城郭探訪

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新宮城 近江国(甲賀・甲南)

2018年01月25日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

 新宮城跡

お城のデータ
所在地:甲賀市甲南町新治 (旧:甲賀郡甲南町新治) map:https://yahoo.jp/gAp3nc
目標地:善願寺・新宮神社

区 分:丘城

標高:230m 比高:30m 
現 況:山林

遺 構:土塁・堀・碑・説明板
築城期:室町期

築城者:服部氏

改築期:織豊期

駐車場:路上駐車

訪問日:2018.1.20

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983492035146705

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983493765146532

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983507701811805


画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

お城の概要

 主郭は、3mほどの高さの土塁で四方を囲み、およそ30m×30mの大きさの規模で、虎口を東に向けています。                                                            この城の特徴は、虎口に至る緩斜面に、土塁で屈折させた枡形状の進入路を設けていることで、容易に主郭に至れないような工夫を施しています。また要所に堀切を設けたり、竪堀を掘るなど、従来の単郭方形型の城郭を基本としながらも、様々な防御機能が備えられており、築城技術の発展の様子を見ることができます。

住宅団地の東側と灌漑用の池(大門池)と県道49号線に挟まれた丘陵の雑木林の中に新宮城と新宮支城があります。                                  

西側は崖のようになっており、自然の地形を切岸・城内を平削し土塁に積み上げ9m位。北側と南側には堀切状の堀があり、尾根を断ち切る堀切というより横堀が北側と南側に付属しているという感じで、西側は周囲より低い沢のような地形で、東側は麓に向かって急な斜面になってますが、比高20m程度ですから堀切・・・自然の磯尾川を堀にして、作事・縄張りした 主郭は東側から斜面を掘り込んで作られたようで、西側は掘り残しの土塁で、主郭内より7m程度あるでしょうか。そのほかは盛り上げた土塁で東側に虎口があります。虎口より北東に向かって細長い削平地が存在します。また、一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭もあります。

磯尾川を前堀に、大門池を水掘に利用した、途中に城址碑が建っていて、路肩駐車を攻め込む。

写真の説明はありません。

お城の歴史

 中世の甲賀郡は、武士達が一族を単位として地域的に連合し、共和的な自治組織を作っていました。これを甲賀郡中惣。この一族毎に複数の城郭を構えたことにより、甲賀郡には、300余の極めてたくさんの城が築かれた。新宮城、新宮支城もその一つです。

織田信長の近江侵略で、佐々木六角観音寺城から逃れ甲賀郡へ、石部・三雲・杉谷・伊賀へ・・対信長の為か、織豊期の城郭技法が見られる。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

 画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ踏査図:長谷川博美氏画像に含まれている可能性があるもの:14人、立ってる(複数の人)、屋外

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・現地説明板・城歩会資料・『甲賀市史七巻 甲賀の城』

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新宮支城 近江国(甲賀・甲南)

2018年01月25日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 新宮支城

お城のデータ
所在地:甲賀市甲南町新治 (旧:甲賀郡甲南町新治) map:https://yahoo.jp/gAp3nc
目標地:善願寺・新宮神社

区 分:丘城

標高:230m 比高:30m 

現 況:山林
遺 構:土塁・堀・碑・説明板
築城期:室町期

築城者:服部氏

改築期:織豊期

駐車場:路上駐車

訪問日:2018.1.20

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983492035146705

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983493765146532

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/983507701811805

お城の概要

 主郭は、3mほどの高さの土塁で四方を囲み、およそ30m×30mの大きさの規模で、虎口を東に向けています。                                                            この城の特徴は、虎口に至る緩斜面に、土塁で屈折させた枡形状の進入路を設けていることで、容易に主郭に至れないような工夫を施しています。また要所に堀切を設けたり、竪堀を掘るなど、従来の単郭方形型の城郭を基本としながらも、様々な防御機能が備えられており、築城技術の発展の様子を見ることができます。

