城郭探訪

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清水山城(日高山城・比叡谷城) 近江国(新旭)

2013年10月29日 | 戦国山城

清水山城の縄張り図

お城のデータ 

所在地:高島市新旭町安井川   (旧:高島群新旭町安井川)      map:http://yahoo.jp/zGEUze

別   名 :日高山城、比叡谷城

現 状:森林

区 分:山城

築城期:南北朝期 嘉禎元年(1235)

築城者:佐々木信高

城 主:佐々木信高

 

標 高:220m 比高差110m

 

遺 構:土塁・竪堀・畝状竪堀・曲郭・堀切・説明板

城 域:1000m×800m

 

2004年(平成16年)2月27日、「清水山城館跡」は、国に史跡に指定

 

 

目標地:新旭スポーツ公園

 

駐車場:新旭スポーツ公園駐車場

 

訪城日:2013.10.23

お城の概要

  森林スポーツ公園から山林に入り、林道を経て約25分で山頂の主曲輪に着く。

この間、清水山遺跡屋敷跡や林道脇に堀切に観られ、ただひたすら登る山城と違い、楽しみながら登ることができる。
(林道の為に遺構が壊されており、残念!)

 清水山城遺跡は、佐々木越中氏の本城と伝えられています。発掘調査で城の主郭(中心地)から、住宅風の大型礎石建物跡が確認され、生活をうかがわせるような遺物が出土しています。

発掘調査後、公園整備され、礎石建物跡を身近に見ることができます。 この山城の南側に広がる丘陵には、城主、一族衆、家臣などの屋敷跡が残っています。(清水山遺跡) また、山麓には、館跡である井ノ口館(本堂谷遺跡)や館跡であったと考えられる御屋敷や犬馬場の地名が残っている地域があります。 

これらの地域をすべて含めると東西0.8km、南北1.0kmを測る広大な範囲となり、滋賀県下でも有数の一大ゾーンが形成されていたものと思われます。

 鎌倉時代から室町時代にかけて高島郡の中・南部を支配していた高島七頭の惣領家にふさわしい規模といえます。

 主曲輪はきれいに整備され、天気の良い日には琵琶湖に浮かぶ竹生島や対岸の湖北、湖東を一望できる景色は素晴らしいの一言に尽きる。

 主曲輪を中心に三方に延びる尾根筋には、南東尾根の曲輪群、南西尾根曲輪群、および北尾根曲輪群と曲輪が配されている。
 また、主曲輪の東側斜面には虎口部の守りを強化するように配置されている畝状の竪堀が非常に特徴的である。

 この清水山城は山頂部だけでなく山麓にも多くの遺構・曲郭群が残されている、往路は林道を、復路は林道と交差しながら残っている山道を、清水山城の規模の大きさを実感できる。

 なお、清水山城を訪れる際は、南山麓の井ノ口館を同時にみられることをお薦めする。 

  

大手道

畝状竪堀

歴 史

 清水山城は、別名日高山城とも比叡谷城ともいわれ、嘉禎元年(1235)に高島郡田中郷地頭職佐々木高信が築いたと伝えられている。

 その後、高信の嫡流高島氏(一名越中家)が、高島七頭の総領としてこの城に拠って高島郡を統治した。その後、高島氏は、高島、平井、朽木、永田、横山、田中、山崎(能登)の七家に分かれ、高島七頭(たかしましちがしら)と呼ばれるようになった。
また、清水山城の南東斜面には加賀殿、越中殿といった地名が残されている。
 清水山城は平成16年2月27日、国史跡に指定されている。

嘉禎元年(1235年)佐々木高信が築いた。子孫は高島氏(高島越中守)を称し、代々治めた。元亀3年(1572年)織田信長の高島郡攻略により落城したと推定されている。

畝状竪堀

畝状竪堀

主郭の虎口

コイワカガミ!オオイワカガミ!

二の郭

三の郭の間の大堀切

一部紅葉が!

主郭と二の郭の堀切(主曲輪南西尾根の堀切)

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、説明板

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


山口城(外村城) 近江国(愛東)

2013年10月29日 | 平城

のすぐ西側に

お城のデータ 

所在地:東近江市愛東外町  map:http://yahoo.jp/Ns6EuQ

別 名:外城

築城期:南北朝期

築城者;小倉氏

初城主:小倉氏

区 分 :平山城

遺 構 :土塁、石積、堀

目 標:愛東外集落センター

訪城日:2013.10.28

西郭の入り口(コンクリートの橋)、獣害ネットは鍵有りません!(猿に注意)

近江 山口城(外村城)

10mも行くと郭跡狼煙台のようです!

