守良秀が支城として築いたのが相谷万灯山城と考えられている。
 

小倉右近太夫らが築いた支城には、和南城、山田城、九居瀬城、八尾山城等がある。

 相谷万灯山城の築城は、城の形状が古いとして南北朝期に京極道誉の軍事行動と一体化して築かれた可能性が高いとされる。

後年には、山上城や山田城の出城であったことも事実のようである。

 また、相谷の土豪小辰氏が残した「小辰家文書」によれば大永元年(1521)の江北合戦後に(現長浜市)安養寺城主の安養寺勝光の一族が相谷に移住し、小辰姓に改称して相谷万灯山城主となったとされている。

また、永禄2年(1559)に織田信長が守山から八風峠を越え清州に戻ったとき、小辰勝徴が道案内をしたと記されている。これは信長公記の記述と一致している。

目標地の相谷口バス停



永源寺町池之脇の長寿寺 池之脇城 近江国(永源寺)

赤穂神宮寺の僧俊惠が在住したことから、赤穂四十七士にまつわる「大石内蔵助」の書翰や関係文書が残されている

赤穂浪士「寺坂吉右エ門」墓所

 寺坂吉右衛門は、47士のなかで唯一、士分ではなく足軽の身分だった。身分の違いのために大石内蔵助良雄に逃げるよう命じられたという説や、あるいは自ら逃亡したという説など、吉右衛門が他の浪士たちと最後まで運命をともにすることがなかった理由には、諸説あるようだ。
 吉右衛門は討ち入り後44年生き、延享4年(1747)に83歳で生涯を終えた。その墓が、東近江市・永源寺にある。

 永源寺を愛知川の左岸に見ながら八風街道をダムに向かって行く途中、山手にひっそりと階段(相谷南口バス停)がある。その階段の先、「永源寺の末寺臨済庵の址」につくられた小さな墓地に、歴代の住僧の墓石とともに吉右衛門の墓は並んでいる。

 墓とともに謂書があり、それによると、赤穂浪士に対する毀誉褒貶の真只中に生き残った吉右衛門は大石内蔵助の遺命により長寿寺(東近江市池之脇町)に入り、その後永源寺の四院曹源寺の仙霊祖竺和尚について得度したという。その末寺臨済庵で主家や藩士の菩提を弔いつつ寂しく生涯を終えた。僧名が刻まれた墓があったがいつしか盗難にあったので昭和55年有志により再建された旨が記されていた。
 また、長寿寺には大石内蔵助の叔父が宿坊しており、大石内蔵助良雄が江戸へ行く際、長寿寺で一泊し千種越で湯の山(三重県)へ出たという由来も書かれていた。

参考資料:近江神崎郡志上巻・下巻、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、小辰家文書・信長公記

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝


八講師城(八講師砦)  近江国(山東)

2015年04月20日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:米原市梓河内  (旧坂田郡山東町梓河内)map:http://yahoo.jp/B9VbTz

別 名:八講師砦

区 分:山城

遺 構:曲郭・堀切・堅堀・土塁・城址碑・説明板

築城期:平安末期

改築期:織豊期

築城者:澤田民部大輔

改築者:多賀豊後守高忠

城 主:澤田民部大輔・多賀豊後守高忠

標 高:480m 駐車位置(435m)から比高:約25m、梓河内集落(165m)より比高差300m

城 域 :約300m×50m

訪城日::2015.4.17

駐車場:説明板の前(標高435m)に10台可

お城の概要

 八講師城は梓河内地区から稗谷林道を約5.5kmほども登った山間部に位置している。東西に延びる尾根上に曲輪を連ね、東に延びる支尾根上には比高差のある曲輪を階段状に配した典型的な連郭式の山城である。

