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城郭探訪

yamaziro

苗鹿(のうか)館 近江国(大津)

2017年11月17日 | 館跡

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地 :大津市苗鹿2丁目/苗鹿町  map:https://yahoo.jp/xomd1u

区 分:居館

現 状:宅地

築城期:室町期?

築城者:苗鹿氏

遺 構: 宅地開発で消滅

標 高:130m  比高差35m(旧西近江街道より) 

目標地:雄琴温泉/湯元館 荘園団地自治会館

駐車場:団地内路上駐車

訪城日:2017.4.20

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の概要

西近江街道の雄琴城と小塚山城の中間位置し、荘園団地が開発されて遺構は喪失してしまった。

2丁目の荘園自治会館付近とされ、西近江路を見下ろせる高台に位置する。

志賀の陣で、浅井・朝倉軍の陣になったか?

お城の歴史

  • 『江州佐々木南北諸氏帳』には、「志賀郡 苗鹿 住 佐々木随兵泉州今木 苗鹿五兵衛」の名を記す。
  • 法光寺の歴史によると

 中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。

  小槻氏が壬生家と大宮家に分裂し、壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代に六角の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

  • 『來迎寺要書』一真雄和尚 

   元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

  •  一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、家、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、空、屋外、自然、水

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/941497362679506

 

 

  • 法光寺 (大津市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法光寺 (大津市) 本堂.JPG本堂
 

法光寺(ほうこうじ)は、滋賀県大津市苗鹿にある天台宗寺院

歴史

仁寿元年(851年小槻今雄に対し同寺の建つ滋賀郡雄琴・苗鹿(現滋賀県大津市雄琴・苗鹿)の地が与えられ、同寺は小槻氏氏寺として貞観5年(863年)今雄により創建されたとされる。一説には今雄以前に延暦寺末寺として最澄により開基され、那波加神社別当寺であったとも言われる[1]。この地は小槻氏とつながりが深く、地名の「雄琴」は今雄の名に因むとされる。一帯には氏神として、今雄を祀る雄琴神社や小槻氏祖・於知別命を祀る那波加神社が残り、当寺とは神宮寺鎮守社の関係にある。

中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。この際には小槻氏の領となったが、小槻氏が壬生家大宮家に分裂すると両者の間で再び相論となっている。壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代六角氏の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

境内

往時には堂舎24宇・支院僧坊30余寺あったと伝えるが、元亀2年(1571年織田信長比叡山焼き討ちの際に焼失し、延享3年(1746年)再興が図られた。現在は数棟の堂宇が残るのみで、本堂は1916年建造。

元慶8年(884年7月7日に没した今雄の墓とされる。元は境内裏山に残る法光寺古墳群 (3円墳から成り中央主墳が今雄の墓とされる) の墳丘上に建っていたとされる。毎年7月7日、今雄忌として供養が行われている。
  • 苗鹿地蔵堂
苗鹿地蔵は最澄が彫ったとされる「坂本六地蔵」の1つで、境内の地蔵堂の中に立つ。街道沿いにあったが当寺内に移転した。移転前、堂前で大名が落馬したという故事から「すべり地蔵」とも呼ばれ、足腰を守ると言われる。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査報告9(旧滋賀郡の城)』・遺跡ウォーカー・『江州佐々木南北諸氏帳』『ウィキペディア(Wikipedia)』・法光寺の歴史・『來迎寺要書』

本日の訪問ありがとうございす!!

江藤加賀右衛門(青木加賀右衛門・青木重直?)屋敷   近江国(安土) 

2016年12月10日 | 館跡

蒲生郡志には、案内板の縄張図には他に、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。

『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』に綴じ込まれている「大正4年11月測量の縄張図も安土城の全貌を知るのに役立ちます。

これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。

また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道 ” で詳しく紹介しています。

江藤加賀右衛門屋敷(青木加賀右衛門・青木重直?)
 安土城図江州安土古城図
安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町下豊浦   map:http://yahoo.jp/4xU3Op

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:江藤氏

現 状:現・安土城祉・山麓館跡 

遺 構:石垣・土塁・空堀・城道

目標地:安土城跡

訪城日:2015.6.13・2016.12.10

お城の概要

安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

お城の歴史

安土城が完成する前にあった「江藤氏屋形」

青木重直 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
 
 
青木重直
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 享禄2年(1529年
死没 慶長18年11月21日1614年1月1日
改名 重直→浄憲(法名
別名 貞勝[要出典]通称:加賀右衛門(加賀右衛門尉)、刑部卿、法印
墓所 佛日寺[1]大阪府池田市
官位 刑部卿法印
主君 土岐頼芸斎藤道三義龍丹羽長秀豊臣秀吉
氏族 青木氏
父母 父:青木某
一重、女(小寺則頼[2]室)、重経[3](渥美重経)、直継[4]可直[5]