西郭の土塁。

狼煙台のよう!です手水鉢のように、10cm程の窪む(30cm×15cm 深さ10cm)東郭の石積!西の郭の石垣西の郭の石垣西の郭遠景

東の曲郭へ

松茸シーズンも忘れて、獣害フェンスを開けて入山。切岸30mを必死に登り林道へお地蔵さんの前の道を約10分ほど登ったところに高圧線の鉄塔の手前の林道、この山手に曲輪跡がある郭跡・土塁

空堀林道から、植栽林は綺麗に手入れさて、郭・土塁(2m)は、はっきり確認できる

2段目の郭跡ブッシュでした

 

どうも、東も郭跡・・・西の郭跡は?

愛知川右岸の切岸斜面の曲輪

西の曲郭・・・主郭へ

お城の概要

県道217号線を紅葉橋に向かって走ると、"外"の町並みが切れた辺りに左手(山手)に入る道があり、道なりに進むと、お地蔵さんが祀られている。この裏手の山が山口城址である。 

歴 史 

小倉城や青山城、鯰江城などと共に、南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配した小倉一族の城である。

県道脇に3台位の駐車スペース

近江 山口城(外村城)

西郭遠景東側郭の遠景(左鉄塔下)

 

ここからは、古墳の一部のようです・・・。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2013年10月27日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.10.26(土) 1220 PV 308 IP 2329 位  / 1945037ブログ
2013.10.25(金) 1120 PV 258 IP 3135 位  / 1944688ブログ
2013.10.24(木) 1103 PV 226 IP 4042 位  / 1944302ブログ
2013.10.23(水) 1013 PV 244 IP 3386 位  / 1943851ブログ
2013.10.22(火) 1250 PV 320 IP 2331 位  / 1943358ブログ
2013.10.21(月) 1062 PV 363 IP 2415 位  / 1942882ブログ
2013.10.20(日) 1239 PV 343 IP 2661 位  / 1942439ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.10.20 ~ 2013.10.26 8007 PV 2062 IP 2822 位  / 1945037ブログ
2013.10.13 ~ 2013.10.19 11232 PV 2436 IP 2200 位  / 1942159ブログ
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東丸岡城 近江国(甲西)

2013年10月21日 | 居城

 

お城のデータ

所在地:湖南市柑子袋 (旧甲賀郡甲西町柑子袋)  map:http://yahoo.jp/2wz1QQ

現 状:森林

区 分:城館

築城期:室町期

築城者:青木氏・

城 主:青木籐兵衛尉

遺 構:土塁、空堀

目 標:湖南市まちづくりセンター、墓地

駐車場:墓地

訪城日:2013.6.11・2013.10.20

お城の概要 

 東丸岡城は丸岡城の支城とされ、柑子袋墓地を挟んで東側に位置している。その距離おおよそ50m。

こうして小さな城を繋いでいくのが甲賀地方の城郭の特徴のひとつ【御椀型】である。

曲輪は東西50m、南北50m程度で、周囲に土塁と空堀を巡らしている。

特に南側背後の空堀は尾根を堀切ってつくられているため土塁高さも充分で、十分に楽しませてくれるが、一帯は雑木や矢竹が密生しており、全体を把握するのは難しい。

 一般的に甲賀地方にみられる土豪の館城であるが、北側と西側に設けた平虎口の前面に土塁と共に土橋を渡しているのは、丸岡城とともに在地土豪以外の勢力による改修の可能性も考えられる。

歴 史

 青木氏の居城・丸岡城の支城と考えられる

郭内は、雑木や矢竹が密生大堀切は巾5m・・の北側大土塁10m

 

柑子袋の湖南市「まちづくりセンター」~http://yahoo.jp/0ZWjfG

「墓地の駐車場」に10台位(駐車場の東下の草むらに大堀切がある)

墓地の駐車場で!http://yahoo.jp/0ZWjfG

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


小谷城 近江国(浅井)

2013年10月15日 | 平城

近江中世城郭調査委員会主催の「秋一番 あざい ほっと 城郭見学交流会」が開催されました。

講師は、城郭研究家 長谷川博美氏。
午前11時、小谷城戦国歴史資料館前駐車場画像に集合し、「旧伊吹町 甲津原治山城郭遺跡、向山城郭遺跡」へ向かう前に

小谷城本丸を見学

小谷城番所まで車で・・・で「浅井三代の里」から山道を登り、「小谷城番所」手前に駐車し、(数台駐車可能。)、そこから歩いて本丸まで行きます。。

所在地:長浜市湖北町伊部      (東浅井郡湖北町伊部)    map: http://yahoo.jp/rS8KPm

築 城:大永4年(1524)

