城郭探訪

yamaziro

太郎坊宮と菊花展

2011年10月29日 | 観光ボランティアガイド

太郎坊宮と菊花展

 

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今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


淡海観光ボランティアガイド交流研修会 

2011年10月26日 | 観光ボランティアガイド

淡海観光ボランティアガイド交流研修会 2011/10/25

石積の町・・・坂本はほとんど「穴太積み」

淡海観光ボランティアガイド交流研修会 20111025

淡海観光ボランティアガイド交流研修会2 20111025

淡海観光ボランティアガイド交流研修会3 20111025

猿の霊石(東本宮を出て振り返れば、お猿さんが座ったように見えます)

研修会終了後、世界大凧会館に到着、解散です!

大変勉強になりました!

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長光寺城(瓶割山城)  近江国(近江八幡)

2011年10月24日 | 戦国山城

長光寺城(別名  瓶割山城)

お城のデータ

所在地:近江八幡市長光寺

区 分:山城

現 状:山林

標 高:234m 比高差130m

築城者:佐々木四郎政尭 

築城期:15世紀後半(1468頃)

歴代城主:佐々木六角氏・柴田勝家

遺 構:曲廓・石垣・堀切・土橋・竪堀

目標地:日吉神社(東近江市上平木)

駐車場:路上駐車

訪城日:2011.10.24

お城の歴史

長光寺城は、応仁の乱のさなかの応仁2年(1468)に、近江守護佐々木六角高頼と対立した佐々木政尭により築城されたとされる。

佐々木四郎政尭は六角氏であるが、応仁の乱では、佐々木京極氏とともに西軍に属し、近江守護をめぐって東軍の六角高頼と争った。
以後の歴史は不明であるが、元亀元年(1570)に織田信長が柴田勝家を長光寺に入れたことが、「信長公記・巻三」に記載されている。

 

信長公記 巻三 元亀元年 4、金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

----5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀・宇佐山の城に森可成を残し、12日に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。---

そして柴田勝家は、この城に籠って六角承禎と戦った際に、城内の水瓶を割って出陣して勝利したので、「瓶割り柴田」の異名をとったという有名な言い伝えがある。このため城は瓶割山城とも呼ばれる

長光寺城は、安土城が築城された天正4年(1576)頃に、廃城された。

 一の郭の西面の石垣 6m以上の高石垣である

一の郭一の郭と二の郭の間の堀切と土橋

 城郭は、瓶割山の山頂を主郭の一の郭とし、南西に二の郭、北西に三の郭、東に東郭が、それぞれ尾根上に伸びる構造となっている。一の郭は南北55m、東西65mの規模であり、その西面の南側端部に石垣が存在する。

北西方面の繖山(観音寺山) 佐々木六角氏の居城・観音寺山城がある



現地案内板の縄張り図
 
 

野洲河原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

野洲河原の戦いは元亀元年6月4日(1570年7月6日)に現在の滋賀県野洲市で起こった合戦。落窪合戦とも呼ばれる。織田信長は朝倉義景征討の途上で浅井長政の離反に合い敗退(金ヶ崎の戦い)。体勢の立て直しを図り、宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城に中川重政を配置したが、観音寺城の戦いで信長に追われ伊賀に逃げていた六角義賢・義治父子が甲賀武士達と糾合し、北進する。

元亀元年6月4日、六角軍は信長の重臣柴田勝家、佐久間信盛と野洲河原で衝突。落窪(乙窪)で交戦の末、六角方の三雲父子・高野瀬・水原・伊賀甲賀衆780人が討ち取られた。
その後、6月28日には信長・徳川家康連合軍と、浅井・朝倉連合軍の姉川の戦いが起こり、浅井・朝倉側が敗退する。

 長光寺城の戦いと瓶割り柴田

野洲河原の戦いに先立ち、柴田勝家の守る長光寺城で戦いがあったともいい、このときのエピソードが「瓶割り柴田」の名の由来となっている。しかし、この話は『武家事紀』が初出であり、事実ではないと見られている。

『武家事紀』によると、元亀元年6月4日(1570年7月6日)に六角義賢父子は4,000の兵で長光寺を囲み、柴田勝家は400で籠城、佐久間信盛は少勢だった。しかし、数日攻めても落城せず、義賢は郷民から長光寺城内は水が出ず後ろの谷から掛け樋で引いていると聞き、平井甚助に水源を止めさせた。

勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしようと言うと、皆が賛成した。そこで16日に城外へ打って出て六角の旗本を切り崩すと、信盛も出てきて野洲河原で三雲三郎左衛門父子・高野瀬・水原他400余人を討ち取ったという。

ここでは、これより勝家を「壺割り柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったとする。

この話は次第に尾ひれがつき、『常山紀談』では、水源を絶った後、平井甚助が使者に立って城内に入った。会談の後手水を請うと、勝家は瓶に水を入れて小姓二人で担いで来させ、甚助が手洗いを済ませると、残った水を庭に捨てさせた。甚助が帰って城内には水が豊富だと報告し六角側が困惑しているところへ、柴田側が攻撃してきて大敗したとなっている。

「絵本太閤記」の瓶割り柴田

『絵本太閤記』になると、元亀元年5月21日(1570年6月24日)に六角軍は兵800余人の籠城した長光寺城を攻撃するが落ちず、六角側に多数の死者がでた。義賢は家老三雲新左衛門と図り、城中への水源を止めた。義賢は平井甚助を使者とし勝家に士卒の助命を条件に降伏勧告を行うが、勝家はこれを拒絶した。甚助が部屋を出ると、多数の兵が庭で沐浴していた。甚助は帰って城中には水が充分にあると報告した。一方、勝家は残った水瓶三つを庭に置き、これから討ち死にしようと思うが、老父母や幼子のいる者は城を出て落ち延びよと言うと、誰も逃げる者はいなかった。勝家は皆に思う存分水を飲ませると、もはや蓄えは無用と長刀の石突きで瓶を砕いた。6月3日早朝、勝家は敵が油断しているところへ打って出て、300余人を討ち取り、義賢は石部城へ落ち延びた。信長は勝家を称えて手ずから感状を与え、これより世人は勝家を「瓶割り柴田」と呼んだとする。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、ウィキペディア

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森づくり県民講座 20111016

2011年10月17日 | 大好き森林

 

座学から

午後は、実習

ひっぱりだこです

チィッパー

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西明寺を探訪する

2011年10月16日 | 探訪「近江水の宝」

探訪 【西明寺を探訪する】 1 2011/10/15

西明寺は湖東三山の一つとして知られる山岳寺院です。

山寺と山城との関連性が重要な論点となっており、西明寺もそうした観点から注目されている山岳寺院の一つです。

織田信長の焼き討ちにあったとも伝えらています。

西明寺を探訪する 1 20111015

西明寺を探訪する 2 20111015

 

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山崎丸 近江国(湖北)

2011年10月11日 | 

「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす~朝倉氏の小谷来援ルートを体感する

日 時 平成24年10月7日(土) 10時~16時 参加者29名」
「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす-朝倉氏の小谷来援ルートを体感する-

 

集合は、JR北陸線河毛駅東口(長浜市)です。
福寿丸へは、小谷城の西側尾根先端部麓にある清水神社のところから、山崎丸経由で登城することも出来るが、折角なので、東側尾根の小谷城から登り、小谷城頂部の山王丸の奥を一旦下りて、六坊跡経由で大嶽城→福寿丸→山崎丸をめぐって下山することをお薦め。

  
 月所丸は小谷城の最北端に築かれた、訪れる人も少ない秘境です。「越前山續忍道」は月所丸を経て北へと続く山道で、小谷城絵図にその名が記されています。浅井氏が織田信長と戦った元亀争乱期には、越前との連絡をはかる間道として、また朝倉氏の小谷来援ルートとして機能したことから、信長軍はこの道の制圧をはかっています。

 今回の探訪会では、小谷山北端の茂坂峠から「越前山續忍道」に入り月所丸、六坊を通って、朝倉軍が守備した大嶽・福寿丸・山崎丸を訪れます。朝倉氏の小谷来援ルート体感します。

 

   

  

山王丸から大嶽城方向を撮影
小谷城の復元模型

山王丸から谷筋へ下り、さらに山道を登った所に大嶽城があり、小谷城の支城の一つとして機能していた。ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、小谷山の頂上もここにある(海抜495メートル)。現在は元亀年間に朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられる、曲輪・横堀群などが残されている。これらの遺構は直角に成型されており、小谷城の主郭部より高度な技術がうかがわれる。

浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もある。考古学的に裏付けるものはないが、六角氏の天文年間の文書には、確かに「大嶽」の単語がいくつか見られる。

福寿丸・山崎丸

大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれている。うち東側の一本が小谷城の主郭部であるが、西側のもう一本にも小規模ながら城郭の遺構が残されている。これらは大嶽城と同じく元亀年間に朝倉軍が築いたものと考えられ、江戸時代の地誌などから「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいる。これらの遺構は、長方形に成形され、当時としてはとても高度なものである。

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡湖北町)小谷郡上町 map:http://yahoo.jp/KQSK8n

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期 元亀3年(1572年)

築城者:山崎吉家 山崎丸は朝倉の臣・山崎吉家が砦を造った

標高:230m  比高差:130m

遺 構:曲廓・土塁・竪堀・堀切・説明板

目標地:小谷城

国指定史跡

訪城日:2011.10.7

 

 

お城の概要

標高230mの尾根上に築かれた方形の砦(出城)。東西30m×南北70m。南側は空堀で、北側は竪堀で区画し、周囲は高さ2-2.5mの土塁で囲郭しています。虎口は南西隅と北東隅にあり、北東隅の虎口から福寿丸に繋がっています。内部は主郭と南側の枡形をともなった腰郭の2郭からなります。曲輪は南北約50m、東西約25mの方形で、尾根を最大限に利用する形で造られており、この曲輪の横を通らなければ、ここから先へは上れないようになっている。また東側斜面には福寿丸と同様に竪堀が設けられ、迂回する敵への配慮がなされている
この竪堀は福寿丸の竪堀同様、曲輪内の他の遺構と比べると年代的に古いように見受けられた。

山崎丸と福寿丸の城郭遺構のうち、土塁で形成された枡形虎口、および虎口に付随する空堀は浅井氏の小谷城や朝倉氏の一条谷城にはない構造、 これは山崎丸と福寿丸が元亀4年(1573)浅井氏が滅んだ後に改修された可能性が高い。中井均氏は羽柴秀吉が柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに備え、余呉と織田信孝の居城・岐阜城を最短距離で繋ぐ北国脇往還道を押さえるために、福寿丸,山崎丸を修築した可能性があると。

お城の歴史

 山崎丸・福寿丸は小谷山(大嶽城)の南西側尾根に築かれた城砦群で、小谷本城域とは清水谷を挟んだ対面に位置します。砦が築かれた時期は不明ですが、元亀3(1572)年に織田信長が虎御前山に陣城を築いた時に、これに対抗するために改修されたと考えられます。天正元(1573)年の信長の「小谷城攻め」では、朝倉義景が陣地として使用しています。両砦は規模・構造ともに類似性が高く、朝倉式の縄張りがなされています。浅井長政は越前の朝倉義景に援軍を請い、それに応じて駆けつけた朝倉軍によって山崎丸が築かれたと云われる。 山崎丸の名は朝倉氏の家臣山崎吉家が守将となったことから名付けられたと云われる。

天正元年(1572年)八月には大嶽城が落城し、形成を不利とみた朝倉義景は一乗条谷を目指して退却を始めた。これを好機と見た織田信長は、小谷城の包囲を嫡男信忠に任せ、自ら先頭をきって朝倉軍の追撃を実行し、刀根坂の戦いで朝倉軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いで山崎吉家も討死している。織田軍によって朝倉氏の居城である一乗谷は焼き払われ、朝倉義景は大野まで逃れたが、一門である朝倉景鏡の裏切りにより自刃して果て、越前朝倉氏は滅亡した。

探訪:「越前山續忍道」から月所丸と大嶽城址・福寿丸・山崎丸をめざす

下山後、参加者で記念撮影(少年探訪者4名)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、淡海の城、

  本日も訪問ありがとうございます!!感謝!!


