城郭探訪

yamaziro

六波羅山  近江国(米原 番場)

2017年06月08日 | 古戦場

お城のデータ

所在地:滋賀県米原市番場   map:https://yahoo.jp/0AARyJ

現 状:山林・山腹。

北条仲時

 
北条仲時 / 普恩寺仲時
HoujyoNaotoki.jpg
北条仲時画像(蓮華寺蔵)
時代 鎌倉時代末期
生誕 徳治元年(1306年
死没 元弘3年/正慶2年5月9日1333年6月21日
別名 時阿(法名)
墓所 滋賀県米原市蓮華寺
官位 従五位下弾正少弼越後
幕府 鎌倉幕府六波羅探題北方・信濃守護
主君 守邦親王
氏族 北条氏普恩寺流
父母 父:北条基時、母:未詳
兄弟 仲時高基
友時、女子
 
蓮華寺の北条仲時以下432名墓所

北条 仲時(ほうじょう なかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。普恩寺 仲時(ふおんじ なかとき)とも呼ばれる。

生涯[編集]

元徳2年(1330年)11月(7月21日)、鎌倉を発って上洛する[1]。12月27日、六波羅探題北方となる[1]

元弘元年(1331年)の元弘の乱で、大仏貞直金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し[2]、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する[1]。さらに護良親王楠木正成らの追討・鎮圧を担当する[1]

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇後伏見上皇花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。享年28。この史実は、『増鏡』、『梅松論』、『太平記』に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。

 

1333年元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏等に攻められた六波羅探題北方の北条仲時が、持明院統光厳天皇後伏見上皇花園上皇を伴い東国へ落ち伸びる途中、行く手を佐々木道誉に塞がれたため、やむなく蓮華寺へ至り、天皇と上皇の玉輩を蓮華寺に置いた後に、本堂前で一族郎党432名と伴に自刃した。その際に血が川の様になって流れたと伝わる。時の住持の同阿上人が彼らを憐れみ法名を与え、過去帳に登載したのが有名な『陸波羅南北過去帳』である。寺内にあるその主従の墓とされる一石五輪塔群は近代になってから整備されたもの。

別に向かいの六波羅山とよばれ、山腹に。六波羅山の北条仲時の墓(五輪塔)

第11回の鎌刃城まつりを晴天のもとに開催しました。午前中は現地見学会で鎌刃城コースと番場城コースを歩き、番場城コースは今回が初めてで、鎌倉時代にこの地域を治めた地頭の土肥氏の屋敷跡からその詰め城の番場城、今福寺跡、六波羅山の北条仲時の墓を見学・御参りしました。続日本100名城選定記念にふさわしい充実したイベントでした。北条仲時の墓は、こちら六はら山にあるらしい。なんでも江戸時代、彦根藩 井伊の殿様が、馬に乗って蓮華寺を参拝した日の夜「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と、仲時に夢の中で叱責されたことから、山頂に仲時の墓だけ移転した

六波羅山と地元でが呼ばれる。

 参考資料:蓮花寺HP・

  参考資料:蓮花寺・Wikipedia:ウィキペディア、鎌刃城公式サイト

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飯浦(はんのうら)山城 近江国(木ノ本・余呉)

2016年10月26日 | 古戦場

賎ヶ岳への登山口の標識。

「飯ノ浦切り通し」

お城の歴史

『余呉庄合戦覚書』(余呉物語)には、
・飯浦山城[木之本町]
 天正11年4月20日の条「一所ニ踏コタヘ、飯之裏山峰堀切ヘ寄合」と記す。

堀切の土橋CIMG2109.JPG

飯ノ浦・塩津切通しへ

 当然周辺の農村は修羅場と化しました。この合戦から約30年後に書かれたという余呉湖畔の『川並村中伝書』の裏書によると「賤ヶ岳の乱に村中二年ばかり他所へ行き帰らないものもありました。文室村・余呉寺・塩津・飯ノ浦などへ女房子供は立ちのき、乱が静まってから帰り村を立てましたので・・・」と記されています。当時の荒廃した川並村の様子と戦後の復興が容易でなかったことがうかがわれます。

塩津浜

 賤ヶ岳城(砦)から、尾根道を北西に下りると、明らかな堀切があり、その後はなだらかな雑木林が続き500mほどで、大きな飯浦切通しに出る。木之本町飯浦と余呉とを結ぶ旧道の峠で、まさに大きな堀切となっている。北からの柴田軍の侵攻を食い止める要害となっている。(「近江城郭探訪」県教育委員会編)
  • 天正11年(1583年)3月12日、柴田勝家軍に対抗すべく、羽柴軍は賤ケ岳、田上山を中心に陣城群。夜を徹して作業が進められた。賤ケ岳砦には、桑山重晴、羽田長門が守備した。
  • 同年4月20日、佐久間盛政軍が大岩山砦を落とし、賤ケ岳を守備する桑山重晴と対峙した。
  • 秀吉は20日午後2時、大岩山陥落の報を聞き、1万5千の部隊が13里(約52km)を二時半(5時間)で大返し。夜半までに全軍が木之本田上山に着陣。
  • 4月21日午前2時頃、田上山を降り、黒田観音坂を経て払暁盛政軍を攻撃。盛政は退却し余呉湖西の権現坂あたりに至る。あわせて盛政軍の退却を援護していた柴田勝政軍も退却すると、秀吉は近侍の若武者に勝政軍への突撃を命じた。賤ケ岳七本槍の活躍が展開した。
  • 七本槍とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、片桐旦元、糟屋武則、脇坂安治で、秀吉から感状と恩賞をもらったが、7人以外にもあと2人いたとか。桜井佐吉と石河兵助である。9人であったものが七本槍となったのは、江戸時代後世の人々によって名づけられたらしい。
  • 秀吉側の急迫を受けた柴田軍は次々と潰走した。この時、権現坂の背後の茂山砦にいた柴田方の前田利家は兵をまとめて塩津方面に下り、同時に不破勝光、金森長近も前年の秀吉との密約を履行して戦線を離脱した。
  • 勝家本隊は余呉町今市の狐塚あたりに南下し、秀吉の攻撃を防いでいたが、ついに、近臣の意見を入れて北陸へ落ちていった。
  • 賤ケ岳の合戦後、廃城となった。(みーな108号「総説賤ケ岳の合戦」などより)

参考資料:『余呉庄合戦覚書』・『川並村中伝書』・「近江城郭探訪」(県教育委員会編)・(みーな108号「総説賤ケ岳の合戦」などより)

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「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」三成など豊臣政権の重鎮5人

2016年05月31日 | 古戦場

安土城考古博物館 所蔵品「特別陳列」

=「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」三成など豊臣政権の重鎮5人=

                          滋賀報知新聞■平成28年5月31日(火) 第17512号
天下分け目の関ヶ原の合戦の軍の配置を示す絵図

◇近江八幡
 県立安土城考古博物館の特別陳列「秀吉の五奉行と関ヶ原合戦」が開かれている。七月三日まで。
 秀吉の五奉行とは、豊臣政権で重要な政務を担当した武将「浅野長吉(長政)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以」のことで、五人は側近として活躍したが、秀吉の没後の関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍に分かれて戦った。
 特別陳列では、同館や琵琶湖博物館(休館中)が所蔵する「石田三成等水論裁許状(すいろんさいきょじょう)」や「増田長盛書状」、「徳川家康禁制」などの古文書のほか、三成の居城だった「佐和山城跡出土遺物」や「関ヶ原合戦図」などの貴重な史料十点余りを出展している。
 また、六月十一日午後一時半から博物館講座「石田三成と佐和山城」が同館セミナールームで開かれる。彦根市教委文化財担調査担当者から最新の佐和山城の調査成果を聞く。参加費二百円(資料代)。定員百四十人(当日受付、先着順)。
 近江出身(長浜市)の石田三成は、現在放映中のNHK大河ドラマ「真田丸」に登場し、秀吉の家臣として活躍、また秀吉の死後も五奉行の重鎮として手腕を発揮するようすが描かれたり、最近ではゲームソフトのキャラクターとしても登場し人気を集めている。
 同博物館では「大河ドラマを思い浮かべながら、三成をはじめ五奉行をより深く知っていただく機会になれば」と、来場を呼びかけている。


北ノ庄の辻伊賀守墓    近江国(五箇荘)

2016年05月03日 | 古戦場

辻伊賀守と一族の墳墓

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡五個荘町)宮荘町  map:http://yahoo.jp/h1KMbI

お城の概要(現地石碑の説明)