青木 重直(あおき しげなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

略歴

武蔵七党の一つ丹党の末で美濃国に流されたと称する青木氏の一族。ただし重直より前は、諸系図によって内容が異なり、確かではない。

初め土岐頼芸、次いで斎藤道三に仕えた。

『信長記』の一部によれば、永禄2年(1559年)に織田信長が初めて上洛した際に斎藤義龍の命令で信長の命を狙った刺客の一人だったという[6]

斎藤氏滅亡後は織田氏家臣の丹羽長秀に仕え、山崎の戦い賤ヶ岳の戦いに参加した[7]。後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。

文禄2年(1593年)10月17日、摂津国豊島郡のうちで1,400石を与えられ、文禄4年(1595年)9月21日、菟原郡で360石を加増された[8]。この後に剃髪して浄憲と称し、刑部卿法印に叙された。

慶長18年11月21日(1614年元旦)、大坂で死去した。享年86。

遺領は長男の一重が相続した。 

訪城日:2015.6.13・2016.12.10

     江藤屋敷の石垣  虎口 南曲輪の敷石 

安土城前掘

 

武藤屋敷の石垣  

江藤屋敷を東側から 江藤屋敷の北石垣 

 観音寺城遠景 

2015.6.13

 

 「安土城」と「江藤屋敷」の間の堀切

江藤屋敷の石垣      

空堀の安土城側石垣

 

空堀の江藤屋敷石垣 東側石垣(孕み崩落が激しいが)

 

  虎口(屋敷内から)  

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、蒲生郡志

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 

安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した(伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物)

安土城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
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安土城
(滋賀県)
安土城大手道
安土城大手道
城郭構造 山城
天守構造 望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存)
築城主 織田信長
築城年 1576年(天正4年)
主な改修者 羽柴秀吉
主な城主 織田氏、明智氏
廃城年 1585年(天正13年)
遺構 天守台、曲輪、石垣、堀
指定文化財 国特別史跡
再建造物 一部の石垣・大手道石段・門跡
位    置 http://yahoo.jp/TCtQmZ

安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城である目加田(目賀田)支城があった。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。

この城を築城した目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。


桜内館 近江国(日野)

2016年10月20日 | 館跡

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町北脇   map: http://yahoo.jp/BwP70W

現 状:宅地・山林

築城期:

築城者:室木氏

区 分:居館

遺 構:佐久良川の支流が前掘か

標 高:      比高差:m

目標地:法光寺

駐車場:北脇集落の駐車場

訪城日:2016.10.10

お城の概要

桜内城の山麓館か

桜内城の法光寺南東側の林の中へ入ると、南へ向かってなだらかな斜面になった曲輪があり、土塁・土橋・犬走り・武者隠し・竪堀・空堀があります。安徳寺の裏手も林になっており、しっかりした土塁が残っています。城跡の法光寺を囲むように、自然の山を利用し又佐久良川・支流を前の堀に、自然の地形を利用した城郭。

お城の歴史

鎌倉時代後期、蒲生氏の一族室木氏がこの地に居住。 

諸木神社も法楽精舎として創建されたのが、この法光寺、室木氏・小倉氏の供養塔が存在したとあるが詳細不明。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3・10・蒲生郡志・遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございす!!


安部居館 近江国(日野)

2016年10月19日 | 館跡

お城のデータ 

所在地:蒲生郡郡日野町安部居    map:http://yahoo.jp/dRa0bW

現 状:丘陵・山林

築城期:

築城者:安部居氏

区 分:居城

遺 構:曲郭・土壇

標 高:      比高差:m

目標地:念法寺

駐車場:念法寺の駐車場

訪城日:2016.10.10

お城の概要
 佐久良川の左岸の丘陵に安部居集落に安部居館は位置する。

佐久良城に近く、又桜内城丸山砦(澤山砦)に近く蒲生氏の家臣川原氏の居館か、

現在は、開発が進み要害の地とは考え難いが、往時、堂木氏・矢野氏・安部居氏で一帯の所領していたか?

お城の歴史

 

古代・中世/第6章 戦国時代の蒲生/第3節 蒲生氏の台頭/六角氏の家臣たち 

安部井氏は、上南城を本拠にし、市子庄に勢力を持った土豪である。

『近江蒲生郡志』巻参によれば,もともと現在の日野町安部居に住していたのでこの名があると記す

‥‥‥‥‥‥安部井頼国のひ孫秀家は、天文14(1545)には、さきの明応の戦いで荒廃した誓安寺の伽藍の復興を計画したが、果たせぬまま浅井氏の小谷籠城戦に参加して戦死てしまった。織田信長が湖北の戦国大名浅井長政が籠城する小谷を攻めたこの戦いには、安部井氏からは千田・橋井・西井・西村・青木・向井・西田・福永・川西など同属が多く参加したことが、高木行法の覚書に記されている。

 

「念法寺の由来」から安部居館は、還俗した川原五郎右衛門が見える。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4・蒲生郡志・念法寺の由来(石碑)・遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございす!!