初城主:浅井亮政

区 分:山城

遺 構:空掘,土塁,堅堀,石垣

城 域:1000mx1800m

標 高:495m       比高差:230m

 浅井氏の家紋井家の紋三つ盛亀甲)

戦 い:

大永5年(1525)  ○六角定頼 VS ●京極高清・浅井亮政

天文7年(1538)  ○六角定頼 VS ●浅井亮政        

元亀3年(1572)  △織田信長 VS △浅井長政    

 姉川の戦い(あねがわのたたかい)という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ   

天正元年(1573) ○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉義景 

訪城日:2013.10.13

今回、先に本丸を見る目的は、

その堅固な切岸、帯郭、空堀の構造を頭に入れておくと、次に見学する「甲津原 治山城郭遺跡」がよく解ると講師曰く。「番所跡」で小谷城跡絵図の本丸位置を確認する。

ここから本丸まで400mです。本丸へ通じる道は幅が広く、よく整備されて歩き易い。

番所跡この景色は、NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第1話で、確か小谷城からびわ湖、竹生島

しばらく行くと、左手前に虎御前山、遠くびわ湖に浮かぶ竹生島、右手に山本山が見渡せるビューポイント!

御茶屋敷

馬洗池この日は「猪のヌタ場」でしたしばらく行くと、姉川合戦場・・・手間が大井山砦(浅井+朝倉軍)VS遠景茶臼山砦(織田+徳川軍)、横山城も見渡せるビューポイント

首据石【今井秀信の首をさらしたとされる石】

黒金紋

桜馬場は3段の曲輪からなり、南端の曲輪からは清水谷、および北国脇往還道(現在の国道365号線)を眼下におく。また中島城、丁野山城が築かれている岡山をも見通すことが出来る。ここが本当の馬場かどうかは疑問の残るところである。
 中段の曲輪には浅井氏及家臣供養塔が建てられている。

それから、御馬屋跡と言われる石積みで囲まれた池、黒金御門跡の石段を上がると大広間跡と呼ばれる郭が出現する。

下側に石垣が見られます。すごい。

浅井氏及家臣供養塔

この景色は、NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の第1話で、確か小谷城からびわ湖、竹生島を見るシーンはここ桜馬場で撮影された。

中世山城をあちこち観て廻るが、この小谷城の千畳敷ほど大きな曲輪はあまり記憶にない。

さて、この大きな曲輪がどのような目的で使用されたのだろうか。

   本丸下の大石垣(大広間千畳敷も奥に)。しかし、石は小さい(砕石されてはいるが)

大広間の奥に土塁が

その左側から帯郭、北側の大きな空堀、右へ回
ると下に赤尾屋敷が見えます。一周すると台を切り岸、その上に本丸の郭や櫓台が築かれたことが解ります。

その奥には高さ10m位の切り立った本丸の台形が見えます。元々は、丸い山だったところを、削り落として台形に造ったのでしょう。鋤と鍬しかない時代に、いったい何千人がもっこ 【知らない人のために解説:天秤棒に前後に藁で編んだ網に土を入れて運ぶ道具】で運んだと思うと気が遠くなる。

大堀切

本丸:大堀切や大広間の間に10m以上切岸で囲まれて

下に赤尾屋敷の長政自刃の碑が見える。これも大きい。】

赤尾屋敷:ここから160m往復 右手奥が赤尾屋敷跡(浅井長
政が自刃した所)の標識を

長政自刃の地

 

 
小谷城の白米伝説】
 大手道の番所を過ぎてしばらく山道を登ると、馬洗池と云われる石組みで作られた池がある。
小谷城の水は、はるか東方の天吉寺山の海抜650mの元池から延々10数キロ以上のサイフオン仕掛けの竹の"とい"で引いてきたらしく、水は城中からこの池に流れ込んでいたという。

 天正元年(1573)8月、織田信長は小谷城最後の総攻撃の前に、天吉寺山からの竹の樋を破壊したため、小谷城内には水が一滴もなくなった。小谷城の浅井側では水が絶えたと知れば、敵は勢いづいて攻め込んで来る。そこで水を落としていた樋から白米を馬洗い池に流して、城にはまだ水があるように見せかけたという。

歴 史

 浅井氏の出自は明らかではない。亮政の3代前の重政が明応5年(1491)に京極持清に仕えた時から歴史に登場する。
 大永3年(1523)15代当主京極高清の跡目相続について、浅井町野瀬の梅本坊で家臣団の協議(梅本坊公事)が行われるが、長男・高広を立てようとする浅井亮政,今井越前守等と、次男・高慶を立てようとする父高清,上坂信光,多賀四郎左衛等が対立する。

