城郭探訪

yamaziro

猿荻氏館  近江国(多賀)

2016年07月12日 | 居館

猿荻氏館 

お城のデータ 

所在地:犬上郡多賀町猿木  map:http://yahoo.jp/9EYYyl
現 状:畑地・神社・宅地
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:猿荻氏
遺 構:
目標地:西光寺・猿木神社
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.6.26
お城の概要
犬上川の右岸の猿木集落の中央部に西光寺、猿木神社の南側周辺が比定地で、猿木神社も城郭遺構か?
お城の歴史 
『佐々木南北諸氏帳』には、「猿荻城主 佐々木末旗頭 久徳左近将監、同 猿木左門」の名を記す。

 『淡海国木間攫』には、「犬上郡 猿木村 古此所ニ猿荻左内ト云武士居住スト云、邸跡有、此村ノ領主ノ由、」と記す。

また、奈良興福寺領、寺領猿荻莊は猿木の名で残っている。猿荻左近大夫の名が知られ興福寺領から自立した豪族とみなされている。

 

 

   

   

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布5「旧愛知・犬上郡の城」(1987.3)『日本城郭大系』11

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唐川城 近江国(高月)

2016年07月08日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)高月町唐川 map:http://yahoo.jp/2x_TpS
現 状:竹藪・畑地・宅地分:平城 
築城期:織豊期
築城者:磯野右衛門大夫
標 高:106m 比高差:--m 
遺 構:土塁・曲廓・堀

目標地:唐川集落の赤後寺、綾の木の一本杉
駐車場:路上駐車

訪城日:2016.6.26

お城の概要

御神木「綾の一本杉」の先の川の橋の手前で路地に,この先の竹薮に二重の土塁が残存する。

涌出山には城郭遺構はないようで、独立した平山で標高195m/比高差80m、戦国期では独立峰は持て余す城地には大き過ぎたか?

お城の歴史

   永正15年(1518年)磯野右衛門大夫の居館。 (右衛門大夫は員詮(貞詮)の事と思われますが、嫡子の為員に磯野山城を譲り、隠居した場所なのか?

天文元年(1532年)に為員が浅井亮政に破れて討死し、磯野山城も落城していますが、この時に磯野氏は唐川に蟄居しています。その時の磯野氏の居館は決して粗末なものではなかったとされますので、この時の居館か?

綾の木の一本杉 

                      

『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「伊香郡高月町唐川(からかわ)、伊香平野の中央に独立する湧出(ゆるぎ)山の南麓に、長照寺、日吉神社とならび建立。本尊は千手観音立像と菩薩立像で、両像とも平安期の作で重要文化財指定。 

通称コロリ観音とも称され、伊香郡三十三所観音第十五番札所である。近畿、北陸地方など広く信仰されている。 

 片桐且元の賤ヶ岳合戦勝利奉献状、彦根藩家老木俣土佐守永代詞納状と位牌、膳所藩医林家奉納水鉢と道標、江戸官医田沢氏の紺紙金泥法華経、その他絵馬多数をのこしている。(後略)(今井清右エ門)」とあります。

 

  

 馬かけ場跡か?

参考資料:滋賀県中世城郭分布、遺跡ウォーカー、近江の城

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田部山城/田部城  近江国(木之本)

2016年07月06日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町田部 map:http://yahoo.jp/FWwuwJ
現 状:山林
区 分:山城
築城期:織豊期
築城者:田部氏
標 高:220m  比高差:120m 

遺 構:郭・土塁・堀切・土橋・説明板
目標地:等波神社
駐車場:田部集会所
訪城日:2016.6.26途中で断念、2016.7.5途中で断念

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お城の概要

田部山城は田部町の背後に聳える標高230m程の通称城山に築かれている。 城山は北西部を中心として東西方向と南北方向に尾根が伸びているが、城は東西方向の尾根に築かれている。

田部山城は東西に伸びた尾根の東側に広い曲輪、西端から北西方向に曲輪が連なるが、この両曲輪を含めるように土塁が付いている。幅10mにも満たない尾根に南北両側に土塁が付いて通路状になり、東へ進むと広い曲輪となる。この東の曲輪は中央に土壇があり、その周囲を武者走りの通路として外側に土塁が付いている。東端に開口部があり、土橋が架かる深い堀切が一条東尾根を遮断している。

西の曲輪は南に虎口を開き、南尾根に一条土橋の架かる堀切がある。北西方向へ段は続いているが、遺構は不明瞭である。

田部東の信号で、この正面の山が城址で、すぐに城山トンネルの入口にの登り口がある。また、田部集会所の横の等波神社に入り、本殿を正面に右手に山に登る道がある。本殿の右奥から尾根上に登ることができ、尾根伝いに北へと山道が付いている。(要注意:山道は途中西側へと降りて集落へ。)

