城郭探訪

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石田三成と佐和山城

2016年10月30日 | 講座

 

 

石田三成の略歴

永録8年(1560)頃  近江国坂田郡石田村の領主・石田正継の次男として生まれる。兄は石田正澄。

天正年間       このころ長浜城主となった、羽柴秀吉に仕える。

天正11年(1583)   秀吉の配下として、賤ヶ岳の戦いに参加。

天正12年(1584)   近江国蒲生郡今在家村(元・東近江市)で、検地を行う。

天正13年(1585)   治部少輔に任官

天正14年(1586)   堺奉行となる。

天正15年(1587)   秀吉の九州攻め。秀吉の取次役として島津氏と交渉。

天正18年(1590)   秀吉の小田原攻めに従う。

天正19年(1591)   近江犬上郡・坂田郡と美濃国の蔵入り地(秀吉の領地)の代官となる。

文禄元年(1592)    朝鮮出兵で総奉行として朝鮮半島へ渡る。

文録4年(1595)    関白豊臣秀次失脚後に佐和山城主となり、近江国伊香・浅井・坂田・犬上郡の領主となる。

慶長4年(1599)    加藤清正・福島正則・黒田長政ら7名の攻撃を受ける。

慶長5年(1600)    関ケ原の戦いに敗れ、東軍の攻撃を受けた佐和山城も落城し、父・正継と兄・正澄は自刃。     

            三成も京・六条河原で庄処刑される。

三成と佐和山城

・佐和山城主であったのは、最後の5年間だけで、それ以前は秀吉の代官であった。

・三成は豊臣政権の官領として秀吉の傍にいることが多く、領内に関する文書の多くは父・正継のもの。

湖灯塾、愛されて200回、三成と佐和山城語る

200回目の湖灯塾で石田三成と佐和山城について学ぶ参加者たち(近江八幡市出町・京都新聞湖灯ホール)

 京都新聞主催の講演会「湖灯塾」(滋賀中央信用金庫協賛)が29日、滋賀県近江八幡市出町の京都新聞湖灯ホールで開かれ、1996年6月の初回からこの日で200回となった。彦根市教育委員会文化財課学芸員の林昭男さんと斎藤一真さんが「石田三成と佐和山城」と題して講演した。

 湖灯塾は地域の魅力や課題を読者とともに考える場として始まり、年10回程度開いている。これまでにまちづくりや政治経済、歴史、環境、福祉などさまざまなテーマで講師を招いてきた。

 200回目は、彦根市北部にあった佐和山城で1591年から5年間、城主を務めた三成に焦点を絞った。同城跡の調査に携わる林さんは、「最大の特徴は立地の良さ。東日本と西日本の中間に位置し、陸上交通だけでなく湖上交通も抑えられる」と指摘。「本丸の石垣は人為的に壊された跡があった。彦根城築城の際に使える石は持っていかれたのだろう」と語った。

 斎藤さんは、三成が豊臣秀吉と大名の取り次ぎ役で政策実行責任者だったことを踏まえ、「立場的に不満が三成に集まった。大名は現実主義者なので、関ケ原の戦いで三成を嫌う大名が徳川家についたという単純な図式ではない」と述べた。

 講演後に記念パーティーがあり、滋賀中央信用金庫の南井伝治専務理事が「地域の新聞社が200回も市民講座を開くのは珍しい。300回、400回と重ねていただきたい」と祝福した。

京都新聞【 2016年10月29日 22時40分 】


「大谷吉継の首塚と石田三成関連の遺跡を訪ねて」

2016年10月28日 | 探訪「近江水の宝」

【近江歴史探訪】戦国武将ゆかりの地をたずねよう!
「大谷吉継の首塚と石田三成関連の遺跡を訪ねて」

大河ドラマ「真田丸」で話題の石田三成をはじめ、多くの戦国武将を輩出した近江。
9月からは戦国武将ゆかりの地を訪ねるシリーズを始めています。

第2弾は、米原市内に伝わる大谷吉継の首塚と石田三成が自ら植えたと伝わる藤が残る春日神社を訪ねます。
これら吉継・三成ゆかりの地のほかにも数多く残る米原市内の文化財を、県文化財保護課職員がご案内します。