福寿丸  近江国(湖北)

2011年10月11日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡湖北町)小谷伊部 map:http://yahoo.jp/WzyVME

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期 元亀3年(1572年)

築城者:朝倉氏 福寿丸の名は守将:木村福寿庵

標高:298m  比高差:180m

遺 構:曲廓・土塁・竪堀・堀切・説明板

目標地:小谷城

国指定史跡

訪城日:2011.10.7

「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす~朝倉氏の小谷来援ルートを体感する

日 時 平成24年10月7日(土) 10時~16時 参加者29名」
「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす-朝倉氏の小谷来援ルートを体感する-

 

集合は、JR北陸線河毛駅東口(長浜市)です。
福寿丸へは、小谷城の西側尾根先端部麓にある清水神社のところから、山崎丸経由で登城することも出来るが、折角なので、東側尾根の小谷城から登り、小谷城頂部の山王丸の奥を一旦下りて、六坊跡経由で大嶽城→福寿丸→山崎丸をめぐって下山することをお薦め。

  
 月所丸は小谷城の最北端に築かれた、訪れる人も少ない秘境です。「越前山續忍道」は月所丸を経て北へと続く山道で、小谷城絵図にその名が記されています。浅井氏が織田信長と戦った元亀争乱期には、越前との連絡をはかる間道として、また朝倉氏の小谷来援ルートとして機能したことから、信長軍はこの道の制圧をはかっています。

 今回の探訪会では、小谷山北端の茂坂峠から「越前山續忍道」に入り月所丸、六坊を通って、朝倉軍が守備した大嶽・福寿丸・山崎丸を訪れます。朝倉氏の小谷来援ルート体感します。

 

   

  

山王丸から大嶽城方向を撮影
小谷城の復元模型

山王丸から谷筋へ下り、さらに山道を登った所に大嶽城があり、小谷城の支城の一つとして機能していた。ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、小谷山の頂上もここにある(海抜495メートル)。現在は元亀年間に朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられる、曲輪・横堀群などが残されている。これらの遺構は直角に成型されており、小谷城の主郭部より高度な技術がうかがわれる。

浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もある。考古学的に裏付けるものはないが、六角氏の天文年間の文書には、確かに「大嶽」の単語がいくつか見られる。

福寿丸・山崎丸

大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれている。うち東側の一本が小谷城の主郭部であるが、西側のもう一本にも小規模ながら城郭の遺構が残されている。これらは大嶽城と同じく元亀年間に朝倉軍が築いたものと考えられ、江戸時代の地誌などから「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいる。これらの遺構は、長方形に成形され、当時としてはとても高度なものである。

 

お城のデータ

山崎丸は小谷山山頂から清水谷の西側を南へ派生した尾根、標高298mに築かれている。山頂の大嶽(おおずく)城と尾根先の山崎丸との中間に位置する。

福寿丸は単郭の砦で、なだらかに傾斜した曲輪の周囲に土塁が巡り、北と東に虎口を開く。北虎口は細い通路が中央やや西から北東隅へと繋がっており、その北側は土橋の架かる堀切によって遮断している。東の虎口は食い違いになっているが、城内側北端に土塁を設け、南東の外側には南北に空堀を設けている。

お城の歴史 

対織田軍に備えて朝倉軍が改造して守備した城郭

元亀3年(1572年)朝倉氏によって築かれたと云われる。 福寿丸の名は守将であった木村福寿庵から名付けられたと云われる。

 対織田軍に備えて朝倉軍が改造して守備した城郭

近江 福寿丸(長浜市湖北町)福寿丸東側虎口前に立つ石碑と説明板


 また、東側斜面(清水谷側)に一本の竪堀を穿ち、尾根道を通らずに斜面を迂回する敵への配慮がなされている。
なお、この竪堀は福寿丸周囲の土塁や空堀などに較べると規模は小さく、福寿丸が改修された可能性を暗示している。

福寿丸東側虎口前に立つ石碑と説明板

探訪:「越前山續忍道」から月所丸と大嶽城址・福寿丸・山崎丸をめざす

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、淡海の城、

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大嶽(おおずく)城 近江国(湖北)

2011年10月11日 | 

「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす~朝倉氏の小谷来援ルートを体感する

日 時 平成24年10月7日(土) 10時~16時 参加者29名」
「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす-朝倉氏の小谷来援ルートを体感する-

 

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福寿丸へは、小谷城の西側尾根先端部麓にある清水神社のところから、山崎丸経由で登城することも出来るが、折角なので、東側尾根の小谷城から登り、小谷城頂部の山王丸の奥を一旦下りて、六坊跡経由で大嶽城→福寿丸→山崎丸をめぐって下山することをお薦め。

  
 月所丸は小谷城の最北端に築かれた、訪れる人も少ない秘境です。「越前山續忍道」は月所丸を経て北へと続く山道で、小谷城絵図にその名が記されています。浅井氏が織田信長と戦った元亀争乱期には、越前との連絡をはかる間道として、また朝倉氏の小谷来援ルートとして機能したことから、信長軍はこの道の制圧をはかっています。