 永禄三年(1560)北ノ庄の三人衆(川副兵庫介・宇野因幡守・辻伊賀守)か江北の浅井長政と手を結び、観音寺城佐々木六角軍と交戦、世に言う北ノ庄合戦である。

 前方にある墳墓(通称塚)は、この戦いで討死した三人衆の一人である辻伊賀守とその一族を葬った墳墓であると伝えられています。合掌 

神崎郡 北ノ庄村(現宮荘町)は明治七年宮荘村に改称した。

 

お城の歴史

淡海国木間攫』には、「神崎郡 北ノ庄村(現宮荘町=明治七年宮荘村に)

 「往古城アリ、北ノ庄三人衆居住ス、浅井長政ヨリは赤田信濃守定興ト云人加勢トシテ籠城有此所ニ佐々木六角方ヨリ責寄セ終ニ落城ス、城主定興討死スト云々、」

  追加

「三人衆トハ、宇野因幡守・辻伊賀守・川添兵庫介当御形近習ナリ、永禄三年南北鉾楯ノ砌、浅井長政ニカタラハレ逆意ヲ企ケル故、六角御形是ヲ聞キ不日ニ攻崩シ三人共誅伐ナリ、兵庫介妻ハ太閤ヘ奉公ニ出テ尼幸藏主トシテ大ニ出頭シ、息式部丞モ出サレ江戸ニ有ト云、」記す

 遠景は、和田山城

参考資料:淡海国木簡攫

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本能寺の変~山崎の戦い

2016年02月15日 | 古戦場

4月3日辛卯(1582年4月25日)

  • 信長、六角次郎を匿ったとして恵林寺を焼き、国師快川和尚を焚殺する。

4月24日壬子(1582年5月16日)

  • 信長、細川藤孝らに備中高山に楯籠る小早川隆景の討伐出勢を命じる。光秀、その旨を伝達する。【明智光秀のすべて】

5月4日辛酉(1582年5月25日)

  • 正親町天皇、勅使を遣わして信長に将軍任官・幕府開設を勧めるが、信長応えず。

5月7日甲子(1582年5月28日)

  • 秀吉、毛利方の清水宗治を高松城に囲む。
  • 信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、信孝に讃岐、三好康長に阿波を与えることを約す。

5月14日辛未(1582年6月4日)

  • 先の甲斐征討の論功行賞で家康は駿河を、穴山梅雪は旧領を安堵されたが、その礼を述べるために近江に入った。惟住五郎左衛門(丹羽長秀)が宿舎を準備し接待した。【信長公記(桑田)】(家康の安土伺候は、自らの積極的な意志ではなく、信長の懇請によるものであったとされる
  • 織田信忠が上洛の途中、ばんばに立ち寄り暫く休息した。惟住五郎左衛門が酒肴の接待をする。信忠はその日の内に安土へ出発。【信長公記(桑田)】(信忠は、四国の長宗我部元親討伐のため、大阪に向かう途中)

5月15日壬申(1582年6月5日)

  • 家康一行は安土に到着。【信長公記(桑田)】
  • 信長の指示で、宿舎は大宝坊とし接待のことは惟任日向守(光秀)に仰せつけられた。光秀は京都・堺から珍しい物を取り寄せるなどして、15日から17日までの3日間、非常に念の入った接待であった。【信長公記(桑田)】(主要な家臣が各地に敵を抱えて不在であったため、休暇中の光秀が饗応役を命じられた一説には、家康が光秀を所望したとするが、不明
  • 秀吉は毛利方の将清水宗治の守る備中高松城を囲み、足守川を堰止めて水攻めすることにした。そこへ毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の軍勢が高松城援護に駆けつけるという情報がもたらされた。
    信長は「この度、毛利方は間近にまで陣を進めるということである。これは天の計らいであるから、自ら出陣して中国の歴々を討ち果たし、一挙に九州までも平らげる、またとない機会となるであろう」と述べて、堀久太郎を御使として羽柴筑前方へその旨を伝ると共に、惟任日向守・長岡与一郎(細川藤孝)・池田勝三郎・塩河吉大夫・高山右近・中川瀬兵衛は先陣として出勢するよう指示し、すぐさま御暇(現在担当している任務を解くこと)を下された。【信長公記(桑田)】 

5月17日甲戌(1582年6月7日)

  • 光秀は安土より坂本に帰城し、それ以外の面々も帰国して、出陣の用意に取り掛かった。【信長公記(桑田)】(光秀の家康饗応が何日までの予定であったのかが不明で、そのため、「役を終えてから帰城した」「途中で役を免じられた」、という二つの解釈がある。後者は、それが光秀の面目を潰す結果となり、決起の原因となったという説の根拠に挙げられている

5月18日乙亥(1582年6月8日)

  • 光秀、信長から家康供応の内容を叱責され、森乱丸ら小姓に打擲される。【明智軍記】【明智光秀のすべて

5月19日丙子(1582年6月9日)

  • 信長は、家康一行の道中の労をねぎらうために、安土山惣見寺において幸若八郎九郎大夫の舞や丹波猿楽・梅若大夫の能を舞わせることにした。桟敷では近衛・信長・家康・穴山梅雪・長安(楠木政虎)・長雲・友閑・夕庵(武井爾云)、土間では御小姓衆・御馬廻・御年寄衆・家康公の御家臣衆などが見物した。【信長公記(桑田)】
  • 光秀、家康供応役を罷免される。【明智軍記】【明智光秀のすべて】

5月20日丁丑(1582年6月10日)

  • 惟住五郎左衛門・堀久太郎・長谷川竹・菅谷玖右衛門の四人に家康接待の用意を命じた。高雲寺御殿で、家康・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、その外家老の衆に食事を出し、忝けないことに信長自らも膳を共にして、敬意を表した。食事が済むと家康と供の人達を残らず安土城に案内して、帷を贈るなど、大変心の籠った接待であった。【信長公記(桑田)】

5月21日戊寅(1582年6月11日)

  • 家康一行、上洛。
  • 信長は、家康が上洛し京都・大阪・奈良・堺をゆっくりと見物できるようにと、長谷川竹を案内役に、大阪での接待を織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門に命じた。このため二人は大阪に到着した。【信長公記(桑田)】(二人はすでに四国出陣のため大阪にあった)
  • 信忠は上洛し、妙覚寺を宿所とした。

     

5月26日癸未(1582年6月16日)

  • 惟任日向守は中国出陣のため坂本城を発ち、丹波亀山城の居城に入った。【信長公記(桑田)】(坂本に入ったのは17日で、この日までの10日間の消息がまったく不明)

5月27日甲申(1582年6月17日)

  • 光秀、愛宕山に参詣し籤を引く。【信長公記(桑田)】 

5月28日乙酉(1582年6月18日)

  • 光秀は西坊で里村紹巴・西坊行祐らと連歌を興行した。発句は惟任日向守。
    【日本古典集成】に依れば、([愛宕百韻])
      ときは今天(あめ)が下しる五月哉 光秀
      水上まさる庭の夏山 西坊
      花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
    【信長公記(桑田)】では、
      ときは今あめが下(した)知る五月哉 光秀
      水上まさる庭のまつ山 西坊
      花落つる流れの末を関とめて 紹巴
    であったという。
  • 百韻を神前に納め、光秀は亀山城に帰城。【信長公記(桑田)】

5月29日丙戌(1582年6月19日)

  • 信長が上洛、安土本城の留守番は、津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田中兵衛、二の丸の御番衆は、蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・祖父江五郎右衛門・佐久間与六郎・蓑浦次郎右衛門・福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛兵庫頭・鵜飼・前波弥五郎・山岡対馬守らに命じ、小姓衆二三十人(百五六十騎【当代記】)を召し列れての上洛であった。「直ちに中国へ向かえるよう用意をして、連絡があり次第出陣せよ」との命令で、そのため今回は供が(小姓衆を除いては)いなかった。【信長公記(桑田)】
  • 吉田神社の神主吉田兼和は信長上洛の迎えに山科まで出向いて数時間待った。午の刻(正午ごろ)から雨が降り出した。そこに森長定が出迎えは無用である旨を知らせて来たので急いで帰った。【信長襲殺】
  • 公家の勧修寺晴豊は信長上洛の迎えに粟田口まで迎えに出たが、出迎えは無用との知らせが入ったので帰った。【信長襲殺】
  • 信長は申の刻上洛した。【信長襲殺】
  • 長谷川秀一は家康一行の堺遊覧に同行していた。
  • 松井友閑が堺での家康一行接待の分担を決め手配した。家康一行は津田宗及宅で昼茶席の接待を受け、松井友閑宅に泊った。【宗及】【信長襲殺】 