名称

【近江歴史探訪】戦国武将ゆかりの地をたずねよう!
「大谷吉継の首塚と石田三成関連の遺跡を訪ねて」

日時 平成28年10月15日(土曜日)
10時00分 ~ 15時00分頃(受付開始9時30分~)

集合 JR米原駅西口(滋賀県米原市米原)

解散 JR坂田駅東口(滋賀県米原市宇賀野)

行程 

JR米原駅西口 → 大谷吉継の首塚 → 願浄寺 → 薬師堂 → 天野川ヤナ漁跡 → 公園 → 朝妻神社 → 中島神社と筑摩城 → 朝妻湊(昼 食) → 蛭子神社 → 浄念寺 → 春日神社(石田三成公お手植えの藤)→ 山内一豊の母(法秀院)墓 → 宇賀野城館 → 蓮成寺 → 坂田神明宮 → JR坂田駅東口(「なでしこ像」)

費用 無料

定員 70名 ※先着順・定員になり次第受付終了。

対象 一般(歩行距離約8.5km、ほぼ平坦)

持物

健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、歩きやすい服装等
※熱中症対策を万全にお願いします。

問い合わせ・申し込み先

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 記念物係 

主催:滋賀県教育委員会 協力:米原市教育委員会

大谷吉継の首塚

 

 

 

朝妻神社

朝妻城

朝妻湊

三成お手植えの藤

 米原市宇賀野の法秀院の墓

 

 

坂田駅前

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飯浦(はんのうら)山城 近江国(木ノ本・余呉)

2016年10月26日 | 古戦場

賎ヶ岳への登山口の標識。

「飯ノ浦切り通し」

お城の歴史

『余呉庄合戦覚書』(余呉物語)には、
・飯浦山城[木之本町]
 天正11年4月20日の条「一所ニ踏コタヘ、飯之裏山峰堀切ヘ寄合」と記す。

堀切の土橋CIMG2109.JPG

飯ノ浦・塩津切通しへ

 当然周辺の農村は修羅場と化しました。この合戦から約30年後に書かれたという余呉湖畔の『川並村中伝書』の裏書によると「賤ヶ岳の乱に村中二年ばかり他所へ行き帰らないものもありました。文室村・余呉寺・塩津・飯ノ浦などへ女房子供は立ちのき、乱が静まってから帰り村を立てましたので・・・」と記されています。当時の荒廃した川並村の様子と戦後の復興が容易でなかったことがうかがわれます。

塩津浜

 賤ヶ岳城(砦)から、尾根道を北西に下りると、明らかな堀切があり、その後はなだらかな雑木林が続き500mほどで、大きな飯浦切通しに出る。木之本町飯浦と余呉とを結ぶ旧道の峠で、まさに大きな堀切となっている。北からの柴田軍の侵攻を食い止める要害となっている。(「近江城郭探訪」県教育委員会編)
  • 天正11年(1583年)3月12日、柴田勝家軍に対抗すべく、羽柴軍は賤ケ岳、田上山を中心に陣城群。夜を徹して作業が進められた。賤ケ岳砦には、桑山重晴、羽田長門が守備した。
  • 同年4月20日、佐久間盛政軍が大岩山砦を落とし、賤ケ岳を守備する桑山重晴と対峙した。
  • 秀吉は20日午後2時、大岩山陥落の報を聞き、1万5千の部隊が13里(約52km)を二時半(5時間)で大返し。夜半までに全軍が木之本田上山に着陣。
  • 4月21日午前2時頃、田上山を降り、黒田観音坂を経て払暁盛政軍を攻撃。盛政は退却し余呉湖西の権現坂あたりに至る。あわせて盛政軍の退却を援護していた柴田勝政軍も退却すると、秀吉は近侍の若武者に勝政軍への突撃を命じた。賤ケ岳七本槍の活躍が展開した。
  • 七本槍とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、片桐旦元、糟屋武則、脇坂安治で、秀吉から感状と恩賞をもらったが、7人以外にもあと2人いたとか。桜井佐吉と石河兵助である。9人であったものが七本槍となったのは、江戸時代後世の人々によって名づけられたらしい。
  • 秀吉側の急迫を受けた柴田軍は次々と潰走した。この時、権現坂の背後の茂山砦にいた柴田方の前田利家は兵をまとめて塩津方面に下り、同時に不破勝光、金森長近も前年の秀吉との密約を履行して戦線を離脱した。
  • 勝家本隊は余呉町今市の狐塚あたりに南下し、秀吉の攻撃を防いでいたが、ついに、近臣の意見を入れて北陸へ落ちていった。
  • 賤ケ岳の合戦後、廃城となった。(みーな108号「総説賤ケ岳の合戦」などより)

