城郭探訪

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青木城東城館 近江国(甲賀) 

2014年07月30日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町滝字青木 (旧甲賀郡甲賀町滝字青木)    map:http://yahoo.jp/2raL8D

現 状:山林・竹林

遺 構:曲輪・土塁

区 分:丘城

標高:220m   比高差:20m

築城期:室町期

築城者:多喜氏

城 主:多喜氏

目標地:青木池・正覚寺

駐車場:正覚寺 無料駐車場http://yahoo.jp/NcKJho

市指定史跡

城日:2014.7.30

正覚寺駐車場の前から道路沿いに 

お城の概要

青木城(東城館)は正覚寺の南背後にある丘陵の頂部に築かれており、県道を挟んで西側に西城館がある。

青木城(東城館)は尾根を土塁として削り残し、その東西両側を曲輪としている。尾根の南東側に一条堀切状の窪地がある。

 

歴 史

多喜氏は、甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

多喜(滝)家 - 一族の著名人物として中村一氏(水口初代城主=豊臣政権の三中老の1人)・多喜勘八・瀧飛騨守がいる。

(一氏は近江国甲賀(現・滋賀県甲賀郡)の瀧(又は多喜)という家の出身。瀧孫平次(後の一氏)は、生来果敢な人間で、どちらかと言えば村の暴れ者だった)

築城年代は定かではないが多喜氏によって築かれたと云われる。 

多喜北城・多喜南城・梅垣城・青木城の総称を多喜城といい、多喜北城が本城とされる。 多喜氏は大伴姓富永氏の一族で伴家継を祖とする。

多喜俊兼は長享の乱(1487年)で武勇をあげ、叔父の由旭は油日神社の再建運動の指揮をとった人物という。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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青木城西城館  近江国(甲賀)

2014年07月30日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町滝字青木(旧甲賀郡甲賀町滝字青木)    map:http://yahoo.jp/9ZM95q

現 状:山林

遺 構:曲郭、土塁、堀切

区 分:丘城 

標高:220m    比高差:30m

築城期:室町期

築城者:多喜氏

城 主:多喜氏

目標地:青木池・正覚寺

駐車場:青木池・正覚寺駐車場 無料駐車場

市指定史跡

訪城日:2014.7.30

お城の概要

城は県道775号線沿いにある青木池の西側、北へ伸びる丘陵に築かれている。

主郭部は高土塁が巡り東側に虎口が開く、北へ三段程の平坦地があり一部土塁が残り、北端の平坦地には祠が奉られている。

東側は南北に堀底道が伸び、主郭の背後は堀切である。

ここから南東側へおりると竹薮の中に古い古屋があり、平坦地がある。

歴 史

多喜氏は、甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

多喜(滝)家 - 一族の著名人物として中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守がいる

築城年代は定かではないが多喜氏によって築かれたと云われる。

多喜北城・多喜南城・梅垣城・青木城の総称を多喜城といい、多喜北城が本城とされる。 多喜氏は大伴姓富永氏の一族で伴家継を祖とする。

多喜俊兼は長享の乱(1487年)で武勇をあげ、叔父の由旭は油日神社の再建運動の指揮をとった人物という。

青木池 無料駐車場(左が西城・右が東城)青木西城(遠景)

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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冨田城 近江国(甲賀)

2014年07月30日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字長野・藤ヶ谷 (旧甲賀郡甲賀町油日字長野・藤ヶ谷)    map:http://yahoo.jp/vKnVW9

現 状:個人宅・畑地・山林・道路

遺 構:曲輪・土塁

区 分:平城 

標高:260m   比高差:8m

築城期:室町期

築城者:

城 主:

目標地:バス停「藤ヶ谷」寸前左手北側の民家

駐車場:西側空地 無料駐車場

訪城日:2014.7.30

 

お城の概要

富田城は、甲賀町油日のうち古間野集落の西外れ、南西から延びる丘陵と東側の青野川に挟まれた微高地に築かれていた。

縄張は図のようにⅠⅡの2つの曲輪で構成される。

現況は南北に道路が貫き、一戸の民家が建っていて破壊が激しいが、道路西側の山林内に主郭Ⅰの土塁と井戸a、民家が建つ曲輪Ⅱの裏手に土塁が残る。

土地改変で判り難いが、青野川側に虎口が開口していたであろうから、この民家裏手の土塁は本来城館の前面を守るものだったことになる

 

歴 史

詳細不明。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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五反田口城   近江国(甲賀)

2014年07月29日 | 丘陵城

民家の西側には土塁が残るお城。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字藤ヶ谷(旧甲賀郡甲賀町油日字藤ヶ谷)    map:http://yahoo.jp/UTXlpU

現 状:個人宅・畑地・竹林

遺 構:土塁、堀

区 分:丘城 

標高:240m 比高差 3m

築城期:室町期

築城者:

城 主:

