城郭探訪

yamaziro

青地(あおぢ)城(部田城) 近江国(草津)

2013年09月30日 | 丘陵城

支津小学校前の”堀池”

城のデータ 

所在地:草津市青地町    map:http://yahoo.jp/lOyztf

別 名:部田城

現 状:林

区 分:平山城

築城期:鎌倉期初期

築城者:青地忠綱カ

城 主:青地忠綱カ

遺 構:曲郭・土塁・堀切・堀(城)池

比高差:10m

目標地:志津小学校

駐車場:小槻神社駐車場 

訪城日:2013.9.29

草津:志津小学校の裏山に

裏門から、青地城の見学出来ます。

校舎裏には石碑が立っている。

お城の概要

 近江守護佐々木氏一族に連なる土豪青地氏の居城で、現在は志津小学校の敷地となっており、校舎裏には石碑が立っている。                                      かつての堀の跡である”城池”に昔の面影を残す中世城郭址。

 青地城は鎌倉時代から室町時代にかけて、この地域を治めた青地氏12代の居城で、小槻神社と志津小学校及び志津幼稚園の一体を城域とそ、至る所に土塁などの遺構が残る。

志津小学校裏手の高台には青木城主墓石(宝匡印塔)が祀られている。この場所が本丸を考え、南側には東西に分厚い土塁・さらに南側には堀切は10m以上高さを図る。

 小学校正門横には”城池”と呼ばれる池が現存する。この池はのちに灌漑池として利用されるが、当時の堀を拡張したものと考える。

青地氏家紋丸に角立ち四つ目結(佐々木氏流馬淵氏族)

 青地氏は佐々木氏の支流馬淵広定を祖とする。馬淵広定は佐々木定綱の五男で、蒲生郡馬淵庄を領して馬淵を称したのに始まる。この広定の四男基綱が青地右馬助の養子となり、青地氏を継いだという。その時期は鎌倉時代の中ごろと考えられている。青地庄は経済的にも交通的にも重要な位置を占めており、江南地方に勢力の拡張を目指す馬淵氏や、その背後にある佐々木氏にとって青地庄に一族の者を配置することは有効であったために、基綱を青地氏の養子として青地氏を佐々木氏の一族化したものだろう。
 青地という地名が示しているように、青地は生産力の豊かな土地であり、東海道・東山通、さらに琵琶湖岸を結ぶ重要な位置であった。はじめは志津庄と呼ばれていたが、青地氏がこの地を領して、永禄年間以降(1558~70)、在地領主として勢力を振るうようになってから青地庄と呼ばれるようになったと伝える。
 ところで、基綱が継いだ青地氏とはどのような氏族であったのだろうか。志津庄と呼ばれていた頃の荘園領主は、古代豪族である小槻氏であったようで、青地氏は小槻氏の荘園を預かる荘官をその祖としているようだが、その実態は不明である。

青地氏の台頭

 佐々木氏流青地としては、基綱の子忠綱がはじめて青地城を築き、近江源氏七頭の一人として湖南を支配するようになったと伝えられる。
 基綱が青地氏を相続してのちの弘安四年(1281)、その子基氏は一族とともに小槻大社に神櫃を寄進している。この櫃の銘文から青地一族が惣領基氏を中心とする武士団を結合していたことが知られる。その後、惣領は基氏から弟忠綱の子である冬綱に継承されたようだ。冬綱は近江守護代を務め、その権勢は同地の豪族田上・沢氏らを押えて、ひときわぬきんでていた。
 建武三年(1336)八月の能登野の合戦に、青地源五入道の名が見えている。このころ惣領は氏重であったが、氏重は建武二年に死亡しており、子の重頼は成人していなかった。さきの源五入道は、おそらく氏重の弟で、重頼の叔父にあたる人物であったものと考えられている。幼い重頼の後見役を勤めていたものだろう。
 重頼は一族の長老や累代の重臣の補佐を得て、建武以来の動乱期を過ごしていたが、正平二年(1347)、佐々木六角氏より動員令が下った。この年、楠木正行が南河内に兵を挙げ、足利尊氏は細川顕氏を将として諸国に兵を募った。近江では六角氏頼が、弟山内五郎右衛門を将として、伊庭・目賀田・青地・平井氏らに出陣を命じた。しかし、藤井寺の戦いと称されるこの合戦は、足利方の惨敗となり初陣の青地重頼にとっては惨めな戦いであったようだ。
 その後、重頼は甲賀郡へ出陣し高山氏らと戦った。観応三年(1352)、足利義詮は京都の男山八幡山城にこもる南朝方と対陣していたが、高山氏らによって瀬田橋が焼かれたために、重頼をして瀬田の地を確保するべく命じた。この戦いにおいて重頼は高山氏らに勝利をおさめ、重頼の武名は高まり、のちに「郡奉行」の要職を務めるようになった。
 正平十五年(1360)、仁木義長が南朝に降伏し、伊勢・伊賀から甲賀に入り、大原・上野氏を加えてあなどりがたい勢力となった。このため六角氏に将軍義詮から討伐命令が下り、氏頼は弟山内定詮を将として国内の武士を指揮して仁木軍に対した。青地氏は馬淵・伊庭・三井・三上らの諸氏とともに陣を張り、定詮の隊を中軍として敵を迎え撃った。戦いは定詮の絶妙の指揮と将士の奮戦により、仁木軍は名ある武士多数を失って敗走した。しかし、この合戦で青地重頼は、三十八歳を一期として戦死した。
      