参考資料:『余呉庄合戦覚書』・『川並村中伝書』・「近江城郭探訪」(県教育委員会編)・(みーな108号「総説賤ケ岳の合戦」などより)

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小山館 近江国(木之本)

2016年10月26日 | 居城

中世の土豪の小山(伊吹)氏居館遺構。

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木ノ本町小山   map:http://yahoo.jp/F5wOKC
現 状:宅地・畑地

区 分:平城)
築城期:室町期
築城者:小山氏(伊吹氏)

遺 構:郭・土塁
目標地:小山集会所、長応寺
駐車場:路上駐車

訪城日:2016.6.26・2016.10.22

お城の概要

 小山館は、小山地区西側の段丘端に築かれている。小山集落のやや北東よりにある。小山集会所の西側、長応寺の北西に位置する。

 館は、1町四方の方形単郭の縄張りで、南に表門、北東部に裏門の虎口が開かれいる。現在は無くなっているようだが、西側を除く三方に土塁と堀がよく残っていた。

かつては、この居館を中心として集落内に郭内・堀之内・堀の外と3つの区画が構成されていたとか。

現在も個人宅ですので見学は、土塁の外から覗くのみ。(勝手に敷地入らず注意が必要

お城の歴史

湖北の在郷領主の小山氏(伊吹氏)居城で、在地土豪の小山(伊吹)氏の居館であり、近世初頭に作られた屋敷図のままに土塁等が残っている(西側は破壊)。小山館、築城年代は定かでないが小山(伊吹)氏によって築かれた。

2.016.10.22

2016.6.29

   北側の土塁を東より望む。    

     

小山集会所

  

 

長応寺

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布、近江の城

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嶋左近=有能な官僚 書状2通発見、

2016年10月26日 | 文化財

嶋左近=有能な官僚 書状2通発見、新人物像浮かぶ 滋賀・長浜

石田三成の重臣嶋左近の書状を調べる太田館長(左)と村井助教。左近の署名や花押が記されている=長浜城歴史博物館

 戦国武将、石田三成の重臣、嶋左近の書状2通が見つかったと、東京大史料編纂(へんさん)所(東京都文京区)と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市公園町)が1日、発表した。左近の書状が完全な形で見つかるのは初めて。検地の方法を指示するなどの内容で、同博物館などは「猛将とされる左近だが、官僚としての能力もあったことが裏付けられた」としている。

 同編纂所の村井祐樹助教が昨年11月、大阪府内の民家で発見し、同博物館の太田浩司館長と調査していた。

 1通は豊臣秀吉が北条氏の小田原城(神奈川県)を開城した直後の1590(天正18)年7月19日付で、縦33・6センチ、横46・5センチ。常陸国(現在の茨城県)の武将佐竹義宣の家臣小貫頼久に宛て、常陸の大名の大掾(だいじょう)氏が秀吉の命である人質の差し出しを渋ったことについて照会した内容。

 もう1通は6日後の25日付で、義宣の一族に検地の方法や兵糧米の徴収などを指示する内容。縦32・7センチ、横45・2センチ。2通とも左近の実名の「清興」と花押が記されていることなどから、左近の書状と確認した。

 左近は関ケ原合戦で勇猛に戦ったとされ、武闘派のイメージが色濃い。江戸期の俗謡では「三成に 過ぎたるものが二つあり 嶋の左近と 佐和山の城」ともうたわれた。

 左近のものとされる書状は国立国会図書館(東京都千代田区)所蔵の断片があるが、信ぴょう性は低いとされる。2008年には左近の名前が記された三成の書状が長浜市高月町で見つかっている。

 太田館長は「伝説と思われていた人物の実像に迫る発見。猛将だけでなく能吏であることが分かった」と説明。村井助教は「小田原攻め後の秀吉の東国支配について分かる貴重な資料」としている。書状は23日から8月31日まで同博物館で開く特別展で展示する。