住宅団地の東側と灌漑用の池(大門池)と県道49号線に挟まれた丘陵の雑木林の中に新宮城と新宮支城があります。                                  

西側は崖のようになっており、自然の地形を切岸・城内を平削し土塁に積み上げ9m位。北側と南側には堀切状の堀があり、尾根を断ち切る堀切というより横堀が北側と南側に付属しているという感じで、西側は周囲より低い沢のような地形で、東側は麓に向かって急な斜面になってますが、比高20m程度ですから堀切・・・自然の磯尾川を堀にして、作事・縄張りした 主郭は東側から斜面を掘り込んで作られたようで、西側は掘り残しの土塁で、主郭内より7m程度あるでしょうか。そのほかは盛り上げた土塁で東側に虎口があります。虎口より北東に向かって細長い削平地が存在します。また、一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭もあります。

磯尾川を前堀に、大門池を水掘に利用した、途中に城址碑が建っていて、路肩駐車を攻め込む。

お城の歴史

 中世の甲賀郡は、武士達が一族を単位として地域的に連合し、共和的な自治組織を作っていました。これを甲賀郡中惣。この一族毎に複数の城郭を構えたことにより、甲賀郡には、300余の極めてたくさんの城が築かれた。新宮城、新宮支城もその一つです。

織田信長の近江侵略で、佐々木六角観音寺城から逃れ甲賀郡へ、石部・三雲・杉谷・伊賀へ・・対信長の為か、織豊期の城郭技法が見られる。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ踏査図:長谷川博美氏

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・現地説明板・城歩会資料・『甲賀市史七巻 甲賀の城』

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膳所城 鯱瓦

2018年01月16日 | 文化財

庭園に膳所城のしゃちほこか 大津の重文別荘に埋もれる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外江戸期の膳所城を飾った可能性が高まってきた鯱瓦。尾びれや腹びれは割れて半ば地中に埋まっていた(大津市中庄1丁目・蘆花浅水荘)

 日本画家山元春挙が大正時代に建てた別荘庭園・蘆花浅水(ろかせんすい)荘(記恩寺、大津市中庄1丁目)で長年、庭木に埋もれていたしゃちほこ(鯱瓦(しゃちかわら))が、膳所城の鯱瓦だった可能性が高まっている。同城の鯱瓦は市内の神社や瀬田小も所蔵しており、大津市歴史博物館は「ひれの形が似ている」として近く調査する。

 蘆花浅水荘は、京都画壇で活躍した春挙が40代のころ、1914(大正3)年から21(同10)年前後にかけて、生まれ故郷の膳所に建てた。重要文化財に指定されている。

 関係者が昨年11月ごろ、庭の一角で鯱瓦を見つけ、同博物館に連絡した。今年3月から始まる企画展「膳所城と藩政」を前に、樋爪修館長が現地で確認したところ、尾びれや腹びれが破損しており、瓦師の銘も見当たらないが、広げた背びれや顔部分を確認した。修復すれば高さ60~70センチになるという。

 春挙の孫の寛昭さん(74)が小学生の頃には庭にあったといい、「父から膳所城のしゃちほこだと聞いていた」と話す。同城の礎石と伝わる石もちょうず鉢として使われており、建設当時、粋人だった春挙の元に持ち込まれた可能性もある。

 膳所城は1870(明治3)年の廃城後に解体され、城門などは移築された。明治期に作られた城の絵図には、本丸や二の丸だけでなく櫓(やぐら)や門などにも鯱瓦が描かれており、樋爪館長は「蘆花浅水荘にあるのだから、いずれかの建物の鯱瓦だった可能性が高い」として、市埋蔵文化財調査センターとともに調査に乗り出す。

2018.1.10 京都新聞

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朝宮支城(朝宮城山城・赤松城)  近江国(甲賀・信楽)

2018年01月13日 | 山城

 主郭虎口

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町下朝宮 map:http://yahoo.jp/vEmMyn

別 名:赤松城・朝宮城山城

区 分:山城

現 状:山腹(森林)