 頂部の曲輪は荒々しい切り出しの土塁が曲輪面積の約半分を占めている上、削平は少なく、自然の巨石が露出。

狼煙台(石碑と狼煙リレーの煙突)。南に梓河内城=猪ノ鼻城(京極氏の隠れ城)を見下ろせる

頂部の曲輪から一段下がった曲輪が主郭、およびもう一段下がった二の曲輪がきれいに削平されている。

 頂部の曲輪背後の斜面には小さな堀切があるが、主曲輪、および支尾根曲輪の切岸高さは4~8mほどにもおよび、その規模の違いから、堀切を防御施設として利用していた時代と、後年に改修された時の遺構が重なり合っている。

 八講師城が改修された職豊期を考える時、八講師城から東の関ヶ原方面を望むと、約3kmに長比城が一望でき、こうした位置関係からは、八講師城は元亀元年(1570)の姉川に戦いに際して長比城・刈安尾城・上平寺城などと共に浅井・朝倉軍によって改修されたか?、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際して、西軍によって改修されたか?。

国道21号線「梓河内」信号に!

国道21号から梓河内に入り、約50mの所を左折して、林道に入る。

林道に、獣害防止扉を開けて、5kmほど登る。

アスファルトから土道になって、左手の山頂が八講師城です。ここに駐車(10台可)。

歴 史

 八講師城は史料にほとんどでてこない城のようですが、ある史料に京極氏の家臣の多賀豊後守高忠が拠り、平安期末に八興師砦を澤田民部大輔の居城とあるようです。<現地案内板より>

多賀豊後守高忠は応仁の乱前後に活躍した京極持清の従兄弟です。浅井氏が織田信長と争った元亀の頃に浅井氏家臣の澤田民部少輔らが横山城を守ったとあり、八講師砦は、澤田民部大輔が佐々木官僚の頃(平安期末)に、居城と改定坂田郡志に記す。

主郭の虎口(石列の上に土塁)、崩れた石

狼煙リレーの煙突

城祉碑

土塁

林道マップ伊吹山駐車位置と八興師城(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・現地説明板

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


水口岡山城 三の丸に虎口跡

2015年04月17日 | 平山城

甲賀市教育委員会が下記のとおり水口岡山城跡の現地説明会を実施します。

●水口岡山城跡第3次発掘調査現地説明会〜伝本丸南側斜面と伝三の丸虎口の調査〜
日時 平成27年4月19日(日)
   13時30分〜15時
    ※時間中は随時、説明を行います。 
現地説明会開催情報のURL http://www.city.koka.lg.jp/item/14213.htm#ContentPane

発掘現場は山中ですので、見学の際には服装や履物にご注意ください。
  当日は、水口小学校グランドを臨時駐車場とします。
  ※場所についてはこちらの地図を参照してください。 ⇒ 地図

問い合わせ先
 甲賀市教育委員会事務局
   歴史文化財課 埋蔵文化財係
  TEL 0748-86-8026 FAX 0748-86-8216

所在地/〒520-3393甲賀市甲南町野田810番地

三の丸に虎口跡確認 滋賀・水口岡山城跡「居住空間か」

見つかった「虎口」跡。職員の立つ位置は城門の柱を支える礎石で、間口が約4・5メートルある(甲賀市水口町・水口岡山城跡)

 滋賀県甲賀市教委は16日、同市水口町の古城山(標高282メートル)山頂の水口岡山城跡で、三の丸の出入り口にあたる「虎口(こぐち)」跡や、虎口内に城門の存在を示す柱の土台の礎石を見つけたと発表した。虎口は軍事的性格が弱い構造で「三の丸が居住空間だった可能性がある」としている。

 水口岡山城は、豊臣秀吉の重臣中村一氏が1585年に築城したが、3代目城主の長束正家が関ケ原の戦い(1600年)で西軍に属して敗れ、廃城となった。徳川勢によって徹底的に壊され、史料も少なく、城の全容はわかっていない。