■嶋左近 大和国(現在の奈良県)の出身とされ、1590(天正18)年の小田原攻めの際には石田三成の家臣となっていた。関ケ原合戦で西軍の武将として討ち死にしたとされる。

京都新聞【 2016年07月01日 23時30分 】


真田丸の絵

2016年10月26日 | 陣所

詳細な真田丸の絵、松江で発見 江戸期「極秘図」

松江歴史館が所蔵する城の絵図集から発見された真田丸の図。上(北)に出丸、下(南)に堀が描かれている(同館提供)

 松江歴史館(松江市)が所蔵する全国各地の城の絵図集「極秘諸国城図」(江戸時代)に、大坂城の出城といわれ、NHK大河ドラマで取り上げられている「真田丸」が具体的に描かれた図があることが分かり、12日、松江市が発表した。

 真田丸の絵図は広島市立中央図書館(同市中区)にもあるが、今回の絵図は敷地の範囲を示す堀の位置や付属施設の出丸の存在も具体的に描かれており、真田丸を知る上で重要な手掛かりになるという。

 歴史館によると、絵図は、縦約28センチ、横約40センチ。松江市の住民が、1953年に市に寄贈したが、松江城の図がないため詳細な調査はしていなかった。

京都新聞【 2016年07月12日 20時55分 】


「真田丸」と違う? オランダ商館員の見た大坂の陣

2016年10月26日 | 文化財

「真田丸」と違う? オランダ商館員の見た大坂の陣 日文研確認

オランダ商館員が大坂の陣の戦況や京の情勢などを記して商館長あてに送った書簡(ハーグ国立文書館所蔵)=クレインス准教授提供

 京都市西京区の国際日本文化研究センター(日文研)は21日、大坂の陣などで混乱する江戸時代初期の日本の情勢についてオランダ人商館職員らが記録した書簡約500通をハーグ国立文書館の史料調査で確認した、と発表した。徳川家康と豊臣秀頼の戦いの様子や、焼き打ちに不安を募らせる庶民や経済情勢に関する記述もあり、研究者らは「近世日本の史料は大火などで焼失したものが多く、オランダに残る記録を補完的に活用することで、歴史をより正確にとらえることができる」と評価する。

■豊臣側、寝返り大名を石垣から突き落とす記述も

 2014年からオランダ・ライデン大と日文研のフレデリック・クレインス准教授が、東インド会社が長崎平戸に開いた商館の文書の調査に着手。1609~33年にかけて会社や商館、商務員らの間で交わされたオランダ語の往復書簡524通などを確認した。

 書簡には、幕府との商取引など日本の政治経済の状況が克明に記され、1614~15年の大坂の陣の情勢を伝えるものもあった。京や堺にいるオランダ商人たちは、家康が大坂城を攻めるために伏見や周辺に軍を配したことでまちが混乱に陥っていることを報告。また、夏の陣で豊臣側の大名数人が、家康に寝返るために城に火をつけたが、寝返る前に石垣から落とされて死んだことなど、日本の史料では確認されていない記録も見つかった。オランダ商館が家康に大砲を売り、その後も武器を献上した事実などもつづられている。

 こうした情報は大名や商人から収集したとみられ、明治~大正期に刊行された「大日本史料」などに和訳掲載されている記述もあるが、クレインス准教授は「一般の商人が実際の見聞に基づいて記録した臨場感のある内容。日本の史料では分からない部分も多くあり、今後の調査が楽しみ」と語る。

 見つかった書簡類は、欧米に点在する日本関連資料を調査する人間文化研究機構のプロジェクトの一環で翻刻と全文現代語訳を進めており、国内外での刊行を目指すという。

京都新聞【 2016年09月22日 10時30分 】


真田幸村の書状

2016年10月26日 | 文化財

真田幸村の書状、100年ぶり発見 京都で公開、幽閉や老い嘆く

真田幸村自筆とみられる書状の原本(24日午後3時5分、京都市の表具店)

 戦国武将の真田幸村(信繁、1567?~1615年)直筆とみられる手紙で、所在不明だった幻の書状が約100年ぶりに発見され、24日、京都市内で関係者に公開された。関ケ原合戦(1600年)に敗れ、和歌山県の九度山に幽閉されていた時に書いたとみられ、幽閉生活や老いへの嘆きがつづられ、戦国時代の英雄の意外な一面が垣間見られる。

