城郭探訪

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栃ノ木峠・淀川の源

2018年07月23日 | 文化財

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外、自然写真の説明はありません。

概要

標高は538mであり、険しい山道を抜ける峠である。また福井県における嶺南嶺北を隔てる三つの峠の最南端に位置する。「酌子峠」(しゃくしとうげ)、「虎杖崩」(いたどりくずれ)といった別名があり、それぞれの名の由来にも諸説ある。ただし栃ノ木峠という名の由来は峠付近にの大木があった為、という説が有力である。古代から北国街道の難所として知られており、安土桃山時代からは特に重要な要所とされた。またこの付近には若狭野坂山地越前両白山地湖東伊吹山地がそれぞれ聳えており、これらの山地の間をほぼ直線状に南北に伸びる柳ヶ瀬断層が形作る谷の最高点が栃ノ木峠になっている。南側から峠まではなだらかに登っているが、峠から北側は急傾斜のヘアピンカーブで下っている。ちなみにかなりの長さを持つ国道365号で、山岳系の難所としてはこの栃ノ木峠が随一であろう。

福井県側から滋賀県側を望む(2010年撮影)

道路状況

決して低くはない峠ではあるが、カーブミラーやガードロープも設置されており、1.5車線以上の道幅が常に確保されているので、山道に慣れたものなら走りやすい部類の峠に入る。ただし連続カーブや曲がり損ねたら崖から落下という箇所があったり、道幅の割りには大型車が嶺北方面(武生市福井市、加賀北陸方面)への抜け道としての利用も多く、初心者にはあまり勧められない道と言える。滋賀県側の峠の麓から福井県道・滋賀県道140号敦賀柳ヶ瀬線が分かれており、ここを経由することで国道8号の峠である新道野越に出ることが出来る。こちらの峠のほうが栃ノ木峠に比較し、はるかに安全に走ることが出来る峠なので、運転に自信のない人はこちらを使ったほうが良い。福井県敦賀市内に国道476号が走っており、南越前町で国道365号と重複するので利用しやすい道である。

淀川の源

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然

「淀川の源」の碑

淀川水系の最北端に位置する滋賀県長浜市余呉町。
福井県との県境にほど近いこの町の栃ノ木峠に「淀川の源」の碑が建っています。
この碑の建つ場所は、高時川の最上流部に位置し、この地で生まれたせせらぎは、高時川を経て姉川となり琵琶湖に流れ込みます。 また、琵琶湖では滋賀の山間部に発する大小支川と一緒になり勢田川から流れ出て宇治川となり、木津川、桂川を合わせて大阪平野を流れ、神崎川、大川を分派して淀川として大阪湾に注ぎます。
淀川の河口から最も遠い所(最北端)にある、高時川最上流のこの碑は、淀川水系の源に位置します。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

碑の位置

  • 滋賀県長浜市余呉町中河内栃ノ木峠
    (北陸自動車道木之元ICより国道365線を福井方面へ25㎞、県境付近の進行方向右側)
  • 北緯 35度41分41秒
  • 東経 136度9分43秒
  • 標高 約540m
  • 淀川河口からの距離 約170km

参考資料:わたしたちの長浜、Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす。


近江国(日野)小御門城主・蒲生高秀建立

2018年02月08日 | 文化財
雲住寺は、浄土宗 龍光山。
百足退治で有名な藤原秀郷候(通称 俵藤太)ゆかりの寺院。
應永15年、藤原秀郷より十四代目の蒲生郡小御門城主・蒲生高秀により、秀郷追善のため建立したのが始まり。

宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている

昭和30年代の瀬田の唐橋

『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

 西詰名盤

龍王神社

本殿

龍光山 秀郷院 雲住寺  平成6年に建立された「百足供養堂」

 

雲住寺(うんじゅうじ)

民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。

 

 百足供養堂のある寺
 近江八景・瀬田の夕照で知られ、日本三大名橋の一つでもある瀬田の唐橋は欄干の美しい橋だ。都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。
 雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
 山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。実はこれ、寺を開いた時の城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太=たわらとうた)により退治されたむかでの供養堂

 醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。

蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

天台宗から浄土宗(二十五世)に宗派を変えています。

百足退治に関わる什物もあるそうです。「俵藤太秀郷公太刀鍔(蒲生家伝来)」「蕪矢根」「槍鉾先」「藤原朝臣忠郷公像(大津市文化財指定)」「俵藤太百足退治踏ん張りの石」など。

境内本堂左前には「百足供養堂」もあります。

電話により事前に予約すると、住職の話やお茶の接待があるようです。

日本三大名橋『瀬田の唐橋』や近江八景「瀬田の夕照」を書院から眺めることも可能だとか。
瀬田の唐橋に戻り、西詰へ向かって歩き出します。 さらにこの神社の隣にあるのが、雲住寺である。創建は応永15年(1408年)、蒲生郡に城を構えていた蒲生高秀によって建てられている。高秀も俵藤太から数えて15代目の子孫であり、先祖の功績のあった場所に追善供養のために寺院を建立したのである。さらにこの境内には百足供養堂があり、藤太によって退治された百足を供養している。この地に伝説の当事者が全て祀られているという格好になるわけである。

途中の中島に、秀郷像?と思わしきものがありました。瀬田唐橋あたりの水底には龍王が住んでいるという言い伝えがあり、唐橋の掛け替えの際に、一旦龍王を陸上にある社殿に移して工事をすることとして永享12年(1441年)に創建されたのが龍王宮である。祭神は龍王の娘である乙姫。この時に瀬田唐橋は現在地に移転している。

 さらに時代が下って寛永10年(1633年)になって、龍王宮の隣に建てられたのが秀郷社である。祭神は俵藤太こと藤原秀郷。建てたのは、藤太の子孫にあたる、当時松山藩主であった蒲生忠知である。


 俵藤太は武勇誉れ高き武将であったが、ある時、瀬田の橋に大蛇が現れて往来の妨げとなっているのを聞いた。行ってみると、橋の真ん中で大蛇がいる。しかし藤太は意に介さず、大蛇の背を踏みつけて悠々と橋を渡ったのである。すると突然目の前に乙女が現れた。乙女は橋の下に住む龍神であり、今、三上山を七巻半もする大百足によって苦しめられているので、その武勇を持って退治をしてほしいと懇願した。それを聞いた藤太は承諾し、早速3本の矢を持って百足退治に繰り出した。
 闇夜の中を巨大な2つの火の玉が迫ってきた。それが大百足の目であると悟った藤太は、火の玉の間を狙って矢を放った。しかし矢は百足に命中するが、その身体は鎧よりも硬く、はじき返されてしまった。最後の矢をつがえる前に、藤太は矢の先を口に含んでたっぷりと唾をつけると、渾身の力で百足を狙った。すると矢は見事に百足の眉間に刺さり、遂に退治に成功したのである。
 その後龍宮を訪れた藤太は、龍王より一俵の米と一反の布、そして立派な釣り鐘を褒美としていただいた。米と布は使ってもなくなることのないものであり、不自由なく暮らすことが出来るようになった。また釣り鐘は三井寺に納められ、名鐘として長く伝えられたという。
 
参考資料:瀬田川観光協会、城郭探訪
本日の訪問ありがとうございす!!

膳所城 鯱瓦

2018年01月16日 | 文化財

庭園に膳所城のしゃちほこか 大津の重文別荘に埋もれる。

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外江戸期の膳所城を飾った可能性が高まってきた鯱瓦。尾びれや腹びれは割れて半ば地中に埋まっていた(大津市中庄1丁目・蘆花浅水荘)

 日本画家山元春挙が大正時代に建てた別荘庭園・蘆花浅水(ろかせんすい)荘(記恩寺、大津市中庄1丁目)で長年、庭木に埋もれていたしゃちほこ(鯱瓦(しゃちかわら))が、膳所城の鯱瓦だった可能性が高まっている。同城の鯱瓦は市内の神社や瀬田小も所蔵しており、大津市歴史博物館は「ひれの形が似ている」として近く調査する。