 今回、江戸期の絵図に三の丸と示された山頂東側を調べて虎口跡を発見した。踊り場状の平地を挟んで上下を石階段にしており、高低差が約4メートル、幅が約6メートル。階段は上下とも石が2~3個残り、下は5段あることが確認できた。平地には、城門の扉の柱を支える礎石が見つかり、二つの礎石の間口は約4・5メートルあった。

 市教委によると、虎口跡は入り口から三の丸へ向かって直進できる「平入り」の構造だったと推定される。「平入り虎口は防御性に劣り、軍事的性格は弱い。一方で礎石の間口から城門は立派なつくりとみられ、儀礼的な意味合いで構えられた可能性がある」と説明している。

 現地説明会は4月19日午後1時半から開かれる。

        京都新聞記事

 

水口岡山城、戦乱の世から華麗によみがえる 滋賀・甲賀

 

巨大バルーンで山頂に再現された水口岡山城(甲賀市水口町)
巨大バルーンで山頂に再現された水口岡山城(甲賀市水口町)

 

 滋賀県甲賀市水口町の古城山(282メートル)に築かれ、関ケ原の戦いの後に廃城となった水口岡山城を再現するイベント「よみがえれ水口岡山城」が17日始まり、山頂に天守を再現した巨大バルーンが姿を見せた。

 

 イベントは昨年に続き2回目。巨大バルーンは高さ11メートル、幅と奥行きがそれぞれ8メートルの3層構造で、市民有志の「水口岡山城の会」が作った。高さ3メートルの足場を組んで設営し、南西の麓の市街地から望める。20日まで午前10時~午後9時に設営され、日没後はライトアップされる。

 

 今年は期間中にバルーンを撮影する写真コンテストも行い、市教委が現地で実施している発掘調査区域の公開もある。問い合わせは同会TEL070(5509)4646。

 


公方屋敷支城  近江国(甲賀)

2015年04月14日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田西谷  map:http://yahoo.jp/aA8Ud0 

区 分:丘陵城

遺 構:曲郭・土塁・櫓台・堀切

標 高:230m     比高差:30m

城 域:東西20m×南北30m

築城期:室町期 天正2年(1574)

築城者:和田

城 主:足利義昭

目標地:善福寺

駐車場:善福寺下の駐車場これの前

市指定史跡

訪城日:2015.4.11


お城の概要

公方屋敷支城は、和田川左岸にある支城群の中で一番北側に位置して、対岸の殿山城と共に和田谷入口を守る城だ。

 公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。 

 公方屋敷支城は、城名からすれば足利義昭の公方屋敷を守るために築かれたものと考えられ、公方屋敷の西約300mに位置し、西側から延びる小さな尾根上に築城されている。

支城は、西から半島状に伸びた丘陵先端部を鞍部で堀切って主郭部としている。が、この堀切は他の支城群とは異なり、箱堀的な温和になっている。

 堀がL字形に残る主郭、一段下に大きな二の曲輪がある縄張りで、(主郭内にある堀の存在は、後世の堀下げカ、山城・丘城の遺構では珍しいもので、ちょっと気になる遺構だと云える)。

 尾根の比高は30mで、一見どこからでも登れれそうあるが、東斜面は崖状地形、北~西斜面は比較的緩やかではあるが、民家が山裾まで建てられており、何軒かの民家敷地を通らないと上れない。(近年見学者用に、民家の手前から登城道が設けられている)

 城域はおおよそ南北40m、東西20mほどで、南と北に見張り台が確認できる。

 他の多くの甲賀の城と事なり、周囲を囲む土塁がない。 頂部には方形の池があり、その西側にわずかに土塁(櫓台)が残る。土塁の西側は、堀切(後世開削され)続く尾根を登り、そこから北へ続く尾根にも堀切が残っていた。
見張り台を除いてはほぼ完全に削平されている

新・見学者用の登城道

民家の倉庫・・東側から新城道)

主郭から

北の物見櫓台(主郭から)