 書状は、徳川家康から高野山での謹慎を命じられた幸村が、幽閉先の九度山から、姉の夫で家臣の小山田茂誠(しげまさ)に出した手紙。

 内容は、新年の祝儀としてサケをもらったことへの感謝とともに、見舞いや便りの少ない生活ぶり、老いや病への嘆きなどがつづられている。花押(署名)や文面などから、幸村が戦死した大坂の陣が始まる約9カ月前の1614年2月の手紙とみられる。

 明治期に実業家が所有し、1904年に東京帝国大が筆写した影写本は現存するが、原本はその後、所在が分からなくなっていた。三重県の個人収集家がこのほど古書店から入手した。

 幸村の直筆や代筆の書状は、影写本を含め計17点が確認されているが、現存する原本は今回の書状を含め10点。書状を鑑定した慶応大非常勤講師の丸島和洋さんは「30代の若さで追放され、武家社会に戻ることなく九度山で一生を終えるのは嫌だという本音が、字の力強さから伝わってくる」と話している。

京都新聞【 2016年10月25日 06時21分 】


稲部西遺跡

2016年10月24日 | 遺蹟

http://mainichi.jp/articles/20161018/k00/00m/040/001000c

「日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」 彦根市教委発表

 滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。

竪穴住居百棟に祭礼場や鋳造工房 滋賀・稲部西遺跡

京都新聞 2016.10.23

多数の住居と、祭礼の場、鋳造工房がそろって確認された稲部・稲部西遺跡(彦根市稲部町)=上=と出土した桃の種。祭礼に使われたとみられる(彦根市教委提供)

 滋賀県彦根市教育委員会は12日、同市稲部町と彦富町にまたがる稲部遺跡・稲部西遺跡で、弥生時代後期後半から古墳時代前期(2~4世紀)の竪穴住居が100棟以上見つかったと発表した。これまでに、祭礼の拠点だったと考えられる独立棟持柱付きの建物や、青銅器の鋳型なども出土しており、住居と祭礼場、鋳造工房が一集落内でそろって確認できたのは滋賀県内では初めて。この時代は分業の体制や階層が生じた時代の移行期とされ、「同時期の集落の実態を知るうえで、貴重な手掛かりになる」としている。

 竪穴住居は調査地の南で直径400メートルの範囲内に、多角形建物を含む105棟を確認。掘っ立て柱建物21棟、周溝建物13棟、独立棟持柱建物3棟、区画を示す溝(幅約40センチ)2本も見つかった。掘っ立て柱建物の1棟は、柱穴の直径が1・3~1・5メートルと特に大きく、付近からは桃の種計12個も出土。建物の解体などに伴う祭礼に使われたとみている。

 2年前の調査では青銅製のやじりと棒の一部が出土。同時に見つかった土製品がその後、青銅器の鋳型の外枠の可能性が高いことも分かった。

 調査に立ち会った同志社大歴史資料館の若林邦彦准教授は「一集落内に住居と祭礼の場、工房がそろってあり、首長の下に集約されるような状況が生じているといえる。古墳出現期の集落の変化が分かる貴重な発見。今後、首長の居館が見つかる可能性もある」と話している。

 調査は1981年に始まり、現在、6次調査中。これまでに約6500平方メートルを発掘した。

 彦根市教委文化財課TEL0749(26)5833。

■転換期解明の貴重な鍵に

 奈良県立橿原考古学研究所の森岡秀人・共同研究員の話 近畿北部でこれほど大規模な古墳出現期の集落が確認されたのは驚きだ。社会の転換期の過程で、近畿北部において中心的役割を担った集落と考えられる。古墳時代が始まる前後の集落の構造や社会的な営みの実態はよく分かっておらず、その解明の鍵となるような貴重な成果が出たといえ、今後の調査に注目したい。


「彦根屏風」は12代井伊直亮が購入

2016年10月24日 | 文化財

国宝「彦根屏風」は12代井伊直亮が購入 千両を値切って

京都新聞 2016.10.21

【上】近世初期風俗画の代表作、国宝「彦根屏風」。寛永年間に京の遊里を描いたとされる。作者は不詳=彦根城博物館所蔵【下】「屏風之覚」の揚屋之図のページ。3行目中ほどに「金初メ千両」などと記されている(彦根城博物館提供)