6月1日丁亥(1582年6月20日)

  • 権大納言甘露寺経元・勧修寺晴豊は、正親町天皇と皇太子誠仁親王の勅使として、信長の上洛を賀すために本能寺に出かける。その他の公家衆も各自挨拶に出向き村井貞勝を通じて信長に対面するが、進物は受け取らないということで出さなかった。【信長襲殺】(この日、40人ほどの公家・僧侶が揃って本能寺を訪れている。そこで、信長秘蔵の茶器が披露されたという)(名物茶器を京都まで運んだのは、・・・家康をはじめ諸大や公卿を対象とした大茶会を催し、その場で名物茶器を披露せんとしたと考えざるをえない。【信長安土】)
  • 夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調議を究め、亀山から中国へは三草(山)越えを仕り候ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者ども(明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐)に先手を申しつく。【信長公記(桑田)】

6月2日戊子(1582年6月21日)

    (本能寺の変)
  • 老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、攝津国の皆道(街道)なり。左へ下れば、京へ出ずる道なり。爰(ここ)を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。【信長公記(桑田)】
  • 信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち(撃ち)入れ候。【信長公記(桑田)】
  • 是は謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところ、森乱(森長定)申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。【信長公記(桑田)】
  • 隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ御面堂の御番衆も御殿へ一手になられ候て御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て討死。【信長公記(桑田)】
  • 小河愛平、高松虎松、金森義入、魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎、菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松、山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松壽らの御小姓衆掛かり合い、懸かり合い討死候なり。この外、厩仲間衆の藤九郎・藤八・岩新六・彦一・弥六・熊・小駒若・虎若・その倅の小虎若を初めとし二十四人が揃って御馬屋にて討死した。【信長公記(桑田)】
  • 御殿の内にて討死された衆、森乱丸、力丸、坊丸の三兄弟。【信長公記(桑田)】
  • 織田信忠、一旦は妙覚寺を出て本能寺に向かうが、下御所(二条城)に移り討死。【信長公記(桑田)】
  • 朝、家康一行は信長に合うため堺を出たが、「変」を知らせるため堺に向かった京の豪商茶屋四郎次郎と遭い、一旦帰国することを決意。宇治田原に向かう。
  • 午後4時、瀬田城主山岡景隆は、光秀の安土進軍を阻止しようとして、瀬田の大橋を焼き払う。【明智光秀(高柳)】
  • 夕、光秀は坂本城に入った。【明智光秀(高柳)】
  • 備中に向かっていた細川藤孝・忠興父子は、但馬竹田(兵庫県朝来郡和田山町)で変報に接し、すぐに引き返した

6月3日己丑(1582年6月22日)

  • 光秀は近江・美濃の諸将に降誘を勧める。【明智光秀(高柳)】
  • 細川父子は丹後に戻り、忠興の妻であり、光秀の娘であった玉を、丹波三戸野の茶屋に移した。(既にこの時、細川父子は秀吉に対して、光秀の求めには応じないことを伝えていたようである)
  • 安土城の守将蒲生賢秀は、変報を聞き、信長の側室らを日野に移す。
  • 信楽で一宿した家康一行は、伊賀越えで伊勢に向かった。同行していた穴山梅雪は、家康一行に遅れて出発、途中、伊賀の一揆に殺される。
  • 柴田勝家、上杉方の魚津城を落とす。
  • 夜、光秀から小早川隆景に宛てた密書が奪われ、秀吉は、本能寺で信長が倒れたことを知る。(【武功夜話】には、細川藤孝からの密書によって、秀吉が「変」を知ったとある)
  • 深夜、秀吉、安国寺恵瓊を呼び、高松城主清水宗治の切腹と毛利領備中・美作・伯耆の譲渡を和睦の条件として提示し、信長の死を秘しながら、和睦を急ぐよう指示する。 

6月4日庚寅(1582年6月23日)

  • 光秀、近江・美濃の大半を平定する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 大和筒井順慶、光秀の援軍を山城に派遣する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 高松城主清水宗治が切腹、秀吉と毛利の和睦が成る。【明智光秀(高柳)】
  • 柴田勝家、「変」を知る。
  • 家康、伊勢の白子から船で三河大浜に上陸し岡崎城に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 上杉景勝、「変」の報を聞き、退却する柴田・佐々・森らの手から川中島や魚津城を取り返し、信長に応じた新発田重家を攻める。
  • 筒井順慶、光秀に援軍を送る

6月5日辛卯(1582年6月24日)

  • 光秀、安土城を占領し、財宝を部下や新たに従属した諸将に分け与る。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 更に、阿閉貞征に長浜を、武田元明に佐和山城を攻略させ、占領する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀の軍に筒井順慶の援軍が合流する。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 織田信澄は織田信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻められ自殺する。
  • 2:00pm、秀吉は暴風雨の中東上を開始。

6月6日壬辰(1582年6月25日)

  • 吉、備中高松から姫路城に到着(7日未明或いは8日早朝の誤りか)。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、安土城に入り、上杉景勝に使者を送って後援を依頼する。 

6月7日癸巳(1582年6月26日)

  • 光秀、安土に勅使吉田兼見と面会する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、摂津河辺郡開連寺に禁制を出す。【渡辺重雄文書】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉、未明に姫路城に到着(或いは8日早朝)。 

6月8日甲午(1582年6月27日)

  • 光秀、安土より坂本に入る。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、摂津攻略のため安土を出発。先勢大津・山科に着陣。また、禁裏の使者派遣を受ける。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、上京し、銀子を禁中・諸寺に献ず。次いで、鳥羽に出陣する。【明智光秀(高柳)】
  • 光秀、細川藤孝・忠興父子に書を与えて参加を望むが、父子応ぜず。【明智光秀(高柳)】 

6月9日乙未(1582年6月28日)

  • 光秀、未(2:00pm)に上洛し、使者派遣の礼として、銀子を禁中及び諸寺に献じ、京都市中の地子免除を布告する。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、配備の手配後、夕方、下鳥羽に出陣する。【明智光秀のすべて】
  • 光秀、丹後国宮津城にいた細川藤孝・忠興父子に手紙を送り、改めて助勢を依頼する。【細川文書】
    「御父子もとゆい御払候よし、もっとも余儀なく候。一旦我らも腹立ち候へども、思案候ほど、かようにあるべきと存じ候。然りといへども、此の上は大身を出だされ候て、御入魂希ふところに候事(一部)」【明智光秀(高柳)】
  • 筒井順慶は、秀吉上洛の情報を得て、河内出陣を中止し、居城大和郡山城に米・塩を入れ、籠城の準備を始めた。
  • 秀吉、浅井長吉を留守居役とし、一部を淡路洲本攻略に向かわせ、姫路を発し播磨明石に着陣する。

6月10日丙申(1582年6月29日)

  • 光秀、河内に出兵す。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 光秀、藤田伝五を筒井順慶のもとに派遣する。洞が峠に陣し順慶の参会を待つが、順慶は、同心できない旨を伝え、引き上げてしまった。【多聞院日記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】 

6月11日丁酉(1582年6月30日)

  • 光秀、下鳥羽に移る。筒井順慶の説得を諦める。急遽、淀城の修理・普請に掛かった。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 筒井順慶は、秀吉に応じることを使者を以って伝える。
  • 秀吉、摂津尼ケ崎に到着。大坂にあった織田信孝・丹羽長秀や、光秀の寄騎伊丹城主池田恒興・茨木城主中川清秀・高槻城主高山右近らに参陣を求める
  • 秀吉軍の一部は、山崎付近にまで出ており、勝竜寺で足軽同士が衝突、鉄砲の打ち合いがあった。
  • 岡崎の家康は、大雨のため出陣を延期する

6月12日戊戌(1582年7月1日)

  • 秀吉は池田恒興らと協議し、高山重友・中川清秀を先鋒とし、使者を大阪城に遣わして織田信孝・丹羽長秀の参陣を求める。秀吉、摂津富田に着陣。
  • 秀吉、摂津に攻め上り山崎付近に兵を出し、勝竜寺付近を焼き払う。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】
  • 光秀は、秀吉の東上を知り、急ぎ山崎に集結し、天王山を占領しようとするが、既に、秀吉方の先鋒中川隊によって占拠されていた。止むなく、勝竜寺城に入り、守備を固める
  • 光秀、八幡・山崎より淀に引き退く。【多聞院日記】【明智光秀のすべて】

6月13日己亥(1582年7月2日)(山崎の戦い)

