城郭探訪

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敦賀城 越前国(敦賀)

2016年12月30日 | 水城

幻の敦賀城 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所在地:敦賀市結城町14-1 map:https://yahoo.jp/pOwS2L

区 分:水城

築城期:織豊期(1583)

築城者:蜂屋頼隆

改築者:大谷吉継(水城に)

廃 城:1616年(元和2年)に「一国一城令」により、敦賀城は破却

遺 構:城石碑・移築門・礎石

訪城日:2016.12.18

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上画像に含まれている可能性があるもの:テーブル

写真の説明はありません。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041621709333737

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お城の概要

 大谷吉継の居城:敦賀城は、今は市街地化で消失。城町の真願寺一帯から南側の敦賀西小学校辺りまでが城域でる。小学校内と真願寺前に敦賀城趾の石碑がある。

 敦賀城の遺構としては、真願寺の乾門の礎石と来迎寺表門に敦賀城裏門が移築されている。また、八幡神社の境内に表門の礎石が展示されている。

敦賀城中門(現・来迎寺表門)敦賀城中門(現・来迎寺表門)Wikipedia 画像に含まれている可能性があるもの:空、家、木、雲、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の歴史

1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1583年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り三層の天守を持つ敦賀城を築城したが、まもなく頼隆は九州平定中に病死したため、代りに1589年(天正17年)大谷吉継が5万石で敦賀城に入城した説、また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説がある。

吉継は敦賀城を水城として大改修した。慶長5年(1600)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。 

その後、城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康によって代官が派遣されていたが、元和2年(1616)に一国一城令により、敦賀城は破却された。 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外大谷吉継は敦賀城を水城として大改修した画像に含まれている可能性があるもの:屋外

廃城以降、主郭部には小浜藩の役所(奉行所、代官所)とお茶屋(陣屋)が置かれた。小浜藩は、1624年(寛永元年)に京極忠高の所領となったが、1634年(寛永11年)に京極氏は松江城へ転封となり、代わって酒井忠勝が小浜藩主となった。以降、幕末までの240余年を酒井氏が支配する。なお、分家である敦賀酒井氏(敦賀藩とも鞠山藩ともいう)の陣屋は旧金ヶ崎城近くに建てられた。明治に入ると、廃藩置県により1871年(明治4年)に県庁舎が置かれたが、さらに警察署、裁判所、病院と変遷した。1909年(明治42年)には、敦賀尋常高等小学校が移転、現在は敦賀西小学校になっている。

現在の敦賀城

敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。

  • 敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。
  • 来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。
  • 来迎寺の書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。
  • 真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。
  • 真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。
  • 八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。
  • 西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。
  • 関ヶ原合戦後、福井藩主となった結城秀康によって、代官が派遣されたことから、結城町の地名が残る。 

敦賀城 に対する画像結果敦賀城 に対する画像結果敦賀城 に対する画像結果

参考資料:Wikipedia・観光パンフレット・現地説明板

本日の訪問ありがとうございす!!


敦賀陣屋(鞠山陣屋) 越前国(敦賀)

2016年12月29日 | 陣屋

 

 

お城のデータ

所在地:福井県敦賀市鞠山 map:http://yahoo.jp/rsA2OY

別 称:鞠山陣屋

現 状:空き地〈元リコーの保養所〉

区 分:陣屋

築城期:江戸期(天和2年)

築城者:酒井忠稠

遺 構:なし(鞠山神社の由緒書)

目標地:敦賀市鞠山

訪城日:2016.12.18

お城の概要

敦賀陣屋は、リコーの保養所があった地に築かれていた。 現在は保養所も取り壊され更地となり、陣屋の面影すら無い。 ただ、隣接してある鞠山神社があり、稲荷神社に藩祖忠稠を合祀している。

陣屋跡は企業の保養所も遺構もないが、陣屋稲荷が旧位置に残っている。

お城の歴史

貞享4年(1687年)酒井忠稠によって築かれた。 小浜藩主酒井忠直が没すると遺言によって次男忠稠に敦賀郡内と近江国高島郡内あわせて一万石が分地され敦賀藩が立藩した。 はじめ定府大名として領地支配は小浜藩が執り行っていた。 文久元年(1861年)忠稠は若年寄を勤めた功によって千八百石を加増され城主格となった。
明治になり鞠山藩と改名されたが小浜藩に併合され廃藩となった。

陣屋跡地

光照寺

鞠山(遠景)