目標地:バス停「藤ヶ谷」寸前左手北側の民家

駐車場:西側空地 無料駐車場

訪城日:2014.7.28

曲郭Ⅰの土塁

お城の概要

五反田口城は、甲賀町油日のうち南方、藤ヶ谷地区の県道4号線に面した丘陵裾野に築かれている。

北方は生活道路、南方が県道四号で分断され、五反田川をのぞむ丘陵の先端に位置している。

丘陵斜面を切り込んだ長方形の主郭(現在は民家敷地で立入不可)となっていて、西側に高さ約2m程の土塁が残っている。 主郭西側に二の曲輪があり、市道に面した竹藪には約1m程の土塁が残っているようだ。が

縄張りは図のように2つの曲輪からなり、主郭Ⅰは現在は一面に個人宅が建っている。

またⅡは荒地となっていて、Ⅱの北西辺のと土塁が雑草・竹林で確認できない。曲郭Ⅱにはかつて「山崎十二人塚」の一つが存在していた。

曲郭Ⅰの北西の土塁は、公園化された北西側から確認出来る。

しかし城全体が宅地造成によって改変をうけ、土塁はほとんどが消滅したと思われる。

曲郭Ⅰの北西の土塁

公園化された北西側、シーソーが一基設置されている、北側の削平され公園化・・入城口。

歴 史

詳細不明。

五反田口城は、室町時代に築かれたが築城者は定かでない。

 攻撃や監視の足掛かりの役目を担っていたことも立地上考えられる。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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中山城    近江国(甲賀)

2014年07月29日 | 平城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字火の谷・古池 (旧甲賀郡甲賀町油日字火の谷・古池)    map:http://yahoo.jp/-cxrnd

現 状:森林

遺 構:曲輪・土塁・堀切

区 分:丘城

築城期:室町期

築城者:

城 主:

目標地:

駐車場:橋の手前 農道空地http://yahoo.jp/JSfaUf

訪城日:2014.7.28

 

お城の概要

中山城は油日の岡崎集落の南方、杣川と青野川に挟まれた丘陵の北端に位置している。

城は南側を浅い堀切aで遮断し、丘陵を掘り込んで単曲郭Ⅰ(主郭)を造成している。そのため土塁は高く、西側以外は斜面は緩く、東と北には帯曲郭を設け主郭の土塁を仕上げている。二つの帯郭は連続しており、西端は堀切bとなって谷に落ち込む。

曲郭Ⅰは東半分は少し低く。西半分の中央は西側へと続く浅い溝がある。全体に土塁の土砂が流れ落ちているようだ。

南西に低い土塁あり、虎口Cを形作っている。虎口は南に開いており、西側平野を意識した城構えである。

杣川の谷筋・街道を油日城・中山城、岡崎城・前山城・木内城で固めている。

 

歴 史

 

詳細不明だが、此の地領主上野氏の城郭と推察される。

 

逆光です・・・正面が中山城(橋を渡り)登城口へ 登城口

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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前山城(油日支城・山ノ鼻城)   近江国(甲賀)

2014年07月29日 | 丘陵城

甲賀郡の単郭方式に比べれば、油日城の出丸や二曲郭の前山城は異質と言える。 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字岡崎 (旧甲賀郡甲賀町油日字岡崎)    map:http://yahoo.jp/vYFJ9l

別 名:油日支城・山ノ鼻城

現 状:森林

遺 構:土曲輪・土塁・堀切

区 分:丘城

築城期:室町期

築城者:上野氏

城 主:上野氏

目標地:高畑バス停

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.28

 

お城の概要

甲賀市誌7巻(甲賀の城)の踏査で、発見された岡崎城の尾根続き、街道に沿うよう長方形の曲郭が複数設けられた城郭遺構である。

地元では「油日支城」「山ノ鼻城」呼ばれ、油日城の出城と考えられている。

岡崎集落の北背後の丘陵の舌状部に、東・西に堀切で遮断された曲郭Ⅰが位置する。東側に土塁状の高まりがあるが自然地形と思われる。堀切bへの出入り口に名っている。

曲郭Ⅰは明瞭な虎口は見当たらない。北土塁に外側は緩やか斜面で防御性は低い。曲郭Ⅰへは堀切aを通りぬけ南側から回り込む。

堀切aのすぐ西は自然地形で曲郭Ⅱが位置し、北側には見張り櫓台の土塁が残存し近江から伊賀へ、油日館・油日城への街道の監視に敵している。北側の高畑集落への開口を設ける。

岡崎城からの距離を考えと拠点を、前山城(出丸として)移したとも考えたれる。南側の街道の監視の大役を担った支城・出城の城構え。

歴 史

詳細不明だが、此の地領主上野氏の城郭と推察される。

登城口(前山城~岡崎城)。或いは岡崎城から尾根続きで見学(岡崎城~前山城)

 

 中山城登り口から前山城(遠景)

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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岡崎城   近江国(甲賀)

2014年07月29日 | 丘陵城

甲賀市誌7巻(甲賀の城)の踏査で、発見された岡崎城。

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字高畑・岡崎 (旧甲賀郡甲賀町油日字高畑・岡崎)    map:http://yahoo.jp/RRMp4L

現 状:森林

遺 構:曲輪・土塁

区 分:丘城

標 高:254m 比高差:30m

築城期:室町期

築城者:上野氏

城 主:上野氏

目標地:岡崎集落・巌本金属

駐車場:岡崎集落・巌本金属前 路上駐車場

訪城日:2014.7.28

 