 蘆花浅水荘は、京都画壇で活躍した春挙が40代のころ、1914(大正3)年から21(同10)年前後にかけて、生まれ故郷の膳所に建てた。重要文化財に指定されている。

 関係者が昨年11月ごろ、庭の一角で鯱瓦を見つけ、同博物館に連絡した。今年3月から始まる企画展「膳所城と藩政」を前に、樋爪修館長が現地で確認したところ、尾びれや腹びれが破損しており、瓦師の銘も見当たらないが、広げた背びれや顔部分を確認した。修復すれば高さ60~70センチになるという。

 春挙の孫の寛昭さん(74)が小学生の頃には庭にあったといい、「父から膳所城のしゃちほこだと聞いていた」と話す。同城の礎石と伝わる石もちょうず鉢として使われており、建設当時、粋人だった春挙の元に持ち込まれた可能性もある。

 膳所城は1870(明治3)年の廃城後に解体され、城門などは移築された。明治期に作られた城の絵図には、本丸や二の丸だけでなく櫓(やぐら)や門などにも鯱瓦が描かれており、樋爪館長は「蘆花浅水荘にあるのだから、いずれかの建物の鯱瓦だった可能性が高い」として、市埋蔵文化財調査センターとともに調査に乗り出す。

2018.1.10 京都新聞

本日の訪問ありがとうございす!!


秀吉造った「国内最古級」長浜城下町

2018年01月09日 | 文化財

滋賀・長浜城下町、日本遺産に再挑戦 秀吉造った「国内最古級」

自動代替テキストはありません。
日本遺産認定申請の資料の一つ「長浜城下町復元図」(長浜城歴史博物館提供)

 滋賀県長浜市は、豊臣秀吉が開いた市中心部の街並みについて「近世城下町のルーツ」と位置付け「秀吉が造ったコンパクトシティ・長浜城下町」として日本遺産への登録を目指すことを決めた。2018年度分認定を視野に、1月下旬に文化庁へ申請する。実現に向け、市民と連携して機運を高めるとしている。

 日本遺産は各地の伝統文化などを観光資源として活用する趣旨で2015年から登録が始まった。地域の特色を「ストーリー」としてアピールすることが要件となる。

 市は、16世紀後半に秀吉が築いた長浜城の城下町として形成された中心部の街並みについて、毎年4月に催される「長浜曳山(ひきやま)まつり」の曳山13基を収蔵する山蔵が点在することに着目。「正方形にコンパクトにまとまった城下町で、町衆が育てた曳山まつりなど伝統文化の息吹を体感できる」とストーリーをアピールしていく。

 市は昨年1月、「国内最古級の城下町」をテーマに申請したが、落選した。再挑戦となる今回は「長浜らしさをストーリーの前面に打ち出した」(市民協働部次長の太田浩司学芸員)としている。

 認定への機運を市とともに高める市民グループも1月末に発足する予定で、発起人代表の雑貨販売業渡辺浩之さん(40)=同市平方町=は「多くの市民が参加できる勉強会を開き、城下町・長浜の価値観を共有したい」と話す。

 日本遺産は滋賀県内では「琵琶湖とその水辺景観」(県、大津市など7市)など3件が認定されている。

【京都新聞 2018年01月08日 09時21分 】


水口城の【御殿玄関】が移築

2017年03月22日 | 文化財

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外


水口山蓮花寺

所在地:滋賀県甲賀市水口町松栄2−40
蓮華寺本堂には、水口城の御殿玄関が移築されていると言われています。
現地案内板等はありません。

水口城(甲賀市)概要:

甲賀市観光・旅行見所ナビ

 水口の地は東海道が通過する交通の要衝で、将軍家が京都や大坂に上洛した際は宿所として利用しました。水口城は寛永11年(1634)に3代将軍徳川家光の宿館として築かれたもので、近江小室藩初代藩主の小堀遠州が作事奉行として幕府から派遣され延10万人が動員、石垣などの用材は戦国時代の山城で廃城となった水口岡山城のものを利用しました。

 小堀遠州は土木、建築事業を幾つも手掛け、作庭、茶道にも精通し、千利休、古田織部と共に日本三大茶人 茶道三宗匠に数えられた文化人でもあり、将軍家が水口城に対し思い入れが強かった事が窺えます。

