城郭探訪

yamaziro

公方屋敷 近江国(甲賀)

2013年06月09日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町和田  (甲賀郡甲賀町和田」 map:http://yahoo.jp/G9QJ81

築城期:天正2年(1574)

築城者:和田伊賀守惟政

初城主:足利義昭

区 分:館

遺 構:土塁、井戸

目標地;善福寺、バス停

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.6.9

お城の概要

  公方屋敷は和田川の西、和田惟政の居城・和田城の北方約800mにあり、三方を丘状尾根に囲まれた東西100m×南北150mほどの一帯としており、ほぼ中央部に大きな杉の木の下に案内板が建てられている。
 一方、滋賀県教育委員会が公方屋敷跡と称しているのは、この小さな谷を形成している南と北の丘の上としている。

 いずれも削平がなされ曲輪跡であったことが確認できる。南の尾根上の曲輪一帯は竹藪の中に櫓台も確認できる。

 この地形は六角氏の初期の居館であったとされる小脇山館とよく似ており、中世における居館選地に共通性を見ることができる。
また、この屋敷跡の西側約300mに川を挟んで、公方屋敷支城と称される砦がある。

歴 史

 公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。

 永禄8年(1565年)5月第13代将軍・足利義輝が三好,松永氏等によって二条御所で殺害された。永興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じ、細川藤孝、和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良し、甲賀に亡命した。

 その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、若狭の武田義統、越前一乗谷の朝倉義景を頼って流浪するが、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、美濃岐阜城にあった織田信長を頼って美濃へ移り、永禄11年(1568年)9月織田信長に擁立されて上洛。
10月18日、将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

 その後、義昭は信長と対立することが多く、天正4年(1576年)毛利氏を頼って備後の鞆に亡命したが、室町幕府を再興することはできず、慶長2年(1597年)大坂で死去した(享年61歳)。

遠望

ゴールの油日駅に到着

駅の待合所で【トキソウ】

JR草津線・・油日駅~甲賀駅へ~車で自宅へ

本日の歩数 19,701歩 歩行距離  13.7km  歩行時間  3時間13分

消費カロリー  619.4cal   脂肪燃焼88.4g

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


上野城 近江国(甲賀)

2013年06月09日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町油日字山崎 (甲賀郡甲賀町油日字山崎) map:http://yahoo.jp/iShBB6

目標地:旧県道4号線沿い山崎信号

区 分:丘陵城

比高差:30m

現 状:山林

遺 構:郭・堀・土塁

築城期:戦国期

築城者:上野氏

駐車場:路上駐車

訪城日:203.6.9

お城の概要

土塁が見えたので、すぐに城域に到達したものかと思ったのだが、その土塁以外に周辺に城郭構造と思われるものはない。Aの部分は、結局は城内とは言えないような場所であったのだが、一種の虎口構造を成していた可能性はある。というわけで城はここではなく、離れた場所にあるらしい。見ると、台地は南側にずっと延びている。

 ならば城は台地の南続きにあるのだろうと想像し、南に向かって進んでいった。ところが、この部分がまた、ちょっとヤブ化していた。ここも晴れていればどうということもない程度のヤブなのだが、ここを進んだだけで、かなり全身が濡れてしまったのであった(xx)。まったく雨の日のヤブ漕ぎほど辛いものはないなあ。

 進んでいくとやがて、横堀が見えてきた。1郭周囲の横堀である。外側の土塁からの深さは2m程度の横堀であるが、その内側には鋭く高い城塁が見えている。この城塁を直登するのは、ちょっと無理そうである。

 ということで、北側に回り込んで入口を探してみた。結局虎口は東側にあり、虎口外側には出枡形のような郭が付属している。そのさらに下には二段の腰曲輪があった。

 1郭は円形に近い形状を成しており、長軸30mほどの規模である。甲賀の城としては、まずまず平均的な規模のもの、というべきであろうか。

 虎口は北側にもある。ただし、北の虎口を出た先は急斜面になっている。位置的にちょっと不自然な虎口というべきものだ。

 この城の北東側下には土塁で囲まれたかなり広い区画があり、これが城主の平素の居館の跡ではないかといわれている。となると、1郭というのは、居住用の施設というよりは、一種の詰めの城のようなものであったのかもしれない。

上野城は、杣川と五反田川の合流点に南北に突きだした半島状の丘に築かれている。

 上野城の縄張りは、結構複雑で7つの曲輪を配したものだ。 丘陵の最高点に土塁で囲繞された方形の主郭を置き、西に伸びる尾根筋を土塁状に削平した二の曲輪、その先端部を堀切って小規模な見張り台的な三の曲輪を配している。