 彦根藩井伊家に伝わり、江戸時代初期の風俗を描いた傑作として知られる国宝「彦根屏風(びょうぶ)」を購入したのは、12代藩主の井伊直亮(なおあき)(1794~1850年)だったと彦根城博物館(彦根市金亀町)が20日発表した。直亮が自ら記した収集品の目録から判明、現在の金額で1億円もの売価を値切って入手していたことも分かった。

■自筆目録修復で判明、13代直弼購入説を否定

 これまでは13代藩主直弼(なおすけ)が購入したという井伊家伝来の説と、直亮以降の江戸後期とする説の二つがあり、はっきりしていなかった。目録は「屏風之覚(びょうぶのおぼえ)」で、古文書の修復と判読の過程で明らかになったという。

 屏風之覚は茶道具や楽器、書画など井伊家の収集品を直亮自らが整理、作成した20冊近くある目録の一冊。縦28・5センチ、横18センチ、96ページで、所蔵する屏風120件の名称や筆者などを記しており、彦根屏風購入の経緯や値段も記されていた。

 そこには「浮世又平筆、極彩色(中略)揚屋之図」「格外之高金、初メ千両□及懸合□百参拾両ニ而取入」(□は判読不能)などとあった。筆をとったとする「浮世又平」は伝説上の風俗絵師で、真の作者は不詳。千両と高額だったのを交渉の結果「□百三十両」で購入した、と経緯を説明している。

 千両は現在の1億円に相当し、「当時の絵画としては破格の高額」(同博物館)という。彦根藩では財政難から倹約令を出したり、藩士の給与カットをしたりしている時期だが、「(藩主の小遣いである)御手元金が潤沢で、直亮にとっては清水の舞台から飛び降りるほどでもなかった」(同)という。

 「彦根屏風」と「屏風之覚」は28日から始まる特別展「コレクター大名井伊直亮」で公開される。11月27日まで。会期中無休。有料。


広瀬城(小谷山城)  美濃国(揖斐)

2016年10月23日 | 山城

お城のデータ

所在地:揖斐郡)揖斐川町(旧坂内村)坂内広瀬 map:http://yahoo.jp/vidnk7

別 称:小谷山城

区 分:山城

現 状:山林

築城期:織豊期

築城者:広瀬氏(土豪)

城 主:広瀬康則・広瀬兵庫助

遺 構:郭・堀切・土塁・竪堀・跡碑碑

標 高:主郭461m  比高差:200m

 :北城(奥城)480m 南廓(土塁廓):360m 見張り砦310m

目標地:坂内振興事務所・いび川農協坂内支所 
駐車場:坂内振興事務所(標高250m)
訪城日:2016.10.22

お城の概要

旧坂内村中心部となり、坂内振興事務所そばの国道沿いに広瀬城遊歩道の標識があります。

 振興事務所裏手に遊歩道登り口があり、整備がされた急坂を登ると見張り砦・南廓・主郭・尾根遺構(狼煙穴)・)北城とほぼ直線状に続きます。遺構、主郭の堀切、防御すべき正面を意識した配置となっている。 

 良く整備されているが、下りの急斜は滑り止め無く危険です。

 

お城の歴史

美濃坂内広瀬城は、1572年の美濃国広瀬城の落城時、城主・広瀬康則は討死、康則には4人の男子がいました。嫡男・康宗は母の実家へ逃げて、次男・康親(後の兵庫助)は金森長近(後の越前国大野城主)を頼り修行に、三男・了玄は三井寺へ出家し修行に、四男・九助は叔母の家へ預かり。

広瀬兵庫助は1572年の美濃国広瀬城の落城時、康則の嫡男康宗は左門九郎と名を変え美濃国徳山村へ逃げ百姓となり、落城3年後の1575年に帰郷しました。

 近江国長浜城築城の際に建築材料調達の協力「日坂村・久賀から竹を買付けて代金を支払い、調達の竹を長浜城築城現場まで輸送し納入」。兵庫助は2年前に父・康則が信長家臣・稲葉により討死落城にも拘らず、秀吉へ竹を納入し協力。8年後、秀吉家臣になる。