馬淵定弘の四男基綱が青地に進出し、青地氏を称した。定弘は、近江守護佐々木定綱の五男である。青地城は、基綱の子忠綱によって築かれたとされるが、はっきりしたことは分かっていない。忠綱の子冬綱は、近江守護代となった。青地氏は六角佐々木氏一門の中でもとりわけ重きを成し、六角氏に従って各地を転戦したが、南北朝の動乱で当時の当主青地重頼が戦死している。永正四年(1507)、京を逐われた細川澄元が近江へ逃れた際は、これを青地城に迎えたとされる。澄元は、まもなく甲賀の山中為俊を頼った。         このように、佐々木氏一族として勢力を誇った青地氏であるが、青地長綱の代に蒲生定秀の二男茂綱を養子としている。戦国期に急成長した蒲生氏の前に、青地氏の権勢も薄らぎ始めたものと考えられる。永禄十一年(1568)の織田信長の上洛によって六角氏が没落すると、青地茂綱は父定秀らとともに信長に臣従した。後に浅井・朝倉氏と信長が対立すると、茂綱は織田信治・森可成らとともに宇佐山城の守将となった。元亀元年(1570)、浅井・朝倉連合軍3万が宇佐山城に向かって接近するとの報に触れ、信治らは城を出て坂本で迎撃した。この戦で、信治・可成・茂綱は討ち死にした。跡を継いだ茂綱の子元珍は、永原城主佐久間信盛の与力となった。天正十年(1582)の本能寺の変後、元珍は岐阜の織田信孝に従った。翌十一年(1583)に信孝が羽柴秀吉に滅ぼされると、元珍は流浪の身となり、最終的に加賀前田家に仕えた。


 廃城時期は明らかでないが、おそらく元珍が所領を失うと同時と思われる。

小槻神社

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳  

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!
 


週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2013年09月29日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.09.28(土) 1500 PV 274 IP 2488 位  / 1934398ブログ
2013.09.27(金) 1468 PV 297 IP 2173 位  / 1934071ブログ
2013.09.26(木) 2317 PV 386 IP 1692 位  / 1933658ブログ
2013.09.25(水) 1101 PV 287 IP 2304 位  / 1933255ブログ
2013.09.24(火) 1235 PV 282 IP 2556 位  / 1932829ブログ
2013.09.23(月) 1580 PV 339 IP 1836 位  / 1932384ブログ
2013.09.22(日) 1067 PV 257 IP 2648 位  / 1931984ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2013.09.22 ~ 2013.09.28 10268 PV 2122 IP 2194 位  / 1934398ブログ
2013.09.15 ~ 2013.09.21 8914 PV 2170 IP 2374 位  / 1931718ブログ
2013.09.08 ~ 2013.09.14 6418 PV 1723 IP 3195 位  / 1929211ブログ

トータルアクセス数

※日別の閲覧数・訪問者数とトータルアクセス数の加算タイミングにタイムラグが生じる場合があります。

トータル閲覧数(PV)   585,010pv

トータル訪問者数(IP)  169,032IP

本日も訪問、ありがとうございました。


琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 菅浦 2013.9.21

2013年09月28日 | 探訪「近江水の宝」

大正13年(1924年)の暮れ、尾上(おのえ)の漁師が奥琵琶湖でイサザ網漁をしていたところ、数個の土器を引き上げました。これが葛籠尾湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)の発見です。その後、次々と引き上げられた土器等は、縄文時代から平安時代の長期におよび、しかもほぼ完全な形のまま葛籠尾崎の東沖の水深10~70m付近の湖底に沈んでいることが判明しました。世界的に見ても他に類を見ない深さにある水中遺跡であり、遺跡の成因にはいまだ定説がありません。神秘のベールにつつまれた、まさに琵琶湖湖底遺跡の代表と呼ぶべき存在です。

 今回の探訪では、尾上で葛籠尾崎湖底遺跡の出土品等を見学した後、漁船(湖上タクシー)で葛籠尾崎沖へと向かいます。そして、中世史に有名な菅浦(すがうら)へと上陸し、四足門(しそくもん)が出迎える集落内を詳しく訪ねます。
 地元住民のみなさんや長浜市教育委員会、県の文化財専門職員が同行案内いたしますので、是非ご参加くださいますよう、ご案内いたします。

★日時:平成25年9月21日(土)10:00~15:30頃 
★定員:50名(事前申し込み必要、先着順)

旧西浅井町~尾上に戻ります。

幸い、この日は凪で往復快適な湖上タクシーの船旅!