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山王丸から大嶽城方向を撮影
小谷城の復元模型

山王丸から谷筋へ下り、さらに山道を登った所に大嶽城があり、小谷城の支城の一つとして機能していた。ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、小谷山の頂上もここにある(海抜495メートル)。現在は元亀年間に朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられる、曲輪・横堀群などが残されている。これらの遺構は直角に成型されており、小谷城の主郭部より高度な技術がうかがわれる。

浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もある。考古学的に裏付けるものはないが、六角氏の天文年間の文書には、確かに「大嶽」の単語がいくつか見られる。

福寿丸・山崎丸

大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれている。うち東側の一本が小谷城の主郭部であるが、西側のもう一本にも小規模ながら城郭の遺構が残されている。これらは大嶽城と同じく元亀年間に朝倉軍が築いたものと考えられ、江戸時代の地誌などから「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいる。これらの遺構は、長方形に成形され、当時としてはとても高度なものである。

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡湖北町)小谷郡上町 map:http://yahoo.jp/Dxi3nG

現 状:山林

区 分:山城(砦)

築城期:織豊期・・元亀3年(1573)

築城者:朝倉氏

遺 構:曲廓・土塁・竪堀・堀切・現地説明板

標 高:495m 比高差:390m

目標地:小谷城

訪城日:2011.10.7

お城の概要
 小谷城から大嶽山の山頂までは約30分。大嶽城は主曲輪を中心として4つの曲輪から構成され、主曲輪の周囲には高さ2~4mの土塁を廻らせ、周囲に二の曲輪といった輪郭式の曲輪配置としている。
 山頂から派生する西側尾根は福寿丸、山崎丸を経て北国脇往還道へ通じる重要ルート、比較的緩やかな斜度ということもあって二の曲輪西側下には、土塁を廻らせた三の曲輪と、四の曲輪と配している。

 三の曲輪、および四の曲輪前面には足の長い2条の竪堀が配され、竪堀の規模は小谷城の至る所で観られるどの竪堀よりも大きく、築城時期の違いを予感させた。
 また、二の曲輪の土塁は高さ1m~4mと高さが一様ではなく、ここでも大嶽城が改修されたことを暗示しているように思えた。

 北側尾根筋には2本の堀切が配置され、山城には一般的な堀切が小谷城周辺では観ることが無く新鮮なものに感じられた。
なお、小谷城関連の城砦で堀切が観られるのは朝倉軍が守備していたとされる月所丸と大嶽城だけで、ここにも浅井氏と朝倉氏の築城思想の違いがみられて興味深い。

お城の歴史

 大嶽城は小谷城の北にあり、山王丸より六坊跡に至る尾根より清水谷の渓谷を越え、距離にして約500mほども登った小谷山(495m)の山頂に築かれた小谷城の支城的な位置づけにある。
 この大嶽城は元亀3年以降、朝倉氏が越前より来援した時に山崎丸、福寿丸
、および月所丸と共に築いたもので、元亀3年(1572)8月織田信長による小谷城攻めがされた時には、朝倉氏の斉藤、小林、西院坊らが立て籠もっていた。

信長公記 13、刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事

 ・・・朝倉義景以下主だった者達は刀根山から敦賀をさして退却していた。これを追尾した織田勢は刀根山の嶺で朝倉勢に追いつき、大波が浜の砂をさらうように次々と朝倉勢の首を斬獲していった。・・・討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 このうち印牧弥六左衛門は不破光治配下の原野賀左衛門という者に捕らえられ、信長公の御前に引き出されてきた。・・・信長公はその武功と神妙な態度とに打たれ、「向後信長に忠節を誓うならば、一命は助けよう」と言った。しかし印牧は、「朝倉に対し、日頃より遺恨はあり申した。しかし歴々が討死して勝敗あきらかとなった今になって敵方へそのような不満を申し立て、それで命を助けられたところで、もし将来織田殿へ忠節かなわなかった時にはその不満の言葉さえも命惜しさのでまかせであったかと思われましょう。そうなれば御扶持もままならず、実情も外聞もまことに見苦しき次第になり果て申す。されば、この上は仕官の儀は結構仕り、腹を仕るべし」と乞い、許されて自害した。前代未聞の見事なる最期であった。

