城郭探訪

yamaziro

世継館 近江国(近江)

2015年06月26日 | 居館
お城のデータ
 
所在地:米原市(旧坂田郡近江町)世継   map:http://yahoo.jp/nQ5mYb
区 分:居館
現 状:集落
築城期:鎌倉期
築城者:世継氏
廃城期:室町期
標 高:90m 比高差0m
遺 構:城址説明碑
目標地:春日幡神社
駐車場:世継公民館
訪城日:2015.6.19
 
お城の概要
 世継は旧近江町の西端に位置し、琵琶湖に面している。湖岸には浜堤が形成され、その上に集落が営まれている。この集落の東側一帯に広がる水田地帯である。この地は、町内を東西に流れる天野川が形成する沖積低地である。浜堤と水田との比高差は約1.3mを測り、比高差が0cmとなる地点は、東へ約750mと緩やかな傾斜となっている。
集落の南側には、浜堤を断ち切って天野川が流れ、さらにその南にはかつての入江内湖がみられる。
また、北側には浜堤と沖積低地が続き、小さいながら沼地が残っている。
このような地形をみると、水田化されてはいるけれど、かつでは浜堤のすぐ東側に後背湿地帯が、あるいは広く内湖がみられたものと思われる。
 
 
米原市(旧近江町)の世継にある春日神社 石田三成お手植えの藤
石田三成お手植えの藤が伝わる春日神社。
春日神社には石田三成がお手植えした伝わる藤があります。
また、石田三成の家紋である「下り藤」もここからのものか!
 

 

歴 史 

「淡海国木間録」に世継村 昔「代継三左衛門」ト云う武士住居トニ栽ス、浅井家に属す人ナリ・・・とある。

また、島記録に窪氏居住ろ見える。

世継の歴史を考えるうえで見過ごせないのは、その地名の由来である。『坂田郡志』は、「古く四大樹ありしより四ツ木の名を得た」との伝承をのせている。それに対して林屋辰三郎氏は、世継の地名をそのままに解し、世継の物語を伝える集団の居住するところと考えている。つまり世継とは、世々のことを継々に語ることであり、その語られた物語とは、古代より坂田郡に勢力を張っていた息長氏の伝承ではないかとのべられている。息長氏は天武八姓の主位である真人姓をうけ、奈良時代にひき続き郡の大領をつとめ、平安時代には正暦のはじめごろより長保2年にかけて(990~1000)、旧米原町に所在する筑摩御厨の長を任じられるなど、当地域との関係はけっして薄いものではない。

歴史的背景からみれば、旧朝妻郷内に属する世継は、古代においては天野川をはさんで朝妻湊と対をなす古津としてとらえる必要があろう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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内保(うちほ)城 近江国(浅井)

2015年06月21日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地 :長浜市(旧東浅井郡浅井町)内保1264  map:http://yahoo.jp/iRW7xa

築城年 : 戦国期

築城者:

区 分:城郭寺院

現 状:寺院・集落

遺 構 : 土塁、堀 

目標地:内保バス停・誓願寺

駐車場:農政会館 

訪城日 : 2015.6.19

お城の概要

 内保集落西部の小字西出にある城郭化された寺城が誓願寺で、戦国期の江北一向宗の中心寺院の一つである。寺の三方に土塁が残り、北と南の外側には川が流れている。

東南部の土塁は幅7~8m、高さ2.4mもあり保存状態が良い。南側の土塁に平虎口を設け、幅は3~4m、高さ1m弱でかなり削られている。北西部にある庭園の築山は延長線上に位置し、土塁の一部を兼用して設けられた可能性が高い。南と西側の土塁内側には、幅1m程の堀が見られ、北側の川水が引き込まれていたらしく、一部は庭水にも利用されている。敷地の南東部にある鐘楼は四方16mの台上に建っており、その周辺には幅1mの堀も巡らされ、石垣の周辺には立石や五輪塔等も見られる。

内保は湯次保の中心をなした地域と考えられ「大安寺三綱紀」に当地に8つの僧坊を有した連乗寺があったとし、誓願寺の北東の八幡神社が同寺の鎮守と伝わる。また、誓願寺のある小字西出は笠屋敷・西屋敷・旧屋敷と称す孫字があり、八幡神社のある小字八幡には長泉寺・旧屋敷・城戸の名が残っており、蓮乗寺を氏寺とする在地豪族の存在が想定でき、現在の誓願寺周辺には僧坊や屋敷が建ち並んでいたらしい。