2013.8.16の台風18号で、湖水は濁っているようでした。

正面は竹生島です。

竹生島(旧びわ町)に、小島?岩?がエリ漁のエリ

本日も訪問、ありがとうございました。


琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 湖上タクシー 2013.9.21

2013年09月27日 | 探訪「近江水の宝」

 大正13年(1924年)の暮れ、尾上(おのえ)の漁師が奥琵琶湖でイサザ網漁をしていたところ、数個の土器を引き上げました。これが葛籠尾湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)の発見です。その後、次々と引き上げられた土器等は、縄文時代から平安時代の長期におよび、しかもほぼ完全な形のまま葛籠尾崎の東沖の水深10~70m付近の湖底に沈んでいることが判明しました。世界的に見ても他に類を見ない深さにある水中遺跡であり、遺跡の成因にはいまだ定説がありません。神秘のベールにつつまれた、まさに琵琶湖湖底遺跡の代表と呼ぶべき存在です。

 今回の探訪では、尾上で葛籠尾崎湖底遺跡の出土品等を見学した後、漁船(湖上タクシー)で葛籠尾崎沖へと向かいます。そして、中世史に有名な菅浦(すがうら)へと上陸し、四足門(しそくもん)が出迎える集落内を詳しく訪ねます。
 地元住民のみなさんや長浜市教育委員会、県の文化財専門職員が同行案内いたしますので、是非ご参加くださいますよう、ご案内いたします。

 琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 菅浦 2013.9.21 へ続く

本日も訪問、ありがとうございました。

 


琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 尾上 2013.9.21

2013年09月27日 | 探訪「近江水の宝」

 大正13年(1924年)の暮れ、尾上(おのえ)の漁師が奥琵琶湖でイサザ網漁をしていたところ、数個の土器を引き上げました。これが葛籠尾湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)の発見です。その後、次々と引き上げられた土器等は、縄文時代から平安時代の長期におよび、しかもほぼ完全な形のまま葛籠尾崎の東沖の水深10~70m付近の湖底に沈んでいることが判明しました。世界的に見ても他に類を見ない深さにある水中遺跡であり、遺跡の成因にはいまだ定説がありません。神秘のベールにつつまれた、まさに琵琶湖湖底遺跡の代表と呼ぶべき存在です。

 今回の探訪では、尾上で葛籠尾崎湖底遺跡の出土品等を見学した後、漁船(湖上タクシー)で葛籠尾崎沖へと向かいます。そして、中世史に有名な菅浦(すがうら)へと上陸し、四足門(しそくもん)が出迎える集落内を詳しく訪ねます。
 地元住民のみなさんや長浜市教育委員会、県の文化財専門職員が同行案内いたしますので、是非ご参加くださいますよう、ご案内いたします。

★日時:平成25年9月21日(土)10:00~15:30頃 
★定員:50名(事前申し込み必要、先着順)
★集合:午前10時に尾上港(駐車場あり)集合 ※JR河毛駅にタクシーあり(有償)
★解散:午後15時30分頃(尾上港)
★歩行距離:約1.5㎞(平坦地、一部坂道)  
★コース:裏面参照(長浜市湖北町尾上・西浅井町菅浦一帯) ★実費負担:500円(入館料、拝観料)
        ※ 尾上・菅浦間の往復乗船料2000円は、北びわこ湖上タクシー研究会に直接、お支払いください。
   ★ 持ち物:健康保険証・弁当・水筒・ウォーキングできる服装など
   

 

H23.9.21の小江城の堀跡(両側埋め立て道路に)

旧堀を泳ぐ鮎です

 琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 湖上タクシー 2013.9.21湖上タクシーへ続く

本日も訪問、ありがとうございました。


秀吉が築いた水口岡山城 (滋賀報知)

2013年09月27日 | 平山城

=実像迫る企画展と講演会=

水口岡山城本丸跡

◇甲賀
 甲賀伝統文化活性化実行委員会は十月、十一月、秀吉によって築かれた水口岡山城(甲賀市水口町)にスポットを当てた企画展、講演会を開く。
 企画展「水口岡山城」は十月十二日から十一月二十七日まで、水口歴史民俗資料館(甲賀市水口町)で開かれる。
 天下統一を目指した秀吉によって要の城として築かれ、五年交代で重臣が城主となったが、関ヶ原の戦いの後、廃城となった水口岡山城を紹介する。大人百五十円、小中学生八十円。十一月十六日、十七日は関西文化の日で無料。
 講演会「水口岡山城と城下町」は十一月十七日午後一時半、甲賀市碧水ホール(同市水口町)で開催される。
 実態がほとんど分かっていない水口岡山城について、松尾信裕・大阪城天守閣館長と城下町研究者である山村亜希・愛知県立大学准教授が講演する。無料。
 なお、当日午前十時から正午まで、発掘担当者による現地説明会も行われる。定員三十五人。三百円。申し込みは十一月二日から同実行委員会(TEL0748―62―7141)で受け付ける。

 

本日も訪問、ありがとうございました。


信濃館  近江国(竜王)

2013年09月27日 | 居館

信濃集落遠望(後方は雪野山)