 梅本坊公事の結果、跡目は次男高慶に決定するが、次男高慶派の中心となっていた上坂氏の横暴に反感を持っていた長男・高延派の浅井亮政、今井越前守は尾上城に寄って次男・高慶派を排除することを画策する。
 大永4年(1524)六角氏の援助を受けて、上平寺城の京極高清,上坂信光を攻め、高延を救出する。上坂氏の今浜を攻略した浅井亮政は小谷京極丸に高清,高延を迎え入れる。この時点で名目はともかく、江北の実権は浅井氏が握ることとなる。
 小谷城が築城された年については諸説があるが、ここでは大永4年(1524)としておく。

 

本日も訪問、ありがとうございました。



 亮政,久政,長政と三代にわたって湖北を納め、栄華を誇った小谷城であったが、元亀元年(1570)姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れた後、天正元年(1573)8、清月水谷から攻め上った織田軍によって落城した。
 浅井氏滅亡後、木下籐吉郎が湖北三郡を与えられ、天正3年(1585)に今浜の地に新たに長浜城を築いた後は廃城となる。


向山城 近江国(伊吹)

2013年10月14日 | 陣城

田の畔道から、攻め込むが切岸のよう3m。

お城のデータ 

所在地:米原市甲津原(旧伊吹町甲津原)   maphttp://yahoo.jp/ThWOGg

現 状:森林

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:京極氏?浅井氏? 

遺 構: 土塁・竪堀

目標地:甲津原交流センター

駐車場:甲津原交流センター駐車場

訪城日:2013.10.13

植栽林で、コアジサイが蕾を付けてました。

お城の概要

向山谷の城郭遺構は残る、土塁は低く直線的に横矢歪みも洗練された治山城対面の200mくらい離れた位置にあり、【治山城を攻撃するための陣城「向城」であった可能性もあり、土塁竪堀も配置は治山城と対峙する臨戦態勢を伺わせる構造、頂部は未完成で。治山城とは全く異なる異質の城郭遺構】と解説された。居住性のない、陣城。

杉木立に囲まれたところが向山城(農道から遠景)

画像 

 縄張り図・鳥瞰図:長谷川博美氏作図(内諾)

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


「秋一番 あざい ほっと 城郭見学会」

2013年10月14日 | 平山城

近江中世城郭調査委員会主催の「秋一番 あざい ほっと 城郭見学交流会」が参加しました。
講師は、城郭研究家 長谷川博美氏です。
午前11時、小谷城戦国歴史資料館前駐車場画像に集合し、

「旧伊吹町 甲津原の治山城郭遺跡、向山城郭遺跡」へ向かう前に

小谷城本丸を見学しました。小谷城 近江国 2013.10.13治山城郭遺跡、向山城郭遺跡」へ向かう途中に小室城 近江国 2013.10.13

甲津原交流センターで昼食・講座

鎮守の森のような!杉木立が治山城(遠景)

 

田の畔道から、攻め込むが切岸のよう3m。

植栽林で、コアジサイが蕾を付けてました。

杉木立に囲まれたところが向山城(農道から遠景)

せんめん橋と治山城

 

本日も訪問、ありがとうございました。


治山城 近江国(伊吹)

2013年10月14日 | 平城

お城のデータ 

所在地:米原市甲津原(旧伊吹町甲津原)   maphttp://yahoo.jp/vURmll

現 状:城山・田地

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:広瀬氏

遺 構: 土塁・曲郭・切岸・犬走り・狼煙s

目標地:甲津原交流センター 

駐車場:甲津原交流センター駐車場

訪城日:2013.10.13

鎮守の森のような!

これが城址?

お城の概要

草が覆い茂った城【切岸】を見ながら、刈り取られた稲株の上を腰郭右回りに歩いていく。腰郭が「田んぼ」として利用されている。水は豊富で平削された腰郭すぐに田んぼとして西利用・・・棚田を開墾するより楽だ!・・・半周回った。

甲津原の昔は不便で、近年少しでも田畑を増やすために郭を田んぼとて利用したもの。

歴 

 「大洞弁財天当国古城主名札」に坂田群室村屋敷主 廣瀬兵庫頭とある。

甲津原区有、天正十年六月十九日付け 羽柴秀吉・秀勝 連署書状 [所在不明・坂田郡志・東浅井郡志に所蔵]に

 明智軍が長浜城を攻め、広瀬兵庫介らが城中にいた女房たちを避難させた。その恩賞として甲津原内35石を賜る。

所付

一、四百弐捨石    高山

一、三十五石     かうつはら(甲津原)