 

150年前のかご、稚児を先導 滋賀・日野の念法寺

 

京都新聞2016.4.4

 

修復を終えた駕籠を先頭に練り歩く稚児行列(滋賀県日野町安部居)

  滋賀県日野町安部居の念法寺に約150年前から伝わる駕籠(かご)の修復作業が終わり、3日の法要で、地域住民らにお披露目された。

駕籠は人の乗る部分が長さ1メートル、幅80センチで、内部の銘板から安政7(1860)年ごろの作とみられる。本堂の軒下に長年つり下げられて傷みが進んでいたが、昨年10月から門徒たちが手作業で修復し、約4カ月かけて完成させた。

 この日は親鸞750回遠忌法要が営まれ、若手門徒に担がれた駕籠が、時代衣装で着飾った子どもたち73人による稚児行列を先導し、同寺までの約250メートルを巡行した。

 川原了慎住職(48)は「子どもたちが地域の歴史を感じるきっかけになったのでは。今後も機会があれば展示したい」と話した。


寺倉氏館 近江国(日野)

2016年10月13日 | 館跡

お城のデータ 

所在地:蒲生郡郡日野町佐久良小字寺倉    map:http://yahoo.jp/BvCPYA

現 状:プール・田地・山麓・山林

築城期:

築城者:寺倉氏

区 分:居城

遺 構:曲郭・土壇

標 高:      比高差:m

目標地:桜谷小学校

駐車場:桜谷小学校プール横駐車場

訪城日:2016.10.10

お城の概要

『蒲生郡志』に、寺倉氏の邸跡は、小字「寺倉」にあったとあり、小字「的場」に寺倉と呼ばれる所があり、地元伝承でも佐久良と長寸の城があった頃、この地に侍屋敷があったされる。

 寺倉氏館は、桜谷小学校の駐車場とプールの一帯に築かれていた。 居館の遺構一部は山麓に残る。 長寸城への登城口に位置し、佐久良城・長寸城の中間の山麓館。

お城の歴史

 築城期について不明で、蒲生氏の家臣である寺倉氏が鳥居平城主という言い伝えがある。(小倉氏の四ケ谷城に備えた城として)が、鳥居平城の現在の遺構は小倉氏によるものか蒲生氏によって構築されたものか定かではないようだ。

蒲生郡の寺倉氏については、永楽七年頃に小倉氏を滅ぼした日野中野城主蒲生定秀が桜谷一帯を所領として、蒲生氏の家臣寺倉氏が佐久良城から鳥居平城(蒲生郡日野町鳥居平)に居城を移ったとされる。寺倉氏は蒲生氏の支流か。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 中之郷住 佐々木蒲生隋兵 寺倉三左衛門」の名を記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(蒲生・神崎郡の城)・『蒲生郡志』・『江州佐々木南北諸氏帳』

本日の訪問ありがとうございす!!


西川館 近江国(竜王)

2016年08月23日 | 館跡

お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町西川    map:http://yahoo.jp/trrCUF

 現 状:集落・個人宅

区 分:居館

築城期:南北朝期

築城者:宇川氏

遺 構:

目標地:西川公民館

駐車場:西川公民館

訪城日:2016.8.18

お城の概要

日野川左岸沿いの西川集落の中心部に比定地である。今は圃場整備が進み、集落内は楕円の道路は水路を車道の為埋められたものか。

静かな、農村集落で天満宮が近くに鎮座する。

お城の歴史

『滋賀県中世城郭分布調査(旧蒲生・神崎郡の城)』には、西川館 『近江温故録』に、「西川備前守在住ス」と記される。

愛知川 刈間城主:西川備前守の名が見えるが同一人物か?

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査、近江温故録

本日の訪問ありがとうございす!!



鵜川館 近江国(竜王)

2016年08月23日 | 館跡

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町鵜川   map:http://yahoo.jp/oTAphf

 現 状:集落・個人宅

区 分:居館

築城期:南北朝期

築城者:宇川氏

遺 構:

目標地:鵜川公民館

駐車場:鵜川公民館

訪城日:2016.8.18

お城の概要

祖父江川沿いの鵜川集落の中心部に比定地である。今は圃場整備が進み、集落内は楕円の道路は水路を車道の為埋められたものか。

静かな、農村集落で天満宮が近くに鎮座する。

お城の歴史

『滋賀県中世城郭分布調査(旧蒲生・神崎郡の城)』には、鵜川館 『近江温故録』に、「宇川教之介ハ文武兼備ノ武士」と記される。

鵜川公民館

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査、近江温故録

本日の訪問ありがとうございす!!


