城郭探訪

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・瀬田の唐橋

2013年10月03日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている

昭和30年代の瀬田の唐橋

『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

 西詰名盤

龍王神社

本殿

龍光山 秀郷院 雲住寺  平成6年に建立された「百足供養堂」

 

雲住寺(うんじゅうじ)

民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。

 

 百足供養堂のある寺
 近江八景・瀬田の夕照で知られ、日本三大名橋の一つでもある瀬田の唐橋は欄干の美しい橋だ。都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。
 雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
 山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。実はこれ、寺を開いた時の城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太=たわらとうた)により退治されたむかでの供養堂

 醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。

 蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

唐橋東詰め・・下流側

唐崎中の島「唐崎ギャラリー前」

 

歴史と伝説

琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

古代

最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。

神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)の最後の決戦場となった。

大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀』 淳仁天皇 天平宝字八年九月)。

平安時代

  • 870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
  • 871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
  • 『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれ、同国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われ、朝廷への報告義務もあった。
  • 藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
  • 970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母が明け方に船で勢多橋を渡河(『蜻蛉日記』)。
  • 治承・寿永の内乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。

鎌倉・室町時代

  • 承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 建武の戦い 1336年(建武4年)、足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 本能寺の変~天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった。

江戸時代以降

膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。

木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。

文学

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。

松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。

五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋

橋桁の 忍は月の名 残り哉

 

2013.10.19の東西綱引き合戦の用の陣笠

大津歴史埋蔵物文化センターの玄関正面に!

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

発掘調査写真


・明治29年洪水碑 西光寺・・・

2013年10月03日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

琵琶湖大水害(明治29年(1896)9月12日

未曾有の大豪雨により、湖水位は3.76mに達し、浸水面積は約14800ha、浸水日数は237日に及んだ。

瀬田川東詰(橋下に)

瀬田川中の島西詰に

琵琶湖へ直接流入する一級河川は118本ありますが、琵琶湖から流出する河川は、瀬田川の1本だけです。しかし、昔の瀬田川は川幅が狭く、田上山からの土砂が流出して川底にたまり疎通能力を小さくし、琵琶湖周辺では洪水による大きな被害を受けていました。
また、琵琶湖の洪水は、河川の場合と異なり、水位上昇、低下ともに時間がかかり、洪水は長期間に及びました。

■明治以降の琵琶湖の記録的な大洪水
年月日気象状況被 害 状 況
明治18年
(1885)
7月4日
台風 明治大洪水
6月の強雨や台風による豪雨のため、湖水位が2.71mに達し、田畑約11800haが浸水。浸水日数は140日に及んだ。下流の淀川でも各所で堤防が決壊。
明治29年
(1896)
9月12日
台風
前線
琵琶湖大水害
未曾有の大豪雨により、湖水位は3.76mに達し、浸水面積は約14800ha、浸水日数は237日に及んだ。
大正6年
(1917)
10月29日
台風 大正大洪水
台風による豪雨のため、湖水位は1.43mに上昇し、浸水家屋約3500戸、浸水日数は50日に及んだ。
昭和28年
(1953)
9月27日
台風 台風13号
台風により湖水位は1mに上昇し、浸水面積は約6000haに及ぶ。琵琶湖下流では、宇治川左岸堤が決壊し、約2800haが浸水した。
昭和34年
(1959)
8月13日~14日
台風
前線
台風7号(5907)・土佐沖低気圧
台風による豪雨により、湖水位は1mに達し、浸水家屋は19515戸に及んだ。
昭和34年
(1959)
9月26日
台風 台風15号(5915)(伊勢湾台風)
台風による豪雨により、湖水位は0.87mに達し、浸水家屋は25736戸、浸水日数は40日に及んだ。
昭和36年
(1961)
6月26日
前線
台風
梅雨前線・台風6号(6106)
梅雨前線及び台風の豪雨により、湖水位は1.1mに達し、浸水家屋は2668戸、浸水面積は4688.8ha、浸水日水は15日に及んだ。
昭和36年
(1961)
10月26日~28日
低気圧 低気圧
低気圧の豪雨により、湖水位は0.43mに達し、琵琶湖周辺の各河川で堤防の決壊被害が発生した。
昭和40年
(1965)
9月17日~18日
前線
台風
秋雨前線・台風24号(6524)
秋雨前線及び台風24号の豪雨により、湖水位は1.02mに達し、浸水家屋は13944戸、浸水面積3100ha、浸水日数10日に及んだ。
昭和47年
(1972)
7月12日~16日
台風 豪雨・台風6号
台風による豪雨により、湖水位は0.92mに達し、浸水家屋は755戸に及んだ。
昭和47年
(1972)
9月16日~17日
台風 台風20号
台風による豪雨により、湖水位は0.74mに達し、浸水家屋は6995戸に及んだ。
昭和57年
(1982)
8月1日~2日
台風 台風10号
台風の豪雨により、湖水位は0.68mに達し、浸水家屋は1221戸に及んだ。
平成2年
(1990)
9月15日~20日
前線
台風
秋雨前線・台風19号
秋雨前線及び台風の豪雨により、湖水位は0.7mに達し、浸水家屋は1608戸、田畑浸水面積は3160haに及んだ。
平成7年
(1995)
5月11日~15日
大雨 大雨
大雨により、湖水位は0.95mに達し、浸水家屋は39戸、湖岸の浸食崩壊の被害も発生した。