一、四十五国     すいの(東浅井郡杉野)

合五百石可有知行也

今度女房共相越候処、袖馳走条、喜悦候、為忠恩五百石令扶助軍、可有全領知状如件。

天正十  六月十九日     越前守 秀吉   秀勝 花印

広瀬兵庫助殿

   浅井歴史資料館蔵/写し

長浜城にいた、秀吉の母「なか」と妻「おね」は避難の避難ため、美濃国坂内村出身の土豪広瀬兵庫助の先導で、称名寺(浅井軍尊勝寺)の僧性慶の随行で、伊吹町上野の三ノ宮神社を通り、東草野谷より曲谷、甲津原をへて、坂内村に隠れたと。

狼煙穴

ささゆりの実

唯一の石積

何故かカワラナダシコ(大和なでしこ)1輪

杉木立が治山城(遠景)

 

せんめん橋と治山城

甲津原は猿楽演能が盛んで、近くの天満神社に所蔵されているようです

 

縄張り図・鳥瞰図:長谷川博美氏作図(内諾)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系  

              本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


黒田 官兵衛(黒田氏屋敷)2013.9.13

2013年10月13日 | 館跡

賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない。

黒田氏発祥地の碑

全景

所在地:伊香郡木之本町黒田

築城年:鎌倉期

形 式:平城(居舘) 

遺 構:石碑・説明板

訪城日:2013.9.13

お城の概要・歴史

近江源氏・佐々木氏の流れをくむ黒田判官・源宗清(別名・宗満)であり、この近江国伊香郡(木之本町)黒田村に住み、湖北の荘園の領主として黒田判官と称した。
黒田村の中央の小字・構と称するこの一町角が往年の構屋敷、即ち黒田判官の屋敷跡である

黒田神社

御祭神 大己貴命 〔配祀神〕黒田之大連
御神紋 左三ツ巴
御由緒
当社は欽明天皇御宇の創始という。
和銅年中黒田の大連この地に繁栄し郷名を黒田郷と称した。
当社はその一族の奉祀にかかり延喜の制国幣の小社に列せられた古社で、森崎黒田大明神と称し黒田五の総社であった。
東北に黒田山城跡あり黒田左近高政公の城跡という。弘安年間京六波羅敗亡の砌かって近江源氏と称した佐佐木氏の後裔左衛尉源宗清公当地を領し姓を地名に採って黒田氏と称し代々当社を崇敬した。
豊臣秀吉の側臣参謀を勤めた黒田孝高もこの地で育ち又明治期に首相の印緩を帯びた黒田清隆公、候爵黒田長成氏などその直径である。
承久の乱によって社殿炎上、元亀の頃兵乱にかかり、続いて天正11年賤ヶ岳の戦火のため再建ならず同郷の大沢神社に合祀され来たが、明治9年現在の社地に再建仝年村社に列せられ、同42年神饌幣帛料供進神社に指定された。

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。孝高はで、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。

豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

生涯

出身

黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない。孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、置塩城の守護赤松晴政、後に晴政重臣で御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺(こでら)の名字を名乗らせた。

播州時代

天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。永禄7年(1564年)、室津の浦上清宗に嫁いだ妹が、龍野城主の婚礼当日に敵対する赤松政秀(宇野政秀)に攻められ、夫や八代道慶らとともに討たれる。永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

永禄12年(1569年)8月、赤松政秀が、足利義昭を室町幕府15代将軍を奉戴して前年に美濃より上洛した織田信長からの指令を受けた、池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)。政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。

元亀4年(1573年)、東播磨の大勢力である三木城主・別所長治(安治の子)が攻めこんでくる(印南野の戦い)。9月、織田信長が浅井長政を討ち、将軍義昭を追放。天正2年、義昭は山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れる。浦上宗景は信長、宇喜多直家は輝元と相手を入れ替えて結ぶ。天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる。一方で9月には、宗景が直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。

天正5年(1577年)5月、小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する三木通秋の所領である英賀に上陸させ5,000の兵で播磨に攻め込ませるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍を退ける(英賀合戦)。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。

10月、信長は信貴山城の戦いで松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の妻鹿・国府山城(功山・甲山(98m))に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。直ちに秀吉の弟の羽柴秀長に従い、生野銀山を管轄する太田垣景近の竹田城(但馬国)攻め(11月4日落城)に、蜂須賀正勝らと共に加わる。次いで秀吉本隊の上月城の戦いにも竹中重治らと共に加わり、佐用城(福原城)攻め(12月3日落城)では先陣を務めている。

