城郭探訪

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小脇城 近江国(八日市)

2017年02月28日 | 山城

【小脇館】と【小脇山城】の中間に標高:150mの山中に【小脇城】

「小脇城」

お城のデータ 

所在地:東近江市小脇町  (旧八日市市小脇町)  map:http://yahoo.jp/WjfocE

区 分:山城

現 状:山林

遺 構:土塁、竪堀、削平地(曲輪)、井戸

標 高:150m 比高差:30m

築城期:鎌倉期

築城者:三井氏

初城主:三井新三郎・三井石見守時

目標地:緑ヶ丘自治会館・山麓道路に石段(登り口)http://yahoo.jp/o_7a63

訪城日:2017.2.28・2013.5.1

小脇城・・・2017.2.28

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』にか、「蒲生郡 小脇城主 佐々木旗頭 三井新三郎・三井石見守時高」と記す。

『大洞弁天当国古城主名札』にも「三井新三郎」の名がみえるとある。

  1. 新発見か?
    小脇城 近江国{八日市}
    区分:山城
    現状:山林
    遺構:土塁、竪堀、削平地曲輪、井戸.

    【小脇城・遺跡ウォーカー】で検索!

    mapコードは、間違いのようです!が?

    滋賀県城郭分布調査10にも記載あり。

    小脇山城の山麓館か?

    小脇山城は、佐々木六角の重臣三井氏の城。

    所在地:東近江市小脇町もっと見る


山頂部(小脇山城)

下屋敷跡か?(2013.5.1)

 

森が「小脇城」推定地

 歴 史

 湖東平野の農業生産力という基盤にくわえ、近江から鈴鹿山脈をこえて伊勢国にいたる中世近江商人にさかんに利用された八風街道という交通の要衝に位置している。

  そのため、すでに鎌倉時代の『源平盛哀記』に「蒲生郡小脇の八日市」とみられるように、定期市場の中心となっていた。現在、「御所」「鳥門」「東風門」などの小字名がつたわる。(後略)(満田良順)」とあります。

なお、八日市小脇町は現在東近江市小脇町になっています。

集落の左の森が「小脇城」推定地、山上に詰城【小脇山城】

お城の歴史

三井氏

三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫藤原右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない。12代三井出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる。

慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松阪に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。

屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている。

小脇郷の歴史

  戦国時代となる紀元前4世紀から朝鮮半島を含む中国大陸より、戦乱から逃れる亡命者集団が歴史上主として4つの時期にわたり日本各地に相当人数が漂着して来ています。

   その一事例として、古事記・日本書紀には5世紀前半ころ秦一族等が近江の国に移住したことや、西暦668年の唐と新羅の連合軍により滅ぼされた高句麗の国滅亡の混乱時には、百済や高句麗からの多くの亡命者が日本各地に渡来し、時の政権はこれを受け入れ対応していることが記されているのです。 こうした渡来人は、全国各地で医術、製鉄の技術、鉄製の農具、灌漑(かんがい) 技術、須恵器づくり等の当時の先進技術をもたらしています。               

  その亡命渡来人について、669年に男女700余人を近江蒲生郡に配したとし、滋賀県蒲生郡日 野町から東近江市にかけて渡来人が配されている記録があり、蒲生野と呼ばれていた地域の中にある小脇郷にも高麗人たちが移住しているのです。

又、それ以前の時代の証として小脇町青蓮寺付近の土中3メートルから5世紀末の瓦泉(はそう)が出土しています。又、金柱宮跡付近から太い柱
の一部が発見されており、この直近の小脇山山腹には後期の古墳2基があり、5世紀には人々が住んでいて付近を開拓したと考えられるのです。 此処、東近江市の小脇郷は今も同じように、若干の表土の下には丸い河原の石と砂が混合した砂礫地層となっており、元来、農耕不適の土地だったのが渡来人達の開拓によって稲作が出来るようになったと言い伝えられています。          

このことは現代まで、小脇郷の 「狛(こま)(狛=高麗人)の長者伝説 」 として残されているのです。
  伝説というのは、これまで生きつづけてきた人々の口から 代々語り伝えられるものです。そして、この伝説を物語るようにしてその遺蹟や跡地が残されており、小脇郷に残っている           
                   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査10、遺跡ウォーカー、ウィキペディア

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!! 


