城郭探訪

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金山城 越前国(敦賀・金山)

2017年11月28日 | 山城

 写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:敦賀市金山 map:https://yahoo.jp/z1RXjG

区 分:山城

現 状:山林(山頂)

築城期:織豊期前期

築城者:徳萬紡・朝倉義景

遺 構:曲輪、土塁、横堀、竪堀

標 高:168m   比高差:113m

目標地:関入口バス停・畑関リサイクルセンター

駐車場:県道225号線沿いの空地

訪城日:2017.11.25

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966002483562327

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966003516895557

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966008700228372

           https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/966009116894997

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

お城の概要

 金山城は、越前と若狭の国境にある関峠を押さえる位置にある丘陵に築かれている。 

関町の県道沿いにある「畑関リサイクルセンター」の背後の山が金山城で、県道沿いの空地から緩やかな尾根筋を登る。

 金山城の縄張りは、山頂部に土塁が囲繞した主郭と二の曲輪が配され、主郭北側と二の丸東側には内桝形の虎口が設けられている。朝倉の支援で浅井が築いた「近江・長比城」に非常によく似た縄張。主郭の北側に一段低く三の曲輪と四の曲輪があり、主郭部よりは削平は祠が建ち、城跡碑(無彫刻)のある。周囲に土塁を巡し、その内側に横堀。主郭部に入るに内桝形虎口の山城遺構が残存する。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然 

お城の歴史

この城は『疋田記』に、一向衆徒の徳萬紡が朝倉義景に味方して、信長の越前侵攻に対して金山に築城して戦った、と記しています。若狭守護武田氏の被官美浜国吉城主粟屋氏、朝倉氏との戦いに関連付けられている山城とされる。詳細は不明の城。

 元亀元年(1570)に信長が越前攻め時、浅井長政の謀反に遭い、急ぎ越前を退去しますが、このとき殿(しんがり)の秀吉は国吉城、又徳川家康はこの金山に立て籠もったとの記録がある。(金山は、越前敦賀・金山城と若狭土井山・金山城ある)http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/784f20b1754915309b947ec5ec531ed8

 永禄年間に朝倉氏が若狭に侵攻して国吉城など若狭守護武田氏を攻めているが、この頃には若狭と越前との国境に位置する金山城が朝倉方の城として文献に記載されている。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:5人、立ってる(複数の人)、屋外

参考資料:金山城見学会資料・『疋田記』

本日の訪問ありがとうございす!!


苗鹿(のうか)館 近江国(大津)

2017年11月17日 | 館跡

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地 :大津市苗鹿2丁目/苗鹿町  map:https://yahoo.jp/xomd1u

区 分:居館

現 状:宅地

築城期:室町期?

築城者:苗鹿氏

遺 構: 宅地開発で消滅

標 高:130m  比高差35m(旧西近江街道より) 

目標地:雄琴温泉/湯元館 荘園団地自治会館

駐車場:団地内路上駐車

訪城日:2017.4.20

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の概要

西近江街道の雄琴城と小塚山城の中間位置し、荘園団地が開発されて遺構は喪失してしまった。

2丁目の荘園自治会館付近とされ、西近江路を見下ろせる高台に位置する。

志賀の陣で、浅井・朝倉軍の陣になったか?

お城の歴史

  • 『江州佐々木南北諸氏帳』には、「志賀郡 苗鹿 住 佐々木随兵泉州今木 苗鹿五兵衛」の名を記す。
  • 法光寺の歴史によると

 中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。

  小槻氏が壬生家と大宮家に分裂し、壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代に六角の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

  • 『來迎寺要書』一真雄和尚 

   元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

  •  一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、家、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、空、屋外、自然、水

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/941497362679506

 

 

  • 法光寺 (大津市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法光寺 (大津市) 本堂.JPG本堂
 

法光寺(ほうこうじ)は、滋賀県大津市苗鹿にある天台宗寺院

歴史

仁寿元年(851年小槻今雄に対し同寺の建つ滋賀郡雄琴・苗鹿(現滋賀県大津市雄琴・苗鹿)の地が与えられ、同寺は小槻氏氏寺として貞観5年(863年)今雄により創建されたとされる。一説には今雄以前に延暦寺末寺として最澄により開基され、那波加神社別当寺であったとも言われる[1]。この地は小槻氏とつながりが深く、地名の「雄琴」は今雄の名に因むとされる。一帯には氏神として、今雄を祀る雄琴神社や小槻氏祖・於知別命を祀る那波加神社が残り、当寺とは神宮寺鎮守社の関係にある。