織田家臣時代

ところが天正6年(1578年)3月、別所長治が殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、山中幸盛らを残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した。

双方の調略も激しさを増し、9月に孝高や小西行長らは直家を調略することに成功する。しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。さらにこの時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に幽閉される。1年後、有岡城は落城し、孝高は家臣の栗山利安によって救出された。

天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。孝高の主君の政職も、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている(3年後の賤ヶ岳の戦いを当時に記録した『天正記-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる。)。秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる。9月、孝高は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。

天正9年(1581年)6月、前年に降伏した山名豊国を追放して3月に吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国の鳥取城へ、秀吉は6月に再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。11月、毛利氏と結んだとされる淡路島の由良城主、安宅清康攻めに加わる。

また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。

豊臣家臣時代

高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる。山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。

天正11年(1583年)、大坂城の縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの当初においては、賤ヶ岳の戦い以前より毛利氏に対し、宇喜多氏との国境線の交渉に当っていたが確定し、実質的に秀吉配下に加える。留守居役を務めていた黒田長政らは岸和田の戦いで根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親らの兵を破った。7月、播磨国宍粟郡(山崎)篠の丸城を与えられ5万石の大名となっている。

天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり、諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。

天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州に上陸。宇留津城、香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。

豊前国主

九州平定後の6月、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石))を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政が肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房・野中鎮兼ら国人勢力が肥後国人に呼応する。長政らが一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを徐々に鎮圧し、和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、翌年4月には城井氏らを謀殺することとなった。

天正11年から13年頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた。『フロイス日本史』によると、室津の小西行長に影響され、明石城の高山右近や蒲生氏郷らに勧められ、天正13年に入信し、三木城の前野長康(間も無く出石城へ移り、中川秀政が入城)と共に、播磨における布教の入り口となっていたとされる。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出し、右近らがこれに反抗して改易される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行ないは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことが、ルイス・フロイスの書簡から窺える。

天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。

家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐では小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず病を理由に帰国。文禄2年(1593年)には日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡り和式城郭の縄張りや、 第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より再帰国。秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。

慶長2年(1597年)、慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。しかし、これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった。一方、軍目付たちは豊後国内に加増となった。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。

明くる慶長4年(1599年)1月、生前の秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に徳川家康や福島正則らが抵触すると、それを詰問した前田利家を筆頭とした、他の石田三成ら大老・奉行衆と緊張が高まる。この時に蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった加藤清正や細川忠興らを引き込んで、長政ら七将が三成襲撃事件を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の佐和山城に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。

慶長5年(1600年)6月2日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女(保科氏女・栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日(8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以って味方として中津留守居を務める密約を結び、行動した。 石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)。

9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城(熊谷直盛の安岐城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城など)を落としていった。 国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。鍋島直茂と鍋島勝茂が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川の支城である梅津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

晩年

関ヶ原の合戦の後、長政が先に勲功として家康から筑前国名島(福岡)37万石(再検地後の申請は52万3,000石)への加増移封となった。翌年、如水にも、これとは別に上方での加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。

慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。

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倭(皇倭姫=天智天皇后)神社 近江国  2013.10.3

2013年10月11日 | 遺蹟

倭神社

倭神社は、大津市滋賀里三丁目字天塚に所在し、京阪電鉄滋賀里駅の北方約500mの小丘上に位置する。祭神は天智天皇の皇后である倭姫と伝えるが、おそらくこの小丘上の本殿の改築の際、朱の痕跡が認められる花崗岩の板石が五~六枚発見されたことなどから古墳と考えられ、その被葬者が倭姫だとする伝承によるものであろう。江戸時代の記録によると、天正19年(1591)及び宝永7年(1710)に赤塚大明神として再興されたという。
 現在、墳頂には南向きの一間社流造りの簡素な本殿が建ち、本殿へいたる参道の石段付近の東側にクスノキ、西側にケヤキの巨木がみられ、それらは昭和51年(1976)12月1日付けで大津市保護樹木に指定されている。
 また、この古墳は「赤塚古墳」と命名され、地籍図等の復原による東向きの前方後円墳か、もしくは近年の測量調査による直径30~40m、高さ2.5~4.0mを測り円墳と思われ、築造年代は古墳時代中期の五世紀前半頃と推定されている。
 この神社は、通称「赤塚の明神さん」の名で滋賀里地区全域の住民に親しまれており、御例大祭は9月23日で、宵宮祭には江州音頭による踊りが平成8年まで催されていましたが、現在は行われていません。

被葬者が祭神・皇倭姫(天智天皇后)と伝承されている赤塚(または天塚)と呼ばれる古墳の墳丘上にある。赤塚は前方後円墳で、その後円部の頂上を削平して社地を営んでいる。
南向きの簡素な社殿のみがある

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北之庄城(深谷・岩崎山城) 近江国(近江八幡)

2013年10月11日 | 戦国山城

佐々木経方の六男 乾六郎行範の城か?

