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城郭の概要
所在地:滋賀県蒲生郡鎌掛 map:http://yahoo.jp/_DKQXF
築城期:室町期(大永3年(1523))
築城者:蒲生秀紀
区 分:山城
遺 構:土塁、堀切、井戸、郭、竪堀、櫓台
城 域:150~300m×30m
訪城日:2013.6.14
蒲生氏の紋
対い鶴
対い鶴
鎌掛城・・・ 蒲生秀紀 1523年(大永3年)築城。
秀紀は叔父高郷により毒殺され、廃城となった。
永正10年(1513)蒲生貞秀の死後、蒲生家は家督争いから内訌に発展し、大永2年(1522)蒲生高郷は観音寺城の城主・六角定頼の援けを得て、甥の秀紀の居城・音羽城を攻めた。
秀紀は8ヶ月におよぶ籠城の後に降伏し、定頼の調停で両家分立とした。その後、秀紀は音羽城を破却して鎌掛城を築き、高郷は中野城を居城とし、蒲生氏は二家に別れることとなった。
大永5年(1525)秀紀の叔父高郷と、その子定秀は、鎌掛城の秀紀を毒殺することを企てた。禅憎祥善に毒を飲まされた秀紀は、自ら腹を切り池に落ちて死んだといわれている。
鎌掛城は築城後わずか3年たらずで廃城となった。
秀紀は8ヶ月におよぶ籠城の後に降伏し、定頼の調停で両家分立とした。その後、秀紀は音羽城を破却して鎌掛城を築き、高郷は中野城を居城とし、蒲生氏は二家に別れることとなった。
大永5年(1525)秀紀の叔父高郷と、その子定秀は、鎌掛城の秀紀を毒殺することを企てた。禅憎祥善に毒を飲まされた秀紀は、自ら腹を切り池に落ちて死んだといわれている。
鎌掛城は築城後わずか3年たらずで廃城となった。