築城期:室町期

改築期:織豊期

築城者:山口籐左衛門光英源助

改築者:松永久秀方とする見解

標 高:369m  比高差:70m

遺 構:土塁、堀切、畝状竪堀、虎口、曲廓、」城跡碑

目 標:国道307号線沿い御茶屋工房

駐車場:国道307号線沿い城址登り口駐車スペース

訪城日:2016.2.5

主郭曲廓に建つNHKのアンテナ塔

お城の概要

 朝宮城山城は、京都府と境界を接する信楽町下朝宮集落の南東、標高369mの通称「城山」の山頂に築かれている。

街道沿いの、比高差70mで、防衛面で強化がされた城郭。切岸・畝城竪堀・曲廓間横堀を多用。

 主郭は山頂にあって、北郭と南郭からなり、南北に細長い逆「く」の字状を呈している。西面の中央付近に郭面を掘り窪めて内枡形状の虎口を設け、この虎口を北郭と南郭が共用する形になっている。北郭は20m×45m程の規模で、郭内は小さな段差で二段になっている。南郭は北郭に比べ細長くなっている。この郭も小さな段差で二段になっており、南面に土塁と堀切を設け区画されている。東側と西側の南半分には畝状空堀が入れ、防備を固めている。
 頂部から西にのびる支尾根には、西郭が設けられている。西郭は北郭とほぼ同規模で、東西側に堀切を穿ち、東面には土塁も築いている。北面のやや東寄りに郭面を方形に掘り窪めた枡形状の虎口が開口している。この虎口から主郭の虎口へは、北側に一段下がり連絡用の通路が設られており、各郭間に一体性を持たせている。

切岸に多数の畝状空堀や竪堀を入れる構造は、甲賀ではもちろん、近江でも見られない特殊な城郭である

登城口は国道307号線沿いの製茶工房【茶のみやぐち】があり、

その対面側の建物の背後から山道を登ると城跡に至る。 国道307号線添いの駐車可スペースある

歴 史

初代は朝宮城主山口籐左衛門光英源助

天正10年(『近江與地志略』は、赤松満祐が伊賀攻めの際にとどまったという説を記しており、赤松城とも呼ばれるが、遺構は戦国時代の特徴を示し、構造が大和国に見られることから、築城者を松永久秀方とする見解がある。

 これは、松永方が大和と南山城を勢力下に置きつつ、永禄年間(1558~70)には織田信長方として六角氏や湖南の一向一揆を牽制するため近江南部に侵攻しており、また、元亀年間(1570~73)には甲賀・伊賀に逃れていた六角氏や多羅尾氏とともに反織田信長連合を形成し、甲賀方面での軍事行動を活発に行っていることからである

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「甲賀郡 朝宮城主 佐々木隋兵 多羅尾和泉守 朝宮城主 箕作隋兵 多羅尾平内」の名を記す。

 天正10年(1582)光広の時、いわゆる「神君伊賀越え」に功があったとして、江戸時代に柞原下村、朝宮下村で各250石の500石余を与えられた。旗本として明治維新まで存続した。

多羅尾氏、勢力を伸張

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。
 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。
 室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。
 応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。
 応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469~87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。
 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。

表舞台への登場

 多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。
 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。
 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

登り口

NHKケーブル埋設直登した

主郭と西曲廓の間の堀切

西曲廓

主郭へ大手道

 

主郭と3曲廓の堀切堀切三ノ曲廓虎口南曲廓への堀切三ノ曲廓と二曲廓

谷筋に下りる

山口陣屋からの遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『甲賀の城』武家家伝多羅尾氏、信楽の狸物語 狸宗苑のHP「山口陣屋跡と狸 (下朝宮)」