目川城 近江国(栗東)

2017年02月18日 | 居城

近江東海道中絵巻一(目川部分)

お城のデータ

所在地:栗東市目川689(遺跡ウォーカー)   map;http://yahoo.jp/KSYPmB   

区 分:居城

現 状:個人宅

築城期:1362年

築城者: 芝原右京進重兼

遺 構:不明

目標地:旧東海道「目川の立場(休憩所)」

訪城日:2017.2.16

お城の概要

旧東海道の目川の立場(休憩所)で、一里塚周辺と考えられる。

街道沿いには、道標や説明板・ウォーキングマップ説明板あり

 京都新聞2017.2.18

お城の歴史 

芝原氏代々の居城。
1362年、芝原右京進重兼が目川・坊袋・川辺の三村を与えられて目川に城を移したことが始まりとされる。

目川の地は旧東海道の草津宿と石部宿の間にあり、江戸時代には立場(休憩所)として栄えた。
城の位置は特定されていないが、街道を抑える微高地にあったと推定される。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 目河 住 井出左衛門剥尉」の名が見える。

http://yahoo.jp/M6lDWl

 

 

膳所城移築門

移築され8日から一般公開が始まった、膳所城のものとされる城門(栗東市岡)

 江戸時代、膳所城にあったとされる門が滋賀県栗東市林の寺から同市岡に移築され、8日、現地で竣工(しゅんこう)式があった。寺では山門が新築されたことから地元の酒店店主が譲り受け、この日から一般公開も始めた。

 門は高さ約4メートル、幅約5メートルで、明治以降、同市林、長徳寺の山門として活用されてきた。膳所城は1663年の地震で大きな被害を受け、当時の藩主、本多俊次が改修を行った。門の瓦には本多氏の家紋「本多立ち葵」があしらわれており、この改修時に設けられた城門では、とされる。

 同寺には、明治維新後に同城が解体となった際、移築されたと伝わる。老朽化が進んだため、寺は4年前に門の新築を決め、古い門は廃棄される可能性もあった。これを知った酒店店主、山本喜三雄さん(73)が、地元の町づくりに活用しようと譲り受けた。

 式には地元住民ら約30人が出席。江戸時代に地元の田楽茶屋や酒について詠まれた句を刻んだ句碑の除幕も行われた。

 山本さんは「(栗東市)林も岡も、もともと膳所藩の一部だった。歴史を生かした地域資源になれば」と話している。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・遺跡ウォーカー、さきろぐ、近江東海道中絵巻一(目川_部分)、現地説明板、京都新聞

本日の訪問ありがとうございす!!


黒津城(大日山城) 近江国(田上黒津)

2017年02月18日 | 平山城

黒津城(大日山城)

お城のデータ 
所在地:大津市田上黒津町 一丁目14 map:http://yahoo.jp/jLEbJc
別 称:大日山城URLのコピー
区 分:平山城
現 状:山林・古墳・寺社地
築城期:永享年間
築城者:山岡資広
遺 構:曲輪・土塁・櫓台
標 高:129m  比高差:40m(湖水面) 比高差:25m(駐車位置) 
目標地:大津市田上黒津町 一丁目14
板碑
訪城日:2017.2.16
 
お城の概要

瀬田川と大戸川の合流点に位置する大日山(三尾山)の山頂に築かれた山城。
大日堂が建つ東端の平坦地を主曲輪とし、その西側に2段の曲輪が連なる連郭式の構造。
主曲輪の北側と東側に小曲輪が確認でき、北側には櫓台と思われる3m四方の土盛りが残る。
瀬田川に面する西端には高さ3mほどの土塁の上に櫓台と思われる平坦地があり、瀬田川・大戸川の監視の目的が窺える。
各曲輪は堀切で区切られ、北側は切岸、南側には土塁と東西に長い帯曲輪を配置。
城域の南西に虎口と思われる地形が確認でき、瀬田川へと続く。