・門前 瀬田名物「たにし飴」

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

辻末商店
大津市神領1丁目12-11
TEL 077-545-0021

にっきの飴です。形が琵琶湖のたにしに似ていたことから瀬田川名物として、おみやげに親しまれてきました。
「神さまの食すもの」という説もあります。


・瀬田高橋川と建部大社

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

瀬田高橋川

 滋賀県大津市を流れる、淀川の支流。
大津市瀬田神領町の瀬田ゴルフコース敷地内の16号大津信楽線沿いの谷あいに発し北西流。
瀬田一丁目の唐崎公園の中・瀬田川大橋の南で淀川(瀬田川)左岸に注ぐ。
一級河川の起点は大津市瀬田神領町念仏谷。

 源流はゴルフ場のある丘陵。施設の真ん中を細谷が流下する。
川相は三面張り部分が多く、水量は少ない。
川沿いに16号大津信楽線が通じ、この道を南に行くと緩いピークがあり大戸川水系との分水嶺を成す。

大津市神領 建部橋から 左上流、右下流望
建部橋下の川面 大津市神領 なかよし橋から

 ゴルフ場を出た川は、京滋パイパス・名神高速・東海道新幹線をくぐり徐々に川幅を広げてゆく。
上写真上段は近江一の宮・建部大社の脇を流れる高橋川で、参道橋ゆえ華やかな朱に擬宝珠つき。
下段右のなかよし橋も桧山神社脇なので同様の装飾がなされている。
この付近には川へおりるテラス等も設けられている。

大津市瀬田 大前橋から上流望 河口
高橋川合流後の瀬田川 下流望

 最下流部は流れ込み先の影響で湛水。
上写真上段左の、左手の並木は国道一号線のもの。上段右の橋はR1瀬田川大橋。
高橋川が注ぐ付近の瀬田川左岸は唐橋公園になっている。下段写真奥に霞むのが唐橋。

 

 

 

建部大社

Takebe-shrine.jpg
拝殿と三本杉

概史

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅により、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現 東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を建部大神として祀ったのが創建とされる。建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座した。

遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が残っている。

天平勝宝7年(755年)には、大己貴命が大神神社から勧請され、権殿に祀られた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「近江国栗太郡 建部神社 名神大」と記載され名神大社に列しているほか、近江国の一宮として崇敬された。

源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。

明治4年(1871年)近代社格制度において「建部神社」として県社に列格され、同18年に官幣中社、同33年に官幣大社となった。戦後の昭和23年(1948年)には神社本庁の別表神社となり、社名を「建部大社」とした。

なお、昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と当社本殿が使用された。

境内と三本杉

 幻の千圓札

昭和20年8月、日本で初めて作られた千円紙幣(甲号券)の図柄に日本武尊と当社本殿が使用された。

石囲いの石燈籠(重要文化財)鎌倉時代、文永7年(1270年)の造営。

〈重文〉木造女神坐像

由緒
 当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、 又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。 御祭神日本武尊は御年僅に十六才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、 遂に三十二才にして伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死を いたく歎かれ御名代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に 記されているのであるが、これが即ち建部の起源である。
 景行天皇の四十六年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、 御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが 当社の草創であって、その後天武天皇白鳳四年当時近江国府の所在地であった 当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として 崇め奉ったのが現在の当大社である。
 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、 平家に捕われ、十四才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、 永歴元年(1160年)三月二十日当社に参篭して前途を祈願した事が 平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年) 十一月右大将として上洛の際再び社前に額き襄年蒙った深い神助に対し、 幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、 除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、 明治十八年四月官幣中社に、同三十二年七月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。 昭和五十年四月十五日御鎮座壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。 そして平成二年三月十七日には本殿遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。


