第4回森づくり県民講座「講義と実習」20110925
実習前にコンパス説明
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小谷城攻略 虎御前山砦
お城のデータ
所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町別所~虎姫町中野 map:http://yahoo.jp/jbSb8l
目標地:虎御前山公園
区 分:山城 標高:230m 比高差:150m
現 状:山林
遺 構:郭・土塁・堀・堀切・碑・説明板
築城期:織豊期 築城者:織田氏
駐車場:中腹キャンプ施設駐車場
訪城日:2011.9.24
お城の概要
虎姫町の北端にある標高約230mの山。古くは長尾(ながお)山と呼ばれていました。全山に樹林が茂り、周囲は急傾斜で自然の要砦(ようさい)を形作っています。
戦国時代、織田信長が小谷城の浅井長政を攻めた折、最前線として虎御前城を築き、柴田勝家の陣が置かれました。信長は、3回にわたって砦を築かせていますが、砦は小谷城落城の後、すぐに壊されています。
昔、井筒という泉のほとりに住んでいた娘が、旅の途中に知り合った、世々聞(せせらぎ)という名の若者と愛し合うようになり結婚しました。ところが、顔は人間だが体は蛇という子を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末に、淵に身を投げて死んでしまったといいます。娘の名を虎姫(とらひめ)といい、この山が虎御前山あるいは虎姫山と呼ばれるようになった由来と伝えられています。頂上からは、東に伊吹山、西に琵琶胡が一望できます。
虎御前山は、長浜市中野町と長浜市湖北町河毛、湖北町別所にまたがる標高約230mの山である。戦国時代、織田信長が浅井氏の居城である小谷城を攻略するため築いた付城(陣城)として知られる。
元亀元年(1570)6月、姉川の合戦で信長軍に破れた浅井長政は、小谷城に籠城する。 信長は、横山城(長浜市石田町・堀部町、米原市朝日)に前線基地を置き、浅井氏攻略を図るが、元亀3年(1572)7月以降は小谷城包囲のため、小谷山の眼前にある虎御前山に砦を構え持久戦に備えた。 虎御前山では大規模な築城工事が行われ、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が城番(定番)に任命されている。
虎御前山は、四方の見通しがきく独立丘陵で、小谷城からわずか500m余りの距離に位置することから、前線基地を築くのに適していた。また、山の尾根上には古墳が点在しており、信長はこれらを巧みに生かしながら砦を構築、山全体に家臣を配置させたと考えられる。 現在の虎御前山には、麓から北へ伝多賀貞能、伝蜂屋頼隆、伝丹羽長秀、伝滝川一益、伝堀秀政、伝織田信長、伝木下秀吉、伝佐久間信盛、伝柴田勝家)の陣地跡が残る。
特に「伝堀秀政」・「伝織田信長」・「伝羽柴秀吉」は土塁や堀などの遺構が良好に残っている。
歴史
信長公記 巻五 元亀三年 3、戦野 奇妙様御具足初に虎後
7月19日、信長公は嫡男奇妙殿の具足初めにともない、父子そろって江北表へ出兵した。初日は赤坂に宿陣して翌日横山に至り、21日浅井氏居城小谷まで押し寄せてひばり山・虎御前山へ軍勢を上げた。そして佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆に命じて町口を破らせ、一支えも許さず敵を城の水場まで追い上げ、数十人を討ち取った。あとには柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが先手として陣を敷いた。
次日には阿閉淡路守の籠る山本山城へ木下藤吉郎が遣わされ、山麓へ放火をはたらいた。すると城内から百余りの足軽が討って出、放火を阻止しようとしてきた。藤吉郎はあわてず、頃合を見計らって敵勢へ一斉に切りかかり、打ち崩して五十余の首を挙げた。これにより藤吉郎は信長公から多大な褒賞を受けた。
翌23日は与呉・木本にも兵を遣わし、地蔵坊(現滋賀県木之本町の浄信寺)をはじめ堂塔伽藍・名所旧跡にいたるまで一切を余さず焼き払った。
また翌24日には草野の谷(現浅井町草野川渓谷)へ放火した。この草野近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立てこもっていた。信長公はこれを攻略しようとし、日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせた。そして夜になってから木下藤吉郎勢・丹羽長秀勢を後方に迂回させ、背後の山づたいに寺へ攻め上らせた。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧俗数多を切り捨てた。
この間琵琶湖上には打下(現高島町打下)の土豪林与次左衛門・明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らが兵船を浮かべ、海津浦・塩津浦・与呉の入海に出没して敵岸を焼き払っていた。また竹生島にも船を寄せ、火矢と大筒・鉄砲をもって攻めたてた。
これら一連の行動により、一揆というそれまで江北にはあまり例のなかった企てを起こして蜂起していた輩は、風に木の葉の散るごとくに一掃された。そして一揆勢が散り、また猛勢の織田勢が自領の田畑を薙いでゆくのをみすみす見逃してしまった浅井氏の勢力は、次第に手薄なものとなっていった。
27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築かれはじめた。すると焦慮した浅井氏は、越前朝倉氏へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促した。
朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきた。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく江北の戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付いた。一気に消沈した朝倉勢は、大嶽(原文では「大づく」)の高地へのぼって滞陣してしまった。
このさまを目にした信長公は、足軽を使って朝倉勢を小当てに攻めさせることを命じた。すると陣中の若武者たちはそれを聞いて勇躍し、旗指物を外して山に分け入り、日ごとに二つ三つと首を取ってきた。信長公は彼らに対し、その功名の軽重に応じて十分な褒賞を与えてやったため、彼らはますます発奮して首取りに励んだ。
そのようにして対陣が続いていたところ、8月8日になって越前勢から前波九郎兵衛吉継父子が内通してきた。信長公はこれを聞いて大いに喜び、父子へ小袖・馬および馬具一式を与えた。翌日にはさらに富田弥六長繁・戸田与次・毛屋猪介らも投降し、各々信長公より褒賞が下された。
虎御前山の要害はほどなくして無事完成した。城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであった。ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた。
この要害の座敷から北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上にあって苦慮しているさまが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができた。その比叡山はかつては尊い霊場であったが、先年山門の宗徒が逆心を企て、その自業自得により山上山下ともが灰燼に帰した。信長公が積年の憤りを散じ、存分のままに罰を下した場所であった。
また南には志賀・唐崎・石山寺の社寺が見えた。この石山寺の本尊は遠く唐にまでその霊験を知られた観世音菩薩であり、その昔紫式部もこの寺に参詣して所願をかなえ、その礼として源氏物語の巻を納めたと伝えられる仏である。このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破の関も見え、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものであった。
この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(現虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせた。
これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。9月16日、信長公は虎御前山の砦に羽柴秀吉(秀吉について、原文ではここから羽柴姓で称される)を残し、嫡男奇妙殿とともに横山へ馬を納めた。
すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。
小谷城
小谷城下の北国街道の大谷市場跡
先ずは、昼食!