所 在 地:滋賀県近江八幡市宮内町・北之庄町   map:http://yahoo.jp/QVlIou

別 名:深谷・岩崎山城

遺 構:石垣、曲郭、堀切、土橋、櫓台

区 分:山城

標高:251m    比高差:150m

築城者:佐々木経方の六男 乾六郎行範か? 

築城期:室町後期

訪城日:2013.10.8

北ノ庄神社の本殿の東側登り口

お城の概要

北之庄神社本殿の右側から山道に入り、25分ほどで主曲輪手前の堀切に掛けられた土橋に着く。この間、小さめの堀切と土橋、および堀切があるが、ルートによっては副曲輪の枡形虎口に出る可能性もある。

 北之庄城は八幡山城の築かれている八幡山(鶴翼山)と尾根続きの標高254mの山に築かれ、南北に延びる尾根に幾つかの曲輪連ねているが、大きくは2つの曲輪とみて差し支えない。
というのも、2つの曲輪が非常に大きく、他の小曲輪の存在を論じてもあまり意味がない。

 主曲輪は50m×50mほどの広さで、主曲輪の北側約30mほど下った副曲輪は100m×100mほどの広さを有し、いずれも周囲を切出しの分厚い土塁を巡らせている。
土塁の高さは高いものは5~6mをはかり、大きな中世城郭である。

主曲輪は南北に虎口を設け、いずれも平虎口ではあるが、北側虎口は石積みの跡が確認できる。
 副曲輪の虎口は、北に2つ、西に1つ、東の1つと計4つの虎口が設けられている。このうち東側の虎口は枡形虎口で、土塁を石垣に変えれば、近世城郭の虎口そのままともいえる規模と構造をしている。

 副曲輪には7つ池と称される7つの池がある。おそらく飲料水用の井戸代わりに使われたのではないか。
 主曲輪、および副曲輪内部の削平はあまく、この城が長期にわたって使われていなかったことを窺わせる。

犬走り最初のビューポイント・・・・観音寺城

八幡山城ビューポイント・・・・観音寺城

お城の歴史

『滋賀県中世城郭分布調査旧滋賀郡』 真野城に説明資料

「真野城は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいたその子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」

 北之庄城は、八幡山城とは直線距離にして500~600mにあって、規模も大きな城であるが、いつ、どのような目的で築かれたかは全く判っていない。

北ノ庄神社鳥居前で

北ノ庄城遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、

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狩野(かりの)城 近江国 

2013年10月07日 | 平城

軽野神社の東の竹藪に狩野城

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町蚊野  (愛知郡秦荘町蚊野) map:http://yahoo.jp/PSoWCb

目標地:狩野神社

区 分:館(平城)

現 状:竹林

遺 構:土塁

築城期:室町時代中期

築城者:狩野将監

駐車場:狩野神社参拝者駐車場

訪城日:2013.10.7

軽野神社の無料駐車場 普通車5台可

竹林の両側に土塁が残る

お社の後から竹藪に

南側の大きな竹林に土塁・堀跡が残る

堀跡と土塁(北側)館の礎石か・・・?

お城の概要

浅井氏の家臣、狩野氏の居城です。竹藪の中には南北に堀と土塁が残っているお城。 

 軽野神社から東側の水田を隔てて南北に約60m程の竹藪がある。

 この竹藪辺りが「城の西」と呼ばれる小字で、ここから東側の狩野地区が狩野城の城域であった。

 竹藪の北端に小さな神社の社殿があり、ここから竹藪内へ入る。 孟宗竹が綺麗に管理されているが、そこには、南北に土塁と空堀が残っていて、土塁南端には物見櫓台であったのだろうか、北側の土塁より一段高く厚みもあった。

 

北側の竹藪

削石が集められ

加工された石(手水石か)

お城の歴史

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「愛知郡秦荘町蚊野」、創築年代は「室町時代中期」、創建者は「狩野将監」、形式は「館」です。城の歴史は「(前略)城跡は単郭で、西側と南側の一部に土塁が残されており、特に西側は高さ1.2m、幅2~3mの土塁が二条南北に走り、その間約2mが堀の痕跡となっている。しかし、西側の土塁は、近年その一部が圃場整備に伴い削られてしまった。