稲荷神社

お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町信濃

区 分:平城

遺構等:なし

築城期:室町期

築城者:信濃氏

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.9.25

お城の概要

信濃集落で、集落の北端が館跡。

信濃館は、信濃地区の北にある、稲荷神社境内から北側の水田にかけてが城域であった。                                                      

歴 史

(安楽寺の北端)稲荷神社北側に「殿屋敷」と呼ばれる地名を伝える。

佐々木六角氏の陣代を務めた信濃氏の館。

居館の遺構は無く、「殿屋敷」・「赤門」等の地名が残るのみ。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 4、 旧蒲生・神崎郡の城、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。


平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての大量の土器が見つかった。(京都新聞)

2013年09月26日 | 遺蹟

境内の崩落地に大量土器 台風禍の亀岡・若宮神社

 

崩落した地盤から見つかった土器の層(亀岡市薭田野町・若宮神社)
崩落した地盤から見つかった土器の層(亀岡市薭田野町・若宮神社)

 京都府亀岡市薭田野町の若宮神社で、台風18号の風雨で崩落した拝殿脇の地盤から、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての大量の土器が見つかった。皿や碗などの破片が分厚い層をなしており、数万点に上るとみられる。関係者は「早く復旧したいが、地元の歴史を物語る遺物を急いで埋め戻すわけにもいかない」と思わぬ出土に戸惑っている。

 市教委によると、土器は地下約2メートルの深さに層状に見つかり、崩れた土砂にも多量の破片が混じっていた。食器のほか釜、鉢の一部らしい破片もあった。

 形状や高台の丁寧な細工などから、12~13世紀の土器とみられる。大量に積み重なっており、「祭礼などで一度に大量に使った器を集めたか、捨てる場所だったのでは。若宮神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえる」とする。

 市教委は24日に本格的に調査を開始したが、規模が大きく、今後の調査方法などは未定。幅約10メートル、奥行き約10メートル、高さ約3メートルにわたって土砂崩れした箇所以外は拝殿などの地下にあたり、全容の確認は難しいという。

 境内は、土砂崩落でみそぎ池が半分近く埋まった。神木の杉は根がむき出しになり、鳥居も傾いた。松本久宮司(42)は「次に雨が降れば拝殿下の地盤が崩れる危険性もある。でも大切な土器なので手をつけられない」と頭を抱えている。

 同神社は769年に多気神社として創建されたという。源義経が1184年の一ノ谷の合戦に向かう途中に戦勝祈願し、腰を下ろして休んだとの伝承が残る「腰掛岩」がある。

皿や碗などの破片が分厚い層をなしており、数万点に上るとみられる。関係者は「早く復旧したいが、地元の歴史を物語る遺物を急いで埋め戻すわけにもいかない」と思わぬ出土に戸惑っている。

 市教委によると、土器は地下約2メートルの深さに層状に見つかり、崩れた土砂にも多量の破片が混じっていた。食器のほか釜、鉢の一部らしい破片もあった。

 形状や高台の丁寧な細工などから、12~13世紀の土器とみられる。大量に積み重なっており、「祭礼などで一度に大量に使った器を集めたか、捨てる場所だったのでは。若宮神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえる」とする。

 市教委は24日に本格的に調査を開始したが、規模が大きく、今後の調査方法などは未定。幅約10メートル、奥行き約10メートル、高さ約3メートルにわたって土砂崩れした箇所以外は拝殿などの地下にあたり、全容の確認は難しいという。

 境内は、土砂崩落でみそぎ池が半分近く埋まった。神木の杉は根がむき出しになり、鳥居も傾いた。松本久宮司(42)は「次に雨が降れば拝殿下の地盤が崩れる危険性もある。でも大切な土器なので手をつけられない」と頭を抱えている。

 同神社は769年に多気神社として創建されたという。源義経が1184年の一ノ谷の合戦に向かう途中に戦勝祈願し、腰を下ろして休んだとの伝承が残る「腰掛岩」がある。

 

本日も訪問、ありがとうございました。


星ヶ崎城(鏡山城)    近江国(竜王)

2013年09月26日 | 山城

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町鏡   maphttp://yahoo.jp/Sca-1H

別 名;鏡山城

現 状:山林

区 分:山城 

標 高:247m  比高差:130m

築城期:室町中期

築城者:鏡久綱

遺 構: 石垣・曲輪・土塁・竪堀・池・石碑

目標地:道の駅「かがみの里」

駐車場:道の駅「かがみの里」駐車場

訪城日:2013.9.23

お城の概要

 星ガ崎城へは、道の駅「かがみの里」から西光寺跡を経ても登れる。旧中山道へと入る。旧中山道の鏡地区の中ほど山手側の住宅地の横から細い山道が星ガ崎城へと続いている。

 中山道に面しているこの道が星ガ崎城の大手道。山形が比較的なだらかであるだけに道が分かり難いが、所々木にぶら下がっている「星ヶ崎城址」の表示板を目印に登ると尾根道に出る。尾根筋には堅堀らしきものが幾つかみられる。小さなピークを二つほど越え、登り初めて約30分ほどで山頂に着く。