自動代替テキストはありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


史跡観音寺城跡の調査と整備

2018年01月11日 | 山城

史跡観音寺城跡の調査と整備

観音寺城と佐々木六角氏

近江源氏佐々木六角氏

佐々木六角氏は、鎌倉時代初期から戦国時代末期まで近江守護を勤めた名門です。この六角氏が戦国時代に居城としたのが観音寺城です。
佐々木六角氏の系譜は、宇多天皇の皇子敦実親王にはじまる近江源氏につながるといわれています。その子雅信が源姓を賜わり、その孫成頼の代に近江に下り、さらにその孫経方の時、佐々木庄(近江国蒲生郡)の下司となって佐々木姓を名乗ったようです。その過程で、古代より蒲生郡で勢力を誇り、延喜式内社である沙沙貴神社を氏神とした佐々貴山公を祖とする一族を取り込んでいったと考えられています。
中世近江における佐々木氏発展の基礎を築いたのは、源平争乱で源頼朝に忠誠を誓ってめざましい活躍をした佐々木秀義とその5人の息子たちです。この時の恩賞により、嫡子定綱は佐々木庄地頭職を安堵され、近江国惣捕使(のちの近江守護)となっていきます。他の兄弟たちもそれぞれ恩賞を得、多いときには延べ17ヶ国の守護に任じられた時期もあったようです。ともかく、一族の基盤であった近江については、一時期を除き、佐々木惣領家が近江守護を嗣いでいきます。
その後、定綱の孫の代に佐々木氏は四家に分かれ、惣領であった三男泰綱は京都六角東洞院に屋敷を賜ったことから六角氏を名乗ります。他の庶子家も惣領家から独立し、近江各地から全国へと展開していきます。京極氏、尼子氏、朽木氏などがその代表です。
南北朝期から室町前期にかけては、一族内の家督争いや内紛が起こり、近江国内は混乱します。こうした混乱を経て再び守護としての権力強化を目指したのが六角高頼です。高頼は足利義尚・義材と2度にわたり、将軍親征を受けますが、これを乗り切り、権力の強化に成功します。この高頼からその子氏綱・定頼とつづく時期が戦国期六角氏の絶頂期といえるでしょう。この間、守護権力を脅かす存在であった守護代伊庭氏を追放し、新興の家臣たちを奉行人とする奉行人体制を構築します。しかし、この絶頂期にあっても六角氏は戦国大名として絶対的権力をもって近江国内を統一することはできませんでした。それは、近江国が京都に近く延暦寺をはじめとした荘園領主の力が強かったこと、そうした状況を背景として惣村や寺内町といった民衆の自治が発展していたことによるといわれています。こうした諸勢力に対し、あくまで六角氏は守護としての権限を行使するのみで、それ以上に直接的な支配を行っていません。
六角氏による近江支配を最終的に終わらせたのは織田信長による近江侵攻です。永禄11年(1568)、後の15代将軍足利義昭を擁して岐阜から上洛の途に付いた信長は、近江通過にあたり、六角承禎に道案内を命じます。しかし承禎がこれを拒否したため軍勢を率いて近江に入った信長は、居城観音寺城に迫ります。承禎・義治父子は信長軍の侵攻を前に、戦うことなく城を出、甲賀地方に逃亡します。それ以前に、六角氏の奉行人を勤めた近江国内の在地領主たちがいち早く信長に随い、六角氏を見限っています。このあたりに、六角氏の権力の弱さをみることができます。ともかく、ここに六角氏による近江支配を終焉をむかえることとなったのです。
その後、六角氏は反信長包囲網の一つとして近江湖東の一向一揆を扇動したり、反信長勢力間の連絡を行ったりしていましたが、元亀3年(1573)の鯰江城(滋賀県東近江市)の戦いに敗れて最後の拠点を失い、歴史の表舞台から姿を消すことになりました。