参考資料:鞠山神社由緒書


水口岡山城跡 調査報告書を販売

2016年12月21日 | 番外編

報知新聞■平成28年12月21日(水) 第17685号

=甲賀市史編さん室=

◇甲賀
 甲賀市史編さん室は、水口岡山城跡の調査成果をまとめた「水口岡山城跡総合調査報告書」=写真=の販売をはじめた。
 水口岡山城跡の総合調査は、詳細地形測量調査、遺構確認発掘調査、文献資料調査、絵図資料調査を総合的に行い、全容解明に迫ったもの。
 報告書は三百二十四ページで、価格は一冊三千円。郵送の場合は別途、送料がかかる。販売部数は三百部。問い合わせは甲賀市史編さん室(TEL0748―86―8026)へ。
 国の文化審議会は十一月、水口岡山城跡を国史跡に指定するよう答申した。同城は、豊臣秀吉が東国ににらみを利かせるため、天正十三年(一五八五年)、中村一氏に命じて築城したもの。
 古城山(二百八十三メートル)の山頂に天守、本丸、二の丸、三の丸、西の丸が並んでいたとされ、発掘調査で石垣や瓦などが確認されている。

 

   


天筒(てづつ)山城 越前国(敦賀)

2016年12月19日 | 山城

 

お城のデータ
所在地:敦賀市天筒町 map:http://yahoo.jp/i47ot2
築城期:南北朝期
築城者:
主な城主:朝倉氏
遺 構:曲輪・堀切・
標 高:171m  比高差:165m
目標地:金ケ崎城跡・金ヶ崎宮
駐車場:金ケ崎城跡・金ヶ崎宮駐車場
訪城日:2016.12.17

お城の概要
 天筒山城は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城で、金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている。
 敦賀湾に面し、金ヶ崎城とは尾根続きになっている。織田信長は金ヶ崎城攻略の南からこの城を落とす。
 現在は公園として整備されて、頂上までの道は舗装されている。主郭は展望塔や休憩室が置かれている。
 また、主郭部は(頂上)の、展望塔からは金ヶ崎や敦賀市内が見渡せる。山
頂で【見張り台】であった
・信長は気比の松原の西のはずれにある花城山を本陣とし、諸将を集めて軍議を開いた。
  丘のように小高い山だが、あたりの様子をひと目で見渡すことができた。

・湾の奥まった所に、天然の防波堤のように東から西に突き出し岬がある。ここに金ケ崎城あり朝倉景恒が三千の兵と共に立て籠もっていた。

・金ケ崎城から東につづく尾根の先端の手筒山城があり、気比神宮の社家を中心とした国人衆千五百兵と共に立て籠もっていた。

現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。

主郭部のから南曲輪へ

南曲輪の案内状(織田軍は、南から攻めあがった)

お城の歴史

信長公記 巻三 元亀元年4、金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 25日、信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

 しかしそこから木芽峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、
「是非に及ばず」と、つぶやいた。
 4月28日、信長公は撤退を開始した。木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越えをして京都への撤退に成功した。

 越前撤退後、信長公は明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、武藤上野守友益に人質供出を要求させた⑤。交渉の末、武藤の母親が信長公のもとへ人質として差し出され、武藤の城は破却された。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
 このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村⑥に火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。

 その後信長公は京表の諸大名から人質を取りかためて公方様へ進上し、大事出来の際には時日を移さず必ず入洛することを誓い、5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀⑦・宇佐山⑧の城に森可成を残し、12日⑨に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺⑩には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。

  ④現滋賀県朽木村から京都北郊に出る道 ⑤武藤友益は若狭の将で、織田勢の若狭侵入に対抗していた。⑥現栗東市 ⑦⑧現大津市内 ⑨正しくは13日 ⑩現近江八幡市長光寺町                                                             元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。 

 

お城の歴史

建武3年・延元元年(1336年)に金ケ崎城に籠った新田勢に対する足利勢の陣所となっていた。

元亀元年(1570年)越前に侵攻した織田信長によって金ケ崎城とともに落城した。

戦国時代

 朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。1570年(元亀元年4月26日)、援軍が遅れたため、郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城する。しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退する。

金ヶ崎の戦い

元亀元年(1570年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)をもって京都を出陣諸将を集めて10万余の大軍となって西近江路を北上。九里半越えから若狭国に入り、熊川宿に一泊し、23日には朝倉氏の勢力と接する若狭三方郡の国吉城に入城した。24日も越前攻めに備え、、25日、織田徳川連合軍は、天筒山城を攻めむと、越前国敦賀に侵攻した。本陣を妙顕寺(敦賀市元町)とした。対して、朝倉側は朝倉景恒を総大将のもと金ヶ崎城に籠った。天筒山城には気比社の社家、嶋、宇野各氏や上田、中村、吉川、萩原入道など1500騎など立て篭もっていた。