お城の概要

岡崎城は油日・岡崎集落の北方の丘陵上に位置し、単郭方式の縄張りを持つ、甲賀では一般的な城である。

西隣にある前山城と異なり、地元では城郭と認識されておらず、甲賀市誌7巻(甲賀の城)の踏査で、発見された岡崎城(踏査・調査で初めて存在が確認された)。

聞き取り調査では、曲郭は築城時に削平されたもの(畑などに利用されたことはない)と推定される。植林された檜の人口林の為、夏場でも遺構ははっきり確認できる。ただし、登城口は笹が覆い茂り(日当たりが良い為)5mほど進むと下草も殆どない。

南向きの丘陵ろ掘り込み、郭の南側にも土塁を設け、東・北・西の土塁は高く内側は急斜だが、北土塁の外側は緩斜面である。東土塁は曲郭より約20m南に延び曲郭の南東の虎口への防御土塁の構え。

歴 史

詳細不明だが、此の地領主上野氏の城郭と推察される。 

北麓標高230m地点に灌漑池(主郭から高畑集落方向へ約150m)

 

登城口 岡崎集落・巌本金属

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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油日冨田(あぶらひとみだ)城  近江国(甲賀)

2014年07月29日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字杉本 (旧甲賀郡甲賀町油日字杉本)    map:http://yahoo.jp/Z8J067

現 状:宅地

遺 構:土塁

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:冨田氏

城 主:冨田氏

目標地:杉本集会所

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.28

お城の概要

民家敷地北側には形の良い土塁が今も残る居館。

現在に残る遺構は、土塁のみである。明治以前は、四方の土塁や堀も残っていて南側には虎口もあったらしい。

北側の土塁の外に残っていた堀も、圃場整備の際に埋められた 。

油日富田城は、方形単郭居館形式の縄張りの城だ。 かつては、土塁と堀が囲繞していたと推定できるが、現在では宅地の北側に高さ約2m程の土塁が残っている。 資料によれば、北側の堀などは圃場整備により埋められたとか。

 

歴 史

油日冨田城は、油日神社の北西約500mにある平地居館。

城内に居を構えた冨田氏は、上野同名中の惣領家とされ油日神社の『鍵預り』の役を務めている。

油日冨田城は、築城年代は定かではないが冨田氏によって築かれた。

 

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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山岡道阿弥

2014年07月29日 | 武将


不死鳥の寺、三井寺は永遠に生き続ける。

山岡道阿弥坐像山岡道阿弥像

三井寺は何度も焼き討ちにあっている。十世紀後半頃から天台座主の職や戒壇建立問題に端を発した、 比叡山延暦寺(山門派)と三井寺(寺門派)との確執は平安末から鎌倉時代にかけてエスカレートし、 ついに武力衝突へと発展する。歴史に残っているだけでも十数回を数えるという。世にいう「山寺両門の争い」である。
また、源氏の氏寺でもあった三井寺は、源平の戦いや南北朝の動乱に際して源氏や足利氏側について、 それぞれ治承四年(1180)、建武三年(1336)にも大損害をこうむっている。 さらに、文禄四年(1595)には闕所(けっしょ)(:財産没収)を豊臣秀吉に命ぜられる。 まさに、悲運の三井寺である。しかし、そのような運命の三井寺は、その都度ことごとく蘇り、 現在も天台宗寺門派の総本山として隆盛を誇っている。不死鳥の寺と呼ばれる所以である。 このことは、多くの支持者、支援者がいたからに他ならない。今回の特集、 山岡道阿弥(法名暹慶(せんけい))も文禄の闕所からの復興に並々ならぬ力を注いだ人物であった。




信長、秀吉、家康と仕え権力の中枢へ

山岡家は代々、瀬田城主をつとめていた。 現在、瀬田の唐橋の付近には山岡家を記念する「勢多古城 址碑」がたっている。

山岡道阿弥は、栗東武士として名高い瀬田城主の山岡景之の四男として生まれた。 山岡家はもともと、甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で、栗太郡、甲賀郡など湖南地方に広い勢力を築きあげていた。 父景之は文明・永正年間の頃、六角氏綱の下で「湖南の旗頭」を勤めたという。 この頃には、要衝瀬田の唐橋を支配する瀬田城を拠点としていた。
国宝・光浄院客殿は慶長6年に山岡道阿弥よって建立された。
道阿弥は、はじめ三井寺に入り、暹慶と称し光浄院の住持となったが、 戦国時代の動乱によって還俗を余儀なくされ、景友を名乗り織田信長に仕えることになる。

天正元年、武田信玄は満を持して入洛の途についた。 すでに信長と不和となった将軍足利義昭もこれに同調して軍を起こす。 道阿弥も義昭の誘いによって石山に要害を構えて、柴田勝家、明智光秀に率いられた織田の軍勢に対抗するが、 敗れて瀬田城を逃れる。巷間伝わる信長の気性からは考えられないことだが、 その後許されて、信長の旗下に加わることになった。
 