観音寺城の歴史と構造観音正寺境内

観音寺城は、標高432mの繖山にありました。山頂から南斜面にかけての山復全体に郭が鱗状に広がっていますが、これらの多くが古くからこの山にあった観音正寺の遺構ではないかと考えられ、城郭の遺構との区別が今後の課題となっています。
観音寺城の名は、城跡の中心に伽藍を構える観音正寺(中世には観音寺)に由来します。南北朝時代に佐々木氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺ノ城郭」と『太平記』に記されたのが初見です。その後も、たびたび観音寺へ陣所がおかれましたが、このことが「観音寺(ノ)城」と記録されたのを、現在はそのまま「観音寺城」と呼んでいます。江戸時代の古城図や城内の石碑は「佐々木城趾」としています。
観音寺城が当主の居住する城として石垣を多用した姿に整備されたのは、修築の記録が集中する1530〜50年代のことと考えられます。これが正しいとすると、石垣を多用した城郭としては安土城より早く、戦国時代としてはほとんど唯一の城になります。観音寺城は、中世山城としては傑出した規模を持っていて、俗にいう「日本五大山城」の一つにも数えられている一方で、防御の観点からすると通常の山城では考えられない、不可解な構造をそなえていることでも有名です。伝本丸裏虎口伝平井丸虎口
観音寺城の中枢部分は、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりと考えられます。これらの郭は、城内でも特に面積が大きく、四隅を作って方形志向の平面形を呈し、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいます。昭和45年の発掘調査では、茶器や中国産の陶磁器などが豊富に含まれていていました。天文13年(1544)に城を訪れた連歌師谷宗牧は、山上の城の「御二階」の座敷に案内され、そこには「数寄」の茶室に茶器の名品が用意されていて、城の退出にあたっては秘蔵の古筆を送られたと書いています。観音寺城が要塞であるとともに、六角氏の風雅な生活の場所であったことがうかがえます。
永禄11年(1568)に織田信長が観音寺城を攻撃すると、六角承禎・義治親子は正面から戦うことなく逃亡し、あっけなく開城しました。発掘調査によれば、観音寺城は大規模な火災にあったことがうかがえますが、炎上した時期は記録や伝承で伝わっていることが一致していません。天正7年(1579)に安土城が完成したことによって、観音寺城は歴史的役割を終えたようです。

城下町石寺

繖山の南山麓に広がる集落が石寺です。観音寺城の城下町があったとされ、今でも郭状の平坦地と石垣が広がっており、家臣団屋敷の跡ではないかと考えられています。伝御屋形跡高石垣
集落のもっとも高い部分にある天満宮は御屋形跡とも呼ばれ、六角氏の居館があったとされています。郭の前面の石垣は、城内でももっとも高い石垣で、稚拙ながらコーナー部分に算木積みが見られます。御屋形跡を少しくだったところに、山麓に沿って東西方向に景清道が通っています。この道は平景清が尾張から京都へ行く時に通った道といわれていますが、石寺から常楽寺(現蒲生郡安土町常楽寺)方向への抜け道です。この景清道沿いに郭が広がっており、かつて多数あった観音正寺の坊跡と考えられていますが、今では教林坊が現存するだけです。さらに南へ下がると現集落の中央を東西方向に貫く道が通っています。石寺の南を通る東山道(中山道)から石寺集落内を通り、集落東端で再び東山道と合流する道で、下街道と呼ばれています。一説には景清道沿いの郭が家臣団屋敷で、下街道沿いに町人の居住域があったとする考えもありますが、この時代にそうした身分による整然とした住み分けは無かったという考えも有力で、詳細は不明です。
石寺についてもう一つ触れておきたいのは楽市の存在です。天文18年(1549)、史上最初の楽市が「石寺新市」という場所で行われました。楽市とは、営業権を独占していた座に属していないものも、自由に商売することを認める政策です。つまり石寺新市においては、誰もが自由に商売ができるということです。この石寺新市については、地名に基づく研究から現在の奥石神社付近ではないかと推定されています。中世においては、城下町と市場とが分離していることが一般的で、石寺についても城下町とされる繖山山麓の現集落から離れた奥石神社付近に市があったと考えられるのです。
観音寺城・城下町石寺および石寺新市については、まだまだ調査研究が進んでおらず、不確かなことがたくさんあります。さらなる調査研究が必要です。