中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。この際には小槻氏の領となったが、小槻氏が壬生家大宮家に分裂すると両者の間で再び相論となっている。壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代六角氏の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

境内

往時には堂舎24宇・支院僧坊30余寺あったと伝えるが、元亀2年(1571年織田信長比叡山焼き討ちの際に焼失し、延享3年(1746年)再興が図られた。現在は数棟の堂宇が残るのみで、本堂は1916年建造。

元慶8年(884年7月7日に没した今雄の墓とされる。元は境内裏山に残る法光寺古墳群 (3円墳から成り中央主墳が今雄の墓とされる) の墳丘上に建っていたとされる。毎年7月7日、今雄忌として供養が行われている。
  • 苗鹿地蔵堂
苗鹿地蔵は最澄が彫ったとされる「坂本六地蔵」の1つで、境内の地蔵堂の中に立つ。街道沿いにあったが当寺内に移転した。移転前、堂前で大名が落馬したという故事から「すべり地蔵」とも呼ばれ、足腰を守ると言われる。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査報告9(旧滋賀郡の城)』・遺跡ウォーカー・『江州佐々木南北諸氏帳』『ウィキペディア(Wikipedia)』・法光寺の歴史・『來迎寺要書』

本日の訪問ありがとうございす!!

龍原山城(竜円山城) 近江国(多賀町)

2017年11月16日 | 山城

 

お城のデータ

所在地 : 多賀町敏満寺  map:https://yahoo.jp/xomd1u

区 分:山城

現 状:山林

築城期:室町期?

築城者:沢田氏

遺 構: (曲輪・堀切、土塁、竪掘)=浦白シダで確認できない櫓台(315m)

標 高:285m  比高差100m

目標地:多賀敏満寺 斎場「紫雲苑」

駐車場:林道(ハイキングコース)入口の空地

訪城日:2017.11.5

お城の概要

●新発見「竜円山城」(2010年)見学会が行われた。
 日 時 2010年3月14日(日)10時~16時頃解散
 講 師  長谷川博美氏  進 行  泉 良之氏
 客員講師 池田誠氏 東京都在住 中世城郭研究会 戦乱の空間主宰

 (長谷川博美氏 城郭研究家 滋賀民俗学会理事)

龍原山城と竜円山城は同じ城址考えられる。

 新発見の竜円山城は多賀町敏満寺の青龍山の東に舌状に延びる尾根上に位置する。(国道307号線から東側中腹にある斎場「紫雲苑」へ道添いにあり、斎場の手前の山麓に林道(ハイキングコース)の入口に駐車(標高:180m)出来る。城址は斎場の南背後の尾根上に位置する。

新発見の山城で、郭遺構は(浦白シダで)確認出来ないが、尾根上は狭く急斜面の段郭らしく確認できるが、砦・山城として機能したのか?

遺構は、尾根に上郭・堀切・西に郭があるようだが?、西の郭は尾根続きと?(浦白シダで)確認出来ない。櫓台は約6m四方は確認出来る。

写真の説明はありません。作図:長谷川博美氏

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「犬上郡 龍原山城主 佐々木末籏頭 〇沢田武蔵守秀忠

滋賀県中世城郭分布調査5 旧愛知・犬上郡』には、「犬上郡多賀町 竜円山城 不明」と記す

龍原山城と竜円山城は同じ城址考えられる。

沢田氏は、観音寺城の最上部(繖山の三角点近く)沢田丸(山上曲輪)を持つ。

江源武鑑現代語訳』        巻第十五巻上

元亀元年(庚午) 永禄十三年を改めて元亀と号す

一日 本日から五日まで天気晴。観音寺城出仕の様子は例年通りであり、記すに及ばない。

六日 屋形が佐々木神社に参詣され、国中の旗頭等が残らず供奉する。今年は青山内膳正信兼が調度掛を務める。本来和田権守がこの役であったが病気のため青山が務めることになる。

八日 屋形が江州の八幡宮に参詣される。午の刻に雪が降る。

十一日 御旗の祝のため国中の旗頭等が観音寺城に出仕する。                                                今年は澤田武蔵守秀忠が御旗の櫃を承って御国の間の床に立てる。                                                    堀伊賀守信武が毎年この役を務めてきたが、去年勢州大河内の合戦にて負傷し十二月二十九日に死去したため今年は澤田武蔵守に仰せ付けられる。この役は内容が多いので特に務める者を選ばれる。・・・・云々。と名記す。

 ・『江源武鑑』とは・・・近江守護佐々木六角氏の末期四代の時代を日記形式で描いた書物。

 全十八巻、二十冊より構成されている。
 江戸時代に五回の出版が確認されており、元和七年(1621年)版本、寛永四年(1627年)写本、
 明暦二年(1656年)版本、延享五年(1748年)版本、刊行年不明版本が現存します。
 著者は佐々木氏郷とも、その名を騙った沢田源内とも言われますが実際のところは不明です。
 ちなみに「江源(こうげん)」とは「近江源氏」の略です。 

 

此処から城域、虎口か?