 水口城は「水口御茶屋」とも呼ばれ、構成は京都の二条城に類似し、ほぼ正方形の本丸には御殿、4隅には平櫓(艮矢倉、巽矢倉、坤矢倉、乾矢倉)、東側の出丸には大手門(虎口・一之門:高麗門・二之門:櫓門)、北側には北御門(虎口・一之門:高麗門・二之門:櫓門)が配され、二ノ丸には管理・警護の施設が設置されました。

 しかし、将軍家が利用したのが家光1回限りで、それ以外は幕府から1年毎城番が派遣され維持管理が行われました。

天和2年(1682)、石見吉永藩より加藤明友が2万石で入封し水口藩を立藩、水口城の本丸には将軍家の御殿があった為、2の丸を拡張し藩庁と藩主御殿が設けられ、それに伴い城下町も大幅に変更されました。正徳年間(1711~1716年)には利用されなくなった家光時代の御殿は破却されその後は空き地だったようです。

 明治維新後に廃城となり多くの施設は破却されましたが本丸の敷地や石垣などが残され昭和47年(1972)に滋賀県指定史跡に指定されています。

 水口城の遺構としては、本丸乾矢倉が民間の倉庫として移築され、その後現在地に再移築され何故か2層2階に改変し水口城資料館として公開されています。

その他には茶室が大岡寺

御殿の玄関が蓮華寺に移築されています。

水口神社は、江戸時代に寛文3年(1663)には当時の代官だった小堀氏により社殿が再建されました。

水口藩が立藩すると歴代藩主の崇敬社となり正徳5年(1715)には藩主加藤嘉矩が社殿を造営しています。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、家、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外


中村治兵衛宗岸屋敷跡

2017年03月16日 | 文化財

近江商人の実践哲学に、よりますと!

「三方よし」の原典となっ た、中村治兵衛宗岸の遺言 状「宗次郎幼主書置」...売 り手よし、買い手よし、世 間よし

商取引は、取引の当事者双方の みならず、取引自体が社会をも 利することを求めたのが「三方 よし(さんぽうよし)」の精神 であり、近江商人の活動の普遍 性を完結に語るものである。

...

近江国神崎郡石馬寺町(源:滋 賀県東近江市五個荘町石馬寺)の麻布 商、二代目中村治兵衛(法名: 宗岸)が、嫡男3代目治兵衛(法 名:宗壽〈そうじゅ〉)は、延 享4年(1747年)9月26日に34歳 で没したので、その遺児である 娘(法名:〈妙壽〉)に養子・ 宗次郎を片山半兵衛家から迎え て4代目治兵衛を嗣がせた。

妻と子に先立たれた宗岸が初め て幼主の宗次郎へ「書置」を記 したのは、1754年(宝暦4年) 11月のこと。この「書置」に は、家と家業の存在を15歳の幼 い養嗣子の教え諭さなければな らない、70歳に達した宗岸家の 事情があった。

「三法よし理念を示す原典と なったこの「書置」は、24カ条 (「宗次郎幼主書置」11カ条、 「追書宗次郎」13カ条)からな る遺言状「書置」文書は、3メー トルにもおよぶ長文である。 「宗次郎幼主書置」の8番目の条 文には次のように書かれてい た。

  • 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然
  • 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然<input type="hidden" name="fb_dtsg" value="AQH5-MueJC2I:AQHNIbpFhZjr" /><input type="hidden" name="data_only_response" value="1" />
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山ノ神遺跡(大津市一里山3丁目

2016年12月04日 | 文化財

地形模型で大津京つくった遺跡群見て 地元グループ設置

地域住民が山ノ神遺跡に設置した大津京周辺の遺跡群の地形模型(大津市一里山3丁目)

 7世紀の工房跡とされる山ノ神遺跡(大津市一里山3丁目)に、地元の瀬田東文化振興会のメンバーが、大津京ゆかりの生産遺跡群を紹介する地形模型を設置した。メンバーらは「この地域に名だたる遺跡があることを知るきっかけになれば」と話している。