調査・整備にむかって

現在、滋賀県教育委員会では、将来の史跡観音寺城跡の調査・整備にむけて準備作業を進めています。まずは、平成16・17年(2004・2005)の2年間をかけて、「史跡観音寺城跡保存管理計画」を策定いたしました。これは、史跡観音寺城跡を将来どのように管理し、保存・活用を図っていくかの方向性を定めたものです。つづいて平成18・19年(2006・2007)の2ヶ年で、「史跡観音寺城跡整備基本構想・基本計画」を策定しました。これは、史跡観音寺城跡の調査・整備をどのような理念・方法で進めていくかを定めるもので、調査・整備事業のベースとなるものです。これらを経て現地での発掘調査・環境整備へと進んでいきます。本格的な発掘調査・環境整備に着手する時期はまだ未定ですが、平成20年度からは城内の石垣分布調査を行います。滋賀県が生み出した貴重な文化遺産である史跡観音寺城跡の実態を明らかにし、その成果を皆様にお伝えできるよう、努力してまいりたいと思います。

発掘調査と森林伐採

保存管理計画の策定、基本構想・基本計画の策定を経て、平成20年(2008)から史跡観音寺城跡石垣基礎調査がスタートしました。これは、観音寺城の最大の特徴である石垣の現状把握を目指し、城跡全体の石垣分布調査を実施するものです。4年計画で現在実施中です。また、これと合わせて部分的な発掘調査を行っています。

また、平成21年度(2009)に史跡観音寺城跡の森林・竹林整備事業を実施しました。これによって、これまで生い茂った竹や木々に埋もれて見ることの出来なかった石垣や、近づくことのできなかった郭が姿を現しました。整備したのは観音寺城の東端に位置する伝目賀田丸付近と、西端に位置する伝池田丸から南に延びる尾根筋です。伝目賀田丸では郭を囲う土塁が姿を現し、伝池田丸付近では何段にも築かれた石垣を見ることが出来ます。ぜひ現地を訪れ、中世五大山城の一つに数えられる観音寺城の、スケールの大きさを実感してください。

参考資料:滋賀県教育委員会HPより「史跡観音寺城跡の調査と整備」転載

本日の訪問ありがとうございす!!


岩尾山城 近江国(甲南)

2018年01月11日 | 山城

 画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新田岩尾山 /杉谷 map:https://yahoo.jp/WL5Wxf

区 分:山城

現 状:山林

遺 構:不明

築城期:

築城者:

標 高:471m 比高差:100m

目標地:息障寺

駐車場:乗用車10台

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お城の概要

岩尾山(息障寺) 甲賀市甲南町杉谷3774

息障寺 TEL:0748-86-5700

甲賀市甲南町域南西部、三重県境にそびえる岩尾山は、その名のとおり岩で覆われた標高471mの霊山です。

平安時代初期に最澄が開山しました。修験者、忍者の修練山で、中腹には屏風岩などの奇岩が点在しています。馬の形をした「おうま岩」、扇を開いたような「扇岩」や、たたくと木魚の音がする「木魚岩」など。また、頂上からの眺めは360度の大パノラマ。眼下には杣川沿いに平野が広がり、遠くには鈴鹿山系を見渡すことができます。

 岩尾山の麓には、明治年間に農業かんがい用としてつくられた岩尾池が広がっています。この辺りは山と大自然の美を巧に取り入れた名勝地で、紅葉の季節は特に山々が真っ赤に色づき、とてもきれいです。

 お城の歴史

平安時代初期に最澄が息障寺を開山。

南北朝の動乱の砦か?

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 画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然曼荼羅岩

画像に含まれている可能性があるもの:木、家、屋外本堂

 

写真集: https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/974454709383771

岩尾山息障寺・会式法要・採灯護摩
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参考資料:遺跡ウォーカー、https://www.biwako-visitors、滋賀県甲賀市 飯道山観光協会

本日の訪問ありがとうございす!!