加田七殿屋敷(加田館・七殿屋敷)      近江国(長浜)

2016年06月08日 | 館跡

加田七殿屋敷/加田館/七殿屋敷

 甚兵衛屋敷の堀(神田公民館前)
お城のデータ
別 称:加田館/七殿屋敷
所在地:長浜市加田町    map: http://yahoo.jp/ObSIo3
現 状:加田集落
区 分:居館
築城期:
築城者:
遺 構:堀・
目標地:神田公民館
駐車場:神田公民館駐車場
訪城日:2016.6.3.
お城の概要
 加田一族七人の屋敷跡。地元では「ななとのさん」よんでいる。加田氏の菩提寺「興善寺」の南側の位置する。
お城の歴史
 加田氏に初見は「政所腑銘引付」」の文明年間の記事で京極氏の被官加田九郎兵庫尉の名は見える。がその後の動向は不明。「垣見文書」に見える天文13年(1544)の加田口合戦は京極高広が浅井氏側の加田氏の館を攻めものと考えられている。
 加田七殿とは、加田孫左衛門、加田九郎左衛門、加田権左衛門、加田甚兵平、加田右近右衛門、加田新八、加田重右衛門の七人。
また、『佐々木南北諸氏帳』は「坂田郡 加田 住 佐々木浅井隋兵 加田源八郎・同 佐々木隋兵伊藤末 加田九郎左衛門・同 加田権左衛門・同 加田甚兵衛・同 佐々木浅井隋兵 加田右近右衛門・同 加田新八・同  右加田七家 加田重右衛門と「右加田七家」と記している。
また『佐々木南北諸氏帳』の「坂田郡 加田 伊賀角兵衛・加田 浅井隋兵 北川東右衛門を記す。 この二名は詳細不詳。
 
             
菩提寺の與善寺
     
         
立派な屋敷の中に土塁が残る。
  ブロック塀の中に土塁
             神田公民館に駐車
 
加田七屋敷の詰め城か?(八幡神社・神田山)
                       
八幡神社本殿の南側の平削地・土塁が残存する。              
 参考資料:滋賀県中世城郭分布6(1989.3)(旧坂田郡の城)、『日本城郭大系』11、遺跡ウォーカー
本日の訪問ありがとうございす!!
 

南城(柴原屋敷)  近江国(八日市)

2016年05月12日 | 館跡

   

お城のデータ

所在地:八日市市柴原南町    (推定地)map:http://yahoo.jp/dRPraI

別 称:柴原屋敷

区 分:城館(居館)

現 状:宅地前の畑地

遺 構:堀痕、土塁痕

築城者:柴原次郎

築城期:室町期

城 主:柴原次郎

目標地:宮溜・玉緒神社

駐車場:安楽寺の隣集会所に駐車又は比定地前に路上駐車

訪城日:2014.6.15.2016.5.8

遺跡ウォーカーの比定地に祠が

お城の概要

柴原南集内は道路も狭く、鈴鹿の湧水で水路が多い。地割も複雑だが、比定地は南集落の南端部にあった。

遺跡ウォーカーの城跡比定地、柴原南集落に「城の藪」「馬場」「武助屋敷」「的打場」の地名が残る。が詳細不明。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸士帳』に、「蒲生郡 南村 佐々木随兵氏族 柴原次郎(元甲賀武士)」とあり。

『大洞弁天当国古城主名礼』には、南村城主として柴原次郎の名が見える。

『近江蒲生郡志』三八九頁 「柴原氏邸跡 柴原氏の邸跡は玉緒村柴原南にあり、一族分かれて幾家となり南にあるを南殿といひ北に住せしを北殿といへり、柴原南の村名はその南殿の住地により名出つ、小字に城の藪あり、又大字芝原(柴原か?)にに殿の墓と称すろあり、何れも古への遺構なり。」と記す

 遺跡ウォーカーの比定地

   堀痕も道路の拡幅のため暗渠に!  

淵龍山祥光寺 527-0066  滋賀県東近江市柴原南町1003

由来

 正暦年中(990-995)天高魂尊(たかむすびのみこと)の神孫玉緒判官慶?の創建と伝え、旧号は「玉緒山柴原寺」と称した。

 寛永19年(1642)3月、彦根城主伊井直孝公の時代に「淵龍山祥光寺」と現名に改称した。この号の旧名は、玉緒村大字柴原と言い、山号が郷里号に生かしてあった。 かつては道向かい隣の玉緒神社の別当寺で、当初は不動明王が本尊であった。現在は薬師如来をおまつりしている。

 

玉緒神社

 玉緒神社石燈籠(南北朝時代初期 、花崗岩、高さ 約178Cm)  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、『江州佐々木南北諸士帳』

  本日も訪問、ありがとうございました


井ノ口館(清水山城館)  近江国(新旭)

2016年04月17日 | 館跡

お城のデータ

別 称:清水山城館・本堂谷遺蹟
所在地:高島市(旧:高島郡)新旭町井ノ口蓮池  map:http://yahoo.jp/-NYVkv
現 状:森林
区 分:城館

築城期:室町期 
築城者:佐々木高島四

遺 構:郭・空堀・土橋・土塁・井戸・現地説明板
標 高: m  比高差:ー
目標地:大荒比古神社

駐車場:大荒比古神社本殿前に駐車
訪城日:2016.4.16

国指定史跡

お城の概要

 井ノ口館は、大宝寺山南麓にある西佐々木氏(高島氏)の氏神大荒比古神社の東側に築かれている。

天台寺院の大宝寺坊院跡を利用して城砦化したと考えられ、空堀と土塁が囲繞する方形の曲輪(屋敷)を幾つも統合して一つの城郭とする縄張りで、清水山城の居館群と共通する縄張りとなっている。

 館跡の一部が宅地化され遺構が消滅しているが、神社から谷を隔てた館の北西部から北側にかけて土塁・空堀・土橋等の遺構が良好な形で残っている。 また、館の北東部角には土塁と堀が残り、この切岸と土塁は高さもあり見応えのある遺構だ。 


大荒比古神社の本殿の東側に説明板があり沢の対面は土塁で進むと、広範囲な領域の館跡と巨大な空堀。館跡は綺麗に整備され、「オオイワカガミ」が満開で、「土塁」「空堀」「井戸」の表示板で非常に見学し易い遺構であった。

宮司さんの話では、「大荒比古神社」の鎮守の森で、遺構は残存状態が非常に良い。曲廓は多くの土塁と空堀で区切られる。その間には空堀と土塁が巡る。特に、北側の端の空堀は幅7m・深さ2m超、100mは続く。その空堀・土塁・土橋は明瞭に残存する。元は寺坊でり、空堀、土塁は清水山城の居館部分として利用か?寺坊と城館の区別は無理・不明である。現在は中央が宅地化され、東西に分断されて、大きな区域にある不思議な城館遺構・寺坊遺構だ。

お城の歴史

清水山城の佐々木高島氏の居城の山麓にある館だが、詳細不明の城館で、ただ、「大宝寺」寺坊があったとも伝わる。

井ノ口館は、築城年代や築城者など詳細なことは定かでないが、永禄年間に清水山城が改修された同時期に築城あるいは改修された可能性が高い云われている。

 元亀4年に織田信長が高島郡を攻略した際、清水山城共々落城した。

 

オオイワカガミ満開でした!大荒比古神社の裏にタムシバが1本咲いてました。大荒比古神社に戻り、宮司見学のお礼言って!

帰り道脇の現地説明板が在りました!

井ノ口館・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査8.高島郡志

 本日の訪問ありがとうございす!!


谷氏館(谷殿屋敷・友定城) 近江国(近江八幡)

2016年03月17日 | 館跡

谷殿屋敷阯の駒札案内板

別 名 :谷殿屋敷・友定城

所在地:近江八幡市武佐町 map:http://yahoo.jp/f-Osh7

築 城:長享元年(1487)

初城主:谷氏

区 分:居館

訪城日:2013.5.5

 旧中山道・武佐宿の北側に大きな冠木門が建てられ、武佐宿脇本陣の案内板が掲げられている。敷地内には武佐町会館が建っているが、この一帯が谷氏館である。

 谷氏館は1町四方(約100m四方)あったとされ、武佐町会館の裏手の新興住宅地には「御屋敷」という字名が残っている。
また、新興住宅の一画に「谷殿館跡」の案内板が建てられている

さんど沢(谷殿沢)付近

市場跡とされる武佐神社城跡を思わせる広済寺

武佐宿脇本陣跡武佐昔の町並み

 谷氏館は、長享元年(1487)近江源氏の佐々木一族が小脇館から金剛寺城に移った時に、佐々木家御家人の谷氏もこの地に移り、館を築造したものである。

 江戸期には、この地に奥村三郎左衛門が脇本陣として使用し、明治22年(1885)には武佐村役場となり、現在では武佐町会館が建てられている。

谷館は近江守護の佐々木氏に仕えた谷氏の居館であり、佐々木氏が長享元年(1487)に金剛寺城を築いて拠点を移したときに谷氏もそれに従って館を築いて移り住んだ。戦国時代に佐々木氏の後裔である六角氏が滅ぶと谷氏も没落したものと思われる。
 中山道に面した交通の便に優れた場所であり、江戸時代には谷館跡の一部が武佐宿の脇本陣として使用されている。武佐宿はまだ尾張清州城主だった頃の織田信長が上洛したときに美濃の斎藤義龍の放った刺客に襲われた地でもある。