天正10年(1582.6.2)広瀬兵庫助は本能寺の変に直後明智軍(京極高次・阿閉貞大)から、「秀吉の母かな・妻おね・妹等足弱衆を、東草野谷から美濃広瀬へ逃避匿い警護」「6月19日に秀吉の母かな・妻おね・妹等足弱衆は無事長浜城に帰る

広瀬兵庫助は、秀吉・秀次から恩賞として「近江国高山・甲津原・杉野の領地と報酬500石が知行」15831112日、領地美濃国広瀬、近江国新庄・高山・甲津原・杉野の領主に。 発見された「羽柴秀吉・秀勝連署宛行状 広瀬兵庫助宛」(長浜城歴史博物館提供)

【広瀬兵庫助伝】詳しくは、
http://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515 http://cocologhonobono.cocolog-nifty.com/blog/ http://blog.goo.ne.jp/pvhu3515 などへ。

  

広瀬城(遠景)・・道の駅夜叉池駐車場より

振興所駐車場で、ウォーミングアップ・自己紹介・・・

いざ、広瀬城へ

見張り廓

南廓(土塁廓)・・・銃座・弓座

主郭部

城郭フォーラム参加記念

講師・踏査図・現地説明:長谷川博美氏

フォーラム弁当

主郭部の地説明板会

虎口の横矢土塁

城石碑

虎口手前の堀切虎口手前の堀切

主郭部基壇の説明主郭背後低土塁

主郭部背後の堀切

・尾根道に狼煙穴あり

北城(奥城)480mへ北城

北城の背後堀切痕

下山します

 参考資料:城郭フォーラムレジュメ・広瀬兵庫助資料館・長浜歴史博物館

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桜内館 近江国(日野)

2016年10月20日 | 館跡

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町北脇   map: http://yahoo.jp/BwP70W

現 状:宅地・山林

築城期:

築城者:室木氏

区 分:居館

遺 構:佐久良川の支流が前掘か

標 高:      比高差:m

目標地:法光寺

駐車場:北脇集落の駐車場

訪城日:2016.10.10

お城の概要

桜内城の山麓館か

桜内城の法光寺南東側の林の中へ入ると、南へ向かってなだらかな斜面になった曲輪があり、土塁・土橋・犬走り・武者隠し・竪堀・空堀があります。安徳寺の裏手も林になっており、しっかりした土塁が残っています。城跡の法光寺を囲むように、自然の山を利用し又佐久良川・支流を前の堀に、自然の地形を利用した城郭。

お城の歴史

鎌倉時代後期、蒲生氏の一族室木氏がこの地に居住。 

諸木神社も法楽精舎として創建されたのが、この法光寺、室木氏・小倉氏の供養塔が存在したとあるが詳細不明。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3・10・蒲生郡志・遺跡ウォーカー

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安部居館 近江国(日野)

2016年10月19日 | 館跡

お城のデータ 

所在地:蒲生郡郡日野町安部居    map:http://yahoo.jp/dRa0bW

現 状:丘陵・山林

築城期:

築城者:安部居氏

区 分:居城

遺 構:曲郭・土壇

標 高:      比高差:m

目標地:念法寺

駐車場:念法寺の駐車場

訪城日:2016.10.10

お城の概要
 佐久良川の左岸の丘陵に安部居集落に安部居館は位置する。

佐久良城に近く、又桜内城丸山砦(澤山砦)に近く蒲生氏の家臣川原氏の居館か、

現在は、開発が進み要害の地とは考え難いが、往時、堂木氏・矢野氏・安部居氏で一帯の所領していたか?

お城の歴史

 

古代・中世/第6章 戦国時代の蒲生/第3節 蒲生氏の台頭/六角氏の家臣たち 

安部井氏は、上南城を本拠にし、市子庄に勢力を持った土豪である。

『近江蒲生郡志』巻参によれば,もともと現在の日野町安部居に住していたのでこの名があると記す

‥‥‥‥‥‥安部井頼国のひ孫秀家は、天文14(1545)には、さきの明応の戦いで荒廃した誓安寺の伽藍の復興を計画したが、果たせぬまま浅井氏の小谷籠城戦に参加して戦死てしまった。織田信長が湖北の戦国大名浅井長政が籠城する小谷を攻めたこの戦いには、安部井氏からは千田・橋井・西井・西村・青木・向井・西田・福永・川西など同属が多く参加したことが、高木行法の覚書に記されている。