 山頂の主曲輪はおおよそ50m×20mほどで、城址を示す石碑が建てられている。
南側斜面に高さ3m、長さ20mほどの石垣がしっかりと残り、北東側の斜面にも長さ2mほどの石積みがみられる。また主曲輪の東側虎口にも石が散乱しており、当時は主曲輪周囲に石積みがなされていたであろうことを窺わせる。

なお、北側山麓には鏡氏の居館である井上館がある。

お城の歴史

築城者は、竜王町鏡の土豪、鏡氏とされるが、定かではない。

伝承によると、鎌倉時代、鏡久綱の居城であったが、承久3年(1221)の承久の変に破れ、鏡氏は滅亡する。その後、馬渕氏、六角氏が城主となる。

永禄9年(1566)に起きた観音寺騒動の際に、反旗を翻した家臣の永原氏が永原城に立て籠もったのに対して、六角承禎が星ケ崎城に入って対峙したという記録がある。

仕え星ヶ崎城は佐々木氏の支流鏡氏代々の居城で、鏡山の星ヶ峰にある。

鏡氏は佐々木定綱の二男定重を祖とし、定重の子久綱が鏡庄を領有して鏡氏を称した。

 久綱は承久の乱に官軍に属して尾張で戦死し家系は絶えたが、京極氏より入りこれを継がせたとある。鏡高規とその子定頼は、後に織田信長に仕えた。

城の立地状況は、観音寺城の東の陣城とされた佐生城とよく似ています。佐生城は愛知川を前面に置き、東からの攻撃に対しての橋頭堡となる城で、しかも石垣が築かれています。

星ヶ崎城もこれより西にある信長時代には佐久間信盛が江南の支配拠点に置いた永原城があります。永原城の東の抑えになる陣城で前面には日野川があり、橋頭堡となる城です。石垣を主郭のみに用いる点も共通しています。

織田が近江侵攻を計った時に、六角義治が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたとあり、そのうちの一つという説もあります

星ヶ崎城址遠望(道の駅鏡の里より)

-星ヶ城(ほしがさきじょう)(滋賀県蒲生郡竜王町鏡)(淡海の城友の会より)


 星ヶ崎城跡は鏡山の北東端にある星ヶ峰にあり、眼下に中山道(東山道)鏡宿が見下ろされ、東は馬淵・六枚橋・長光寺城(瓶割山城)・武佐宿・観音寺城の清水鼻まで中山道が見通せ、西は三上山・守山宿・草津宿が、北は中世の港があった田中江・江頭の集落・水茎岡山城から琵琶湖が、南は横関から石部・三雲へ通じる道が一望できる、まさに陸運・水運の物資と人が交差する交通の要衝に位置しています。

 城の主郭は、20×35mの周囲を石垣が廻る長方形で、南面中央部に虎口を設けています。石垣は南西部に高さ1~2m、長さ35mほど残っていますが、全体に残りは悪く、北東隅に少し残っている以外は、ほとんど破壊されています。石垣石は、鏡山で採れる花崗岩で、節理によって割れた比較的横長の面を持つ石を使って野面積みしています。主郭の南北には見張り台状の小郭が張り出していますが、これらには石垣が使われていません。山岳寺院西光寺を利用したという説もありますが、定かではありません。

 星ヶ崎城は、鏡氏の居城とされていますが、詳細はよく分かっていません。鏡氏は、佐々木定綱の次男定重を祖とし、定重の子、久綱が鏡氏を称したと言われています。久綱は承久の乱で討幕軍として出陣し、尾張にて戦死してしまい家系が途絶え、その後、京極宗氏の子、貞氏が鏡氏の名跡を継ぎ、以降佐々木氏の旗頭として存続していきます。

 麓には、「井上氏館」となっている土塁と堀が極めて良好に残っている城館跡があります。現在も中で居住されておりますので、中に入ることはできませんが、鏡氏の館跡「鏡城」と言われ、星ヶ崎城とセットになっていたのではないかとされています。

 城の立地状況は、観音寺城の東の陣城とされた佐生城とよく似ています。佐生城は愛知川を前面に置き、東からの攻撃に対しての橋頭堡となる城で、しかも石垣が築かれています。

星ヶ崎城もこれより西にある信長時代には佐久間信盛が江南の支配拠点に置いた永原城があります。永原城の東の抑えになる陣城で前面には日野川があり、橋頭堡となる城です。石垣を主郭のみに用いる点も共通しています。織田が近江侵攻を計った時に、六角義治が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたとあり、そのうちの一つという説もあります。  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


長光寺城(瓶割山城) 近江国(近江八幡)

2013年09月25日 | 戦国山城

お城のデータ 

所在地:近江八幡市長光寺町   map:http://yahoo.jp/sfSJy7

別 名:瓶割山城

現 状:山林

築 城:鎌倉時代中期

築城者:佐々木四郎政堯

初城主:佐々木四郎政堯

区 分:山城

遺 構:一の丸,二の丸,米倉跡,井戸,石垣,堀切,土橋

城 域:150mx150m

標 高:234,5m      比高差:120m

目標地:日吉神社(長福寺町)