 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然物見櫓台か?(310m)画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、空、植物、屋外、自然、水画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然西側の上段の曲輪へ画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/940945542734688

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、山、空、木、植物、屋外、自然

参考資料:『江州佐々木南北諸氏帳』『滋賀県中世城郭分布調査5旧愛知・犬上郡』『江源武鑑現代語訳』

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大依山砦 後半岩崎山 近江国(長浜・浅井)

2017年11月13日 | 

写真の説明はありません。写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:長浜市大依町  map:https://yahoo.jp/Iuebri

区 分:陣城(砦)

現状:山林・古墳群

築城期:織豊期

築城者:朝倉軍・浅井軍

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・横矢・・・

標 高:365m(朝倉軍本陣)  比高差:215m

標 高:238m(長政軍本陣) 比高差:88m

目標地:浅井歴史民族資料館・浅井文化スポーツ公園

駐車場:秋葉神社の鳥居横の駐車場

訪城日:2017.11.11

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967863263376249

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967864723376103

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967865560042686

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967866923375883

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967867943375781

お城の概要

浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2kmの距離、大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。『信長公記』に明確に記載されているのだ。

最初に陣取ったのが朝倉の8,000人で、そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していた。当時の武将達が4日間もこの山中に潜んでいたのか、浅井氏の支城である横山城があった横山丘陵である。浅井・朝倉軍は、大依山が横山城をしっかりと見渡すことができる絶好の場所にある、敢えてここに陣を置いたのだということがよくわかった。地図を見て驚いたのだが、合戦が行われた「野村」の地は、大依山と横山丘陵とを結んだ直線上のちょうど真ん中。

お城の歴史

 

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日)に近江浅井郡姉川河原(長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

群(浅井軍の陣営)へ

ある平坦地(浅井軍先端地)。山腹の正面に横山が、大依山砦の南端。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、草、空、植物、屋外、自然川の古戦場が良く見える。画像に含まれている可能性があるもの:木、空、草、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、植物、屋外秋葉神社の鳥居前

以下図面は、長谷川博美氏の踏査図写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、山、屋外、自然

参考資料:城歩会の大依山砦見学会の資料・Wikipedia「姉川の戦い」

本日の訪問ありがとうございす!!


大依山砦 前半 近江国(長浜・浅井大依)

2017年11月13日 | 

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:長浜市大依町  map:https://yahoo.jp/Iuebri

区 分:陣城(砦)

現状:山林・古墳群

築城期:織豊期

築城者:朝倉軍・浅井軍

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・横矢・・・

標 高:365m(朝倉軍本陣)  比高差:215m

標 高:238m(長政軍本陣) 比高差:88m

目標地:浅井歴史民族資料館・浅井文化スポーツ公園

駐車場:秋葉神社の鳥居横の駐車場

訪城日:2017.11.11

画像に含まれている可能性があるもの:ビーチ


写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967863263376249

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967864723376103

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967865560042686

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967866923375883

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967867943375781

お城の概要

浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2kmの距離、大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。『信長公記』に明確に記載されているのだ。

最初に陣取ったのが朝倉の8,000人で、そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していた。当時の武将達が4日間もこの山中に潜んでいたのか、浅井氏の支城である横山城があった横山丘陵である。浅井・朝倉軍は、大依山が横山城をしっかりと見渡すことができる絶好の場所にある、敢えてここに陣を置いたのだということがよくわかった。地図を見て驚いたのだが、合戦が行われた「野村」の地は、大依山と横山丘陵とを結んだ直線上のちょうど真ん中。

お城の歴史

姉川の戦いは、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日)に近江浅井郡姉川河原(長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上長谷川博美氏講師より「朝倉軍道」の説明! 