その後、信長が明智光秀の軍勢により本能寺で倒れるや、瀬田橋に火を放ち、安土城に向かう明智軍を防ぎ、 その功により秀吉のお咄衆として仕えている。
 
近鉄「桃山御陵前駅」付近にある町名表示板。
秀吉から伏見城下に屋敷を拝領した場所は、 現在の近鉄「桃山御陵前駅」周辺に当たり、今も「道阿弥町」という名前で呼ばれている。
 
しかし、秀吉の死後、急速に徳川家康に接近する。 関ヶ原の合戦には、石田三成方の長束正家の甲賀水口城を降し手柄を挙げ、 伏見籠城戦に参加した甲賀武士の子孫百名と九千石を家康から賜る。
道阿弥の子孫は江戸時代になっても幕府に仕え、将軍の側近である御書院番などを勤め明治維新を迎えている
 
道阿弥の足跡は三井寺の歴史そのもの。

山岡景隆像山岡景以像
 
三井寺の光浄院は、十五世紀前半に道阿弥の祖先にあたる山岡資広が開創したのに始まり、 代々山岡家の子孫が住持を勤めることになっていた。そのような訳で三井寺には道阿弥の肖像画が伝わっている。 本紙の下半分に大きく軍馬を描き、人物は左むきに座った姿で上半分で大きく描かれている。 道阿弥はやや小肥の温和な容貌で描かれている。茶人のような教養ある人物に描かれており、 とても戦乱の時代を生き抜いた覇気ある人物には見えない。 それだけいっそうに下半分の軍馬とちぐはぐで人物を描いたのか馬を描いたのかわからないような印象を受ける。 他にも、景隆、景以などの山岡家当主の肖像画も残されている。
道阿弥が伏見城から寄進した知恩院黒門(京都府指定文化財)
京都東山から眺望が広がる。山岡道阿弥がねむる墓所。
 
三井寺の光浄院は、十五世紀前半に道阿弥の祖先にあたる山岡資広が開創したのに始まり、 代々山岡家の子孫が住持を勤めることになっていた。そのような訳で三井寺には道阿弥の肖像画が伝わっている。 本紙の下半分に大きく軍馬を描き、人物は左むきに座った姿で上半分で大きく描かれている。 道阿弥はやや小肥の温和な容貌で描かれている。茶人のような教養ある人物に描かれており、 とても戦乱の時代を生き抜いた覇気ある人物には見えない。 それだけいっそうに下半分の軍馬とちぐはぐで人物を描いたのか馬を描いたのかわからないような印象を受ける。 他にも、景隆、景以などの山岡家当主の肖像画も残されている
 
文禄の闕所に際しては道阿弥の弟、暹実とともに三井寺復興に奔走することになる。 現在の国宝光浄院客殿こそ道阿弥の建立によるものである。まさに三井寺復興の大恩人であった。
今年三月、道阿弥が眠る京都、東山知恩院の墓所を訪ねた。 知恩院境内、信重院の御母堂様に道阿弥の墓所まで案内していただいた。 知恩院の黒門を通り、浄土宗の開祖法然上人をまつる御影堂の奥をすぎ、小高い山を登る。 幾箇所もの墓地を通り抜け、市内を一望する東山の山麓にへばり付くようにそれはあった。 われわれ取材班だけではとうてい見つける事が困難な場所であった。 また、我々が通った黒門は道阿弥が伏見城より知恩院に寄進したと伝えられており、 信重院には三井寺と同様、位牌が安置され手厚く供養されている。知恩院にとっても、大切な人物であった。
いづれにしても道阿弥が復興した光浄院は、それ以降変わることなく端正な姿を今に伝えている。 争いもなく平和な時が四百年も続いたのは三井寺の歴史始まって以来ではないだろうか。 これからもそんな時が永遠に続くことを道阿弥は願っているに違いない。

 

油日(あぶらひ)城 近江国(甲賀)

2014年07月29日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字風呂ヶ谷・心経田 (旧甲賀郡甲賀町油日字風呂ヶ谷・心経田)    map:

現 状:竹林

遺 構:曲輪・土塁・横堀

区 分:丘城 

標高:250m比高差:20m

築城期:室町期?

築城者:上野氏

城 主:上野氏

目標地:油日会館、善徳寺

駐車場:油日神社参拝者用の無料駐車場

訪城日:2014.7.28

 県道沿いから薮の中を無理矢理登ったが城の北東側に回り込めば山への道があった

お城の概要

城は油日館から県道131号線沿いに南へ行った所にあり、杣川とその支流が合流する地点の丘陵に築かれている。

主郭は方形で土塁が巡りその回りに削平地がいくつか見られる。南側の削平地には一部土塁が残る。

県道沿いから薮の中を無理矢理登ったが城の北東側に回り込めば山への道があった。城山付近の県道沿いには3つの橋が架かっているが、その中央の橋(ちょうど城山の北になる)を北へ渡り川沿いを東へ進む。するともう一本橋が架かっているのでそれを渡って進むと入口がある。

歴 史

 油日館は、築城年代や築城者は定かでない。 油日城共々上野氏が城主であったと考えられている。

館は下屋敷、近くの丘陵にある油日城は詰め城、上野氏の館・城です。

 

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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躰光寺館 近江国(能登川)

2014年07月27日 | 居城

 

 お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市躰光寺町 (旧神崎郡能登川町躰光寺)    map:http://yahoo.jp/6nwIgg