■スイッチ押すと点灯、日英語の音声案内も予定

 大津市一里山と瀬田南大萱町、草津市野路町には、大津京を製鉄や製陶で支えた瀬田丘陵生産遺跡群が広がる。同振興会は、山ノ神遺跡から出土した建物の屋根に取り付ける飾り「鴟尾(しび)」のレプリカなどを再現してきた。さらに大津京と遺跡群を一覧できるものを作ろうと企画し、市の補助金を活用して5月から制作を進めてきた。

 地形模型の縮尺は7500分の1。縦2・1メートル、横1・8メートルで、現在の地図をもとに切断した発泡スチロールを重ねて標高差を表現した。県南部の遺跡を一覧できるほか「東山道」「源内道」などの古道も記した。

 地域住民から寄贈されたソーラーパネルやバッテリーも生かし、スイッチを押すと、史跡の場所にランプが点灯する。今後は、日本語と英語の音声案内も設ける予定という。

 地形模型はいつでも見ることができ、制作リーダーの吉居紀生さん(76)は「この地形模型を見て、遺跡を実際にたどってみたいと思ってもらえれば」と話していた。

【 京都新聞 2016年12月03日 23時00分 】


下鈎遺跡発掘調査現地会 滋賀県栗東市

2016年12月04日 | 文化財

弥生後期、大溝見つかる 滋賀・栗東の下鈎遺跡

(写真上)下鈎遺跡から見つかった弥生時代後期の溝(栗東市下鈎)。(同下)朱色に塗られた木製高杯の一部

 滋賀県の栗東市教育委員会は29日、同市下鈎の下鈎遺跡から、弥生時代後期につくられたとみられる大溝が見つかったと発表した。守山市伊勢町の伊勢遺跡(国指定史跡)と区画が似ており、弥生時代の集落を知る貴重な資料としている。

 下鈎遺跡はJR栗東駅の南約700メートルに位置し、過去に祭殿とみられる大型建物3棟や門状の遺構、青銅器などが見つかっている。物流施設建設のため5月から調査した。

 大溝は長さ約35メートル、幅約4メートル、深さ約1・3メートル。周辺の祭場や大型建物の位置関係から、村の中心部が楕円(だえん)状に直径約250メートルの規模だと明らかになったという。

 同遺跡の大型建物の区域は範囲がはっきりしていなかったが、今回の調査で東側を区切る溝が見つかり、溝を巡らせて大型建物を計画的に配置した伊勢遺跡と同じ形態を取っていたことが判明。市出土文化財センターは「両遺跡で青銅器の製造や祭祀(さいし)など、役割を分担していたのではないか」としている。

 朱色に塗られた木製の高杯(たかつき)や古墳時代の円墳2基、勾玉(まがたま)や円盤など約230点の滑石製品、同市では初の鏡の模造品も発見した。当時の祭祀の様子を知る資料という。

 12月3日午後2時から現地説明会を開く。問い合わせは市出土文化財センターTEL077(553)3359。

【京都新聞  2016年11月30日 11時11分 】


水口岡山城跡 史跡の指定へ

2016年11月20日 | 文化財
 

=荒神山神社6件 登録有形文化財へ=

水口岡山城跡


 国の文化審議会が十八日に開催され、「水口岡山城跡」(甲賀市水口町水口字古城)を“史跡”に指定し、「荒神山神社」(彦根市清崎町)六件を“登録有形文化財”に新登録するよう文部科学大臣に答申した。
 水口岡山城跡は、天正十三年(一五八五)頃に豊臣秀吉の命を受けた中村一氏(なかむら・かずうじ)により甲賀の直接支配の拠点、東国への抑えとして築城されたと考えられる。その後、豊臣政権下で奉行を務めた増田長盛(ました・ながもり)、長束正家(なつか・まさいえ)といった政権の重要人物が城主とされるなど、その政治的、軍事的な意味合いは大きい。関ヶ原の戦い後には、正家が西軍に与(くみ)したため、接収され、その後しばらくして廃城となるが、その後も幕府や水口藩により管理され、明治時代以降は公有財産として引き継がれたため、保存状況は極めて良好である。また文献資料には、築城にあたって矢川寺(やがわでら)の堂塔を壊して水口岡山城へ運んでいることや、長束正家が城主となった後に大溝城(おおみぞじょう)の天守を解体して、その部材を利用したことなどが知られているが、発掘調査では矢川寺遺跡出土のものと同笵(どうはん)の軒瓦(のきがわら)、高島市の大溝城跡から運ばれたと考えられる軒瓦が出土したことにより、文献史料の記載が考古学的にも裏付けられた。