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

この日は、長浜市八島町から「朝倉軍の軍道」を登る。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然大堀切画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然土塁画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然


楢崎氏館   近江国(多賀)

2017年11月07日 | 居館
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町楢崎 map:http://yahoo.jp/fYrh5J
現 状:圃場・宅地
区 分:居館
遺 構:唯一の土塁の中の祠
築城期:室町期
築城者:楢崎氏
廃城者:織田信長
目標地:高源寺
駐車場:高源寺駐車場3台
訪城日:2013.7.13

お城の概要
平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
  発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
 楢崎氏館の近くに正楽寺集落には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
 なお、楢崎氏館に詰城は、高源寺の背後の犬上川に突き出した、山腹に現存する。

 お城の歴史
楢崎氏は観音寺城の繖山の三角点近くに山上屋敷がある。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「犬上郡 楢崎城主 住 佐々木旗頭 〇楢崎内蔵介 同 楢崎太郎左衛門弼高」の名を記す。 
 樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にも記されている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
 
門前の石積み
左は土塁が一部残って!土塁の中に祠が!
 
楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺(現:高源寺)
 
佐和山城の切通し口の門を移築
 
宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
 永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。

楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺(現:高源寺)
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門(切通し口の門)を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。

参考資料:多賀町発掘調査報告書、『江州佐々木南北諸氏帳』、高源寺HP
本日の訪問ありがとうございす!!
 

楢崎(ならさき)山城(楢崎城)  近江国(多賀) 

2017年11月06日 | 山城

 写真の説明はありません。林道ゲイト脇の説明板(現在地)

画像に含まれている可能性があるもの:屋外林道ゲイトは施錠されて、入れない画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然主郭部虎口の石垣

遺跡ウォーカーの楢崎城比定地:http://www.isekiwalker.com/iseki/336224/

お城のデータ

所在地:滋賀県犬上郡多賀町楢崎 map:https://yahoo.jp/L_lJb3
別 称:楢崎城
区 分:山城
立 地:山地中腹
現 況:山林
築城期:鎌倉期
築城者:楢崎氏
目標地:楢崎 八幡神社
駐車場:八幡神社
訪城日:2017.11.6

お城の概要
 遺跡ウォーカーの楢崎城は、高源寺の背後の山腹に位置する。
背後の楢崎城へは、獣害ヘンスで入れない!楢崎八幡神社の背後の獣害ヘンス沿いに高源寺の裏庭の山麓にゲイトあった。
獣害ヘンスを入ると「管理道=植林道」が明確にのこる、取りあえず頂部へ進むと林道の終点に出た。木製の階段登ると東屋と「環境防災林」の説明板の上からが、楢崎城域のようだ。
直ぐに、約標高180m付近の曲輪・櫓台遺構が、さらに進むと自然地形だろうが「土橋・竪掘」2つを渡り、旧斜面を登ると主郭部の虎口の出る、虎口にも石垣を認め、東側下は石垣が残る。
更に主郭と思われる部は、左右の大きな凹穴がある(石取場か?)

お城の歴
楢崎氏は観音寺城の繖山の三角点近くに山上屋敷がある。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「犬上郡 楢崎城主 住 佐々木旗頭 〇楢崎内蔵介 同 楢崎太郎左衛門弼高」の名を記す。 
 樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にも記されている。
樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然

林道の頂部
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然東屋
写真の説明はありません。mapの背後
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然此処から城域・山腹大曲輪か?
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然最初の自然地形の土橋状
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山麓の八幡神社画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外
写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/935870053242237 
    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/935873606575215
           https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/935872823241960
 参考資料:遺跡ウォーカー・「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 県教委1987.3)
本日の訪問ありがとうございす!!

杉原砦 美濃国(揖斐川町)

2017年11月02日 | 

杉原砦 

所在地:揖斐郡揖斐川町鶴見(旧藤橋村)

お城の現状

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藤橋城・西美濃プラネタリウムは、岐阜県揖斐郡揖斐川町鶴見(旧藤橋村)にある町営のプラネタリウム

お城の歴史 

現【藤橋城〈町立プラネタリウム〉付近には、かつて南北朝時代に「杉原砦」といわれるがあったとされる。

南北朝時代、この地は美濃国から越前国近江国に抜ける戦略上重要な地であり、南朝側の新田義貞が、北朝側の土岐氏に対抗し砦を建設されたとされている。

廃砦時期は不明。南朝勢力側の砦があったのは事実ではあるが、資料によっては築城時期が1400年頃となっているが、

1400年頃は新田義貞はもう生存しておらず、南北朝時代も終わっている為、矛盾がある。

なお、この地の住人に杉原家盛(杉原六郎左衛門家盛)があり、後の豊臣秀吉の正室ねねはこの家の出身。LoadingLoading

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