ここの所の手前で、伐採された木や倒木、草木で遺構は見えにくい状態ですが断念

この付近から少し薮をかき分けて150m程北上すると「田部山城跡」の案内板があり、その先に堀切がある。

 尾根まで登り、右手に進んだら城跡です。城内は伐採された木や倒木、草木で遺構は見えにくい状態ですが、主郭を取り巻いている低い土塁と主郭東側尾根の外側にある堀切(竪堀)が明瞭です。主郭西側の副郭の西側虎口土塁もなんとか判ります。ここから南尾根に説明板があろ。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「田部山城主 住 〈元勢州田部義士後弾正義氏男〉田部民部小輔信頼」と記し、

 居館があったとされる集落内の宅地開発で消失したようだ?「遺跡ウォーカーの比定地田部城田部民部小輔信頼の居館。田部山城は田部氏の詰城。

 浅井氏の家臣の田部氏の居城でしたが、元亀争乱の際には朝倉氏が駐屯し、その後は、丁野の中島宗左衛門も在城しました。城の縄張りは城山頂部を主郭とし、南西に副郭を持ち、その二つの郭を低い土塁を持った廊下状の郭で連結しています。主郭は土塁に囲まれ、東西60m×南北26mの半月状の郭で、郭内中心部に不整方形の土壇状の高まりがあります。

 浅井氏の家臣田部氏の居城であったが。 浅井・朝倉氏と織田氏が争った元亀争乱では朝倉氏の軍勢が駐屯したと云われ、後に丁野山城主の中島宗左衛門も田部山城に合流した。

信長公記 巻六 元亀四年  11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

        

田部集会所の横の神社に入り、本殿を正面に右手に山に登る道。                            

     小谷山(大嶽城)   西に降り田部集落へ      集落に戻る

 田部集会所に駐車

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『信長公記』、『江州佐々木南北諸氏帳』

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謎多き井伊直虎

2016年07月05日 | 講座
女性がなぜ城主に? 滋賀・彦根、謎多き井伊直虎を紹介
来年の大河ドラマの主人公、井伊直虎が「おんな城主」となった経緯などを語る小和田氏(彦根市中央町・長松院)

 来年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にちなむ歴史講座が2日、彦根市中央町の長松院で開かれ、戦国時代史の研究者、小和田哲男静岡大名誉教授(72)が、「なぜ直虎は『おんな城主』になったのか」と題して講演した。

 NPO法人「ひこね文化デザインフォーラム」が主催する「歴史手習い塾セミナー」の22回目。連続講座として3日は、井伊直虎に養子として育てられた彦根藩初代藩主直政を取り上げる(受け付け終了)。

 小和田氏は、「江」や「軍師官兵衛」など大河ドラマの時代考証を何本も手掛けており、「おんな城主直虎」も担当する。

 講演では、遠江(現静岡県西部)井伊谷の国人領主だった井伊家が、戦国時代に後継を次々に失い、家の存続のため直虎が領主となったことなどを説明。実際、直虎の名で公文書を発給し、印も通例では成人男性しか用いない「花押」を使った文書もあり、「女地頭、また女城主と呼ばれるゆえん」と語った。

 一方、なぜ名前を「虎」としたかや、生涯結婚しなかったかなど「謎が多い」といい、「ドラマでは脚本家の腕の見せ所」と話して約120人の参加者を笑わせた。

【 京都新聞 2016年07月03日 11時25分 】


国宝重文11城、耐震遅れる。補強完了は姫路だけ

2016年07月03日 | 番外編

国宝重文11城、耐震遅れる。補強完了は姫路だけ   

                            京都新聞2016.7.3

 姫路城=兵庫県姫路市

 江戸時代以前に築城され、天守が現存する全国12の城のうち、震度5強の地震への耐震補強を済ませたのは「平成の修理」を実施した姫路城(兵庫県姫路市)だけであることが2日、共同通信の取材で分かった。12城は全て国宝か重要文化財に指定され、多くの観光客を集める人気施設だが、11城は地震への備えが遅れている。工事の費用負担や工期中の観光客減少への懸念が壁になっている。

 4月の熊本地震で、熊本城(熊本市)の1960年復元の天守が傾き、重要文化財の櫓が倒壊するなど大規模な被害が出たばかり。文化庁は「早急な対策が必要だ」と危機感を強めている。