 

「念法寺の由来」から安部居館は、還俗した川原五郎右衛門が見える。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4・蒲生郡志・念法寺の由来(石碑)・遺跡ウォーカー

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150年前のかご、稚児を先導 滋賀・日野の念法寺

 

京都新聞2016.4.4

 

修復を終えた駕籠を先頭に練り歩く稚児行列(滋賀県日野町安部居)

  滋賀県日野町安部居の念法寺に約150年前から伝わる駕籠(かご)の修復作業が終わり、3日の法要で、地域住民らにお披露目された。

駕籠は人の乗る部分が長さ1メートル、幅80センチで、内部の銘板から安政7(1860)年ごろの作とみられる。本堂の軒下に長年つり下げられて傷みが進んでいたが、昨年10月から門徒たちが手作業で修復し、約4カ月かけて完成させた。

 この日は親鸞750回遠忌法要が営まれ、若手門徒に担がれた駕籠が、時代衣装で着飾った子どもたち73人による稚児行列を先導し、同寺までの約250メートルを巡行した。

 川原了慎住職(48)は「子どもたちが地域の歴史を感じるきっかけになったのでは。今後も機会があれば展示したい」と話した。


寺倉氏館 近江国(日野)

2016年10月13日 | 館跡

お城のデータ 

所在地:蒲生郡郡日野町佐久良小字寺倉    map:http://yahoo.jp/BvCPYA

現 状:プール・田地・山麓・山林

築城期:

築城者:寺倉氏

区 分:居城

遺 構:曲郭・土壇

標 高:      比高差:m

目標地:桜谷小学校

駐車場:桜谷小学校プール横駐車場

訪城日:2016.10.10

お城の概要

『蒲生郡志』に、寺倉氏の邸跡は、小字「寺倉」にあったとあり、小字「的場」に寺倉と呼ばれる所があり、地元伝承でも佐久良と長寸の城があった頃、この地に侍屋敷があったされる。

 寺倉氏館は、桜谷小学校の駐車場とプールの一帯に築かれていた。 居館の遺構一部は山麓に残る。 長寸城への登城口に位置し、佐久良城・長寸城の中間の山麓館。

お城の歴史

 築城期について不明で、蒲生氏の家臣である寺倉氏が鳥居平城主という言い伝えがある。(小倉氏の四ケ谷城に備えた城として)が、鳥居平城の現在の遺構は小倉氏によるものか蒲生氏によって構築されたものか定かではないようだ。

蒲生郡の寺倉氏については、永楽七年頃に小倉氏を滅ぼした日野中野城主蒲生定秀が桜谷一帯を所領として、蒲生氏の家臣寺倉氏が佐久良城から鳥居平城(蒲生郡日野町鳥居平)に居城を移ったとされる。寺倉氏は蒲生氏の支流か。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 中之郷住 佐々木蒲生隋兵 寺倉三左衛門」の名を記す。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(蒲生・神崎郡の城)・『蒲生郡志』・『江州佐々木南北諸氏帳』

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瀬戸屋敷 近江国(日野)

2016年10月12日 | 居城

 

お城のデータ 

所在地:蒲生郡郡日野町奥之池    map:http://yahoo.jp/GNMAfb

別 名:奥之池城

現 状:山麓・山林

築城期:

築城者:

区 分:居城

遺 構:曲郭・切岸・土塁

城 域:150mx50m

標 高:      比高差:m

目標地:奥之池集落

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.10.10

お城の概要

奥之池集落の北端に、佐久良川の支流を前堀に山麓屋形跡が残る。

背後は後世に平削されて宅地や、日野ゴルフ場の関連で整備されいるが!!!

八幡神社(滋賀県蒲生郡日野町奥之池37)

御由緒

 

創祀年代不詳。蒲生氏の臣、池氏の守護神である。
樹下神社は元当字十禅寺に祀られていたが、大正3年相殿に遷座、昭和10年新殿を建立す。明治9年村社に列す。

 

お城の歴史

遺跡ウォーカーに「瀬戸屋敷跡」屋敷。 城郭分布調査1、屋敷。山麓。山林。とあるが詳細不明あるが?

蒲生氏の臣、池氏か?、配下の瀬戸氏の屋敷か?

 

瀬戸屋敷(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー

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