近松別院(近松御坊) 近江国(大津)

2018年01月11日 | 城郭寺院

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外

お城のデータ

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外蓮如上人ゆかりの地

所座地:大津市札の辻4-26

築城期:応仁3年(1469) 

築城者:蓮如

目標地:大津赤十字病院

駐車場:近松別院

訪城日:2017.12.19

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/0

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の概要

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外近松別院 「顕証寺」 【含む 大塚のケヤキ・両願寺・等正寺】
大津市札の辻9-26
浄土真宗本願寺派

浄土真宗本願寺派の寺院。蓮如がここに顕証寺を創建したのが最初で長男順如、六男蓮淳と相続された。寺号は後に久宝寺御坊顕証寺(大阪府八尾市)に引き継がれた。近江における真宗教団初期の拠点。

京阪電車上栄駅下車、徒歩3分、大津日赤の近辺。 幼稚園を併設

正式には顕証寺であるが、一般には近松別院・近松御坊と呼ばれている。

お城の歴史

比叡山による堅田攻めの気配を察知した蓮如は、1469年に堅田から避難し、園城寺・五別所の一つ近松寺(高観音)の寺領を分与してもらい、坊舎を建立、親鸞上人の御像を安置したことに始まると伝えている。

このあたりは寺内(じない)と呼ばれ、江戸時代、近松寺を中心に、南・北・東の各町や末寺が取囲むという形の「寺内寺」という形態をとっており、大津代官支配の大津百町とは別に、独自の政治が行われていた。

昭和20年(1945)、陸軍の命により取り壊され

現在の建物は昭和56年(1981)に建立された。

浄土真宗本願寺派の寺院。蓮如がここに顕証寺を創建したのが最初で長男順如、六男蓮淳と相続された。寺号は後に久宝寺御坊顕証寺(大阪府八尾市)に引き継がれた。近江における真宗教団初期の拠点。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然昭和20年(1945)、陸軍の命により取り壊された。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

 
浄土真宗中興の祖・蓮如上人と、三井寺の出会い。
大衆に支持された人間蓮如。その行動力の源は…。
京阪電車京津線、上栄町駅の踏切近くに樹齢数百年は経つと思われる欅の大木ある。そのふもと「犬塚の欅」の碑には、今回の特集、蓮如が法難を避けて大津に滞在していたとき、毒を盛られた食膳を食べて死に、蓮如の命を救った犬を葬った塚であると記されている。また、逢坂一丁目の安養寺に伝わる「身代わり名号石」は、本願寺焼き討ちの後、逢坂で追手の比叡山延暦寺の衆徒に襲われた蓮如を身代わりとなって守ったという。

蓮如にまつわる様々な伝説や言い伝えは、布教活動の拠点、大津や堅田、守山(金森・赤野井)あたりに沢山残っている。中でも有名な「かたた源兵衛の首」の話は後に述べるとして、人間蓮如の人となりに稿を進めたい。

蓮如上人(一四一五.一四九九年)は本願寺第七世存如の長子として生まれる。幼名は布袋丸と呼ばれていた。本願寺は浄土真宗の祖、親鸞聖人の御影堂(廟所)であった。現在の本願寺とは比べものにならないほど、四軒幅の小さな寺であった。親鸞聖人没後、すでに百数十年が経ち、その遺徳をしのび本願寺へお参りする人も少く、本願寺はさびれ、しかも極貧状態であった。また母親は寺の下働きをする女性で、いわれもない差別を受けていた立場の女性だったという。

蓮如は本願寺で親鸞聖人の教えを解釈し、布教活動に専念、四十二歳で第八世を名乗る。蓮如は自分なりに平坦な言葉で浄土真宗の教え「御文(御文章)」を表し、文字の読めない農民、土地を持たない小作人、職人など下層社会に属する人たちの圧倒的な支持をえる。時あたかも南北朝時代末、朝廷が支配していた荘園制度が瓦解しようとしていたときである。

そんな大きな仏教界のうねりに危惧を抱いた比叡山延暦寺の衆徒は、寛正六年(一四六五)、本願寺を破却(焼き討ち)。寛正の法難として名高い。

犬塚の欅
(大津市指定天然記念物)


親鸞聖人・蓮如上人連座像(いずれも本福寺所蔵)


本福寺第三世・法住法師像


本福寺本堂内、蓮如殿に祀られる蓮如上人像。この蓮如殿は三井本家の寄進になるもの。


堅田、守山、そして北陸…大津でひととき安らぐ。

京から敗走した蓮如は、近江の国・堅田の本福寺住職の法住の世話になる。堅田は琵琶湖の西部に位置し、湖上交通の拠点として発展した自由都市的な賑わいを呈していた。本福寺住職法住は、その豊かな経済力を背景に、小作人や職人、など下層社会に属する人たちに教えを説くため、道場を開いていた。浄土真宗の教え「念仏」をとなえれば救われると教えた。蓮如は比叡山のふもとで法住と共に、新しい教えを説いた。応仁二年(一四六八)、再び山門の大がかりな攻撃を受ける。世にいう「堅田の大責」である。

蓮如は失意の中、五十七歳という当時では老齢の域に入った身を震い、浄土真宗の教えを広めるため越後、加賀地方へ旅に出る。今も北陸は真宗王国といわれる所以である。北陸地方にも、これが蓮如の座った石、使った筆・硯などと虚実入り交じった伝承が残っている。蓮如が北陸布教の拠点として選んだ吉崎(福井県金津町)は、日本海を望む北潟湖の入り江に突き出した半島の高台にある。吉崎に坊舎を構えた蓮如は、飢餓で苦しむ農民や、宗門内部の対立など問題の解決に奔走し、わずか三年で本堂、坊舎、庫裏、書院、楼門などを備えた一大寺院を築く。そして、都からやってきたありがたいお坊さんを拝みたいという素朴なお参りの人たちが大挙して吉崎に訪れる。それは、暗く厚い雲に覆われた北陸の地に現れた、蜃気楼のようだったに違いない。しかし、急速に巨大化した教団とその元に入る膨大な資金をめぐっての内部分裂、二千人以上の死者を出したという地侍と門徒集団のたび重なる戦い…。蓮如はその蜃気楼で出来た牙城を失意と共に去る。のち、天下統一をはかる織田信長の勢力と門徒衆が戦った一向一揆が勃発する。

参考資料:JAPAN-GEOGRAPHIC.TV、蓮如と三井寺の出会い(三井寺のHP)

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秀吉造った「国内最古級」長浜城下町

2018年01月09日 | 文化財

滋賀・長浜城下町、日本遺産に再挑戦 秀吉造った「国内最古級」

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日本遺産認定申請の資料の一つ「長浜城下町復元図」(長浜城歴史博物館提供)

 滋賀県長浜市は、豊臣秀吉が開いた市中心部の街並みについて「近世城下町のルーツ」と位置付け「秀吉が造ったコンパクトシティ・長浜城下町」として日本遺産への登録を目指すことを決めた。2018年度分認定を視野に、1月下旬に文化庁へ申請する。実現に向け、市民と連携して機運を高めるとしている。

 日本遺産は各地の伝統文化などを観光資源として活用する趣旨で2015年から登録が始まった。地域の特色を「ストーリー」としてアピールすることが要件となる。

 市は、16世紀後半に秀吉が築いた長浜城の城下町として形成された中心部の街並みについて、毎年4月に催される「長浜曳山(ひきやま)まつり」の曳山13基を収蔵する山蔵が点在することに着目。「正方形にコンパクトにまとまった城下町で、町衆が育てた曳山まつりなど伝統文化の息吹を体感できる」とストーリーをアピールしていく。

 市は昨年1月、「国内最古級の城下町」をテーマに申請したが、落選した。再挑戦となる今回は「長浜らしさをストーリーの前面に打ち出した」(市民協働部次長の太田浩司学芸員)としている。

 認定への機運を市とともに高める市民グループも1月末に発足する予定で、発起人代表の雑貨販売業渡辺浩之さん(40)=同市平方町=は「多くの市民が参加できる勉強会を開き、城下町・長浜の価値観を共有したい」と話す。

 日本遺産は滋賀県内では「琵琶湖とその水辺景観」(県、大津市など7市)など3件が認定されている。

【京都新聞 2018年01月08日 09時21分 】