 主郭北側には主郭腰曲輪、一段下にはこの城で一番広く、居館区画の曲輪とも云える四の曲輪、さらに北側に池を挟んで二つの曲輪がある。

 これらの曲輪群の遺構の中で、特に見逃せないのが主郭を囲繞する土塁と南側の横堀、四の曲輪虎口と土塁囲みの武者溜まり様の遺構など、見どころの多い城であった。

  県道から急な斜面を5mも登るとその後はゆるい斜面となり、すぐに主郭の土塁が見えてきます。主郭は岡の頂点にあり、甲賀の典型的な単郭方形の城という感じですが、滝川城・望月城並みの、規模の大きな、土塁も分厚いもので、土塁の外側を堀と、一部帯郭が巡っています。この主郭北側の帯郭にも分厚い土塁が残ります。さらに北側は10mほど落差があって、そこには運動場くらいの広い郭があります。西側には分厚い土塁、東側には土塁は低いですが、屈曲した土塁と食い違いになった虎口形状のスローブが確認できます。広い郭から主郭を見上げると、高低差と土塁の重なりでけっこう壮観な感じがします。

歴 史

 

「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。「江州佐々木南北諸氏帳」にも

  上野城主 佐々木蒲生随兵    上野主膳守

   々         箕作随兵    上野十内左衛門 とあり

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 上野主膳守の城と!・・・・しかし、甲賀の一豪族の城の規模、縄張りとは少し違いが!

 L型状の食い違いながら突出する嘴状虎口。天正前半期の頃織豊系城郭の特徴がみられ、織田政権により改修か、その影響を受けて築城されたと見える。主郭は、甲賀の単郭にⅤ・Ⅵ・Ⅶは増改築された居住性を重視いた郭(昭和62のバイパス工事前にⅦ郭発掘調査で小穴、竪穴、17世紀食器等出土している」)
遠望 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11

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甲賀武士のゆかりの城郭を巡る【富田山城・観音堂寺城・北上野城 近江国】2013.6.9

2013年06月09日 | 平城

昼食【上野ふれあい広場】へ

 

昼食・・・鹿肉の試食

ノルディックウォーキングの広報活動・・・芝生の上でショートレッスン!

和田山遠望

黒田官兵衛Tシャツ

缶バッチのお父さん!

冨田山城・観音堂城へ

登る尾根道を挟んで西側に北上野城Ⅰ

東側にある大原地区の墓地の東側、二股に分かれた尾根先端部を利用して西側が富田山城・東側が観音堂城が築かれている。

 冨田山城、丘陵山頂部から西に流れる支尾根のピークからL字形に切込土塁を設け、丘陵先端部のピークから東に切込土塁を設けて囲んだ主郭、南に開かれた虎口南側に虎口受けの小曲輪が附属した縄張りとなっている。 東の丘陵先端部の観音堂城に比べて、単純な縄張りの城であった。

冨田山城跡へ

観音堂碑出丸の下、池!

冨田山城虎口

化石か?

 

 

北上野城へ(尾根続き)

 

冨田山城は、築城年代は定かでないが上野氏によって築かれた。 

上野氏は、大原・篠山氏とも一族で大伴氏を祖とし、大原新庄上野郷一帯を支配していた。

遠望

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


大原城跡  近江国(甲賀)

2013年06月09日 | 平城

大原城跡へ

お城のデータ

 

所在地:甲賀市甲賀町田猪野 (甲賀郡甲賀町田猪野) map:http://yahoo.jp/XljYfG                                                          

目標地点:

区 分:居城

標 高:200m  

現 状:宅地・田畑

遺 構:土塁・虎口・堀

築城期:室町期

築城者:大原氏(大原数馬)

訪城日:2013.6.9

お城の概要

 大原氏の末裔の個人宅ですが、虎口の土塁が本当にりっぱで明瞭です。平野部の個人宅敷地ですので藪を気にしないでいいのですが、個人宅のため、ずかずかと入るわけにも行かず、遠目より見学させてもらうので我慢です。