特に、南東部から南側の遺構がよく残っており、城塞化した寺院の構造を垣間見ることができる。

 

歴史

 天文年間頃には江北一向宗の組織化が進み、江北十ケ寺の1寺として誓願寺は一揆の指導的役割を果たしており、この頃には寺城として防備を整えたと思われ、浅井久政から要請のあった軍資金の借用や近江中郡での一揆蜂起を断るなどしているが、元亀元年(1570)三好三人衆が信長打倒を掲げ、浅井久政・長政父子が信長と離反するに及び、顕如は浅井氏の再起を望んで江北一向宗の指揮を任せたらしい。

湖北十ヶ寺

 蓮如が寂した年があけると十六世紀。日本史の上で最大の内乱時代「戦国の世紀」の幕が開く。この乱世に本願寺は、信長の天下制覇をさえぎる巨大な法城にまで発展していく。 そして、福田寺は本願寺十一世顕如の時代に、石山本願寺を支える軍事力の重要な柱石となり、このころ福田寺は「長浜御坊」と称される小法寺を形成していく。 やがて、慶長元年(1596)、長浜御坊大通寺が建立されるが、このとき、福田寺をはじめ十ヶ寺は御坊建立の肝煎役をつとめている。 本願寺と福田寺に隆昌をもたらした力は何処にあったのか、それを知るためには、信長の覇権阻止に死闘を続けた湖北一向一揆をかえりみなければならない。 湖国の一揆は、湖東、湖西、湖北の三つの地域で燃え上がった。湖北三郡を中心として、浅井・朝倉の勢力と連携して信長と対決した江北一向一揆は、湖北の有力寺院十ヶ寺が結束した。その筆頭に立ったのが、福田寺十一世覚世であった。

 

 湖北における一向一揆の中心となる真宗寺院を湖北十ヶ寺と呼び、さらにその中心となったのが福田寺(米原市長沢)である。福田寺は771年に建てられた坊舎布施山息長寺が起源である。蓮如と親交があったことから福田寺は本願寺の湖北の中心となり、福田寺俊は蓮如共に越前吉崎へ布教に向かっている。

 顕如が本願寺法主となると全国の門徒衆は武装化して領主と対立するようになった。それに伴い寺は城塞化し福田寺も「長浜御坊」と呼ばれ一揆の拠点となった。

 姉川の合戦後、湖北へ信長の勢力が伸びてくると寺院への矢銭の要求があり、これに不満を持った門徒は照光房という僧のもと一揆が出来た。

元亀2年正月信長は横山城の秀吉に北陸から大坂へ向かう通行人への取締りを強化し逆らえば成敗せよと命じた。

これは越前・湖北の本願寺門徒と大坂本願寺とを分断するためであった。この動きに福田寺覚世は福勝寺覚乗、順慶寺珍乗(長浜市西上坂町)、金光寺教通、淨願寺勝理(長浜市榎町)箕浦誓願寺超宗(米原市箕浦)眞宗寺裕乗(長浜市益田)稱名寺性慶内保誓願寺了乗中道場(授法寺 長浜市下上坂町願心猶宗らに呼びかけ浅井氏と同盟して信長と戦う事を決定した。

 

箕浦の戦い

押し寄せる浅井軍・一揆勢は5千余りだがそのほとんどは農民で鋤や鍬を持っての参加だったのでその十分の一とはいえ武装した堀・羽柴軍の前には余りにも非力すぎた。白兵戦を挑む前に矢や鉄砲の餌食となった。

それでも勇猛に羽柴軍・堀軍に挑んだ一揆軍だったが形勢は悪くなり北へ押し返されていった。退却に転じた一揆軍を羽柴・堀軍が追撃する。一揆軍は逃げ場を失い琵琶湖岸のさいかち浜へ追い詰められた。それでも羽柴・堀軍は降伏を許さず一揆勢を湖中へ追い立て多くの人々を溺死させた。

このように一方的な結果となった戦いで終わったが方々で一揆軍の奮闘があった。緒戦では広福寺覚裕は敵渡り合って、順慶寺珍乗は果敢にも討ってでて戦死した。顔戸山砦を守っていた秀村の家老樋口直房の家臣で浅井軍の騎馬武者を数十人討取った多羅尾相模守、土川平左衛門が戦死している。湖北町八日市にあった眞福寺の西空法師もこの戦いに加わり奮戦したが討取られた。法師に従っていた近藤久兵衛は憤然と敵陣へ飛び込みその首を取り返した。門徒衆はその首を首桶に入れ寺へ持ち帰った。しかし寺は天明の頃焼失し首桶もその時失われた。