  • 光秀軍は勝竜寺城を出、桂川支流の円明寺川に沿って布陣。総勢1万6千。
  • 秀吉軍に、昼頃、織田信孝らがに合流。山手(天王山側)を羽柴秀長・黒田孝高らの主力部隊、街道筋を高山重友・中川清秀・堀秀政ら、河手(桂川沿い)を池田恒興ら、予備(中央後詰め)は秀吉・信孝を配する。総勢3万5千から4万。
  • 申(4:00pm)頃、光秀軍山手先鋒の並河・松田隊が、天王山麓の先鋒中川隊を攻撃、戦端は開かれた。中川隊が防戦する間に、羽柴秀長・黒田孝高らが援護、並河・松田隊は敗れた。
  • 中央の高山隊に光秀軍の斉藤利三・阿閉貞征隊が猛攻をかける。このため高山隊は窮地に立たされるが、中川・堀隊が左翼から池田隊が右翼から明智軍の戦闘部隊を攻撃、斉藤・阿閉隊は後退する
  • 光秀軍予備の伊勢貞興・藤田伝五隊が右翼から、津田・村上隊が左翼から秀吉軍中央に向かい、一進一退の激しい攻防戦となった
  • 羽柴軍の後続部隊が戦闘に加入し、次第に戦力的な差が生まれ光秀軍は壊滅状態となり、7:00pm頃、光秀は退却を決意。光秀は勝龍寺城に兵7百余を引き連れ退いた。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】
  • 秀吉軍は敗走する明智勢を追撃・掃蕩し、大軍を以って勝龍寺城を包囲。
  • 光秀は、再起を図るべく溝尾勝兵衛ら少数の近臣と共に勝龍寺城を抜け出し、坂本城に戻る途中、小栗栖(醍醐)で土民に襲われ自殺する。【兼見卿記】【明智光秀(高柳)】【明智光秀のすべて】

6月

  • 細川藤孝、剃髪し名を幽斎に改める。

6月14日庚子(1582年7月3日)

  • 勝龍寺城は秀吉軍の攻撃を支えられず落城。
  • 明智秀満は、山崎の敗報を聞いて安土城を放棄、坂本城に移る
  • 秀吉軍の先鋒は丹波亀山に入り、亀山城を落とした。
  • 秀吉本隊は、光秀を追って近江に入り三井寺に陣取る
  • 家康、尾張鳴海に到着。先鋒の酒井忠次は津島に到着。

6月15日辛丑(1582年7月4日)

  • 秀吉軍の堀隊が明智秀満の入った坂本城を包囲。
  • 秀満は、国行の刀・吉光の脇差・虚堂の墨跡を蒲団に包み、目録を添えて寄手に呼びかけ、「此道具は私ならぬ事、天下の道具なれば、是にて滅し候事は、弥兵次傍若無人と思召すべく候間、相渡し申候」とて、送り届けさせたという。(名茶器平蜘蛛を壊して自殺した松永久秀とは全く反対のしわざである。【日本の歴史】)
  • その後秀満は、光秀の妻子及び妻(光秀の娘)を刺殺し、城に火を掛けて自殺する。

6月16日壬寅(1582年7月5日)

  • 秀吉・織田信孝らが安土に着陣。安土城は何者かの手によって焼け落ちていた。次いで秀吉は長浜に入る。丹羽長秀が佐和山城を陥れる。
  • 光秀の屍、本能寺に晒される。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】

6月17日癸卯(1582年7月6日)

  • 秀吉ら、光秀の首を本能寺に梟す

6月19日乙巳(1582年7月8日)

  • 家康は、秀吉の使者から叛乱軍平定の報告を受け、岡崎に戻る。

6月27日癸丑(1582年7月16日)

  • 柴田勝家・秀吉ら織田の宿老が尾張清洲城に会し、後継を秀吉の推す三法師(秀信)と定める。

7月11日丁卯(1582年7月30日)

  • 秀吉、細川幽斎に宛て「変」の際の態度を誉め、丹後国内の旧明智領を細川忠興に与える。

7月17日癸酉(1582年8月5日)

  • 秀吉、毛利輝元に山城山崎の築城のため、信長の葬儀を延引する旨報ずる。

9月12日丁卯(1582年9月28日)

  • 羽柴秀勝、信長の百日忌法会を山城大徳寺に行う。

10月3日戊子(1582年10月29日)

  • 正親町天皇、秀吉に綸旨を与え従五位下・左近衛権少将に叙任する。

10月15日庚子(1582年11月10日)

  • 秀吉、於次丸(信長の四男で秀吉の猶子)を喪主として山城大徳寺に信長の葬儀を行う。

11月2日丁巳(1582年11月27日)

  • 柴田勝家、前田利家を山崎城に派遣し、秀吉と講和する。

参考資料:【本能寺の変】年表 「天正十年~天正二十年」


刀根坂の戦い

2016年01月07日 | 古戦場

   柳ケ瀬から刀根坂(久々坂)峠へ

 

今はわずかに石垣を残す疋壇城

お城のデータ

 

所在地:余呉町大字柳ケ瀬 map:

 

\\\\長公記 巻六 元亀四年 13刀根山合戦 刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事\\\\\\

 信長公に先を越されて叱責を受けた諸将は、滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉をはじめとして口々に信長公へ詫び言を申し上げた。しかしその中で佐久間信盛だけは、目に涙を浮かべつつ「左様に仰せられども、われらほどの家臣は中々持たれませぬぞ」と自讃混じりに抗弁した。信長公はこれを聞いてさらに怒り、「そのほう男の器量を自慢いたすが、何をもってそのように言う。片腹痛いわ」といって益々機嫌を悪くした。

 信長公の読み通り、織田勢は退却する朝倉勢を追撃して多大な戦果を得ていた。信長公のもとへは追撃で得た首を持参する侍があとを絶たず、また信長公みずからも騎乗して敵勢を追った。

 敵勢は、中野河内口①と刀根山口②の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
 すると、案のごとくであった。朝倉勢は中野河内口からは雑兵を退かせ、朝倉義景以下主だった者達は刀根山から敦賀をさして退却していた。これを追尾した織田勢は刀根山の嶺で朝倉勢に追いつき、大波が浜の砂をさらうように次々と朝倉勢の首を斬獲していった。朝倉勢の中からも忠義の志厚い者たちが返しては踏みとどまって支えようとしたが、かなわずに一人二人と姿を消していった。敦賀までの十一里に及ぶ追撃戦で、討ち取られた朝倉勢の首数は三千余にのぼった。

 討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興③や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 このうち印牧弥六左衛門は不破光治配下の原野賀左衛門という者に捕らえられ、信長公の御前に引き出されてきた。そしてその場で信長公の尋ねに答えてこれまでの働きを正直に話したところ、信長公はその武功と神妙な態度とに打たれ、「向後信長に忠節を誓うならば、一命は助けよう」と言った。しかし印牧は、「朝倉に対し、日頃より遺恨はあり申した。しかし歴々が討死して勝敗あきらかとなった今になって敵方へそのような不満を申し立て、それで命を助けられたところで、もし将来織田殿へ忠節かなわなかった時にはその不満の言葉さえも命惜しさのでまかせであったかと思われましょう。そうなれば御扶持もままならず、実情も外聞もまことに見苦しき次第になり果て申す。されば、この上は仕官の儀は結構仕り、腹を仕るべし」と乞い、許されて自害した。前代未聞の見事なる最期であった。

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

 ところで、信長公は普段から腰に足半の草履④を下げておくのが常であった。今回の戦で兼松又四郎は、敵の武者を追って刀根山山中を駈けまわり、これを討ち取ったものの、首を持って信長公の御前に参上したときには足は素足で紅に染まってしまっていた。それを見た信長公は日頃携行していた足半を腰から外し、「今こそこれが役立つ時ぞ」といって兼松に与えた。冥加の至りであり、光栄これに過ぎたるものはなかった。

 信長公の武徳両輪の力により織田勢は大勝を収め、14日・15日・16日と敦賀まで進出して駐留した。そして諸所から人質をとり固めたのち、17日になって木目峠を越えて越前国内へ乱入した。そして18日には府中竜門寺⑤まで進んだ。

 織田勢の進撃をみた朝倉義景は、居館の一乗谷を捨てて大野郡山田庄の六坊賢松寺⑥に逃れた。落去の際には、高貴な女房たちでさえ輿車も満足に用意できず、徒歩はだしとなって取るものも取りあえず我先に義景の後を追って落ちていった。誠に目も当てられず、申すも耐えない有様であった。

 信長公は柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らの将兵を平泉口に派遣して義景を追尾させるとともに、諸卒を手分けして山中に分け入らせ、各所に逃れた朝倉の党類を捜し出させた。その結果、竜門寺の陣所には毎日百人二百人もの人数が数珠繋ぎとなって引き立ててこられ、信長公の命を受けた小姓衆の手により際限なく討ち果たされていった。

 その有様は正視に耐えなかった。ある女房などは下女もつれずにただ一人逃げていたところを下々の者に捕まり、数日にわたって捕らえ置かれていたが、あるとき硯を借りて鼻紙の端に書置きを残してから隙を見て逃げ、井戸に身を投げて死んだ。あとから人がその書置きを開くと、そこにはありをればよしなき雲も立ちかかるいざや入りなむ山のはの月と辞世が書かれていた。これを見た者は、哀れさにみな涙した。

 ほどなくして平泉寺⑦の僧衆が信長公へ忠節を誓い、織田勢にあわせて人数を出してきた。これにより、義景の進退は極まった。

 ①現余呉村から栃ノ木峠を越え越前へ入る道筋 ②現木之本町から刀根山を越え敦賀に抜ける道筋(刀根山は敦賀市刀根) ③斎藤龍興は美濃を追われてからは各地の反信長勢力の間を転々とし、このときは朝倉勢のうちにいた。 ④かかと部分のない半草履 ⑤現福井県武生市内 ⑥現大野市内 ⑦現勝山市平泉寺

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 織田信長は世に言う元亀元年(1570)の『金ヶ崎の退き口』)後、その年の中に「姉川の合戦」で浅井、朝倉連合軍を撃破した。そして、元亀3年(1572)に入って信長は本格的に浅井長政の小谷城孤立化の態勢を強めた。3月、信長は小谷城近くの横山城に入り、木之本方面を焼き払い、7月湖北の阿閉貞征が守る山本城と小谷城を分断、小谷城前の虎御前山に砦を築き攻撃態勢をとった。攻防急を告げるに至って、朝倉義景は2万の軍勢で来援、木之本田上山に本陣を置き、小谷城に連なる大嶽に後詰した。8月12日近畿を襲った暴風雨の中、信長は大嶽砦、丁野城を奇襲し、陥れた。

 朝倉軍はここで乾坤一擲浅井軍と共に戦うことをしなかった。戦闘員数の劣勢、度重なる近江への軍事行動による兵員の疲弊から、野戦の不利を認めざるを得なかった。また、元亀元年の姉川の戦いの敗北が判断に去来したであろう。朝倉軍は領国の居城、敦賀の疋壇城を目指して退却し、防衛の態勢を固めようと画した。しかし、織田信長はこの機を逃さず、逃げ足の朝倉軍を猛迫した。信長自ら先頭に立って追う。機動力に勝る織田軍は北国街道を追撃し、刀根坂の麓「柳ケ瀬」で追付き、逃げる朝倉軍を攻めたてた。 道幅は一気に狭くなる。00mほどの道のりだが、つづら折りを過ぎると切り通しに着く。そしてそこが刀根坂峠。峠を越えると近江の国である。元亀3年(1572)この峠で越前朝倉軍は織田信長軍に殲滅された。(刀根坂の戦い)

 


近江の国の合戦年表

2016年01月05日 | 古戦場

参考資料:影の流れ

応仁・文明近江の乱

 
細川党(東軍)  
  京極持清 重臣は多賀高忠
  京極政経  
  京極高光 (文明2年から西軍に転ずる)重臣は多賀昌宗
  六角政尭 重臣 三井又五郎・伊庭造阿・和田某
  小倉実澄  
  蒲生貞秀  
     
山名党(西軍)  
  六角高頼 重臣は山内政綱・伊庭貞隆
  六角政信 (文明4年から東軍に転ずる)
  六角政勝  
  大原成信  
  京極高清  
       
◇六角氏

湖南地方を支配した佐々木六角氏では、満綱が剃髪すると、嫡子四郎持綱が政務をとっていたが、文安元年(1444)、六角氏の被官らは、持綱の品行修まらず、無道の事が多いと反逆し、幕府に訴えた事から、持綱は難を避けて、父満綱とともに同族の大原持綱を頼った。

 

文安2年(1445)正月28日、満綱次男の時綱を奉じた六角氏の被官たちが、満綱、持綱父子を攻めて自殺させる、という骨肉弑逆の惨事を引き起こした。
こうして、満綱の次男時綱が、重臣たちに支えられて六角家の家督を継ごうとした所、相国寺に入って僧となっていた三男久頼が、父兄が死んだ後を継ぐため還俗した。そして家督を継ぎ、文安3年(1446)2月、元服して久頼と称し、幕府に出仕する事になった。
久頼の還俗は、時綱を奉じた六角氏被官たちの意外とする所で、彼らは久頼元服の翌月の3月12日、夜陰に乗じて、久頼の京都邸を襲ったが、暗殺の目的を達せず、かえってますます幕府の怒りを買う事になった。9月5日、久頼が飯高山(愛知郡)に時綱以下、被官、重臣たちは、頭を並べて自害するという結果になった。
ところが、互いに勢力争いを繰り返していた六角氏と京極氏との間は、この六角久頼の代においても、当時、頭角を現してきた京極持清との間に、対立抗争を繰り広げる事となり、久頼は同族京極持清との確執を苦にして自害した(康正2年10月2日)。
そして、その久頼の後を、子亀寿丸(のち高頼)はまだ幼少であったため、先に自害した時綱の子、政尭が継いだが、この政尭が、重臣伊庭某を殺した事から、将軍義政の怒りをかい、執政を辞めさせられ、政尭は出家して、京都洛北で僧となった。
政尭が退けられた事で、六角家では持綱の子政信が後を継いで家督を継ごうとした所、幕府は久頼の子亀寿丸(高頼)に六角の家督を継がせた。
その事で、今度は政信と高頼とが六角宗家を争う事となった。
応仁の乱が始まると、六角政尭は還俗して、京極持清の招きによって東軍に加わった事から、政尭に六角宗家を奪われていた高頼は西軍につく事になり、また政信は、高頼と宗家を争った間でありながら、政尭が父の仇であると憎む気持ちから、政尭に抗して、山名党に与するという事になった。
しかし、高頼と政信は、もともと宗家を争う関係であったから、やがて政信は高頼とも袂を分かって、のちには、東軍に転ずるようになっていく。

       
応仁元年(1467) 10月 17日 六角高頼、六角政尭と馬淵で戦う。
  12月 13日 京極持清、六角高頼方の高野瀬城を攻め落とす。
応仁2年(1468) 4月 1日 京極持清の嫡子勝秀は、六角氏の主城観音寺城を攻める。当時、六角高頼とその陣代山内政綱らは京にあり、留守を守る伊庭行隆が、京極勢を迎えて、攻防数日戦いの末、六角方は敗れて城を開く。
  4月 初め 京極勝秀、甲賀郡に攻め入り、高頼方の小佐治為重を攻める。
  4月 26日 高頼方の山内政綱、六角政尭の長光寺城を攻め落とす。
  閏10月 30日 高頼方の山内政綱、弓削において、六角政尭を破る。この時、弓削の瑞光寺七堂伽藍は残らず焼失する。
  11月 5日 六角政尭、京極持清、高頼方の守山城を攻め落とす。
  11月   高頼方、神崎郡垣見において、政尭方に敗れる。
  11月 8日 再び、京極持清、六角政尭、観音寺城を攻め落とす。
文明元年(1469) 5月   六角高頼、近江守護職を解任され、京極持清が近江守護職となる。六角高頼は激高し、焼亡破却された城を修築して、これに拠った。京極持清、六角政尭、観音寺城を攻撃するが、撃退される。
  7月 25日 京極持清方、高頼方の愛知郡押立城を攻め落とす。
  8月 初め 京極持清方、高頼方の神崎郡梁瀬城を攻め落とす。
  8月 18日 持清方の多賀高忠、高頼方の山内政綱の守る金剛寺城を攻め、落とす。この時、甲賀武士佐治一族、活躍するが、部下の戦死者も多く、佐治越前守為重の息子も戦死する。
  8月 20日 京極方の多賀高忠、高頼方の慈恩寺城も破る。
  8月 26日 京極方の多賀高忠、観音寺城下石寺において高頼方を破る。
文明2年(1470) 2月 12日 京極方の多賀高忠、観音寺城馬場において高頼方を破る。
  5月頃   高頼の被官、島郷、望月、村島、服部、大原ら甲賀武士たち、多賀高忠の兵に敗れる。望月、村島、服部五郎左衛門、大原ら討ち取られる。佐治美作守為定も戦死。
  8月 4日 京極持清、病死。京極家分裂し、六角高頼、有利となる。
  9月 22日 多賀高忠、伊勢に逃れ、関盛元を頼る。
  11月頃   多賀高忠、蒲生郡八丁原において、高頼軍を破る。
文明3年(1471) 1月 23日 京極方の多賀高忠、慈恩寺城を攻め破る。六角高頼は甲賀に逃げ、高頼の老臣佐々木新左衛門自刃する。
  2月 28日 美濃の土岐氏、高頼を助けるために、宿将斎藤妙椿(利藤)を出陣させる。国境を越えて米原山にて京極氏を破る。高頼、これを知り甲賀から出て斎藤勢と合流し、多賀高忠を破り、敗走させ、近江を回復する。
  6月 27日 細川勝元、六角政尭に六角高頼討伐を命ずる。高島の朽木弥五郎貞武、六角旧臣目賀田次郎左衛門、下笠美濃守、高野瀬与四郎、小河丹後守、山崎中務丞らにも政尭に味方するよう命ずる。政尭は神崎郡清水鼻に城を築き、拠る。
  閏8月 21日 京極政高、出雲、隠岐、飛騨3ケ国の守護職となる。
  11月 12日 高頼、清水鼻城を攻める。政尭、自害して果てる。清水鼻城は、のちに箕作城といわれる。この後、六角政信は東軍方に与し、高頼と戦う事となる。
文明4年(1472) 8月   高頼、援軍の斎藤妙椿、畠山義就と共に、多賀高忠、京極政高を江北において破る。多賀高忠は越前に逃げる。
文明5年(1473) 9月 30日 京極政高、近江国守護職となる。
文明7年(1475) 10月 28日 高頼、佐々木庄において京極政高、叡山山門衆徒を破る。
文明18年(1486) 8月   京極政高、老臣多賀宗直に命じ敏満寺の京極高清を攻めさす。高清は敏満寺城を捨て、甲賀郡三雲に逃れる。
文明19年(1487) 5月 1日 京極高清、勢いを盛り返し京極政高を攻める。多賀宗直自害。
長享元年(1487) 9月 12日 将軍義尚、六角高頼征伐するため、坂本に出陣(鈎の陣)。将軍の陣営には、京極政高、京極高清、田中兵衛尉、土肥刑部少輔、佐々木大原備中守政重、同左馬介尚親、伊勢又六、吉田源四郎、岩室弥四郎らの、京極方を主とする近江武将も加わる。
  9月 24日 京軍の武田国信、京極高清、富樫政親、仁木貞長、上野玄蕃頭、伊勢貞陸、細川被官の安富、上原、物部らが、六角方の将九里の拠る金剛寺、伊庭の拠る八幡山を攻める。金剛寺、八幡山は落城。高頼は甲賀武士、山中、望月、和田らを頼り、甲賀に逃げる。高頼が甲賀に逃げたので、将軍義尚は陣を栗太郡鈎の安養寺に移る。京郡の浦上則宗は甲賀に高頼を追うが、すでに高頼は伊勢に逃げていた。
  10月 27日 義尚は本陣を安養寺から下鈎の真宝館に一宇に移す。
  12月 2日 六角高頼軍は甲賀から出て、高頼の宿将山内政綱は野洲の三上に陣する。この夜、甲賀21家が将軍陣所へ夜討ちを掛ける。
長享3年(1489) 3月 26日 将軍義尚、陣中で病死(25才)。幕府軍は京に引き上げる。
延徳3年(1491) 8月 27日 将軍義材、六角高頼追討のため大津三井寺の光浄院に陣を張る。すでに、8月23日、六角高頼は観音寺城を捨て、甲賀に逃げる。
  10月   京軍の軍奉行赤松兵部少輔政村の老臣、浦上美作守則宗が佐々木庄に着陣する。
  11月 3日 六角高頼の宿将山内政綱が、高頼を裏切り将軍陣営に帰服。
  11月 18日 義材、赤松大膳大夫政則と織田大和守敏定に山内政綱の殺害を命ずる。赤松氏の将浦上則宗、織田敏定、大津の浜道場に山内を挟撃する。山内政綱、赤松伯耆守に首を討たれる。
延徳4年(1492) 3月   六角高頼、梁瀬河原で浦上軍と武田氏の将逸見軍と戦い敗れ、甲賀、飯道寺に逃れる。高頼、江北の京極高清と手を結び、幕府軍を撹乱させようとする。
  5月   斯波義寛、山名豊時、守山に着陣、武田元信、野洲の小南に着陣。
明応元年(1492) 9月   京極高清、市原谷、八風峠口に出動。
      赤松政則、芝原に着陣、京極勢を蹴散らし甲津畑まで進出。京極勢は敗れて北方に退却。
  10月   将軍義材、三井寺から陣を金剛寺に進める。
      六角高頼は伊勢に逃げるが、鈴鹿坂下で北畠材親の兵に敗れる。
  12月 13日

将軍、金剛寺の陣を払い、帰京する。


幻の「三尾城」 近江国(高島)

2016年01月03日 | 古戦場

幻の「三尾城」はどこ? 滋賀・高島歴史民俗資料館がアンケート

来場者がシールを貼った三尾城の推定地。学芸員が指さしている付近が打下周辺、一番左上が安曇川町長尾(高島歴史民俗資料館)

 壬申の乱で落城した古代高島の城で、場所が分かっていない幻の城「三尾城(みおのき)」について、滋賀県高島市鴨の高島歴史民俗資料館がこのほど来館者に位置を推定してもらうアンケートを行った。これまで研究者らが推定した以外の地点もあり、白村江の戦い(663年)後に中国・朝鮮半島との関係が緊迫する中で、当時都があった大津の“北の守り”のさまざまな可能性が示された。

 白村江の戦いでは倭(日本)が唐・新羅連合軍と戦い惨敗した。時の天智天皇は、日本が攻撃されることを恐れ667年、都を飛鳥から近江大津宮に移し、九州の太宰府に土塁「水城(みずき)」、瀬戸内海沿いの各地に朝鮮式山城を築き、防御を固めた。三尾城も同じ目的で築かれたとみられるが、実際には外国から攻められることはなく、天智の死後、子大友皇子と弟大海人(おおあま)皇子が戦った壬申の乱(672年)の最終盤、湖北から南下した大海人軍によって陥落した。

 同資料館は、27日まで開いた企画展「君は、高島の城を、観(み)たか!」で、推定地にシールを貼ってもらい、24カ所が記録された。

 これまで有力視されていたのは、陸路が狭まり琵琶湖を見晴らせる市南部の岳山から打下までの山地と、古代地名「三尾」の遺称地とされる安曇川町三尾里周辺だったが今回、安曇川の水運を南から見通せる泰山寺野と呼ばれる高台と、若狭・小浜方面から現在の饗庭野を抜け上古賀へ至る「追分道」を監視できる同町長尾の山が加わった。白井忠雄学芸員(62)は「三尾城の遺構が見つかれば国史跡級。今回の調査で、必ずしも1カ所ではなく、出先のようなとりでがあった可能性が示された。今後は現地を調べ、遺構があるかどうか確認したい」と話している。

京都新聞 2016年01月02日 14時45分


野良田表の合戦 近江国(彦根)

2014年08月19日 | 古戦場

■ 肥田城水攻 ■
「肥田城の水攻め」は「野良田表の合戦」前年である永禄 2年(1559)に起きました。肥田城は六角氏の命により築かれた高野瀬氏代々の平地城館ですが、高野瀬秀隆の代に浅井氏通じため、 六角承禎の攻撃を受けました。肥田城守りは堅く、そこで一計を案じた承禎城下手帯に堤を築き(裏面地図参照 を築き、近くの宇曽川や 愛知川の水を堰き入れるという挙に出ました。こが「肥田城の水攻め」です。
 水かさは日に増して一帯が湖面のようなあり様となり、城中も水浸びた しとな ったようですが、洪水により堤が切れ、水攻めは失敗終わったと伝えています。

このとき築かれた堤は、近年の圃場整備で無くなるまで、その姿を見ることがきました。 で、その姿を見ることがきました。 で、その姿を見ることがきました。

■ 野良田表の合戦 ■
水攻めの失敗により、一時は退却した六角承禎ですが、翌年8月再び軍を整えて高野瀬秀隆攻めます。秀隆から知せを聞いた浅井長政は、 肥田城の西に所在する野良田集落の東南一帯で相対することになりました。

『江濃記』(近江と美濃の戦国時代抗争を記した軍記物)によると、浅井方は先手が百々内蔵助・磯野丹波守・丁野若狭守 、後手には浅井長政が諸将を 率いました。一方六角先手を蒲生右兵衛大夫 ・長原太郎左衛門、進藤山城守・池田次郎左衛門 らが務め、後手には楢崎壱岐守・田中治部大夫 、そして六角承禎自らが指揮に当たりました。

戦いは 、先手の百々内蔵助と蒲生右兵衛大夫によって火蓋が切って落とされました。当初、両者は互角の闘いを繰り広げましたが 、やがて 六角方の側面攻撃が加わって百々内蔵助は討死。このとを知った長政は檄を飛ばし、総攻撃命じました。

長政自らが先頭に立ち、野良田一帯が 大戦場になったようですが 、やがて六角方は総崩くずれとなって敗走しまた。 れとなって敗走しまた。 れとなって敗走しまた。
「肥田城の水攻め」と「野良田表の合戦」の2度の勝利により、浅井長政は犬上・愛知の2郡を手中納め、湖東平野に大きく勢力を伸張させることになりました。

彦根市教育委員会 文化財部課 文化財部課
0749 -26 -5833

参考資料:彦根市教育委員会文化財課

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「船岡山」古戦場なり」  近江国(八日市)

2014年04月14日 | 古戦場

市辺 阿賀神社

お城のデータ 

・住所:東近江市糠塚 map:http://yahoo.jp/0nw-LW

・形  式:古戦場   

・現  状:雑木林・公園・万葉歌植物園

・遺  構:土塁・堀・櫓台?

・戦 い:観應二年九月 ○氏頼の陣代 山内定詮 VS ●京極道譽

・目標地点:万葉歌碑・阿賀神社

・訪城日:2014.4.14

『近江蒲生郡志』(三四七頁)によりますと、

 船岡山 「船岡山は市邊村糠塚の西に在る小丘なし、観應二年九月佐々木氏頼の陣代山内定詮と京極道誉と激戦したる古戦場なり」軍事誌参照と記す。

          

歴 史

蒲生野の合戦 「天正本太平記」によれば、船岡山の麓に陣取った京極道譽は、味方の軍勢を三隊に分け、鏡山から北上してくる敵に備えたという。

第一隊はその子京極高秀を大将とした軍勢で、これには蒲生・小倉の一族をつき従わせて壊(破)塚(八日市市市辺町)に陣取らせ、六角直綱を大将びした第二隊は道合の森(八日市市三津屋町)に配置、みずらは遊軍の第三隊の指揮官となって船岡山のふもとに陣取った。

戦いは山内定詮と京極高秀の軍の衝突で始まってた。定詮は高秀軍を一挙に攻め破り、直義党の後勢で開始されたが、高秀軍の敗走を見た道譽は直綱の率いる第二隊と遊軍の第三隊をただちに戦闘に参加させるや、情勢は一転、今度は尊氏党優位にたった。百銭練磨のの道譽の指揮により、数の上においては劣勢ながら尊氏党がいったん戦いの主導権を握ったのである。しかし、高秀軍を追撃していた定詮が軍を引き返し、本隊に復帰するや数の上ではまさる直義勢が再び有利になり、定詮を先頭とする直義党の反撃によって道譽は船岡山まで撤退を余儀なくされ、ここに勝敗を帰すうは決した。

定詮の追撃ははげしく船岡山の陣所を引き払った道譽は、金柱宮(八日市市小脇町)の社前で一度は屠腹を覚悟したと「天正本太平記」は伝える。

幸い譜代の若党の決死の防戦により、道譽は窮地を脱出、小脇山のふもとを回って本拠地甲良荘(犬上群甲良町)に逃げ帰ったが、道譽の率いる尊氏党の完敗であった。

道譽の完敗とともに観音寺城にあった六角直綱・渋川直頼らの軍も、城を捨て八相山の尊氏のもとに走り、直義党は湖北八相山の敗戦、ここ湖東の蒲生野で雪辱することに成功したのである。【八日市市史より(誤記  尊氏⇒高氏「道譽」)】

 足利尊氏が開いた室町幕府の重臣として活躍したのが、佐々木京極高氏(道誉)で、その勢力は宗家である佐々木六角氏を凌ぐものがあった。

そして建武五年(1338)、道誉が近江守護職に任じられたのである。これに対して、佐々木六角氏らの抵抗があり、道誉の守護職在任は半年間で終わり、六角氏頼がふたたび近江守護職に任じられた。

  やがて、観応の擾乱が勃発すると、政治情勢は混乱を極め、進退に窮した氏頼は突如出家すると高野山に上ってしまった。
六角氏は幼い千寿丸を当主に戴き、氏頼の弟山内定詮が後見人となって擾乱に翻弄される六角氏の舵取りをした。

 擾乱は直義の死によって終息、出家していた氏頼が還俗して六角氏の当主となり、近江守護職に復帰した。以後、佐々木六角氏は安泰の時代を迎えた。

 しかし、嫡男の義信(千寿丸)が早世、京極氏より高秀の子高詮が養子に迎えられた。ところが、氏頼に男子(亀寿丸)が生まれたことで、にわかに波乱含みとなった。そのようななか、氏頼が死去、後継者問題が生じた。

 当時、幕府内部では細川氏と斯波氏の間で権力闘争が行われており、それは六角氏の家督争いにも影響、結局、高詮は実家に戻され亀寿丸(満高)が家督を継承した。しかし、満高は将軍足利義満の守護抑圧政策によって、領内統治は思うように行えず、ついに応永十七年(1410)には守護職を解任されるという憂き目を味わった。
 その後、満高は近江守護職に再任され、家督は満綱が継承した。満綱は領国支配を強化し、山門領・寺社本所領を蚕食していった。しかし、満綱の強引な所領侵略は嘉吉の土一揆の蜂起を招き、京から近江に落去という結果となった。そして、近江守護職も解任されてしまったのである。

参考資料:蒲生郡誌、Wikipedia、八日市市史

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箕作城の戦い・

2013年03月01日 | 古戦場

箕作(みつくり)城の戦い(信長上洛戦)

征夷大将軍の地位を望む足利義昭を奉じて、織田信長は永禄11年(1568)9月7日、岐阜城を発して上洛の途についた。前年に稲葉山城の斎藤龍興を降して美濃国を支配下においていた信長にとって、上洛するのに通過する必要があるのは近江国だけだったが、北近江を領する浅井長政には妹のお市が嫁いでいるので盟友の関係にあり、障害となるのは南近江を扼する六角義賢であった。
この上洛の1ヶ月ほど以前から信長は、義昭の使者に自分の家臣を添えて、領地の安堵と京都守護職を与えることを条件に、義賢に協力するよう説得していた。しかし現将軍・足利義栄を擁する三好三人衆と気脈を通じていた義賢はこれを拒否したのである。
信長は義賢を力攻めにして上洛する方針とし、尾張・美濃・伊勢などから集めた兵や、徳川家康より派遣された援兵などを率いて近江国に侵攻したのである。

9月8日に近江国に入って高宮で3泊の休息を取り、その間に浅井長政の軍勢と合流。総勢6万という大軍に膨れ上がった信長勢は11日に愛知川北岸付近に布陣した。
この対岸には六角方の前線基地・和田山城があり、その後方には本城の観音寺城がある。その東側には支城の箕作城があり、この3城は三角形を成していた。幹線はこの三角形の中を通っている。
ここを通過するにあたって、織田方の戦略は2通りあった。1つは柴田勝家の発案によるもので、義賢・義治父子が籠城している本城の観音寺城を直接包囲して総攻撃するというもの。

もう1つは羽柴秀吉の意見で、和田山・箕作の両支城を攻略してから観音寺城を攻撃するほうが、味方の損害が少なくて済む、というものであった。
織田勢に対して六角勢の防禦態勢は、和田山城に主力を配置して、ここで織田勢を釘付けにし、観音寺・箕作両城の兵で挟撃しようとするものだった。信長は状況を視察した後に秀吉の意見を採用することにした。義賢の思惑の裏をかき、和田山城と観音寺城には牽制のための軍勢を送り、信長自ら丹羽長秀や羽柴秀吉らの諸隊を率いて箕作城に迫り、9月12日の午後4時頃より攻撃を開始したのである。