現 状::・宅地

遺 構:

区 分:居館

築城年:織豊期

築城者:体光寺小左衛門

目標地:西郡神社

駐車場:西郡神社の路上駐車

訪城日:2014.7.19

お城の概要

城郭分布調査4の城郭関係地名に躰光寺小字東殿衛(トノエイ) 、小字宮ノ馬場

歴 史

江戸期の文政12年(1829)彦根藩給人に、躰光寺 竹原化三太53.345石 石原主膳37.586石の記録が残るが、居住の記録はない。

 淡海国木簡攫に、躰光寺村 此所ニ体光寺小左衛門ト云武者有、賤ヶ岳合戦ノ節、毛受勝介ヲ討取タル人ト云。

毛受 勝照(めんじゅ/めんじゅう  かつてる、永禄元年(1558年)- 天正11年4月21日(1583年6月11日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣。

諱は初名を照景、後に家照、勝照と改めた。異説として吉親とするものもある。通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、後に勝介(勝助)となった

 17歳の時、伊勢長島攻め(天正2年(1574年))に従軍した。激戦の中、柴田勝家軍の馬印(騎標)が一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、自分で敵陣に突入して見事に馬印の奪還。これを勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った。

勝家は荘介に偏諱を与え、自身の名前の一字「勝」の字を与えて、字を勝介に、あるいは諱を勝照と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出陣。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御弊」を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田勝家をなり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25。秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治初期に再び姓を水野に戻したと云う。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、能登川の歴史、現地説明

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伊庭古城(いばふるしろ)城 近江国(能登川)

2014年07月27日 | 居城

お城のデータ

所在地:東近江市伊庭町    (旧神崎郡能登川町伊庭)     map:

現 状::宅地・田畑(水田+畑地)

遺 構:

区 分:居城

築城期:

築城者:

城 主:

目標地:ちどり保育園 http://yahoo.jp/rIDDze

駐車場:ちどり保育園隣り駐車場 http://yahoo.jp/rIDDze

訪城日:2014.7.19

お城の概要

能登川西小学校の南西一帯(民家と畑地一帯)・・・詳細不明

宅地化、圃場整備で城郭遺構は、全く見当たらないが、伊庭集落の東端に大濱神社があり、集落の入り口に勧請縄がつられていた。

大濱神社 集落の入り口に勧請縄

歴 史

伊庭小字東殿町が・・・詳細不明

ちどり保育園隣り駐車場 http://yahoo.jp/rIDDze

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4、淡海の城、能登川の歴史

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龍泉寺城  近江国(甲賀)

2014年07月27日 | 平城

 

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町上野字護摩田 (甲賀郡甲賀町上野字護摩田) map:http://yahoo.jp/HUSmwS

現 状::寺院

遺 構:曲輪・土塁

区 分:平城

築城期:室町時代

築城者:上野四郎景光

城 主:上野四郎景光

目標地:上野 龍泉寺

駐車場:龍泉寺 門前駐車場

訪城日:2014.7.21

 

お城の概要

龍泉寺城は、油日駅から北東へ5分ほど歩くと中川を背に龍泉寺境内に位置する城である。駐車場は門前ある。

かつては、寺の三方を土塁と堀がめぐっていたいうが、現在は西側にL字に一部が残すのみ。現存土塁は巾1~2m、高さ1~2m。曲郭の規模は東西30m・南北25mを図るが、南側は地割が改変されおり本来の規模は復元できない。周囲には城郭遺構h確認できず集落からやや遊離した単郭の城館として立地する。

龍泉寺城の南西100mに木内城、北西300mに北上野城Bがある。周辺には上野同名中を構成する土豪層の城館が点在する。

歴 史

本来は上野同名中を構成する土豪層の城館として機能していたことが知られる。

龍泉寺は臨済宗永源寺派の寺院で、寺伝によると

天正年間(1573~)甲賀21家の一つである上野四郎景光が武家館跡に草庵を建て景光庵と名付けた。

その後、景光が四国阿波の国に渡り数年後帰る際、弘法大師の作といわれる十一面観世音菩薩像を受け、この庵に安置したといわれている。

その後、荒廃していたが、永源禅寺百四世朴祖淳大和尚により、延享二年(1745)十一月に本堂が再建し、万年山龍泉寺と改められた。

現在の本堂は明治23年に改築され、この落成式に歌舞伎が奉納された記念の額がある。現在の庫裏は昭和10年に完成したものである。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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能登川の歴史・お城