1896年の南郷洗堰建設に伴って山の西側が大きく崩されており、当時は瀬田川に突き出た半島状の地形の上に建っていたことが推察される。

滋賀県城郭分布調査3には、「瀬田川と大戸川の合流点、大日山の頂部付近に複数の平坦地が存在する。特に瀬田川に面する北西部分には、古墳の頂部を削平したと考えられる櫓台状の郭とその周囲に犬走りが認められるが、縄張の全体については判然としていない。」 

 

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』に、「栗太郡 勢田大日山城主 佐々木末丹州籏頭随一 〇山岡美作守秀俊

                       宇多天皇八代季定公二男山岡次郎 胤綱俊胤 

                                   山岡八郎左衛門景隆

                 同 佐々木随兵後信           勢田掃部介

山岡氏の本城。
永享年間、山岡資広が勢多村を平定して「山田岡」に城を築いたことが始まりとされる。
山岡氏は元は毛枚氏・大鳥居氏を称した甲賀郡の土豪。
大鳥居資広が勢多(瀬田)を領して山岡氏を名乗り、佐々木六角氏に仕えて「江南の旗頭」と呼ばれるほど湖南地方に絶大な勢力を有した。

永享年間に山岡資広は瀬田城を築いて山岡氏の本城を移し、自身は石山城に隠居した。
瀬田城と同じく、賤ヶ岳の戦いの後に廃城になったと思われる。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 黒津河村 住 佐々木隋兵元丹州藤氏 川村孫兵衛」「黒津川村 住 笹岡権兵衛」「黒津川村 住 佐々木隋兵 好瀬庄右衛門」の名が見えるが、永享年間、山岡資広が勢多村を平定か?

  

井戸

武者隠しか?

 

参考資料:遺跡ウォーカー、『日本城郭大系』11。滋賀県城郭分布調査1・3、さきろぐ。

本日の訪問ありがとうございす!! 


「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」第4回 特別史跡彦根城跡

2017年02月12日 | 平山城

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」第4回
特別史跡彦根城跡

彦根城は、関ヶ原の合戦後、徳川家の重臣井伊家の居城として築かれました。徳川氏による近江支配の要として、また大坂城の豊臣氏に対する最前線として、重要な役割を担いました。

彦根城は、戦国時代を通じて発達を遂げた城郭の縄張の究極の姿が見られる城です。また、今も残る石垣は、築城や修築の歴史を反映して、様々な時代の様相をうかがうことができ、各時代の石垣構築技術を示す遺構として貴重なものです。国宝天守をはじめ、主要な城郭建造物が重要文化財として現在も残ることから、建造物への関心が集まっていますが、縄張や石垣といった地面に残された遺構についてももっと注目をすべき城なのです。

今回の講座では、縄張や石垣などの遺構を中心に、彦根市教育委員会文化財課専門職員の案内で彦根城跡を御覧いただきます。

 

1.日時:平成29年2月5日(日曜日)10時30分~16時00分

  • 大学サテライト・プラザ彦根集合※アルプラザ彦根(平和堂)6階
    彦根市大東町1-7 JR彦根駅西口前
  • 特別史跡彦根城跡・西の丸三階櫓前解散 JR彦根駅まで徒歩15分

2.場所

  • 講義:大学サテライト・プラザ彦根(彦根市大東町1-7)
  • 現地見学:特別史跡彦根城跡

3.行程

  • 大学サテライト・プラザ彦根(講義・昼食)→特別史跡彦根城跡内(大手門跡→鐘の丸石垣→東大堀切→本丸石垣→黒門跡→西大堀切→西の丸石垣→太鼓丸石垣→西の丸三階櫓前)
  • 全行程約4km 急斜面の上り下りあり