駐車場:日吉神社近く公園内に駐車

戦 い : 応仁2年(1468)  ○六角高頼(西軍)  VS  ●六角政堯(東軍)

      元亀元年(1570)  ○織田信長     VS   ●六角承禎 

訪城日:2013.9.24

お城の概要

長光寺城は標高234mの瓶割山の山頂付近に築かれ、北側眼下をはしる中山道が八風街道と交わる武佐までは直線距離にして約1km。東近江における要衝の地にある。

登り口は妙経寺横の不二滝、若しくは長福寺町の公民館前にある。どちらも山頂までは約25分程度。道はハイキングコースとなっており、案内板が立てられ判りやすくなっている。

不二滝から登ると主曲輪西側の堀切に出る。堀切横の石垣は、高さ6mを越え城内最大のものである。長光寺城は15世紀中期に佐々木四郎政堯によって築かれたのを創築とし、その後は六角氏が入り、元亀年間には織田信長の家臣・柴田勝家が入っているが、この石垣は斜度をもたせて積んでいることから、後年の柴田勝家時代のものではないかと思われる。

堀切の左(東)は主曲輪、右(西)は二の曲輪で、堀切に渡した土橋が非常に状態良く残っている。主曲輪は東西50~60m、南北30mほどで、東尾根に三の曲輪を配置した連郭式の曲輪配置である。二の曲輪は主曲輪と同程度の広さと推定されるが、雑木が生い茂り広さを読み切れない。曲輪西側の尾根筋は堀切で処理し、虎口部は石垣が積まれている。主曲輪東側の三の曲輪は南側斜面に3~4段の帯曲輪を配している。東尾根は堀切で処理されておらず、城域ラインは不明。この長光寺城は主曲輪以外の二の曲輪、三の曲輪にも石垣、石積みが見られる。特に主曲輪と三の曲輪の境界部分(井戸跡下)には一辺が50~60cm、大きなものは一辺が1mを越える石が散乱しており、主曲輪の西虎口に見られるような石積みがされていたことを予感させるが、現地では確証がとれなかった。おそらく廃城の際に徹底して破壊されたのではないだろうか。信長公記には信長が安土城を築城する際、観音寺山(繖山),長命寺山,長光寺山,伊場山から石を集めたと記述されており、長光寺城の破城が暗示されている。

大石垣も笹で見えません。

歴 史

長光寺城の創築は応仁の乱の際に、佐々木四郎政堯が居城としたことに始まり、佐々木四郎政堯はこの城に拠って、観音寺城の宗家佐々木高頼に対抗した。

その後六角氏や柴田勝家がこの城に拠り、天正4年(1576)安土城築城の頃には廃城になったと伝えられている。なお、長光寺城は別名を瓶割城とも呼ばれている。

【主郭南西下】

 

二の郭への土橋から古井戸へ

二の郭【三角点】

二の郭から雪野山

三の郭の古井戸

地蔵群

搦め手へ

 

長光寺登り口へ

 

石工のノミ跡

 

シリーズ「淡海の城」(19)より

瓶割山城(かめわりやまじょう)(近江八幡市長光寺町・長福寺町・武佐町、東近江市上平木町)

 瓶割山城(長光寺城)は湖東平野に存在する独立丘陵である瓶割山(長光寺山)に位置する城郭遺跡です。山の名は元亀元年の六角勢の攻勢の折、この城に立て篭もった織田家の家臣、柴田勝家が城の中に備えた水瓶を割って士気を鼓舞し城を出て、戦いに勝利を収めたという故事に由来しています。勝家はこの戦いの後、「瓶割柴田」の異名をとったと言われていますが、実際にこのような戦いが起こったどうかは記録に残っていません。ただし、『信長公記』には「長光寺に柴田修理亮在城。」という記述があるので、実際に布陣はしていたと考えられます。

 発掘調査が行われていないため詳しい状況は判明していませんが、現在のところ山上部には、帯郭が周囲に構築された最大規模の郭(『蒲生郡誌』の図で本丸と命名)を中心として大小多くの郭が残存しています。「本丸」から北および東に延びる尾根上には郭が連接して郭が構築されています。北側の尾根上には縁辺に土塁が構築されている郭があります。東側に延びる尾根にも本丸よりも少し規模の小さい郭が北側尾根と同様に連接して構築されています。

 

 瓶割山城縄張図(振角卓哉氏作成)

 一方、南西へ伸びる尾根上では2箇所大規模な郭が構築されています。これらの郭は大規模な堀切によって区画されており、本丸と隣接する郭の間(『蒲生郡誌』では「二ノ丸」)は土橋で連絡されています。また、山上部の郭の各所には竪堀が配されています。山上部の郭には複数の石垣が構築されています。最も大規模なものは、本丸南西部に位置するもので比高差約6mを測ります。城内に見られる石垣は埋もれている部分が多く、『蒲生郡誌』に掲載された平面図には現在では確認できない石垣が書き込まれていることから、実際には石垣が他にも存在しているものと考えられます。この山上部に残る遺構以外に瓶割山山中には郭と考えられる遺構が残存しています。山麓東側には根小屋とされる土塁で区画された遺構が残ることから、瓶割山全体が城郭として使用されたものと考えられます。