・オランダ堰堤

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信


日本3大ハゲヤマの田上山 (荒廃状態にある昭和30年頃の金勝(こんぜ)山国有林。白い部分は裸地。)

田上(たなかみ)の枝公園近くの天神川沿いにあります。一見廃屋です。内部の見学には予約が必要です。この地に鉱物博物館があるのは、それなりの理由があります。

もともと田上山は花崗岩鉱物の三大産地の一つに数えられた。水晶は飾り玉にするなどして産物となっていたが、トパーズは加工には向かないために放置されていた。これに目をつけた外国人宝石商が地元の人々を雇って拾わせ、海外に持ち出されたトパーズは明治年間に700kgに及んだ。(田上鉱物博物館資料より)

台風18号(2013.9.16)後の大同川

オランダ堰堤の横に立つデ・レーケの胸像。

デ・レーケが実践した「治水は治山にあり」。

 大阪湾に新しい港をつくり、淀川を大型船が往来できる川にするために、明治6年(1873)、オランダからヨハネス・デ・レーケらの技師団が招かれました。淀川のようすを調べたデ・レーケは、港や河川改修に先立って上流の治山が先決であると考えます。

その理由のひとつは、淀川上流にあたる大津市の田上山一帯の荒廃にありました。かつてのスギやヒノキの美林は、古く奈良や平安時代より寺院・仏閣の造営に伐り出され、明治維新後も建材や産業資材を得るために乱伐が続き、山々には木々がなくなっていました。また、この辺りの山地はもろい花崗岩でできているため、保水力を失った山から一気に流れ出る雨水によって、岩は削り取られて真砂となり、洪水時には川筋に大きな被害をもたらしていました。さらに、川の水によって運ばれた土砂が、淀川下流や河口部に堆積し、水上交通を困難なものにしていたのです。

そこでデ・レーケは、山から川へ土砂が流れないように食い止めると同時に、荒廃した山に新たに木を植えるという2つの方法で治山治水を行いました。

http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/siga/mori-enjoy/oranda_.html

堰堤下流

しかし、堰堤は満杯で砂防の役割はありません。現状は土木遺産・森林公園(桐生若人の広場)です


・南郷水産センター

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

水産センターの前庭

松尾芭蕉の句 「霞せば 網代の氷魚を 煮て出さん」

  

歩道のタイル

 http://www.eonet.ne.jp/~suisancenter/


場内ガイドマップ
場内ガイド詳細一覧   場内各種料金表   各施設の営業時間
金魚すくいコーナー  つかみどり  ちびっ子釣り場  マス釣り場 
コイ釣り場  フナ釣り場  ルアー・フライ釣り場  水産資料館  その他施設 
※各施設の料金は、ご利用の際にそれぞれの受付でお支払い下さい。


  ↑地図中の色の付いた施設名をクリックすると、詳細情報へジャンプします。↑

  ※印刷用マップはこちら(PDF)→

・アクア琵琶

2013年10月02日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

ウォーターステーション

 

アクア琵琶

アクア琵琶とは

「水のめぐみ館 アクア琵琶」は、琵琶湖の総合的な水管理が流域の発展に治水、利水及び環境の面から貢献していることや、瀬田川洗堰が琵琶湖を抱える滋賀県だけではなく下流の京都府や大阪府にとっても治水や利水の面から非常に重要な施設であることを地域の方々に広く理解してもらうことを目的として平成4年11月に設置されました。

現在の滋賀、京都、大阪の発展の礎である琵琶湖と下流の淀川について、その治水と利水の苦難の歴史と、上流の滋賀県と下流の府県が協力しあい昭和47年から平成9年までの25年間にわたり実施してきた「琵琶湖総合開発事業」とその成果について、展示物を通して紹介しております。

また、災害時には福祉避難所として活用することとしています。

http://www.aquabiwa.jp/aqua/index.html

琵琶湖のおいたち

年齢400万歳の琵琶湖

琵琶湖の推定年齢は400万歳。バイカル湖、カスピ海に次いで古く、タンガニーカ湖と並んで世界で3番目に古い湖と考えられています。湖の寿命はふつう10万年以内であることからも、琵琶湖がいかに古い湖であるかということが分かります。誕生した頃は、今よりもずっと南、現在の三重県伊賀盆地付近にありました。その後、地殻変動などによりゆっくりと北へ移動を始め、約30~40万年にほぼ現在の大きさ、形になったと推測されています。
琵琶湖周辺には、縄文・弥生の昔から人々が暮らしており、湖の底から多くの遺跡が発見されています。