この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

一乗谷に帰った朝倉義景は大野の六坊賢松院に退いたが、式部大輔に裏切られ自害して果てた。一条谷城は、朝倉氏を見限った平泉寺宗徒に攻められ落城した。

 8月26日朝倉氏を攻め滅ぼした信長は虎御前山
に軍を進めると、翌27日小谷城攻めを再開。
 織田軍は大嶽城を落としたことで防御が手薄となった小谷城搦手の清水谷から攻め上がると、長政の父・浅井下野守久政の籠もる京極丸を落とし、9月1日浅井長政を自刃に追い込んだ。

大嶽城跡で、まず昼食(友人の少年城郭研究家のお弁当!)

標高495mと494.5mの2枚表記(友人に質問=4捨5入とか)

探訪:「越前山續忍道」から月所丸と大嶽城址・福寿丸・山崎丸をめざす <script type="text/javascript" language="javascript" src="http://blogimg.goo.ne.jp/swf/player/202784?type=l"></script> <object id="deploy/slideshow" classid="clsid:d27cdb6e-ae6d-11cf-96b8-444553540000" codebase="http://download.macromedia.com/pub/shockwave/cabs/flash/swflash.cab#version=9,0,0,0" width="650" height="530" align="TL"><param name="allowScriptAccess" value="sameDomain" /><param name="allowFullScreen" value="true" /><param name="scale" value="noscale" /><param name="movie" value="http://blogimg.goo.ne.jp/swf/player/slideshow.swf?20100720" /><param name="quality" value="high" /><param name="bgcolor" value="#ffffff" /><param name="FlashVars" value="chno=202784" /><param name="wmode" value="transparent" /></object>

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、淡海の城、近江の城郭

  本日の訪問ありがとうございす!! 感謝!!


月所丸   近江国(湖北)

2011年10月11日 | 

「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす~朝倉氏の小谷来援ルートを体感する

日 時 平成24年10月7日(土) 10時~16時 参加者29名」
「越前山續忍道」から月所丸と大嶽をめざす-朝倉氏の小谷来援ルートを体感する-

集合は、JR北陸線河毛駅東口(長浜市)です。
福寿丸へは、小谷城の西側尾根先端部麓にある清水神社のところから、山崎丸経由で登城することも出来るが、折角なので、東側尾根の小谷城から登り、小谷城頂部の山王丸の奥を一旦下りて、六坊跡経由で大嶽城→福寿丸→山崎丸をめぐって下山することをお薦め。

 
  

 月所丸は小谷城の最北端に築かれた、訪れる人も少ない秘境です。「越前山續忍道」は月所丸を経て北へと続く山道で、小谷城絵図にその名が記されています。浅井氏が織田信長と戦った元亀争乱期には、越前との連絡をはかる間道として、また朝倉氏の小谷来援ルートとして機能したことから、信長軍はこの道の制圧をはかっています。
 今回の探訪会では、小谷山北端の茂坂峠から「越前山續忍道」に入り月所丸、六坊を通って、朝倉軍が守備した大嶽・福寿丸・山崎丸を訪れます。朝倉氏の小谷来援ルート体感します。

  

 

山王丸から大嶽城方向を撮影
小谷城の復元模型

山王丸から谷筋へ下り、さらに山道を登った所に大嶽城があり、小谷城の支城の一つとして機能していた。ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、小谷山の頂上もここにある(海抜495メートル)。現在は元亀年間に朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられる、曲輪・横堀群などが残されている。これらの遺構は直角に成型されており、小谷城の主郭部より高度な技術がうかがわれる。

浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もある。考古学的に裏付けるものはないが、六角氏の天文年間の文書には、確かに「大嶽」の単語がいくつか見られる。

 

小谷城跡絵図/小谷城址保勝会蔵

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)高月町郡上 map:

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期

築城者:朝倉氏

遺 構:曲廓・土塁・竪堀・堀切・説明板

目標地:小谷城

標 高:385m 比高差:285m

訪城日:2011.10.7

お城の概要

 小谷城の六坊から北に続く“越前忍道”と称される山道を300~400mmほども進むと月所丸につく。
月所丸は大きくは2つの曲輪で構成されるが、主曲輪か判別しにくいが。