 近江鉄道の武佐駅から旧中山道を東へ進むと道の左側に冠木門の建つ場所がある。ここが武佐宿脇本陣跡であり、当時の谷館の南端にあたる場所とされる。町会館の案内板に谷館のことが触れられており、会館の裏にある住宅街には館跡を示す標識も設置されている。住宅街と雑木林の境界にある溝が堀跡で、これ以外に遺構は見当たらない。

近江八幡の城マップ
近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館  香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(九里城) 金剛寺町  

参考資料:日本城郭大系、武佐宿脇本陣案内板・滋賀県中世城郭分布調査4

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


秀吉ファン心つかめ 長浜城歴博、初の改修

2016年01月25日 | 館跡

リニューアル工事が行われている長浜城歴史博物館(長浜市公園町)

 滋賀県長浜市公園町の長浜城歴史博物館が1983年の開館以来、初のリニューアル工事を行っている。長浜に城を築いて天下統一の足がかりとした羽柴(豊臣)秀吉と地元の関わりを紹介したコーナーを新しく独立させて設けるなど、展示内容を充実させたいとする。

 同博物館は秀吉が築いた長浜城の跡にあり、展望台付きの模擬天守の建物は長浜観光の目玉の一つになっている。

 リニューアルでは秀吉ファンの観光客に足を運んでもらおうと、3階に秀吉のコーナーを設ける。姉川合戦や賤ケ岳合戦など秀吉が居城していた間の出来事を絵巻物風にした年表を新たに作製するほか、築城の様子を再現したジオラマを2階から移設する。

 このほか、2階に縦3メートル、幅5メートル、奥行き1・2メートルある最新の密封ケース1基を導入。ケース内は常時、温度20度、湿度60%に保つことができ、貴重な文化財を保存、展示できるようになるという。

 リニューアルオープンは2月27日。太田浩司館長(54)は「長浜を訪れる観光客の多くは秀吉に興味がある。秀吉と長浜の関係を分かりやすく紹介したい」と意気込む。

 白い天守がそびえる長浜城歴史博物館。長浜城は羽柴(豊臣)秀吉が1574年から4年かけて築城し、同時に城下町も築いたと伝わる。だが、1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、長浜城は解体され、遺構の多くが彦根城に活用されたという。

 長浜城の再興は市民の願いだった。民俗資料館建設構想で地元出身の実業家が「城型の建物にして」と寄付したのをきっかけに建設の機運が高まった。総事業費10億3700万円のうち約4億3千万円が寄付でまかなわれて着工、開館に至った。

 近世の犬山城(愛知県)や丸岡城(福井県)を参考にした模擬天守は、黒壁スクエアなどとともに長浜の観光スポットになっており、今も年間14万人が訪れる。市中心部では1996年、NHK大河ドラマ「秀吉」の放映に合わせて「北近江秀吉博覧会」も開かれた。

 同博物館のリニューアル工事は老朽化した空調施設の交換に合わせて昨年12月から総事業費約9300万円をかけて行っている。工事期間中は全館休館で、この機会に学芸員は所蔵品の整理や調査にあたり、受付の職員は観光客に対応できるよう観光地を訪ねるなど研修を積んでいる。

 同博物館には一つの強みがある。文化庁の「公開承認施設」に認定されている点だ。国宝や重要文化財の公開手続きが簡素化されるメリットがあり地域へ質の高い企画の発信が求められる。文化庁美術学芸課は「リニューアル後も重要文化財を継続的に広く市民に公開することを期待したい」とする。

 リニューアルオープンに向け太田浩司館長(54)は「博物館としてのグレードを高め、観光で訪れる人の玄関口としての役割を果たしたい」と力を込める。長浜観光協会の漣(さざなみ)泰寿副会長(59)も「博物館は市民のシンボルで、長浜の歴史と文化を発信する拠点。秀吉と長浜がキーワードのリニューアルは楽しみ」と期待する。

京都新聞【 2016年01月25日 08時58分 】

 

 


寺倉城 近江国(近江町)

2015年11月17日 | 館跡

お城のデータ

所在地:滋賀県米原市(旧・坂田郡近江町)寺倉334 map:http://yahoo.jp/pskA0J

区 分:平城

現 状:集落・宅地・神社

遺 構:なし

築城期:室町期

築城者:寺倉氏

目標地:槻倉神社

駐車場:槻倉神社前の公園駐車場

訪城日:2015.11.15

堀痕のような池

お城の概要

国道21号線添いの琵琶湖側、米原市寺倉集落。

遺構は無いようだが、槻倉神社の前に【堀痕のような池】・【印塔】が。

印塔

歴 史 

 坂田郡(旧近江町)寺倉の西隣の大字西円寺にある西円寺館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とあげられ、旧米原町の三吉・寺倉には地頭山(じとうやま)城があって、堀氏が築城して守備した鎌刃城(番場)の支城であり、浅井長政の頃は今井氏が守備し、三吉の門根城は浅井家臣堀氏の屋敷だと記されます。