二ノ丸南側の堀切

 本丸南西部の高石垣

 応仁の乱の際に「長光寺」に城を築いたという記録があることから、この時期に瓶割山城の歴史は始まったと考えられていますが、現在山上部に残る遺構は郭に高石垣が構築されていること、本丸、二ノ丸の南西部に枡形虎口とも解釈できる部分を持つことから柴田勝家の布陣によって構築されたものではないかと考えられます。もともとの長光寺城の遺構も取り込まれているかもしれませんが、はっきりしません。また、東に延びる尾根の南斜面には連続して小規模な郭が構築されている部分があり、城郭としては珍しい構造となっています。この付近には石仏・一石五輪塔が散在していること、山や麓の集落の「長光寺」という地名から、寺院に関連した遺構の可能性もあります。

 瓶割山城へは麓の近江八幡市長福寺町、東近江市上平木町から山頂に向かう山道があります。自動車利用の場合、近江八幡市長福寺町の登山口へは国道8号線六枚橋交差点から県道14号線を八日市方面に向かい、コンビニエンスストアのある交差点を左折し登山口の日吉神社へ向かいます。ただし、登山口付近に駐車場はありません。東近江市側へは県道41号線から左折し、山麓へ向かうと鳴谷団地北側、御澤神社近くにある草の根広場付近に登山口があり、説明板が設置されています。草の根広場横に数台駐車可能な場所があります。山内には林道が通じていますが、一般車両は進入できません。

 公共交通機関の場合、近江鉄道平田駅からは約20分で東近江市側の登山口、JR近江八幡駅からのバスを利用すると、長福寺停留所で近江八幡市側の、鳴谷、平木の各停留所からは東近江市側の登山口にそれぞれ徒歩20分程度で向かえます。

 瓶割山城では、平成20年度に東近江市側で里山森林と遺跡整備を兼ねた事業が実施され、山麓から山上部の遺構へ向かう通路・案内看板が整えられました。また、山上部での周囲の見通しがきくようになり、郭の形状や石垣も捉えやすくなり、見学し易くなりました。平成21年度は近江八幡市域で同様の事業が実施される予定です。(上垣)

注)山および城の名称は「長光寺「瓶割」の両方が用いられていますが、今回は行政上用いられる名称に拠りました。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


窪江城 近江国(瀬田・大江)

2013年09月25日 | 平城

窪江城(別名大江城址)・・・大津かんきょう宝箱より

お城のデータ

所在地:東レ瀬田工場内 大津市大江1丁目1-1 map:http://yahoo.jp/JQ3s05

築城期:南北朝

改築期:戦国期

築城者:佐々木氏

改築者:山岡氏によって改修され石垣にて天守台も作られた。

城 主:高野甲斐守、山岡景隆の弟景祐

遺 構:天守台、城址碑

目標地:東レ・若松神社

駐車場:若松神社

訪城日:2013.9.25

若松神社より城址方向 遠景の森が、窪江城(別名大江城址) 

お城の概要

昔は尾根上だったJRの線路を挟んで東レの工場内へ続く。 築城は南北朝の頃。戦国期に山岡氏によって改修され石垣にて天守台も作られた。                                                 

資料によると天守台が残っておりコンクリートで相当補強はされていますが石垣は往時のものとの事。(工場内には城址碑も建てられているようです。) 

 元々、この辺りには古墳があり、若松神社には陶器でできたお棺が出土した。これら古墳を利用した城域が、今は、城址の中心部は工場の敷地内にある。

東レ瀬田工場(大江1丁目1-1)内にあり、100m前後の標高をもつ小丘陵地に立地していました。

湖上を望むにも陸上交通をおさえるにも格好の立地条件で、かつ川と湖が自然の要害を形づくっていたと言えます。

歴 史

 窪江城の歴史は日本城郭大系でも不明と記され、あくまで伝承レベルとして、建武年間(1330年代)に近江佐々木氏によって築城され豪族の勢多判官一族が初代城主を務めたと考えられ、その後、足利方の武将・摂津掃部頭がこの付近を支配したと言われるそうです。

現在は東レ敷地内には石垣も残る。ちょうどJRの線路側にある水路などはひょっとしたら当時の水濠の名残か?