荒神山神社本殿

 荒神山神社は、荒神山山頂部一帯を境内とし、山麓の参道入り口に鳥居が建ち、山上に本殿、拝殿、渡殿(わたどの)、神饌所(しんせんしょ)、神楽殿(かぐらでん)などが建ち並んでいる。本殿は、前室付の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、柱上(ちゅうじょう)は船肘木(ふなひじき)、妻飾(つまかざり)は豕叉首(いのこさす)組とし、彫刻などの装飾も少なく、復古的な意匠が用いられている。拝殿は、入母屋造(いりもやづくり)の優雅な向拝(こうはい)が特徴で、周囲の建具に蔀戸(しとみど)を用いる点に、本殿同様、復古的な意匠が見られる。渡殿、神饌所は、本殿や拝殿とともに神社の構えを構成する建造物として重要だ。
 これらの建造物六件は、明治時代から昭和初期の滋賀県の近代の神社建築として重要である。

■平成28年11月20日(日) 滋賀報知新聞 第17659号


後藤又兵衛討ち死

2016年11月19日 | 文化財

後藤又兵衛討ち死に報告 豊臣秀頼に、書き付け発見

大坂の陣で後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付け

 岡山県立博物館は17日、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)で豊臣側の「五人衆」として戦った後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付けが、京都府内で見つかったと発表した。

 同館によると、腰に重傷を負った又兵衛は配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」を使っていたことが初めて分かったという。

 書き付けは縦27・4センチ、横35センチ。又兵衛の下で戦い、秀頼に又兵衛の討ち死にを報告したとみられる金万平右衛門の子孫宅で見つかった。25日から同館で展示する。

【京都新聞 2016年11月17日 12時55分 】


戦国期の惣構えか 京都市内最大級、堀の跡発見

2016年11月19日 | 文化財

戦国期の惣構えか 京都市内最大級、堀の跡発見

京都府庁の北側で見つかった、戦国時代の自衛施設「上京の惣構」とみられる東西方向の大規模な堀(京都市上京区)

 16世紀後半の戦国時代に機能した大規模な堀の跡が、京都市上京区の京都府庁北側の発掘調査で見つかり府埋蔵文化財調査研究センターが17日、発表した。自衛のための防御施設「構(かまえ)」とみられ、市内で確認された中では最大級。上京全体を囲った惣構(そうがまえ)の可能性があるという。

 上京区下長者町通新町西入ルの府庁北側の中立売署跡地で、幅約5メートル、深さ約3・5メートルの堀が約75メートルにわたって確認された。北側の下長者町通(当時の鷹司小路)に沿って東西にさらに延びていたとみられる。

 北側から短期間で埋められており、堀の土で北側に土塁を設けていた可能性がある。同センターは「市内で60カ所以上見つかった構の中で最大級。北側を守る大規模な構だとすると、上京一帯を囲った惣構ではないか」とみている。堀を埋めた後に掘られたごみ穴から、豊臣秀吉時代の大名屋敷のものと考えられる金ぱく瓦が出土した。

 現地説明会は19日午前10時半と午後1時半の2回。現地事務所の携帯電話090(3995)3936(当日のみ)。

【京都新聞 2016年11月17日 22時20分 】


永源寺は南北朝時代の1361(康安元)年、近江守護の六角氏頼が

2016年11月15日 | 文化財

十王図一堂、永源寺の書画展示 東近江で重文含む68点

全11幅が一堂に会した「地蔵十王図」(東近江市五個荘竜田町・観峰館)

 臨済宗永源寺派大本山永源寺(滋賀県東近江市永源寺高野町)を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)の650年遠諱(おんき)に合わせ、同市五個荘竜田町の「観峰館」で、特別企画展「永源寺に伝わる書画」が開かれている。寂室の墨跡など重要文化財28点を含む同寺所蔵の68点を展示している。