(中略)狩野氏については、明応六年(1497)の『永源寺文書』中に狩野将監の名が出ており、また、観音寺騒動で、六角氏に抗した布施氏が江北の浅井氏と通じて蒲生野(布施山城の戦い)で戦った際に、浅井氏に従い、その五番隊として活躍したことが記録に残されている。」とある。

 

軽野神社一の鳥居

ノミの跡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、日本城郭体系11

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建部館 (松尾神社庭園) 近江の国

2013年10月06日 | 館跡

 桃山初期の作庭といわれ、寺院叉は武家の書院に面した庭園機構です。当地には昔、延命山尊勝寺という東大寺所属の寺があって、松尾神社はその寺の鎮守であったと考えられるところから、当庭園もその機構と思われます。

 しかし、一説では、永禄9年(1566)奈良興福寺、一乗院に隠れていた将軍足利義昭が、近江に佐々木義賢を頼った時、将軍を迎えるために義賢が作庭したともいわれています。

 それは、同将軍が信長に追われて、朝倉義景を頼ったときも、義景が一乗ヶ谷の居城に作庭しており、その庭園と松尾神社庭園とが時代的にも、あるいは様式、手法なども全く同一であるところから類推されたもので、この地に豪族の邸宅があったことも考えられます。

 山畔に多数の石組を建てた豪放なものは、蓬莢石組。中央部一群の石組は、須弥山(しゅみせん)や、鶴亀島の形態を整えており、武家書院好みの力強い造園技術を偲ばせる名園です。

~複雑な石組みが織り成す枯山水庭園の妙~

作庭当時は、ここにこの辺りの領主であった建部氏の屋敷があったともいわれる

 広大な市域をもつ東近江市の行政の中心地、八日市の街の中心部に、「こんなところにこんな素晴らしい庭園が・・・」と驚いてしまうような見事な枯山水庭園がある。近江鉄道八日市駅のすぐ裏手、延命山と呼ばれる小高い丘のような山の麓にある松尾神社庭園だ。
緑深い木立に包まれた松尾神社の境内。ごつごつとした自然石を多用した庭園は、松尾神社の鳥居をくぐってすぐのところ、拝殿の左脇に静寂とともにたたずんでいる。

鶴島と亀島の間にかけられた一枚の大石の橋

 神社の前を通る道は多くの人や車が行き交うが、そのすぐ傍らにあるこの庭園を観ようとする人の姿はあまり多くはない。だが、松尾神社庭園の由緒を知れば、この庭が思いのほか深い歴史とエピソードを秘めた名庭だということがわかってくることだろう。
 松尾神社は、八日市の背後に控える山、延命山の麓にあり、古文書によれば、この山を北へ尾根伝いに行ったところにある、聖徳太子が創建したと伝わる瓦屋寺の別院、延命山尊勝寺(えんめいざんそんしょうじ)の鎮守としての神社だったという。尊勝寺は奈良・東大寺の管轄であったということから、このあたりでも重要な役割を担っていた神社であったことが想像できる。

中央にある須弥山。須弥山は仏教などで世界の中心を表すもの。庭園は昭和46年に旧八日市市の文化財に指定された(現・東近江市指定文化財)

 松尾神社庭園は、桃山時代初期の作庭とされ、寺院か武家の書院に付随した庭園だったと見られている。だが、一説には、奈良の興福寺一乗院に身を寄せていた室町幕府最後の将軍、足利義昭が、永禄9年(1566年)に南近江の守護を担った後に隠居していた佐々木義賢を頼って近江に赴いた際に、義賢が将軍のために作庭したともされる。

永禄11年(1568年)信長が佐々木氏を攻めた折、佐々木氏の配下であった建部氏の館も庭園だけを残して灰燼に帰し、その跡に松尾神社が建てられたともいわれる


 大小さまざまな石で組まれた庭園は、「蓬莱式枯山水」と呼ばれる庭園様式で、山際に蓬莱連山を思わせる石組みが、中央に須弥山(しゅみせん)と鶴島・亀島が配されている。複雑な石組みに用いられた石は背後の山から採取された花崗岩質のもので、その岩質の風合いもあいまって、豪快でどっしりとした武家好みの趣を醸し出している。
 はっきりとした庭園の由来は定かではないが、乱世の時代につくられたことを思い起こさせるその荒々しくも迫力のある作風から、湖国の名庭の一つにあげてもよいだろう。

 

 

本日も訪問、ありがとうございました。