池のある主郭土塁

西の物見櫓台

開削された西側堀切・・・城道

歴 史 

 公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。

 永禄8年(1565年)5月第13代将軍・足利義輝が三好,松永氏等によって二条御所で殺害された。永興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じ、細川藤孝、和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良し、甲賀に亡命した。

 その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、若狭の武田義統、越前一乗谷の朝倉義景を頼って流浪するが、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、美濃岐阜城にあった織田信長を頼って美濃へ移り、永禄11年(1568年)9月織田信長に擁立されて上洛。
10月18日、将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その後、義昭は信長と対立することが多く、天正4年(1576年)毛利氏を頼って備後の鞆に亡命したが、室町幕府を再興することはできず、慶長2年(1597年)大坂で死去した(享年61歳)。

 公方屋敷支城(遠望)・・・和田川より

 参考資料:日本城郭大系11・滋賀県中世城郭分布調査・甲賀市史(甲賀の城)、Wikipedia

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公方屋敷・公方屋敷城  近江国(甲賀)

2015年04月13日 | 館跡

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田   map:http://yahoo.jp/X56gqA

別 名:足利義昭屋敷

区 分:居館・詰め城

現 状:屋敷跡・山林

遺 構:曲郭・堀・土塁・井戸・石碑/説明板

築城期:室町期--天正2年(1574)

築城者:和田惟政

城 主:足利義昭

目標地:善福寺

駐車場:善福寺下の駐車場これの前

訪城日:2015.4.11

お城の概要

 公方屋敷は和田川の西、和田惟政の居城・和田城の北方約800mにあり、三方を丘状尾根に囲まれた東西100m×南北150mほどの一帯としており、ほぼ中央部に大きな杉の木の下に案内板が建てられている。

滋賀県教育委員会が公方屋敷跡は三方を丘状尾根に囲まれた東西100m×南北150mほどの小さな谷をのこと。東側の丘陵が公方屋敷城である。

 いずれも削平がなされ曲輪跡であったことが確認できる。東の尾根上の曲輪一帯は竹藪の中に櫓台も確認できる

 この地形は六角氏の初期の居館であったとされる小脇館とよく似ており、中世における居館選地に共通性を見ることができる。
また、この屋敷跡の西側約300mに川を挟んで、公方屋敷支城と称される砦がある

公方屋敷 東西100m×南北150m

 

公方屋敷の東側・・・公方屋敷城(遠景)

公方屋敷城(東側曲郭)へ

東の尾根上の曲輪一帯は竹藪の中に櫓台  空堀土塁

公方屋敷城(東に伸びる曲郭)へ

井戸土塁

歴 史

 公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。

 永禄8年(1565年)5月第13代将軍・足利義輝が三好、松永氏等によって二条御所で殺害された。永興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じ、細川藤孝、和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良し、甲賀に亡命した。

 その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、若狭の武田義統、越前一乗谷の朝倉義景を頼って流浪するが、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、美濃岐阜城にあった織田信長を頼って美濃へ移り、永禄11年(1568年)9月織田信長に擁立されて上洛。
10月18日、将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

 

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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 その後、義昭は信長と対立することが多く、天正4年(1576年)毛利氏を頼って備後の鞆に亡命したが、室町幕府を再興することはできず、慶長2年(1597年)大坂で死去した(享年61歳)。

参考資料:日本城郭大系11・滋賀県中世城郭分布調査・甲賀市史(甲賀の城)、Wikipedia

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棚田山城 近江国(甲賀)

2015年04月12日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:滋賀県甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田字亀川    map:http://yahoo.jp/pYANW3

区 分:丘陵城

遺 構:土塁・曲郭・削平基壇

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:毛枚氏(和田氏没後、築城か)

城 主:毛牧(もびら)氏の居城

      (遺蹟ウォーカーhttp://www.isekiwalker.com/iseki/242930/)

目標地:善福寺

駐車場:善福寺下の駐車場これの前

訪城日:2015.4.11

 