安土城郭調査事務所の〇〇主査のレクチャー・・・
〇〇副主査・・・
虎御前山の遺構は、一部破壊されている部分もあるが、比較的良好に 残されている。
山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ)(伝織田信長陣)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御がなされる。 また、最も小谷城に近接する伝木下秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に、周囲に帯曲輪が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせる。
虎御前山城図
天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ、9月1日に長政が自刃して浅井氏は滅亡、小谷城攻略戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となった。
小谷城攻略 虎御前山城探訪20110924
いよいよ、信長の小谷城攻略の砦跡に・・・・
歴 史
元亀元年(1570年)鎌刃城の堀氏を調略した信長は虎御前山を本陣として小谷城を攻めたが、この時は本格的な築城には至らず兵を引いた。
天正元年(1572年)織田信長によって築かれた。天正元年(1572年)再び小谷城に侵攻した信長は虎御前山に築城し、元亀4年(1573年)小谷城が落城するまでの間、最前線の砦として利用された。
小谷城攻略 虎御前山城跡探訪 2 20110924
t036kkkk初登場?【織田信長陣地跡」
下山後、
虎姫時遊館の有志の「もてなし杖」を返却して、JR河毛駅へ・・・・随時解散!
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、淡海の城、小谷城ブックレット
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近江鉄道 鳥居本駅集合
近江鉄道の家紋入り乗車券・入場券セットのポスター
佐和山城探訪 1 2011.9.10
佐和山探訪 2 2011.9.10
平成5年から10年間にわたり、毎年研究集会を重ねてきた織豊期城郭研究会は、
平成14年の第10回研究首魁を最後に休会しました。
しかし、その後の城郭研究の進展と、復活を求める声を耳にして平成19年に熊本において活動を再開しました。
その後、しばらく第2回目の研究集会が開催できませんでしたが、このたび事務局を若手主体に一新し、
新たに10年計画で研究集会を開催する体制が整いました。
テーマ:織豊系城郭の支城
開催日:平成23年9月10日(土)・11日(日)
案内チラシはこちら
9月10日(土):前日見学会 13時集合~17時終了
集合場所:滋賀県彦根市 近江鉄道鳥居本駅改札口前(JR彦根駅から近江鉄道に乗り換え)
内容:佐和山城跡見学(案内:彦根市教育委員会文化財部文化財課)
見学コース:鳥居本駅→城下町→大手土塁→かもう坂通り往還→本丸周辺→千貫ノ井→・・・・へ
中仙道の鳥居本宿・・・江戸時代「合羽の柿渋で防水・・・・」
最初のビューポイントです!
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2011年3月11日 東日本大震災。
TVに写る大津波、ただ自然の驚異に慄くばかり…!
その後、神戸の震災被災の体験者が体育館や避難所で
「人に迷惑が掛からい様にと、じっとしているお婆ちゃん・お爺ちゃんが…足の筋肉が弱り歩けなる」と
少しでの自分の足で歩いて、トイレでも……運動するために杖がいる…!
義援金は、配分が遅れて被災者には届かない!
遠く離れ滋賀からでも、出来ることがあるはず!
「そうだ、間伐する丈夫な樫や椿の杖を作って現地へ」持ち込もう!!(累計で670余本も里山の杖を)
滋賀県長浜市三川の時遊館の有志で「愛の絆の里山の杖作り」が始まった。
子供のイベントにも「愛の絆の里山の杖作り」が企画された。
http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/42b011e5edbb64c053cccef42e0604a6
全員手作り腕章と名札を胸に!
被災地に「里山の支え杖」を長浜 時遊館の有志6人で、被災地へ 8/24~26の3日間強硬日程で!
仮設住宅で、大変喜んで頂きました。
有志が、「里山の支え杖」を引き渡し、被災地へ 8/24~26の3日間強硬日程で!
最後まで「避難を呼びかけ続けた」女子職員のビル、何人もの命を貴女おかげで救われました。・・・・ありがとう、やすらかに!
NETに感謝!感涙! ・・・・・・Openされたをblog・HPは、「著作権・肖像権の承諾と」勝手に解釈しております。
blogやHPの管理者様に感涙! 薄知の当blog管理人はとっては、Openされたをblog・HPは世界の知恵袋、大辞典です。
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