2014年07月27日 | 番外編
能登川町のお城について
  ~佐々木氏の武将について~
 佐々木氏の本城が、観音寺城で、佐々木氏は観音寺城を守るために、観音寺城の、周辺に、家臣団を、配置しました。観音寺城は、能登川、五個荘付近にあるので、佐々木氏が配置した家臣団の城が、能登川に、たくさんあります。町内に、配置した家臣たちはそれぞれ村落を、支配下におさめ、村の中央に館(城)を設けて、守りを固めました(そんらく↑)      
  ~お城の数・名前~
数:能登川町にあるお城の数は、全部で22か所あります。お城の数は、ほとんどが字によって決められています。下は、お城の名前と、場所です。
1:阿弥陀堂城=阿弥陀堂
2:猪子館=猪子
3:伊庭城=伊庭
4:伊庭御殿=能登川
5:今村城=今
6:伊庭古城=伊庭
7:小川城=小川
8:垣見城=垣見
9:川南城=川南
10:観音寺城=北、南須田
11:国領城=躰光寺国領
12:佐生城=佐生
13:佐野館=佐野
14:新村城=新宮
15:須田館=須田
16:躰光寺館=躰光寺
17:種村城=種村
18:八仏手城=種村
19:福堂館=福堂
20:和田山城=長勝寺
21:山路城=山路
22:安土城=南須田 安土城は、南須田に搦め手口がある
   ~各武将の城(館)~
 能登川には、21か所のお城があり、
種村氏、
新村氏、
小川氏、
後藤氏、
須田氏、
猪子氏、
国領氏の7人。
種村氏:種村の、西側に居館。大橋姓はその子孫。先方種村氏は、伊庭氏からの別家で、八仏手城を築いたが、伊庭氏没落時に、各地分散。
新村氏:佐々木一族、志村に居館。信長勢に抗してろう城し、670人のぎせいをだし、落城。
小川氏:小川に居館。元亀2年(1571年)信長勢に7人の人質を出して、降伏、落城。
後藤氏:佐生城は佐々木氏の下屋敷。佐生城に居館。
須田氏:信濃源氏の、未流。須田九郎為真が、元祖。須田を、支配。
猪子氏:佐々木一族、伊庭氏の未流。猪子次郎が先祖。猪子を支配。
国領氏:先祖高橋氏の、未孫が、国領氏と称した。
 
垣見城
文献に永田栄俊が、垣見城にいた記録があります。「殿屋敷」「姫屋敷」といわれる場所(伝承地)があります。
 
金剛寺、昔垣見城でした。
【本堂】
本尊は、阿弥陀如来です。本堂は、寛政6年(1794)1月に完成しました。棟梁は、木澤さんです。昔は、寺台宗の寺院だったそうです。
【鐘】
 ここの鐘は、いつもならしている鐘です。冬は5時に、夏は6時にならしています。近くで聞くと、耳がジーンとしました。
【親鸞像】
 親鸞「しんらん」は、浄土真宗を教えを説いた人です。本堂前にある親鸞聖人はわりと新しいものです。親鸞(1173~1262)は、鎌倉時代のお坊さんで、仏にすがればだれもが極楽いけると説いた人です。
【石垣】
金剛寺は、昔垣見城でした。垣見城は、永田栄俊が垣見在城していました
『殿屋敷』『媛屋敷』といわれる伝承地があります。
【正門】
 正門には、『浄土真宗 本願寺派 大日山 金剛寺』とかいてあります。
                 
種村城
【種村城について】
種村城は、1350年代に種の小字藪下に、造られました。(そのため藪下城とも言われました)このころは、鉄砲もなく弓矢とやり、刀での戦で、鎧や甲はすべて鉄板でできていたので、身軽には動けませんでした。
 幅1m80cmほど・深さ60cmぐらいの堀に囲まれた、普通の家よりも少し大きめの建物だったそうです。お城の門は東に向いています。そのまえは、今も「大開」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。
 種村城の城主は、佐々木家から種村の地に分家して、種村姓を名乗りました。木代保の家には、佐々木家の紋章があります。これらは、神崎郡史稿などにも記載されています。近くを流れる大同川の横の草道には、石碑があります。
1350年は・・・・
 1350年代は、室町時代の前期です。このころは、鉄砲のない時代で、長浜城や彦根城みたいな城ではありません。       
新村城
【新村城について】
 新村城は、元亀2年に織田信長により落城します。
新村城の城攻めは、町史・近江源氏などにかかれています。志村左衛門忠資
は、永禄16年[1568]9月信長が近江に、軍を進めていらい、徹底的に信長に反抗しました。
 このことに応じて志村資忠は、浪人を集めて、新村城にたてこもり3年におよんだ。元亀2年、信長は佐和山城にすすみ、丹羽のもとに泊まりました。9月1日に新村城を攻めさせました。攻撃は、佐久間信盛など、4人に命じ数千の兵で、四方から攻め寄せ670の首数を討ち取りました。お墓は、今もある法筐印塔だといわれています。新村城落城後は、秀吉は新村の地四百石を福谷藤介に、給与しています。
 城祉については、神埼郡史、江戸時代の古城取調書、   にも記されています。
年表
弘治(1555~1558)宮西村ができる
永禄 江波が川南村になる
永禄2年新村伊豆守が木を寄付する
元亀1年寶満寺兵火で焼失
元亀2年(1571)8月信長が新村城を、攻略・670人余りが討首に
 
 
 