 永源寺は南北朝時代の1361(康安元)年、近江守護の六角氏頼が、中国で修行した名僧寂室元光を開基に招いて創建したとされる。寺が保管している南北朝時代から明治時代までの記録などをつづった「永源寺文書」は、2002年に重文に指定されている。

 同館に昨年、展示品の温度や湿度調整ができる新しい展示棟が完成したことから、地元の優れた文化財を知ってもらおうと企画。展示は前期、後期に分かれており、現在は後期展(20日まで)が開かれている。

 会場でまず目に入るのは、寂室直筆の墨書「永源寺」(南北朝時代)。氏頼の法名「崇永」と「近江源氏」から取ったとも伝わる山号を、威風堂々とした楷書で記している。

 「華蔵寺宛消息」は、寂室が親しい京都の住職に送った書状。同館の寺前公基学芸員は「普段の寂室の字がよくわかる。六角氏頼が下向していたことを知らされず『恨み入る』などと記され、人間くささを感じる面白い作品」と評する。

 後期展最大の目玉は、元時代の中国で描かれたとみられる「地蔵十王図」。仏教において、亡者が裁きを受けるとされる閻魔(えんま)王ら10王と地蔵菩薩(ぼさつ)が審理にいそしみ、亡者が拷問を受ける様子が描かれている。11幅が一堂に展示されるのは非常に珍しいという。

 永源寺中興の祖、一絲文守(いっしぶんしゅ)の書や、井伊直弼が参詣した際に秋の紅葉にも劣らない新緑の美しさを詠んだ和歌、同寺を祈願寺としていた足利義満が記した三河国の末寺「天恩寺」の山号など、寺にゆかりのある僧侶や武将らの書画も多数並び、永源寺の歴史と影響力を感じられる。

 20日まで。月曜休館。入館料千円(高校生以上800円、中学生以下無料)。19日午後1時から、学芸員による講座(500円、要申し込み)もある。観峰館TEL0748(48)4141。

【京都新聞 2016年11月13日 22時00分 】


豊臣秀吉が再建したと伝わる。滋賀県長浜市湖北町伊部の小谷寺

2016年11月15日 | 文化財

スーパーモデル? 秘仏・如意輪観音公開 滋賀・長浜の小谷寺

公開されている小谷寺の本尊「如意輪観音像」(長浜市湖北町伊部)

 滋賀県長浜市湖北町伊部の小谷寺で、秘仏とされてきた本尊の「如意輪観音像」(市指定文化財)が公開されている。年に一度の開帳で、九州や関東など遠方から参拝する人もいる。

 同寺は約1300年前、白山信仰開祖の泰澄(たいちょう)が開いた修験道場の坊舎の一つとして小谷山に建てられたのが始まりとされる。戦国時代に浅井家が小谷城を築いた際に麓に移り、同城の落城とともに破壊されたが、豊臣秀吉が再建したと伝わる。

 像は高さ約22センチの金銅製で、右手指先のしなやかな曲がり方や右足の親指の反り上がり方など高度な技術が見られる。同寺管理者の高密教照さん(70)は「手足が長く、今で言うならスーパーモデル級」と例える。

 厨子(ずし)を開けると大洪水が起こると伝えられ、長らく秘仏とされてきたが、2010年から12日の開山忌に合わせて公開するようになった。18日まで。午前9時~午後4時(最終日は午後3時まで)。拝観料500円。問い合わせは同寺TEL0749(78)0257。

【京都新聞 2016年11月15日 17時00分 】


嶋左近=有能な官僚 書状2通発見、

2016年10月26日 | 文化財

嶋左近=有能な官僚 書状2通発見、新人物像浮かぶ 滋賀・長浜

石田三成の重臣嶋左近の書状を調べる太田館長(左)と村井助教。左近の署名や花押が記されている=長浜城歴史博物館

 戦国武将、石田三成の重臣、嶋左近の書状2通が見つかったと、東京大史料編纂(へんさん)所(東京都文京区)と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市公園町)が1日、発表した。左近の書状が完全な形で見つかるのは初めて。検地の方法を指示するなどの内容で、同博物館などは「猛将とされる左近だが、官僚としての能力もあったことが裏付けられた」としている。