 この2つの曲輪の間には高さ2mを越える一文字土塁を尾根幅一杯に築き、各曲輪の独立性を保とうとしている意図が窺える。
また、北に続く尾根は2条の堀切で処理し北方への備えも怠りない。
 北側(越前方面)曲輪の北端には三方を土塁で囲まれた一画があるが、防御用施設と共に烽火台として使われたのではないか。

お城の歴史

 この月所丸は朝倉氏によって築かれたとされ、築城時期は浅井長政が信長との同盟関係と断ち切った元亀元年(1570)の越前進攻(信長による金ヶ埼城・手筒山城攻め)以降であると考えるのが妥当である。

 朝倉氏が月所丸を築いた目的は、越前忍道の名前が示すとおり越前への往還確保のためであろう。

探訪:「越前山續忍道」から月所丸と大嶽城址・福寿丸・山崎丸をめざす

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、淡海の城、

  本日も訪問ありがとうございます!!感謝!!


長浜 和泉神社宝物展(3カ間限定) 20111008

2011年10月09日 | 番外編

「浅井・朝倉そして井伊」

和泉神社宝物展(3カ日間限定)

長浜 和泉神社宝物展(3カ日間限定) 20111008

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今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


探訪 横山歴史ウォーク【古代ロマンを訪ねて・・・】  2011.10.08

2011年10月09日 | ウォーキング

横山はらっぱ倶楽部の皆様、秋の楽しい【ふるさと歴史ウォーク】ありがとう御座いました。

長浜市のはらっぱ倶楽部より封書が!「古代ロマンを訪ねて」ふるさと歴史ウォークにさんかしませんか?・・・・スケジュール確認・即、電話で申込み。

横山歴史ウォーク「古代ロマンを訪ねて・・・」1  20111008

横山歴史ウォーク「古代ロマンを訪ねて・・・」 2 20111008

受付・・・・参加費300円、分厚いレジュメ資料を頂き!

はらっぱ倶楽部の「横山地域の魅力再発見」の看板・・・!

会長さんの訓示で、「古代ロマンを訪ねて」ふるさと歴史ウォークの始まり・・・。

入念なストレッチで、いざ横山に向かって・・・

入山入り口に天満神社に、怪我無きようにお願いして・・・、林道を10mでいきなり、旧道?沢登り様な登山道!傾斜度きつく、写真もブレテます。

 

登山道に、根っこのオブジェが出迎え!

会長さん似の木の根っこ発見!

松茸?発見キノコのも沢山・・・!

クラゲ茸?ハナビラニカワタケ!ハナビラニカワタケ

天狗のうちわ!

冥加をお土産にGET!

今まで、歩いて来た登山道【牛買道】!

鉄塔の間の低い所を、登山道【牛買道】!を峠越え、米原市側から”パシャ”

息長稜です

宮内丁の御法度!だ?

通行禁止!

峠から、横山縦走路を茶臼山古墳へ

初めてのビューポイント!長浜市方面

古墳群の始まり・・・

左虎御前山、右が小谷城・・・

龍ヶ崎古墳の【姉川合戦で、織田信長の砦】が!

赤真弓の実

イワシャジン?高野ほうきの花、綺麗!コナラ林・・・の木漏れ日を

横山茶臼山古墳

日陰にi移動して、横山はらっぱ倶楽部から吹かし芋を!

ご馳走に!

その後、倶楽部以外の参加者から、自己紹介や参加の感想を・・・・!

下山、(茶臼山古墳登り口)し、

北郷里から、左端が茶臼山古墳、雲の下が【名峰伊吹山】。その間の高い所に【姉川合戦で、織田信長の砦】が!

解散後、

徳川家康の大活躍戦勝した砦、岡山へ

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


佐和山城 近江国(彦根)

2011年10月02日 | 平山城

 佐和山城は中世から南北近江の境目の城として、京極・六角両氏が抗争を繰り広げた重要な城。

また豊臣秀吉を支えた五奉行の一人石田三成の居城としても有名です。

しかしながら現在は、かつての姿を彷彿とさせるような遺構はほとんど見られず、

わずかに残る石垣や土塁・空堀に往時の姿を想像する他ありません。

 そこで下記のとおり佐和山城跡の見学会に参加した。

ガイドブック!

ただ、一か所残る石垣!

○まるごと佐和山 1 20111002

○まるごと佐和山 2 20111002

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました