城郭探訪

yamaziro

谷城下城  近江国(甲賀郡・甲西)

2013年06月13日 | 平山城

谷城周辺図・・・参考書【菩提寺歴史散歩】

谷城は和田神社周辺に、応仁2年(1468)に谷口籐兵衛(後に谷と改名)によって築かれた。古絵図では「下司館(げしやかた)」

甲賀郡誌では、六角氏の近習である谷武兵衛兼修の居城と記されているが、詳細不明。

所在地:湖南市菩提寺 (旧甲西町菩提寺) map:http://yahoo.jp/FnEX5p

別 名:谷城上城・谷城下城

目標地:和田神社

区 分:山城  

標 高:240m   比高差:60m

現 状:山林・神社

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・切岸・井戸

築城期:戦国期

築城者:谷口籐兵衛(後に谷と改名)

城 主:谷武兵衛兼修

訪城日:2013.6.11

 

下城

和田神社の石段を登ると拝殿境内の石垣。石垣そって細い道を東側に進み(下の竹藪に平削地)、土塁・虎口・・・更に進むこと30m、下城に25m×35m周囲を土塁で固めた城主の居館。

 この郭は、本格的な防御施設一つは、虎口(今は、参道になっているが)大手道・登城道の階段、右折し直角30m、石積の虎口が左に開口し巾1mの喰違いを施した・・・城内入れない。東側の急斜面に3本の竪堀(この地方には珍しい)には、神社側には10mもの大土塁・大堀切。

虎口 虎口の東側土塁

(下の竹藪に平削地)奥に「水の手」と呼ばれる「井戸跡」直径1.6m深さ6.3mもあるそうで!

御神木「サンヤレ檜」は「物見櫓跡」。東側は、竪堀・畝状竪堀・切岸・石垣。

虎口へ戻る下城の神社側は大土塁・さらに大堀切・・・。

穴太積の石垣を右へ

和田神社

本殿

・・・・本殿の東側に登ると下城の大堀切・大土塁

本殿から鳥居を出て

上城へ(龍王山ハイキングコース)

 参考書(菩提寺歴史散歩)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、菩提寺歴史散歩

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


菩提寺城 近江国(甲賀・甲西)

2013年06月13日 | 平城

参考資料:菩提寺歴史散歩

菩提寺まちづくりセンターの向かいが城址。

菩提寺保育園も城域のようで、高台(切岸?)のように見えます。

 遠景

お城のデータ

所在地:湖南市菩提寺(旧甲賀群甲西町菩提寺) map:http://yahoo.jp/8hMqfS

区 分:平城

遺 構:土塁

築城期:室町期

築城者:青木筑後守

目標地:菩提寺幼稚園・湖南市菩提寺まちづくりセンター

訪城日:2013.6.13

お城の概要

図は、損壊の余り進んでいなかった大正期のようすを古老の記憶を頼りに描いたものです。(参考資料:菩提寺歴史散歩)

 提寺城は菩提寺保育園のある丘陵に谷城より遅れくれること20年後の長享年間(1487~1489)に青木筑後守によって築かれ、古地図では、「大政所 目代屋敷(おおまんどころ もくだいやしき)と描かれた場所。

この菩提寺城の西方約100mの地には、「青木孫九郎屋敷」呼ばれた「青木館」があり、ほぼ同じ運命をたどった「青木館」は、県道22号によって分割され、その遺構は確認できません。

八王子神社の東の山に城跡遺構が詰め城カ!西側は近年、住宅開発でビューポイントに!

龍王山(菩提寺山)・・和田神社に谷城(上城・下城)が有ります。

近年、住宅開発で城郭遺跡のわずか残すのみ!この下は平成の切岸!

八王子神社(青木の鎮守社)

八王子神社(遠景)

阿弥陀院(青木の菩提寺)

 壁画:::菩提寺古文章・絵図 (菩提寺新町)

石部城の攻防 

歴 史

・・・・・信長公記 三巻10月20日の条・・・・・

 江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城・菩提寺城まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。云々・・・・

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将軍足利義昭が追放され、さらに江北の浅井氏、越前の朝倉氏が滅ぶと、いよいよ信長の六角征伐は本格的になってきたのであった。

 一方、たび重なる六角氏のゲリラ戦法は。次第とその戦力が低下し、先述のように、元亀元年の野洲川合戦や天正二年の石部城籠城戦が、六角氏の戦国武将としての意地をみせる最後の戦闘となったのであった。なかでも石部城をめぐる攻防戦は、六角軍の最後の力量をみるにふさわしい合戦となった模様である。

 石部城は、甲賀武士青木石部氏の拠城で(後述)、この城を六月承禎は本拠地とし、信長の武将佐久間信盛を迎え討つことになったのである。『山中文書』年末詳十二月二十四日付「六角承禎書状」(『甲賀郡志』下巻)をみるとその戦いぶりを知ることができる。

 織田信長に対し確執に及ぶ、越前朝倉・江北浅井没落の後、佐久間父子(信盛・信栄)大軍を帥い、石部館を攻む、菩提寺城を抜き、石部において堅固に相构め畢んぬ、其方儀、軍忠を抽んで、取林寺熊之助の首を撃ち、その時他に異なる感状を与う、九月朔日より翌年四月十三日に達し籠城す、寄手柵十一ヶ所の附城、(山中)長俊等柵を破り、忍び出て敵を討つこと四度なり、退城の時、供奉して信楽に至る、敵これを躡うと雖も、追い払い事故なく信楽に着く、右の赴(趣)、今に至りて失念す、今我齢八十一に及ぶ、残命久しうべからず、且床に臥す、然れども当来後世の契約を成す故、改めてこれを書く、判形を加え筆跡其甚し、高定これを認むるの条、細に能わず候、恐々謹言、

  極月に廿四日                              (六角)承 禎 (花押)

 山中山城守殿 参

 菩提寺城を攻略し、石部城を包囲した佐久間軍は、封柵で城内を拘禁し、六角軍殲滅を計った。ところが、城内では山中長俊や石部家清など六角氏とともに闘い抜いてきた甲賀武士たちが、十一ヶ所の封柵を破って敵陣に反撃を加えたりした。六角軍がゲリラ戦術で、敵を威嚇したのであった。しかし、ついに籠城をあきらめ、信楽に脱出するに至った。六角軍の敗退であった。

 なお、ここにこの合戦時にだされたと思われる信長軍の一通の黒印状がある。(『山中文書』年末詳三月五日付)。大変興味深い内容を持つものである。

書中に三色見来候、祝着せし候、毎々懇切浅からず候、仍て甲賀郡内の者共の礼、其意を得候、石部表の執出(砦)の儀に付、各精を入れ候段、弥由(油)断なく候て、落居たるべく候の条、堅く申し付くべく候、猶、來問を期し候、謹言、

  三月五日                                    信 長 (黒印)

   佐久間甚九郎殿

 内容からみて、石部城が佐久間軍に攻められ、承禎が信楽に逃避した天正二年四月の直前に発給されたものと思われる。六角氏の滅亡寸前に、信長は甲賀武士たちが自軍になびきつつあることを意識して、佐久間信栄に油断なきよう差配することを命じているのである。はたして承禎に付き従った甲賀武士がいか程いたかは不明であるが、少なくともこの文章から知られることは、甲賀郡内の地侍たちが信長に帰順していることである。この合戦において信長は、ほぼ終焉を迎えたといってよかったのである。

青木正信が居城したと伝わります。 

亀元年(1570年)に六角義賢(承禎)がここに立て篭もったが織田信長に破れ降伏したと伝わります。(その後、承禎は石部城に監禁されましたが、天正二年(1574年)に逃亡したとされます)

真明寺を貞享菩提寺城は、このころ再興したのは四世俊応であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻665)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、安の項の下に「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪わる(下略)」と註記されている。

 正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)をまもっていたのも青木氏であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野の青木氏も居城を捨て敗走したのである。

元禄11年(1698)に旗本内藤十治良(じゅうじろう)の采地(領地)となって陣屋が建てられ、明治以降には、学校用地や宅地などになり消失してしまい詳細は不明

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀の城、石部南小学校HP

      本日も訪問、ありがとうございました。


川合城 近江国(蒲生)

2013年06月13日 | 平城

竹藪の中の土塁竹藪の土塁(2003年には、残っていた)

かつての堀とか!

所在地:東近江市(旧:蒲生郡蒲生町)川合町  map:http://yahoo.jp/uo-PIx

現 状:集落・宅地

区 分:居城

築城期:室町期

築城者:川合右近大輔康明

城 主:川合右近大輔康明・川合安芸守実之・馬杉十郎

遺 構:土塁・かつての堀痕

目標地:川合町グランド・お旅所

駐車場:川合町グランドの駐車場

訪城日:2013.6.11

お城の概要

川合集落は、いくつかの地区に分かれるようだ。川合集落には、上和本郷地区の河合城と川合地区の川合城の二つの居城存在したようだ。

 川合城は川合地区のM氏宅、および周囲の何軒かの民家を城域としており、周囲に流れている幅約2mほどの川は、かつての堀跡。集落内の南側が城跡のようで、資料には水路が堀跡。

 北100mに竹藪があり、竹藪の中には土塁も確認できた(2003年まで)、南側には小字「御屋敷」という字名が残っている。

お城の歴史

 「佐々木南北諸氏帳」には、「蒲生郡 川合城主 佐々木隋兵元左馬助 川合右近大輔康明・同 元伊賀川合 川合安芸守実之・同 佐々木隋兵石寺住 馬杉十郎」の名が見える。が、詳細不明。


近くの神社の御旅所(グランドの隣)樹齢500年以上?の御神木クスノキ!

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、佐々木南北諸氏帳

今日も訪問、ありがとうございました。感謝!


丸岡城(養林寺城) 近江国(甲西)

2013年06月13日 | 平山城

   

お城のデータ

所在地:湖南市(旧・甲賀郡甲西町)柑子袋(こうじぶくろ)町 map:http://yahoo.jp/wW2LFD

別 名:養林寺城

区 分:平山城

築城期:鎌倉期 治承4年(1180)

築城者:青木籐兵衛尉

初城主:青木籐兵衛尉

遺 構:土塁、堀、土橋、郭

城 域:100m×50m

訪城日:2013.6.13

墓地への参道墓地に10台のスペースがある。

お城の概要

丸岡城は旧東海道の約200mほど南の丘陵地にあって、東約100mには支城と考えられる東丸岡城があり、このあたりは甲賀特有の “小城が連携しあって戦う” といった考え方で築城されているが、丸岡城は単郭方形の曲輪の虎口前面に小曲輪と共に土塁を配し、主曲輪虎口の強化が図られている。主曲輪の周囲の斜面にも曲輪状の地形が認められるが、削平状態が甘く城域がどこまでかははっきりしない。

西方約1kmには石部城、東方約3kmには三雲城があり、元亀争乱の中で織田方、あるいは六角方の改修の可能性が考えられる。

 丸岡城のすぐ横まで宅地が建ち並び、開発が進んでいるの気がかりである。

お城の歴史

丸岡城は、治承4年(1180)源頼朝に従って軍功を立てた青木籐兵衛尉が築城したと伝えられる。

 青木氏は甲賀五十三家の一家で、元亀年間(1570~1573)に織田信長に下り、天正13年(1585)には豊臣秀吉により領地を召し上げられている。

 真明寺を貞享のころ再興したのは四世俊応であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻665)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪わる(下略)」と註記されている。

 正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)も青木氏で所領であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野の青木氏も居城を捨て敗走したのである。

                               

北側は、ビューポント湖南市の野洲川沿いだ一望出来ます(城郭の北側は、無残にも山砂採取で破壊されている残念!)

         参道の北側が丸岡城でした!

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城 

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!