 同編纂所の村井祐樹助教が昨年11月、大阪府内の民家で発見し、同博物館の太田浩司館長と調査していた。

 1通は豊臣秀吉が北条氏の小田原城(神奈川県)を開城した直後の1590(天正18)年7月19日付で、縦33・6センチ、横46・5センチ。常陸国(現在の茨城県)の武将佐竹義宣の家臣小貫頼久に宛て、常陸の大名の大掾(だいじょう)氏が秀吉の命である人質の差し出しを渋ったことについて照会した内容。

 もう1通は6日後の25日付で、義宣の一族に検地の方法や兵糧米の徴収などを指示する内容。縦32・7センチ、横45・2センチ。2通とも左近の実名の「清興」と花押が記されていることなどから、左近の書状と確認した。

 左近は関ケ原合戦で勇猛に戦ったとされ、武闘派のイメージが色濃い。江戸期の俗謡では「三成に 過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と 佐和山の城」ともうたわれた。

 左近のものとされる書状は国立国会図書館(東京都千代田区)所蔵の断片があるが、信ぴょう性は低いとされる。2008年には左近の名前が記された三成の書状が長浜市高月町で見つかっている。

 太田館長は「伝説と思われていた人物の実像に迫る発見。猛将だけでなく能吏であることが分かった」と説明。村井助教は「小田原攻め後の秀吉の東国支配について分かる貴重な資料」としている。書状は23日から8月31日まで同博物館で開く特別展で展示する。

■嶋左近 大和国(現在の奈良県)の出身とされ、1590(天正18)年の小田原攻めの際には石田三成の家臣となっていた。関ケ原合戦で西軍の武将として討ち死にしたとされる。

京都新聞【 2016年07月01日 23時30分 】


「真田丸」と違う? オランダ商館員の見た大坂の陣

2016年10月26日 | 文化財

「真田丸」と違う? オランダ商館員の見た大坂の陣 日文研確認

オランダ商館員が大坂の陣の戦況や京の情勢などを記して商館長あてに送った書簡(ハーグ国立文書館所蔵)=クレインス准教授提供

 京都市西京区の国際日本文化研究センター(日文研)は21日、大坂の陣などで混乱する江戸時代初期の日本の情勢についてオランダ人商館職員らが記録した書簡約500通をハーグ国立文書館の史料調査で確認した、と発表した。徳川家康と豊臣秀頼の戦いの様子や、焼き打ちに不安を募らせる庶民や経済情勢に関する記述もあり、研究者らは「近世日本の史料は大火などで焼失したものが多く、オランダに残る記録を補完的に活用することで、歴史をより正確にとらえることができる」と評価する。

■豊臣側、寝返り大名を石垣から突き落とす記述も

 2014年からオランダ・ライデン大と日文研のフレデリック・クレインス准教授が、東インド会社が長崎平戸に開いた商館の文書の調査に着手。1609~33年にかけて会社や商館、商務員らの間で交わされたオランダ語の往復書簡524通などを確認した。

 書簡には、幕府との商取引など日本の政治経済の状況が克明に記され、1614~15年の大坂の陣の情勢を伝えるものもあった。京や堺にいるオランダ商人たちは、家康が大坂城を攻めるために伏見や周辺に軍を配したことでまちが混乱に陥っていることを報告。また、夏の陣で豊臣側の大名数人が、家康に寝返るために城に火をつけたが、寝返る前に石垣から落とされて死んだことなど、日本の史料では確認されていない記録も見つかった。オランダ商館が家康に大砲を売り、その後も武器を献上した事実などもつづられている。

 こうした情報は大名や商人から収集したとみられ、明治~大正期に刊行された「大日本史料」などに和訳掲載されている記述もあるが、クレインス准教授は「一般の商人が実際の見聞に基づいて記録した臨場感のある内容。日本の史料では分からない部分も多くあり、今後の調査が楽しみ」と語る。

 見つかった書簡類は、欧米に点在する日本関連資料を調査する人間文化研究機構のプロジェクトの一環で翻刻と全文現代語訳を進めており、国内外での刊行を目指すという。

京都新聞【 2016年09月22日 10時30分 】