約400万年前

伊賀盆地の東部に誕生し、その後、湖面積を広げながら北西に移動していきました。

約300万年前

日野から甲賀地方にまで広がる、大きく深い湖になりました。この時代は約80万年もの間続いたと推測されています。

約200万年前

南の伊賀盆地が隆起するとともに、北の近江盆地が沈降。
琵琶湖も北へ移動し、現在の蒲生郡(がもうぐん)一帯が浅い湖になりました。
湖岸には、アカシゾウやスギヤマゾウが生息していました。

約100万年前

鈴鹿山脈が大きく隆起し、これまでの古琵琶湖は消滅。
新しく現在の琵琶湖が誕生しました。
琵琶湖固有種のセタシジミが生息するようになったのもこの頃からです。

約30~40万年前

鈴鹿山脈や比良山地が急激に隆起。
琵琶湖は現在の約2分の1の大きさまで縮小しますが、再び沈降が始まり、ほぼ現在の大きさ、形になりました。


・瀬田川洗堰

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

2013.9.16の台風18号で全閉した(+100cm)が・全開中(9/29-13cm)の瀬田川洗堰

大正貞明皇后行啓碑

南郷洗堰の近く(南郷1丁目17番街区の南郷公園前)に滋賀県知事堀田義次郎の書による記念碑が建てられています。 

高さ2.13mで「皇后陛下行啓記念碑大正11年(1922)11月12日(行啓)」と記されています。

 琵琶湖の洪水を防ぐために、瀬田川の川底にたまった土砂を堀取る「川ざらえの工事」が昔から何度も行われてきました。それで、瀬田川の川底が深くなり、よりたくさんの水が流れるようになって、琵琶湖の洪水は少なくなりました。
 しかし、瀬田川の川の流れがよくなると、今度は下流の淀川が洪水を起こしやすくなってしまいました。また、長い間雨が降らないと、琵琶湖の水が少なくなって、水不足になったりします。

これを解決したのが、洗堰です。洗堰の役目は、

  1. 大雨で琵琶湖の水の量が多いときには、たくさんの水を流す
  2. 雨不足で水の量が少なくなると、むだな水は流さない
  3. 上流と下流で洪水が起こらないように、水位調節する
堰を開けたり閉めたりする順序
越流
大雨で宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が上がると、洗堰は水門を半分開いて少し水を流します。
全閉
宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が最高になると、下流が洪水にならないように洗堰は水門を閉めます。
全開
宇治川、木津川、桂川、淀川の水位が下がってくると、洗堰は水門を全開して水を流し、琵琶湖の水位を下げます。


・旧南郷洗堰

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

~日本の近代治水事業のシンボルともいえる存在~

 琵琶湖には一級河川だけで118本、支川も含めると400以上もの河川が流入している。その一方、琵琶湖から流れ出る川は唯一瀬田川のみ。たった1本しかない流出河川であるにもかかわらず、瀬田川の川底には琵琶湖から流れ出る土砂に加え、瀬田川に合流する大戸川が運ぶ砂礫が溜まり、川の疎通能力が極端に低かったという。上古の時代より、平城京や寺院造営のための木材切り出しなどで禿山になっていた田上山(たなかみやま)からは、大量の土砂が大戸川に流れ出し、「水七合に砂三合」などと例えられていたほどだった。
 瀬田川の水はけの悪さゆえ、雪解けや台風の季節には琵琶湖の水位が上昇し、沿岸が浸水被害に見舞われることがたびたびあった。有史以前より水害に苦しめられていた琵琶湖周辺の人々の懸案は、瀬田川の川底を浚渫し、流出水量の拡大を目指すことにあった。
 奈良時代、全国各地を遊行しながら民衆救済事業に尽力した行基は、瀬田川の「川ざらえ」(浚渫)を初めて指揮。その際、瀬田川に張り出し、川幅を狭くしていた大日山の開削によって川の流量を増やそうと試みたが、下流の氾濫を恐れて断念した。その後の記録は定かではないが、江戸時代には5回ほど大規模な「川ざらえ」が行われている。なかでも、天明年間(1781~1788年)から天保年間(1830~1843年)にかけて、親子3代にわたって瀬田川の浚渫に尽力した藤本太郎兵衛という庄屋のことは知る人ぞ知る話だ。