伊庭城

伊庭城跡は神崎郡能登川町大字伊庭にあり近江守護職佐々木氏の被官伊庭氏の居館跡といわれている往時の伊庭氏は現在では干陸化しているが大中の湖をはじめ琵琶湖の湖上権を握る大きな勢力で、主家たる佐々木氏をないが城にすることさえあったといわれている。その居館跡とされいる、現在城跡とされる伊庭城跡は、伊庭集落内で公民館として、使用されている、謹節館の付近とされている。現在城跡であることを裏付ける遺構は、堀跡館付近の水路のみである。元来伊庭落地には、幾節もの水路、堀割すべてが伊庭城と関係するものでわないかとえ、思われる。その他この謹節館がある地などが、城の存在を示唆する資料となっている江戸時代の伊庭は、おおむね旗本三枝氏の所領であったといえ三枝氏は近くの所領も合わせて、伊庭に代官山も、先述の伊庭城跡現在の謹節館の地にあったのであるまたここより少し東方に「古城」なる小字が遺在しておりここにも城が、存在していたなら、現在伊庭城跡といわれている所がどのように関係するのか、今後の調査研究が待たれる。

山路城
「淡海木間攫」山路村の条には、「山路平兵衛・小路与左衛門在城し、城残れり」とあり、「近江温故録は、山路主馬介胤治が居り元亀元年10月の六角氏再興戦で討死したとし、「大河弁天当国古城主名札」は、山路兵衛の名記している。遺講としては、大字山路の集落中央の東西に一町南北一町半の小字、「城」があり三方を小路で囲まれていた。現在埋め立てられたが、東側の小路は、「堀」と呼ばれ、また、「城前橋」の名前が現在も残っています。
 山路氏の民城です。集落の中央に小字名「城」があります。
種村城                    石垣・堀→
 造られたとき:1350年代「室町時代初期」
 造られた場所:種の小字藪下「このため藪下城とも呼ばれていた」
  当時の様子
 鉄砲もなく弓矢とやりや刀での戦で、よろいや甲は全て鉄板で作られていたから身軽には活動することもできなかった。だから、鉄砲が使われ、鎖や皮で作られたよろいを着けた時代、お城である彦根城や長浜城のような物ではありませんでした。
  種村城の城主
 種村城の城主は佐々木家から種村姓を名乗りました。種村城はわずか三代で終わっていますが、その子孫はその後もその土地で生活をしてきました。
 
 お城の門は東に向いていて、その前は、今も「大開」と呼ばれ、その横側の小門の方角は「小開き」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。
                      
  佐生城
遺構:曲輪、石垣、土塁、堅堀?
形式:山城    面積:60m×40m 標高158m
築城者:後藤氏
築城年代:不明                      石碑→
 
  佐生城「別名佐野山城」は、六角氏の居城観音寺城のある繖山の尾根筋東端の半島状つき出した峰上に築か山城です。
  城の規模は小さいが、主郭内部は二段に分かれていて、「後藤但馬守城」の石碑があります。この主郭内部面「尾根側」に長さ約20m・高さ約3mの石垣があります。
 
・ 築城者の後藤氏は、永禄11年に織田信長によってほろぼされました。
・佐生城は標高158mの通称佐生山の山頂を利用した山城です。
~城跡の様子~
 能登川には、たくさんのお城がありますが、そのほとんどが無くなっています。でも、残っているのもたくさんあります。お城の跡の残し方は、いろいろあります。 石を立ててそこに名前を掘ったり、囲いをしたり、石垣を残したりして、お城は残っています。
 
 
猪子山の神社や古墳
 僕は、猪子山の神社や古墳に興味を持ったので調べてみることにしました。 まずは登ってすぐにある岩船をみてみることにしました。説によると西暦728年に高島比良の山より湖上をこの地にわたった比良大神が御乗船されたものと伝えられています。この横の社は岩船社と称し渡湖の際岩船を先導された 津速大神がまつられているんだそうです。さらに上に登っていくと今度は、古墳がありました。なんでも、5~6世紀に郷山全土に居住していた豪族たちの墓らしいのですが埋葬されたものなどは、墓あらしなどによって盗まれたものが多いので発見された埋葬品は、少ないのだそうです。頂上には北向岩屋十一面観音とたいそう長い名前の神社があります。坂田村麻呂が鈴鹿の鬼賊討伐の際にここに安置して祈願したと伝えられています 一方その横にある神のいわくらというものがありここに神が降臨したと言われています。さっき言った岩船やいま言った神のいわくらのような石の説がつくられた時代は、奇石、怪石に対する崇拝がさかんでこの二つは、巨石崇拝時代の遺物と言えます。また、古墳は、見つかった埋蔵品は、少ないのですが見つかった物は、埋蔵文化財センターにあるので実際に学校に来てもらって見せてもらいました。見せてもらった物の中に『まがたま』というものがあって なんでも、自分の地位をあらわすための物らしいです。このように数少ない物からでもこのような事がらがわかります。
 この二つのことからも分かるようにこの猪子山のような小さい山でもいろいろな歴史があることがよくわかりました。それに加えてきぬがさ山全土にはもっと多くの神社や古墳があるそうです。今度はきぬがさ山全土の神社や古墳を調べたいです。
                                            