永正七年(1510)頃の浅井家臣に、坂田郡箕浦城を本拠とする今井肥前守がおり、西円寺館には、

今井ー族の墓

その墓が西円寺にあるといわれます。

寺倉にある禅寺・総寧寺(そうねいじ)は、亨禄年中に兵火にかかった後、新庄氏によって再建されました。

これらに見える今井・寺倉・堀・新庄はみな同族で、藤原秀郷流と称されます。(近江の寺倉氏とその一族について 安土城郭調査研究所)

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『浅井三代記』

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


行畑(ゆきはた)館 近江国(野洲)

2015年05月28日 | 館跡

お城のデータ

所在地:野洲市行畑2丁目9−1http://yahoo.jp/LKFJ7R

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:

現 状:現・野洲高校学校敷地

遺 構:堀痕

目標地:野洲高校学校

訪城日:2015.5.27

お城の概要

 行畑館跡は、現在野洲高校の敷地となっており、地籍図にあるような遺構は消滅しています。ただし、集落を囲っていた外堀の西側部分が、古図そのままに現在も水路として残っています。

すぐ北側には旧中山道で、重要な位置にある館と思われますが、伝承などは残っていないため、謎のまま失われてしまった城館といえます。

旧地籍図に堀で囲まれた六角形の小区画があり、城館跡と考えられている。この区画のある小字古里には、天正年間(1573~92)まで行畑の集落があったといわれている。地籍図では古里全体が環濠状の水路に囲まれており、館と集落の外堀の役割を果たしていたものと推測される。

 「行畑の現集落は天正年間に移転したものと言われるが、その旧位置とされる小字「古里」(現野洲高等学校)は全体が環濠集落的であり、また、その中には堀と思われる水に囲まれた一画があり、中主町虫生館の場合に類した館跡と考えられる。」

朝鮮人街道
  朝鮮人街道とは、滋賀県野洲市行畑で中山道から分岐し、琵琶湖東岸を北上し、彦根市鳥居本で再び中山道に合流する約41kmの街道です。元々琵琶湖舟運の港を繋ぐ、陸路として便利だった道を、信長が幹線道路として整備し、その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康が凱旋した時に通ったという、めでたい道として、将軍上洛や外交使節の通行の際にのみ使われた。 鎖国時代、唯一の外交関係があった、朝鮮からの外交使節が通ったので、この朝鮮人街道の名前がついた。


   朝鮮通信使について
   この場合、通信とは情報を交換するという意味ではなく、「信(よしみ)を通ずる」の意味で、親善友好使節団のことである。使節団の一行は正使、副使のほか、軍人、書記、医者、学者、画家、書家、薬師、曲芸師などで編成され、約400人に及んだ。太鼓などを打ち鳴らし、楽器を演奏しながら、曲芸を見せながら華やかに賑やかに、進んだといわれる          

参考書:「歴史の道調査報告書 朝鮮人街道 」(滋賀県教育委員会)   

 行畑の背競地蔵(せくらべじぞう)
814 年、弘法大師が全国行脚の途上、光明皇后とその父藤原不比等の菩提を弔うため、この地を訪れ妙光寺山の大岩壁に不動明王の像を刻まれました。ちょうどそのころ、全国に悪疫(疱瘡ほうそう)が流行し、人々が難渋していたので、悪疫退散の大護摩を焚き、祈願会も勤められました。そのとき、自らの手で大小二体の地蔵菩薩を行合村の三叉路に建立されたといわれています。
三上の郷には日陽山、東光寺があり、毎年勅旨、院使が参向していました。中山道と別れてお成り街道ともいえる参道にかかるこの三叉路で、勅旨の一
行は行列を整え、勢揃いするのを例としたので、これにちなんで「勢揃(ぜぞろえ)地蔵」と呼んでいました。ところが、この地蔵があまりにも大きいので、近郷の親たちが「我が子もこの地蔵くらいになれば一人前だ」と背競べをさせるようになり、いつの間にか「背競地蔵」と呼ばれるようになったようです。

●「造り物」はどうして「一式」にこだわるの?
地蔵祭りに華を添えるのは造り物です。                                                                                       1635 年、徳川家光が実施した参勤交代で中山道は人馬の往来が頻繁になり、人々が近くの村から街道沿いに移り住むようになりました。
 住民のほとんどは農民であり、7 月の祭の頃は田植えや草刈りを終え、骨休みのくつろぎと農(みのり)への感謝から農具を用いてめでたいものを作る
ことを考えたようです。最初は農具一式の造り物を参詣の人たちに見せた娯楽だったものが、時代を経て、材料も仏具や婚礼用品、スポーツ用具など幅が広がりました。ただし、用途を同じくするもの、あるいは材質を同じくするものという「一式」のこだわりは今も受け継がれています。※《参考》愛宕地蔵祭り造り物保存会資料

 

