城郭探訪

yamaziro

小森城 近江国(近江八幡)

2013年06月23日 | 平城

失われた城郭遺構

滋賀県近江八幡市中小森町(桐原コミセン無料駐車場利用)

伊庭氏・・・・・近江・桐原生まれ

伊庭氏(いばし)は、日本の氏族の1つ。

 

近江源氏佐々木氏の支流であり、佐々木経方の子、行実の四男実高(出羽権守重遠)が、はじめて近江国神崎郡伊庭邑に居住し、伊庭氏を称した。伊庭城は建久年間(1190年 - 1199年)に実高によって築かれたといわれる。

戦国時代の末に蒲生郡桐原郷に身をよせ、伯太藩渡辺氏に仕えた伊庭家がある。渡辺吉綱に仕えた伊庭氏は、江州における伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等五ヵ村三千石)を支配する代官に挙げられ、代々、代官職を世襲した。その家系しに生まれた伊庭貞剛は、住友財閥の基礎を築いた人物として有名である

実高の後、貞資、貞平、貞光、公貞、時高、氏貞、基貞、高貞、貞安、実貞、貞職、貞信、貞勝の14代を経て貞勝は蒲生郡桐原郷に身をよせ、後中小森で慶長12年(1607年)に没した。

貞勝の子の貞家は渡辺吉綱に仕え、伊庭氏は代官として近江における和泉伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等5ヵ村三千石)を代々支配するようになった。 実高が伊庭氏を名乗ってから25代 後裔にあたる貞剛は明治12年(1879年)、裁判官から住友本社に入社、明治33年(1900年)に第2代総理事となり住友財閥の基礎を築いた。 

 

 熊沢藩山は江戸前期の儒学者で、元禄4年(1691年)に生涯を閉じたが、蕃山の思想は幕末に藤田東湖,吉田松陰,勝海舟などが傾倒、倒幕の原動力となった。

 その熊沢藩山が若き日に学問に励んだのが、祖母の実家があった桐原のこの地である。
熊沢藩山の姻戚には小森氏、伊庭氏があり、これらの関係から城館跡ではないかと考えられている。

 
熊沢蕃山(江戸初期の陽明学者)の母親の実家で、蕃山の祖父の熊沢守久の養子となって熊沢氏を名乗ったものです。蕃山は一時ここに住んだとされます。

熊沢氏は新左衛門廣幸-八左衛門廣次-平三郎守次-半右衛門守久と続いて来ており、蕃山は元和五年(1619年)生まれてあるため、熊沢氏は戦国期にはこの地に根付いていたと考えられますが、何時からなのかよくわかりません。

ただ、南朝系皇室の末裔と言われ、応仁の乱の時の文明元年(1469年)に南朝系熊野王信雅が挙兵しますが実らず、延徳二年(1490年)に尾張で熊沢氏を名乗ったとされます。この一族がここの熊沢氏になります。

2008年には、・・2013.6.21には、宅地化され、一戸個人宅が

山の姻戚には小森氏や伊庭氏の名がみられるとして、『中世城館調査報告書集成』では小森城主として在地領主小森氏の存在         を仄めかしている。また、小森氏と伊庭氏の間に関係があるとすれば、小森氏は伊庭氏、つまり佐々木氏の一族と推測される。

  小森城は、興願寺と管田神社の間にあります。現地に行ってみると、住宅に囲まれた更地に、枯れ木の山ができていました。その周りには重機が音を立てて枯れ木を集めて積んでいました。何事かと付近の方に聞いてみると、もともとは藪であったが住宅地として造成しているのだとのことでした。地形も造成によって崩されつつありましたが、北辺と西辺の土塁と堀は、まだしっかり残っていました。その他の部分については、残念ながらすでに原地形かどうか分からない感じになっていました。

せめて、事前の発掘調査がなされていればと思うのですが、現地のようすではその可能性は低く、伐採から造成まで一気に終わらせてしまおうという感じが見受けられました。

確実にまもなく消滅する城跡です。

 宅地化の小森城址西側の堀と土塁北側の土塁と堀

熊沢蕃山逗留の記念碑。 
背後の城跡には寒々とした枯れ木の山が…。

 

宅地化前も小森城祉の竹藪

 

 宅地化前の西郭の空堀

 小森城は中小森の桐原会館の北東にあって、現状は南北150m、東西50mほどの竹林であった。竹林の一画に熊沢藩山の顕彰碑が建てられているた

 竹林の周囲には幅1~2mの小川が巡っており、堀として使われた可能性も考えられる。竹林の中にも幅1~2mの空堀が縦横に走り、特に西側の北半分は二重堀としているのが特徴的である。
また西側と南側には低土塁も確認できる。

 小森城は平地にあって土塁は低く、堀も深いわけではない。また、堀や土塁の配置に防御の指向性が感じられず、城というよりも館。

宅地化前の東郭の空堀

 小森城は、桐原公民館東側の水田に面した竹藪が城跡だ。 南側の畑地から城内へと入る。竹藪の中には、規模は東西に小さな曲輪が並び、空堀と土塁が残っている。 また、一角に熊沢蕃山の寓跡の碑が建てられていた。

 

 備前やぶ(藪】・・・・・(近江八幡市中小森の伝承)

 中小森町に備前やぶといわれる竹やぶがあります。                                                                               近江の国高島郡小川村の与右衛門。即ち中江藤樹先生に師事て勉学するため、わざわざ備後からやってきた一青年がありました。                                     

 老母をの郷里に残してきたので、「母の面倒もみず勉学するとはなにごとず」と叱られ入門を許されませんでした。

 早速、母を連れ、伯母を頼って桐原庄中小森の伊庭定右衛門の宅に寄宿し、藤樹先生の里高島郡小川まで勉学に通うことにしたといいます。

 幾年か勉学の末、備前に帰り、岡山藩主池田講侯に見いだされて藩政に尽くし、その名も熊澤蕃山つして世に知られる国学者なったひとなのです。

 当時は、この蕃山ひつかえて、備前侯にとり立てられた人も多く、その屋敷跡は竹やぶとなり、いつしか、備前やぶと言われるようになったということです。

 大正末期に、もの備前やぶにまつわる民話を後世に伝え、また青少年の向学の志を養う目的から、当時桐原村青年団(団長 山本寿太郎 後桐原公民館長)の事業として、文学博士井上円了先生の筆になる「蕃山先生勉学処」と記した記念碑を建立。毎年、蕃山祭を行って青少年の教育と遺跡顕彰に努めていましたが、太平洋戦争の終了とともに、この種の行事もおろそかになってしまいました。

尚、中小森町では町おこし」の事業として、平成18年3月末「熊澤蕃山ゆかりの郷」の看板を町の入り口たてられました。

 

 

 

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


旧近江国の出身の武将 関ヶ原の戦い

2013年06月23日 | 武将
  • 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

滋賀県出身の人物一覧は、Wikipedia 日本語版に記事が存在する滋賀県出身の人物の一覧表である。旧近江国の出身者も合わせて記述する。

関ヶ原の戦い
東軍
西軍