 
【織田 信長】    安土城について
戦国大名、幼名吉法師または、三郎・信秀の美濃の斎藤道(どうさん)の娘と結婚、永禄三年今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、斎藤氏をも滅ぼして勢力を拡張。足利義昭を立てて上洛し室町幕府を再興させる。のち義昭を退け、安土城を築いて国内の征討(せいとう)にあたる一方、開所をはいし、楽市、楽座を行なうなど統一政権樹立の基礎を固めたが、雄図半ば、京都本能寺で明智光秀に襲われ自刃。(一五三四~八二)
  世界でも珍しい゛木造゛ 高層建築のお城
安土城は、織田信長によって天下統一の拠点として琵琶湖の湖畔にある安土山(現在の滋賀県安土町)に造られたお城。1579年に完成して、その後1582年までのわずか3年ほどしか存在しませんでした。「敵は本能寺にあり」の本能寺の変をご存知の方も多いと思いますけど、織田信長家臣の明智光秀の楳反(1582年6月2日)によって、よを去ってすぐあと(6月14日)にお城の司令塔、天主が炎上してしまいました。その後、豊臣家が天下を取って拠点を八幡に移したため、お城は建て直されることもなく廃城となってしまいました・・・・そして月日は流れ1989年から安土城の発掘調査が始まったのです。次第に解き明かされる幻の城は、日本で最初の天主閣を持った近世のお城!安土城の頂上に建てられた天主の部分の高さ32、4メートル、面積約430平方メートルを有する五層七重、地上6階・地下1階の建築だったと考えられている層です。当時の日本は2階建て以上の建築物(例えば京都の金閣銀閣など)ですら珍しい時代、地上6階などというこの建物を見たら度肝を抜かれたのでしょうね!天主の構造や内部の様子については現在でもなぞの部分が多く研究中で色んな説があるようですが、なんと屋根がわらには金箔のかわらが使われ、室内には狩野永徳の描いた金色に輝く障壁画があったお城だったようです。また3階部分には吹き抜けがあったようで日本初の吹けのあった建物とも考えられている。
     
安土城                           
 信長が天正4年に安土山に7 層の天守閣を持つ城をつくりました。これが安土城です。安土城には前例のない大規模な天守閣がそびえ天守閣の下の本丸には御幸の間・南殿を初めとする御殿が立ち並んでいた。天守閣は東西および南北ともに17間(1間は7尺・2m12cmぐらい)ほど不整形な石垣の上に建っていた。外観は5重、内部は石垣の穴蔵を含めて7階であった。高さは16間半。外側はうるしで黒く塗り,かわらは小口を金銀で飾っていた。最上階である5重目は周囲に高欄のある縁がめぐり.柱は金、その下の4重目は8角形であった。内部は穴蔵の上の1階から最上階の6階までに多くの部屋があり、床・違棚などのある座敷のあった。安土城は火災にあい石垣などが残るだけですが最近の発掘調査で城のできた当時のことが少しずつわかってきています。
 
能登川町  ~宗祇法師について~
 宗祇法師とは、ほうろうかじんとして、いろんな歌を作っていました。宗祇法師の出身地は、伊庭と言われています。松尾芭蕉も、自分のさきを歩いた人として歌の大先輩として、尊敬しています。「能登川町てんこもり」にのっている能登川町を生んだ人々として書かれています。また、林中央公園の近くには宗祇法師の騎馬像がありその隣には説明をしているはしらが立ってます。そこには、「故郷で吟行する宗祇騎馬像」や「室町時代の連歌師宗祇法師生誕地」と書かれています。これは平成16年3月に立てられました。宗祇法師が残した歌には
 ~近江国にて~ 「かげすずし 南のみ山 北の海 しげりあふ末や 千枝の村がしは」
 ~近江にくだりしとき湖辺にて~ 「月ぞ舟 夕わたりせよ 郭公」
                            などがあります。  
 
能登川町のおもしろ話
 昔、信長が、天下統一を目指そうと、この湖東の地をおとずれた時のことです。信長はこの地の主に通行を願いました。この地の主は家の者を集め会議を開きました。結果はとうれぬという結果でした。しかし、会議で、一人だけ通って良いと言う種村と言う男がいました。そして、主君に怒られました。 

北上野城B  近江国(甲賀)

2014年07月26日 | 平城

北上野城B

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町上野字西山前 (甲賀郡甲賀町上野字西山前) map:http://yahoo.jp/ELCUXS

現 状::宅地

遺 構:曲輪・土塁・水堀

区 分:平城

築城期:室町時代

築城者:中上氏

城 主:

目標地:上野ふれあい公園

駐車場:上野ふれあい公園

訪城日:2014.7.21

 

お城の概要

北上野城Bは、油日駅から北へ10分ほど歩くと大きな交差点があり、右手に上野ふれあい公園・駐車場がある。 この駐車場の北側の民家敷地が城跡だ。

 本来、単郭方形の縄張りの城であったのだろうが、今は北側半分が残されている。 民家の敷地西側の土塁が一部雑木など刈り取られ、土塁本来の姿を遠目で見ることができる。 また、民家北側は水田と接しているため、こちら側からみると、堀や土塁の遺構が容易に見ることができた。

 

 東側から

歴史

北上野城Bの南東300mに龍泉寺城、南東400mに木内城、がある。周辺には上野同名中を構成する土豪層の城館が点在する。

本来は上野同名中を構成する土豪層の城館として機能していたことが知られる。

目標地の上野ふれあい公園

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

          本日も訪問、ありがとうございました。