 参考資料1 滋賀県中世城郭分布調査 3 (旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


長束氏館(大蔵屋敷) 近江国(草津)

2015年05月28日 | 館跡

  

お城のデータ

所在地:草津市長束町大蔵 map:http://yahoo.jp/e4HMZl

区 分:居館

築城期:平安期

築城者:水口盛里(長束盛里)

現 状:竹林・農地・宅地

遺 構:竹林に土塁・堀跡(用水路)、菩提寺

目 標:長束町の春日神社・養国院

訪城日:2015.5.27

お城の概要・歴史

豊臣政権五奉行の一人・長束正家の生家、居館。

正家の父である水口盛里が長束村に移住して館を構え、長束氏を名乗った。

長束集落内の「春日神社を中心とした発掘調査で土塁や柱穴が確認され、この地に館があったと推測されている」。

「長束」の地名は長束一族が平安時代、比叡山の領地を束ねる長だったことが由来とのこと。

今もこの地に7、8軒の長束姓があります。

今、「長束老人憩いの家」として使用されている場所は、長束正家を弔うために建立された養国院があったといわれ、阿弥陀如来と長束正家の母(または息女)の位牌のみが残り、現在も地元の七人衆と呼ばれる人たちが守っています。

「長束大蔵大輔正家候菩提所」と刻まれた石碑が門の脇にあるのは来迎員阿弥陀寺、正家の位牌があると伝えられ、昔は300坪の大蔵屋敷があったとか。今では無住となった寺と「大蔵」という小字名だけに名残をとどめています。

 この地の出身である長束正家は算術に優れ、秀吉五奉行の一人として活躍しました。太閤検地や朝鮮出兵の食料の手配・大阪城や聚楽第の資材管理・経理など事務方としての才能を発揮し、大蔵大輔まで務めた武将でしたが、関ヶ原の戦いで西軍につき追われました。

 正家が密かに秀吉をまつったとされる春日神社には木造の秀吉像があるといわれています。小さな神社ですが地元では「天神さん」と呼ばれ、2~3年に一度サンヤレ踊りが奉納されます。

1502年に作られたという古い獅子頭は市の指定文化財で祭りなどの際に見ることができます。

長束正家

【生誕から五奉行と呼ばれるまで】

1562年:水口盛里の長男として近江国 長束村で生まれます。最初は丹羽長秀に仕えていましたが秀吉に仕えてからは、秀吉の蔵入地管理、太閤検地の実施などで手腕を発揮します。小田原討伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍します。朝鮮出兵の際も兵糧奉行として活躍し1595年近江水口城5万石を拝領し五奉行の末席に名を連ねます。

【秀吉亡き後の正家の人生】

 関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、本戦に参加できず、西軍が壊滅後は捕らえられて切腹させられます。

【大蔵屋敷のあった春日神社】


 「長束大蔵大輔正家候菩提所」と刻まれた石碑が門の脇にあるのは阿弥陀寺です。正家の位牌があると伝えられ、昔は300坪の大蔵屋敷があったとか。今では無住となった寺と「大蔵」という小字名だけに名残をとどめています。

長束正家(なつか・まさいえ) 1562~1600

 豊臣家臣。近江国栗太郡常盤村の出身。通称は新三郎・利兵衛。大蔵大輔・従四位下・侍従。
若くして算術に長じ、丹羽長秀・長重に仕えて財政処理に敏腕を振るっていたが、これを聞いた羽柴秀吉が長秀没後の天正13年(1585)頃に1万石で召抱え、貢租会計を管掌させた。この頃に従五位下・大蔵大輔に叙任。豊臣政権五奉行の一人でもある。
紀伊征伐・九州征伐・小田原征伐などの大掛かりな戦役においては、兵糧奉行として裏方から秀吉の軍事行動を支えた。朝鮮の役には糧食の輸送に活躍した。

天正19年(1591)閏1月には増田長盛らと共に近江国の検地を実施した。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役では肥前国名護屋城に駐屯。
文禄3年(1594)の伏見城工事を分担している。
文禄4年(1595)6月に近江国水口城主5万石となり、のちには12万石に加増された。
慶長3年(1598)、越前国の検地を実施。
秀吉の死後は徳川家康に近づき、石田三成の暗殺計画を知らせたりしたが結局は三成に味方し、東下中の家康を居城の水口で謀殺しようと目論むも失敗する。
関ヶ原の役では西軍勢力として伊勢口を固めて、伊勢国安濃津城を攻めた(安濃津城の戦い)。15日の関ヶ原の合戦では南宮山に布陣したが、吉川広家に遮られて帰城。10月3日(月日に異説あり)、池田長吉に欺かれて出城し、近江国佐久良谷で自刃した。法名は大心院殿速成居士。

集落には、堀痕(区画整備・圃場整備で改変されるが)が残る。

竹林の土塁

土塁遺構の残る竹林(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

            本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!