尾根したの城道

横堀(空堀)

お城の概要

棚田山城は和田城と善福寺の中間にある丘陵に築かれている。和田川を伊賀街道の橋の伊賀から正面の丘陵に位置する。

頂部曲郭の背後を、堀切(空堀)で東西遮断、頂部平削地には「神社・六角の石燈籠と梵鐘」が東西10m×南北7mがある。

北側民家の奥には参道が設けられ、横堀と頂部曲郭に通じる(クリックすると拡大します)

また、和田川を伊賀街道の橋の正面の丘陵に位置し、街道から切岸状比高10mに、南尾根を開削し東西70m×南北30mの削平地(北側民家から登城道も明確。)があり、さらに3m上に東西10m×南北10mの削平地、東西5m×南北5mの削平地と3段の基壇が現存する。南尾根下に城道の確認できる。

 

頂部の南側にも削平地が残存

最明寺遺蹟へ

参道を途中の石仏

歴 史  

 和田谷には、和田城を本城に和田支城I・和田支城II・和田支城III・和田館・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を残存する。

惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に毛枚氏が築城か?。

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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参考資料:甲賀町志・日本城郭大系11・滋賀県中世城郭分布調査・遺蹟ウォーカー・甲賀市史(甲賀の城)、Wikipedia

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殿山城 近江国(甲賀)

2015年04月11日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(甲賀郡)甲賀町和田小字門田   map:http://yahoo.jp/yIqRQE 

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・

区 分:丘陵城

標 高:230m 比高差:20m

築城期:平安期

築城者:和田満政

目標地:和田老人いこい家・グランド

城 主: 和田氏

駐車場:和田老人いこい家・グランドの駐車場

甲賀市市史跡

訪城日:2015.4.11

お城の概要

 殿山城は、和田谷の北端西側、北西に延びる尾根先端部が城域となっている。

伊賀の豪族居館によく見られる様式と同様の単曲郭縄張りで、尾根を堀切り遮断。切込土塁でハの字状に囲んだ単郭の城だ。 

背後の土塁は5mを図り、見張り台の役割を担っている。尾根からの横堀切から10mを測る。

 和田川を挟んで真西にある公方屋敷支城と共に、谷の進入路を守る最初の城だ。、甲賀町南部の中央付近に位置する和田谷の北入口の東側丘陵上に築かれている。現在、忠魂碑が建てられ展望台となっている通称「殿山」の山頂から北西に伸びる尾根の先端部を城域としている。

 遺構は、東側の尾根続きを高低差の大きい鋭い堀切で遮断し、尾根先端方向にハの字状に土塁を残し、その内側を30m四方の郭に削り出した小規模な城郭である。この城は杣川の谷筋を見通すことができる立地と小さな規模から監視所的な城郭であったと考えられている。
小規模な城ではあるが、背後の堀切はそれに似つかわしくないほど見事な遺構である

 

お城の歴史

 

築城年代は定かではないが平安時代に和田満政によって築かれたと云われる。

 

寿永3年・元暦元年(1184年)伊勢平氏平田四郎が兵を挙げて近江国へ侵入すると、 近江源氏の佐々木秀義がこれを迎え撃つために列血野に陣を布き、 平田四郎は殿山に陣を布き油日川を挟んで合戦となった。

 

・・・・・信長公記・・・・

 

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

 

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尾根を遮断、深い堀切(横堀)

 土塁 城道土塁頂部西側は土塁ない油日方面  堀切の南側・・・城道か?階段から、竪掘りが一状

尾根上部にも浅い横堀が

 

 

 現在頂部には階段で、「忠の碑」や「展望台」が建てられ桜やて公園化さている。 山頂部展望台一帯も城域、

 

更に、林道を進むと公方屋敷の背後のへ

公方屋敷へ 

殿山城遠景・・・南から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、現地説明板、Wikipedia

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