明治時代、地元住民だけが洗堰の上を通行することが許されていたという。平成14年(2002年)、洗堰の歴史的価値が認められ、土木学会選奨土木遺産に選ばれた。
 

 

瀬田川西岸

 琵琶湖から唯一流れ出る河川、瀬田川。琵琶湖から流れ出て大阪湾に至るまでの間に、宇治川、淀川と名前を変えて流れ下るこの川は、古くから東西交通の要衝でもあり、京都、大阪の利水と水運を担う、いわば「近畿地方のライフライン」のような存在だった。
 一方、その水はけの悪さから、大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖水面の上昇で沿岸が浸水するなど、近江の国の人々は「水込み」と呼ばれる浸水被害に悩まされていた。琵琶湖沿岸の「水込み」被害をなくすことは、人々にとって昔から変わらぬ切実な願いであったと同時に叶わぬ夢のような話でもあった。

 

河岸に残る一部残る旧南郷洗堰の遺構。背後に見えるのは大日山。大日山開削を断念した行基は、山に大日如来を祀り、大日山に手をつけると祟りが起こると言い残したという。上・下流住民の対立を見越して、大日山を破壊することをタブーにしたかったのだろう。
 
瀬田川左岸、旧洗堰の遺構の脇にある「水のめぐみ館 アクア琵琶」の館内。
洗堰の歴史に関するパネルや旧洗堰の操作の様子を表した模型展示などがある。

http://mizutakara.shigabunka.net/e582849.html

本日も訪問、ありがとうございました。


・関西電力宇治発電所 【南郷呑口】

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

発電用の水は、琵琶湖から流れ出す唯一の河川、瀬田川に設置されている。
瀬田川洗堰の上流300mのところ(滋賀県大津市南郷)から取水し、約11kmの水路を通って、12号開渠から調整池に入り、五条の水圧鉄管を通して5台の水車を回している。

明治39年、京都府と滋賀県の共同出資により宇治川電気株式会社が設立(明治41年2月に着工、大正2年6月に竣工)。

戦中戦後の電力会社統廃合により関西電力株式会社となる

1.水路総長 6137間
 隧道 5070間
 暗渠  440間
 開渠  627間
1.最長隧道 第1号 1357間
     第7号 1658間
1.使用水量 1秒時2000立方尺
1.有効落差 204尺
1.機械容量 48000馬力
1.送電線路 大阪線 22哩
    京都線  8哩
1.工事費総額 1600万圓
1.工事着手 明治41年12月
1.工事竣功 大正2年6月
  大正3年10月  宇治川電気株式会社
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http://lalalasayu.jugem.jp/?eid=921

 本日も訪問、ありがとうございました。


・石山港~

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

台風18号の影響で【南郷洗堰全開のため運休】http://www.ishiyamadera.or.jp/river_cruise/

京滋バイパスの橋下

大日山(黒津城址)

本日も訪問、ありがとうございました。


・石山の貝塚・石山観光会館

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

本日も訪問、ありがとうございました。


・石山寺門前へ

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

 

本日も訪問、ありがとうございました。


・大津放水路(湖都は水害対策が出来ていた)

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

大津放水路は、大津市街地の慢性的な洪水被害を軽減するために、大津市南部を流れる8つの小河川の洪水を中流部でカットし、放水路を通 して、瀬田川へ流下させる地下トンネル放水路です。

http://www.biwakokasen.go.jp/ohtsu/guidance/o2const_pgs.html#top

大津放水路は、大津市街地の慢性的な洪水被害を軽減するために、大津市南部を流れる8つの小河川の洪水を中流部でカットし、放水路を通 して、瀬田川へ流下させる地下トンネル放水路です。

ひとたび、豪雨によって、河川が氾濫すると地域住民に大きな被害をもたらします。

大津市南部の8河川においても過去に大きな被害をもたらした数々の洪水記録が残されています大津放水路は、伽藍山から石山高校の地下を通って、名神高速道路の山沿いに諸子川の流れる膳所付近まで約4.7kmの地下トンネルが続く予定です。また、地上部では、対象河川からトンネルへ洪水を導水する施設として、分水施設を設置します。一期区間として、瀬田川から盛越川までの約2.4kmで現在工事を終えて、既に通水開始しています

羅漢山公園の手前(石山寺駅の自転車置き場が併設されてます)

本日も訪問、ありがとうございました。


・京阪石山寺駅周辺

2013年10月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

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