4.主催:滋賀県教育委員会

5.協力:彦根市教育委員会

6.講師

  • 講義「大坂城包囲網」:仲川靖(滋賀県教育委員会文化財保護課)
  • 現地探訪:彦根市教育委員会文化財課専門職員

7.定員:60名(事前申込制先着順)

8.参加費:無料

9.参加申込方法

  1. FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯電話推奨)をお書きの上、下記までお申し込みください。
  2. 申込締切:平成29年2月2日(木曜日)午後5時

10.持ち物

  • 弁当、健康保険証、水筒、手袋、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

11.その他

  1. 講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。
  2. 単独回のみの参加も可能です。
  3. 受講された方には修了証を発行します。
  4. 当日の気象条件等の変化により、コース・終了時間等を変更する場合があります。
  5. 悪天候等による中止の場合は3日(金曜日)午後5時までに参加者に連絡します。
  6. 集合場所には駐車場がありません。公共交通機関を利用してご参加ください。

12.参加申込・問い合わせ

  • 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係
    〒521-1311滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678城郭調査事務所
    TEL0748-46-6144/FAX0748-46-6145/E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp

13.今後の予定

お問い合わせ

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 

電話番号:0748-46-6144

ファックス番号:0748-46-6145

メールアドレス:ma16@pref.shiga.lg.jp


「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」  第3回 長浜城跡・城下町跡

2017年02月12日 | 平城

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」 第3回 長浜城跡・城下町跡

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」
第3回長浜城跡・城下町跡

長浜は、羽柴秀吉が初めて城持ち大名となった場所です。湖岸に築かれた城は、石垣の上に天守がそびえ、建物には瓦が葺かれるなど、織田信長・豊臣秀吉によって確立された織豊系城郭の特色を備えています。長浜城は単に羽柴秀吉の居城であったというだけではなく、信長時代に近江に築かれた坂本城(大津市)や安土城(近江八幡市・東近江市)、大溝城(高島市)とともに、織田信長による近江支配を担った拠点城郭の一つでもありました。また秀吉は、築城と同時に城下町の建設も行い、琵琶湖とつながり、整然とした町割を持つ城下町をつくりあげました。この秀吉のつくった城下町が今の長浜の町の起源です。その後、豊臣時代には家臣の山内一豊が城主となり、豊臣政権による近江支配の拠点城郭の一つとなりました。

このように現在の長浜の基礎は秀吉によってつくられ、今も各所にその痕跡が残ります。今回の講座では、長浜城跡と城下町について、現地に残る痕跡を長浜城歴史博物館学芸員の案内で御覧いただきます。

第3回「長浜城跡と城下町」

  • 長浜は、羽柴秀吉が初めて城持ち大名となった場所です。豊臣時代には家臣の山内一豊が城主となり、近江支配の拠点城郭の一つとなりました。

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」 第3回 長浜城跡・城下町跡

【日時】平成29年1月22日(日)12:30〜15:30 ※12:00受付開始

【集合】長浜市曳山博物館(長浜市元浜町14-8)※JR長浜駅から徒歩7分

【解散】長浜市長浜城歴史博物館(長浜市公園町10-10)※JR長浜駅まで徒歩7分

【会場と内容】
■講義:長浜市曳山博物館(長浜市元浜町14-8)
「信長・秀吉の近江支配」松下浩(滋賀県教育委員会文化財保護課)
■現地見学:長浜城跡・長浜城下町跡
(講師)長浜市長浜城歴史博物館学芸員

【行程】全行程約4km
長浜市曳山博物館(講義)→長浜城下町跡→長浜城跡→長浜市長浜城歴史博物館

【定員】60名(事前申込制・先着順)

【参加費】無料
※ただし、長浜市曳山博物館・長浜城歴史博物館の展示をご覧になる場合は別途入館料が必要です。

【持ち物】健康保険証、水筒、手袋、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

【参加申込方法】
1.FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯電話推奨)をお書きの上、下記までお申し込みください。
2.申込締切:平成29年1月19日(木)17時
◆滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係
 TEL:0748-46-6144
 FAX:0748-46-6145
 E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp

【その他】
1.講座資料(A4版8頁程度)を無料で配布します。
2.単独回のみの参加も可能です。
3.受講された方には修了証を発行します。
4.当日の気象条件等の変化により、コース・終了時間等を変更する場合があります。
5.悪天候等による中止の場合は1月20日(金)17時までに参加者に連絡します。
6.集合場所には駐車場がありません。公共交通機関を利用してご参加ください。

【今後の予定】
1.第4回 彦根城跡:彦根市
 平成29年2月5日(日)
2.第5回 関ヶ原合戦と近江
 平成29年3月4日(土):大津城跡・膳所城跡現地探訪
 平成29年3月5日(日):シンポジウム「関ヶ原合戦と近江」於:ピアザホール(大津市におの浜1-1-20)
※詳細は、開催の約1ヶ月前に県政eしんぶん(http://www.pref.shiga.lg.jp/hodo/e-shinbun/index.html)等で発表します。

◆主催:滋賀県教育委員会
◇協力:長浜市長浜城歴史博物館
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■近江歴史探訪案内メール配信サービス
■滋賀県教育委員会文化財保護課
■TEL:077-528-4674


講座:信長家臣たちの城

2017年02月08日 | 講座

 

安土山

日時:2017.1.28

講師:中井 均氏

安土城

坂本城(明智光秀)

1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。

長浜城(羽柴秀吉)

大溝城(織田信澄) 

勝龍寺城(長岡京)細川藤孝

 元亀2年(1571)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。

 安土城

 安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。

信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽秀長、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。

この城を築城した目的は、岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。

城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フォロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。

城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では、仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。

 滋賀県は平成元年から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模した本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した。20年間で調査が実施されたのは史跡指定面積の約20%(17ヘクタール)にとどまったが滋賀県の財政事情から事業継続には至らず、全域の調査(50年から100年必要とされる)は将来にゆだねられることとなった。

坂本城(明智光秀) 

坂本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地であった。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。

 

1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。

長濱城

 長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。

 姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃、小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城したことがある。

 江戸時代になって、慶長11年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。

 建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓(国・重文)や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。また、当市内の大通寺台所門(市指定建造物)、知善院表門(市指定建造物)も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として昭和37年に市の指定文化財として指定されている。

 城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。
(城内説明板
より) 

大溝城(織田信澄)

大溝城(滋賀県高島市高島町勝野、鴻湖城とも)は、織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に築城された。

 この城は、琵琶湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承される。
そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主・磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(1578)2月3日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄に宛行い大溝城主としたという(『現地案内板』)。

城主に入った信澄は高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
ところが、天正十年(1582)6月2日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、6月5日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大坂城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた(『現地案内板』)。

大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏にひきつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た(『現地案内板』)。

勝龍寺城(長岡京)細川藤孝

観音寺城のたたかいで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568)9月26日、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友道が守る勝竜寺城を攻撃させた。

岩成友通は足軽衆を全面に押し立て応戦したが、織田軍は精鋭の馬回り衆を乗り入れ戦いを有利に進めて首級を50余りあげ、上洛を果たしていた信長の陣所である東福寺へ届けたとされる。

自ら首改めを済ませた信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、信長自身が5万兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かった。畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆であったが、織田方の大軍を前に降伏・開城する。これは観音寺城の戦いで近江守護であった六角義賢・義治父子が織田軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに観音寺城が落城したことが少なからず影響していたと考えられている。

元亀2年(1571)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。同年10月14日の信長より藤孝宛ての『印判状』には

勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し — 織田信長の印判状

とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている

その後信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させていき、三人衆を阿波に追い出し畿内から掃討することになる。

 

参考資料:講座レジュメ、ウィキペディアほか

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