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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草野城 近江国(浅井)

2015年06月17日 | 丘陵城

 

西城の城址碑

東の遺構の石垣

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)鍛冶屋 map:http://yahoo.jp/2Wc_si

区 分:山城

現 状:森林 

標高:200m 

城域:150m×80m

築城期:

築城者:

遺  構 : 土塁、空堀、石垣、

訪城日:21015.6.19

祠の裏から石仏の前を

主郭犬走り

東の遺構の石垣

主郭の西の野面ずみの石垣。

5の曲郭5の曲郭には「火葬場跡」の碑

2の曲郭

3の曲郭

4の曲郭

4の曲郭

お城の概要

 草野城は鍛冶屋より七廻り峠を越えて伊吹町吉槻に通じる草野道の左手、集落背後の山中に所在する。

 遺構は、段丘状の盛り土を2本の空堀と谷で仕切り、背後は箱堀で遮断している。

東城は、梯郭式で、主郭部は東西約40m、南北約15mの方形で、南斜面に4~5段の帯郭ないし犬走りが構築されている。北側背後は巾約18mの浅い箱堀とし、東面は谷の急斜面、西面は空堀を穿ってる。

主郭部には土壇を築き石の祠が置かれている。空堀を挟んでいる。

西城となり、頂部は東西約35m、南北約20mの方形をし、周囲に石積みと犬走が設けられている。東と南面は急斜面となり、西側に三段の平坦地が続き、空堀となる。頂部の石積みは、野面積みで状態良く残っている。

歴 史

城歴等の詳細は不明であるが、東草野村と上草野村を結ぶ草野道を監視する城砦か。

道案内

 

草野川の両岸に住宅が建つ鍛冶屋集落。右折して橋を渡り最初の十字路で右折する。集落内の道路を420m程進むと左手から谷川が合流する所に至る。谷川を渡って直ぐ左折し、

草野川左岸の「草野仏壇」の西の林道を170m程入った左手に「青い橋」が架かっている。車を降り徒歩で橋を渡り、西に回り込み参道を蛭子神社へ、蛭子神社の東に通り抜け、100m程で城跡である。

林道から青い橋渡り、左へ近世の瓦石の土止め石垣蛭子神社へ蛭子神社前を東に通り抜け(浦側から城域)石仏から城域。

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城

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信長好んだ竹相撲を再現 7日、神社氏子ら奉納

2015年06月06日 | 城郭・イベント情報

信長好んだ竹相撲を再現 7日、神社氏子ら奉納 滋賀・近江八幡

        京都新聞

竹相撲の様子を描いたイラストを手にする東さん(近江八幡市安土町下豊浦)東家に伝わる竹相撲の竹で作ったとされる花入れ

滋賀県近江八幡市安土町一帯で7日に行われる「あづち信長まつり」で、信長が好んだとされる当時の相撲を地元の神社の氏子が再現し、初めて奉納する。「安土とゆかりの深い相撲でまつりを盛り上げたい」と意気込んでいる。

 まつりでは、よろい姿で織田信長や徳川家康を演じる武者行列が安土城跡一帯を練る。途中に一行が参拝に立ち寄る新宮神社(同市安土町下豊浦)の氏子が企画した。

 地元に残る古文書には、信長が城下の力自慢を集めて行った相撲の伝承が記されている。1本の竹の両端を抱えて押し引きして勝敗を決める「竹相撲」という形式で、互いに引かない好勝負をした2人に、信長は「東」と「西」の姓を授けたという。

 その東家の子孫とされる氏子総代の東康彦さん(67)宅には当時の竹相撲で使った竹から作った花入れが伝えられている。

 東さんら氏子は、まつりを盛り上げ、地域おこしにつなげようと、新宮神社に集まった武者行列一行の前で竹相撲を演じ、信長から「東」「西」の姓を授かる様子を再現する。東さんは「まつりは地域の歴史を紹介する絶好の機会。多くの人に知ってほしい」と話している。

 武者行列は午前11時半ごろ新宮神社に到着する予定で、参拝後に竹相撲が演じられる。まつりは雨天中止。