箕作山は標高3百メートル余の小山であったが、城へ通じる道は急斜面に一筋しかなく、大樹に覆われた要害であった。守将は剛勇で知られた吉田重光・建部秀明・狛修理亮・吉田新助などで3千余人が防備にあたり、徹底抗戦の構えを見せていた。これに対して織田軍は東口から丹羽長秀隊3千余人、北口から羽柴秀吉隊2千3百余人が攻め立てた。しかし城方の守備は堅固で、日没まで陥落させることができなかった。そこで秀吉は蜂須賀正勝の夜襲案を採用することにした。1メートルほどの大松明を数百本用意し、箕作山の麓から中腹まで50箇所ほどに積み重ねておき、頃合いを見て一斉に点火し、いわゆる火攻めを行うというものだった。それと同時に秀吉隊も手に松明をかざして一斉攻撃を展開したために城兵たちも防ぎきれず、2百余人の犠牲者を出して退散してしまったのである。
この箕作城の陥落を知った和田山城では一戦も交えることなく全員が逃亡し、観音寺城の義賢も完全に戦意を失い、夜陰に紛れて甲賀郡へと落ち延びていった。翌日になって義賢父子が逃亡したことがわかると六角氏重臣の平井定武・後藤高治らもことごとく信長に降った。最後まで抵抗の姿勢を示した日野城主の蒲生賢秀も、神戸友盛の説得によって降伏した。

こうして上洛の途の障害を除いた信長は岐阜で待っていた義昭を迎える使者を送り、22日に桑実寺で合流、船で琵琶湖を渡って大津へと向かった。
この箕作城の戦いにおいて信長勢が圧勝したことを知ると、京都にいた三好三人衆は小競り合い程度の抵抗を示すが、それぞれの領地の摂津国や河内国に退いたのである。

 

箕作山城の戦い 2  

    信長は勢州にいた木下藤吉郎、滝川左近将を呼び戻したのです。 そして軍備を整えた信長は、永禄11年(1568)9月7日岐阜城を出発し、大垣より尾張の軍勢を引き連れ関ヶ原を越え平尾村(現 ・ 岐阜県垂井平尾)に入りました。
  この地で伊勢より駆け付けた滝川、木下軍と合流し、「六角義賢を退治する」との命令のもと、総勢1万人有余の軍勢となって中山道を観音寺城に向かいました。 そして8日に高宮に着陣して人馬を休めています。
  その後2日をおいた9月11日に軍を進め、愛知川の東側と言われる右岸付近に野陣を敷いたのです。箕作山城と観音寺城の位置関係と織田軍の野陣想像位置図 (国土電子ポータル参照)

  この頃、愛知川には橋は無く、雨が降ると荒れ狂う濁流となり 「人吞み川」 と呼ばれていました。
 「戦が始まる」ということは事前情報として広まっており、中山道の愛知川宿や観音寺・箕作山周辺では旅人

  や百姓等は辺りから逃げ去り、人っ子一人居なかったはずです。その証拠に旧の愛知川町史・五個荘町史・
  八日市市史、各町のむかし話等には具体的な言い伝え等全く見あたりません。

  六角側の本拠地は繖山の観音寺城で、その南向かい側の箕作山城を中心に和田山城 ・ 佐生日吉城と大
 小さまざまの支城にこもって応戦の構えをとっておりました。

愛知川右岸の中山道東側付近


左端山が箕作山系 ・ 左端から2つ目の山が繖(きぬがさ)山系・ 右端が和田山


    箕作山城に立て籠もる吉田出雲守 ・ 建部源八郎 ・ 狛修理亮ら3,000人の兵は浅井家の情報からもか
  ねてより強兵を誇り、堅固の構えであることが伝わっていました。

   信長軍の内訳は、丹羽五郎左衛門の3,000有余、佐久間右衛門の2,500有余、勢州の滝川一益配
  下諸軍3,000有余、木下勢寄騎衆2,300有余の合計1万有余でした。 ここに浅井軍、徳川軍が合流して

  ふくれあがり、その軍勢は4万人とも6万人とも言われています。 そして、信長軍精鋭の鉄砲隊500有余挺
  を先頭に愛知川を渡り、佐々木六角のたてこもる箕作山城 ・ 観音寺城の両城を落城させる手はずだったとされています。


織田軍の野陣想像位置 ・ 箕作山より愛知川方面の眺望

  そして信長は、自ら馬を掛け回して観音寺城の支城を検分して回り、小城は見向きもせず、観音寺城か
  ら見える箕作山城を攻撃する決断をしたと言われています。

  この時、信長の所領となって間も無い美濃の将士達は、
      この戦いではさだめし先手として追い立てられてこき使われることになるだろう

  と覚悟をしていたようです。

   そして信長は、自ら馬を掛け回して観音寺城の支城を検分して回り、小城は見向きもせず、観音寺城か
  ら見える箕作山城を攻撃する決断をしたと言われています。

  この時、信長の所領となって間も無い美濃の将士達は、
      この戦いではさだめし先手として追い立てられてこき使われることになるだろう

  と覚悟をしていたようです。

そして信長は、自ら馬を掛け回して観音寺城の支城を検分して回り、小城は見向きもせず、観音寺城か
  ら見える箕作山城を攻撃する決断をしたと言われています。

  この時、信長の所領となって間も無い美濃の将士達は、
      この戦いではさだめし先手として追い立てられてこき使われることになるだろう

  と覚悟をしていたようです。



箕作山西側中腹からの繖山全景      繖山に展開していた観音寺城 (安土城考古博物館)

しかし信長は、永禄11年9月12日(新暦10月26日) 軍議の末席に控える木下藤吉郎に目をかけ、歴々衆を差し置いて

     1、観音寺山へ、佐久間右衛門尉

     1、箕作山へ、北の口より木下藤吉郎、東口より丹羽五郎左衛門

  と、過分なる命令を下したのです。

箕作山・繖山の夕景 (左二山が箕作山・右端が繖山・箕作山城は中央の山頂)

そして、いざ戦が始まってみると、信長は美濃衆などに構わずに馬廻り(直臣の親衛隊)だけで攻撃を開始 したのです。

  この思いもよらない戦の仕方を目にして、信長の配下に下ったばかりの美濃三人衆といわれる安藤守就、氏家直元、 稲葉良通などはただ驚くばかりであったと言われています。

 ・・転載


柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦い

2012年12月29日 | 古戦場

 柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いが行われたのは、天正十一年(1583)四月のことであった。

 前年の冬、領有する北陸からの行動が雪で制限された勝家は、一時の休戦を欲した。
そこで、天正十年十一月、勝家は、前田利家、不破勝光、金森長近を宝寺(山崎城)に派遣して秀吉と会わせ、和平の承諾を得た。
  利家は交渉が成功したものと思い込み、京都の織田信長の墓(大徳寺)に詣で、和平が成ったと信じて帰国し、勝家も油断したという(『太閤記』)。
また、この時に、すでに内応の約束がなされていたといわれている(高柳光寿氏)。

  しかし、秀吉の言は表面上のもので、着々と勝家討伐の軍を編成していた。これを察知した勝家は決戦に臨むこととした。

利家は京都からいったん能登に引き上げ、三月四日頃、勝家本隊に所属して北ノ庄を出陣し、その時に勝家に人質を差し出したらしい(『前田家譜』『古今消息集』『土佐国蠧簡集』)。

 

  三月十二日、柴田軍は、北国街道の要衝である柳ヶ瀬を中心に布陣し、しばらく利家は勝家本陣にいた(『富田文書』)。

前田利家隊に関する良質の史料は無いが、その次に、別所山砦に配置されたらしい(『近江輿地志略』)。

  この別所山は、かつて万福寺があり、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いたという(楠戸義昭氏『戦国佐久間一族』)。


 
(別所山砦・滋賀県教育委員会)

 

  その後、「西の方二ヶ所」の抑え(『太閤記』)、つまり、堂木山城・神明山砦の抑えにまわり(『江州余吾庄合戦覚書』)、茂山に移動したとされている(高柳光寿氏)。

  四月二十日、中川清秀の戦死、佐久間盛政の侵攻などの報告を受けると、秀吉は大垣から木ノ本に急行した。実に迅速で驚くべき古今稀有の行軍であった(『秀吉事記』『豊鑑』)。

  この夜、秀吉は利家に使いをやって「合戦がはじまったら裏切りを頼む。しかし貴下の心中は察している。ただ傍観してくれれば裏切りと同様に考える」と伝えると、利家は「裏切りは困る。中立的態度をとる」と返事をしたという(『川角太閤記』)。

 

~前田利家の背反~

  佐久間盛政の深追いによって佐久間隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

  この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 

この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。