城主は当初高野甲斐守でしたが滅亡し、瀬田斐守でしたが滅亡し、瀬田城主山岡景隆の弟景祐が守ったと記されています。

 瀬田城は、瀬田唐橋の東南畔に位置し、窪江城と共に瀬田橋と東海・東山道を監視する軍事的要衝の地を占めていた。

 この瀬田城は、「寛政改修諸家譜」によれば、瀬田の土豪山岡氏の一族で、田上城主であった山岡資広が永享年間に初めて築城したとされ、

以後、瀬田城は代々山岡氏の居城となった。

 山岡氏は、当初六角氏の被官であったが、永禄11年(1568)、織田信長の入京後は一転して織田方に属した。

 天正10年(1582)、明智光秀が本能寺に信長を討ち、安土城に向かおうとした際、瀬田城主山岡景隆を味方に引き入れようとしたが、景隆は主君の恩顧を裏切れないという理山で、光秀の行手を妨げるために瀬田橋を焼き落とし、甲賀へ引き上げたという。

以後、瀬田城は廃城となった。

山岡兄弟、 兄は瀬田城主山岡景隆であったが、弟は窪江城城主山岡景祐、東からの攻撃に弟、兄の順で西に攻め入られるのを防ぐ責務を負っていたという。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津かんきょう宝箱

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝


昔の空中写真で見る中世の愛荘町の城跡

2013年09月23日 | 番外編

=愛知川図書館=

 (滋賀報知)

◇愛荘
 愛荘町立愛知川図書館でテーマ展示「空中写真に見る 愛荘町の城館」が、二十九日まで開かれている。入場無料。
 町内には中世の土豪の城館や屋敷跡が近代まで薮や荒れ地となって残っていた。昭和二十―三十年代の空中写真と現在の城跡の写真を展示し、わが町の歴史にふれてもらう。
 同館は月・火曜日と二十五日休館。問い合わせは、愛知川図書館(TEL0749―42―4114)まで。

 

 

 


下里城(押立城)     近江国(湖東)  

2013年09月20日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市下里町    (旧愛知郡湖東町下里)    map:http://yahoo.jp/hqzOii

別名:押立城

遺構:曲郭、土塁、

区分:平城

築城期:

築城者:不明

目標地;下里公民館

訪城日:2013.9.19

 

お城の概要

  下里公民館の下裏手・五の谷川を越えた所に南北40m,東西100mあまりの竹藪がある。ここが下里城址である。
 地元ではこの辺りを "後屋敷(あとやしき)" とか "お城屋敷" と呼んでいるが、後屋敷は「屋敷跡」からきたものか・・・・。

位置的に下里は高野街道沿いにあり、高野街道は東へ行くと百済寺を経由して、永源寺町・高野から八風街道~伊勢へと続く。

下里公民館の下裏手・五の谷川を越えた所に南北40m,東西100mあまりの竹藪がある、遺構は竹藪や民家に残存する。

公民館の北側にある浄華寺裏手から川に沿って土塁が残っている。 寺の庫裏や民家敷地内、今も残存する。

歴 史

「今井記」に、下里城(押立城)  「文明元年七月甘八日押立城切入」とあり。

南北朝の頃、下里城で戦いがあったが、その戦いの場所は菩提寺や下里城とも云われている。

下里城、築城年代や築城者など詳細については定かでない。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


信長の隠れ岩 近江国(朽木)

2013年09月18日 | 陣城

 高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。この岩に通じる道を整備された。

 信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。

 この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩にある。

 数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。

 しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。

 斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。

 岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と。

足利義昭を第13代将軍に擁立していた

 
織田信長は、元亀元年(1570年)4月20日、越前(福井) 朝倉義景を抑えるため京都を出立。

織田軍は、羽柴秀吉(豊臣)や徳川家康3万軍を率いて、敦賀 手筒山城、金ヶ崎城、疋壇城(ひきだ)を攻め落とし一乗谷 朝倉氏へ進攻をしかける途中・・・

足利義昭の寝返り、朝倉氏と組み、また朝倉と同盟関係にあった織田信長の妹 お市の嫁いだ 浅井長政らも裏切ったと連絡が!

北は朝倉氏、湖北からは浅井氏に挟まれる形となった。織田軍勢は、27日急遽、撤退を決定し、丹後街道から南下近江に入り保坂(今津町)から朽木街道に入りました。

信長が通過すると知った、朽木領主朽木元綱は、甲冑姿で出迎えたがために真意を確認する必要があると、松永久秀、森三左衛門(可成)が行く間、信長は、朽木 三ツ石隠れ岩で待機することに・・・

ここ 三ツ岩の穴にて待機する。

その後 元綱は、信長を迎え入れ朽木 下市場の圓満堂で もてなした後、朽木城に宿泊し、翌日、京都に撤収した。

朽木資料館で

信長の朽木越えの様子については、朽木氏の家臣であった長谷川家に伝わる「長谷川家先祖書」によると、「28日、信長公は保坂より朽木越えの街道に入り、慕谷を通行されました。
 
その時、朽木河内守元綱公が警護の兵を召しつれて道案内をされたので、信長公は無事に下市の圓満堂に着いて休息され、元綱公より接待を受けられました。
 
その際、隣家の長谷川惣兵衛茂元(茂政)がお茶とお菓子を献上したところ、信長公ははいていた鹿皮製のたちつけ(はかまの一種)と銀製の箸一対をくださいました。
その、革袴の複製(レプリカ)が、本物は安土考古博物館に!   当家では今日まで家宝として持っています」(意訳)と記されている。
 

信長の皮袴

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!