甲賀の典型的な箱型の単郭であるが、南側には両側に土塁と門構えで当初の大手。東側は近世の破壊道(車・農道)として開口か

築城年代は定かではないが室町時代に、大原数馬によって築かれたと云われる。

方形の館で周囲に土塁が巡っており、現在も大原氏の末裔の大原宅(民家)として使用されている。

訪城イベントであったため忍書(古文書)の「万川集海」も展示頂き拝見できました。

 江戸時代の忍書「万川集海」を伝えてる。

歴 史

大原数馬の居館と伝えられます。

甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

 大原家の甲賀五十三家の1つで、後の甲賀流忍術の中心となった家

近江伴氏からは、甲賀郡大原から発祥した大原氏をはじめ、上野氏、多喜氏らが分かれ、「伴・大原・上野・多喜」の四氏はとくに伴四党と称された。そして、大原氏からは篠山・勝井氏が分かれ、多喜氏からは山岡・馬杉氏が分かれ出た。

豊臣秀吉に仕えて水口城主、さらに駿河府中十四万石の大名に出世した中村一氏は馬杉氏の一族という。

他方、織田信長の四天王の一人に数えられた滝川一益も大原一族の一人であったと伝えられる。

 大原氏は伴四党の一家として甲賀郡油日村田堵野を本拠とし、南北朝時代には武家方として行動した。観応の擾乱が起こると、南朝に転じた足利直義に属し、正平五年(1350)、小佐治氏らとともに油日山麓の善応寺で挙兵した。南北朝の動乱を経て室町時代になると、甲賀衆は近江南半国守護佐々木六角氏の被官に組み込まれていった。
 応仁の乱以後の戦国時代になると大原氏は、大原中・大原市場・櫟野などを領有し、佐々木六角氏の重要な戦力として時代の荒波を生きたのである。六角高頼が将軍足利義尚の討伐を受けた長享の乱において、大原源三は高頼を支援して義尚が本陣を置く鈎を夜襲するなど大活躍をした。戦後、鈎において戦功が著しかった大原氏は甲賀二十一家の一に数えられ、和田・上野・高峰・多喜・池田氏と並ぶ南山六家の一として重きをなした。
 大原氏が最初に城を築いたのは、大字鳥居野の地であったという。しかし、のちに大原氏の氏神を城内に勧進し、新たに城を築いたのが篠山城だという。氏神はいまも鳥居野に鎮座する大鳥神社であり、その境内は大原城址ということになる。実際、大鳥神社の正面には壕跡を思わせる水路が流れ、境内の一角には土塁跡と見られる遺構が残されている。甲賀衆は「郡中惣」を組織し、それを同名中と呼ばれる同族組織が支えた。そして、大原同名中は、現代も年に一回、八月三日に大鳥神社に会されるという。そのときの参会者の装束は、昔ながらの羽織袴に帯刀という物々しさである。

大原城跡(遠望)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、Wikipedia

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


梅垣城跡 近江国(甲賀・甲賀)

2013年06月09日 | 平城

壬申の乱古戦場

スタート前に、190名(スタッフ込)にノルディックウォーキングのストレッチを実施しました!(甲賀市での広報活動)

梅垣城跡

城は多喜北城の西の丘陵に築かれている。

城はやや丸みを帯びた方形で周囲に高土塁が巡り北側に虎口を開く。南側は帯曲輪のような平坦面で南東部に土塁が残る。

西側の尾根にある堀切を越えて登って行くと更に堀切のようなものがあるが、縄張図にはなく切通しでは。

【現況・訪城記録】
民家の庭先から登ると虎口の分厚い土塁が正面に見えます。甲賀の典型的な周囲に土塁が巡る単郭方形(方形と言うよりこの城は丸いですが)の館城です。近くの多喜城や多喜北城よりは一回り小さな城です。郭内は雑草が生い茂り、土塁にも草木が生い茂っているため写真を撮っても土塁という感じにはなりません。以前5年前(2000年の頃)に訪れた時は民家の庭先ではなく、裏手の谷状のところから登ってみましたが、こちらも草木が多く閉口した記憶があります。

主郭内

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所在地:甲賀市甲賀町滝 map:http://yahoo.jp/8VsH_m
   旧:甲賀郡甲賀町

区 分:丘城  

標高:217m 比高:20m 

現 状:畑地・山林

遺 構:土塁・(井戸)

築城期:室町期

築城者:多喜氏

訪城日:2013.5.9

【歴史】
この城は多喜氏の城と伝えられています。多喜氏は多喜彦太郎家継が祖とされます。多喜勘八俊兼は長享元年(1487年)の鈎の陣<栗東市>で戦功があったと記録されています。俊兼の叔父の由旭は油日神社の再建運動に尽力しました。

<現地案内板より 甲賀町教育委員会>

    ササユリ

 

    

梅垣城跡(遠望)

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。