天筒山城攻略10万余の信長軍は、信長自身が先頭に立って、天筒山城攻略を開始した。信長軍の編成は、先頭の信長に続いてその一族、そして柴田勝家、丹羽長秀などの重臣達、その後に松永久秀、池田経興、徳川家康などの諸大名が後詰した。足軽大将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)は遊軍となって天筒山、金ヶ崎城周辺の在所など放火して回った。天筒山の東側は急峻で、その下は池見の湿地帯であった。籠城軍はその方面への防御を比較的手薄にしていた。本来、天筒山城の弱点は、海岸に沿って東に延びる山地からの攻撃に対してであった。また、圧倒的な信長軍の包囲に対して、主力を西側からの攻撃に対陣せざるを得なかった。東南を天然の防禦線としてと頼んでいた。そこに、信長に攻撃の糸口を与えた織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。 

南曲輪へ

天筒山城遠望

信長はここ妙顕寺に本陣

20150523b0225日、敦賀に入った信長はここ妙顕寺に本陣を構え(国吉籠城記)、自ら敵情視察した上で手筒山砦攻撃を決めます。

20150523b03妙顕寺本堂

20150523b04妙顕寺からの手筒山

参考資料:Wikipedia・敦賀観光案内サイト 漫遊敦賀/金ヶ崎城跡】敦賀戦国浪漫パンフレット金ヶ崎の退き口 - 敦賀の歴史


金ケ崎城 越前国(敦賀)

2016年12月19日 | 山城

  

お城のデータ
所在地:敦賀市金ヶ崎町 map:http://yahoo.jp/8QuIxz
別 称:敦賀城 
築城期:南北朝期
築城者:平通盛
主な城主:気比氏、甲斐氏、朝倉氏
遺 構:城戸跡
標 高:86m  比高差:80m
目標地:金ケ崎城跡・金ヶ崎宮
駐車場:金ケ崎城跡・金ヶ崎宮駐車場
訪城日:2016.12.17
 

金ヶ崎城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 天筒山展望台から見た金ヶ崎城跡

お城の概要 

金ヶ崎城は、別名敦賀城

城跡は国の史跡に指定されている。支城である天筒山城は、南に位置する。 

 敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城である。治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曽義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されている。

金ヶ崎城跡のふもとには、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮がある。

・信長は気比の松原の西のはずれにある花城山を本陣とし、諸将を集めて軍議を開いた。

 

  丘のように小高い山だが、あたりの様子をひと目で見渡すことができた。

 

・湾の奥まった所に、天然の防波堤のように東から西に突き出し岬がある。ここに金ケ崎城あり朝倉景恒が三千の兵と共に立て籠もっていた。

 

・金ケ崎城から東につづく尾根の先端の手筒山城があり、気比神宮の社家を中心とした国人衆千五百兵と共に立て籠もっていた。

 

お城の歴史

南北朝時代

1336年(延元元年/建武3年10月13日、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。翌1337年(延元2年/建武4年2月5日)、義貞らは、闇夜に密かに脱出し、杣山城(福井県南越前町)で体勢を立て直す。2月16日、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれる。3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られる。尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日落城する。

1338年(延元3年/暦応元年)4月(旧暦)には越前の軍事的主導権を握った義貞に奪還されるが、その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称した。

室町時代

1459年(長禄3年5月13日)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり(やがて長禄合戦に発展)、古河公方足利成氏征討の幕命を受けた斯波義敏は兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗した。この戦いは8代将軍足利義政の怒りを買い義敏は失脚した。

戦国時代

 朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。1570年(元亀元年4月26日)、援軍が遅れたため、郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城する。しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退する。

金ヶ崎の戦い

 織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。

 敦賀口における金ケ崎城攻略自体はすでに成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行った。

敦賀市街の北東部に敦賀湾を一望できる小高い山があります。戦国の世、この地にあった金ヶ崎城・天筒山城を舞台に、数多くの歴史的事件が繰り広げられました。金ヶ崎城にまつわる歴史上の人物は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康…と枚挙にいとまがありません。それぞれの武将にとって「天下取り」への転換点となった天筒山、そして金ヶ崎城。当時の「熱き思い」の数々。

  

敦賀湾を一望する小高い山、そこに『金ヶ崎城跡』があります。

 延元元年(1336年)恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場です。戦いは激しさを極め、尊良親王ら300人は籠城から半年後、城に火を放ち自害しました。中腹の金崎宮には、その両親王が祀られています。

また、この地には戦国時代の「つはものども」の気迫を今に伝える、数々の逸話も残っています。

  ―時は元亀元(1570)年4月。朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとしたその時、近江浅井氏裏切りの報が。窮地に陥った信長だったが、金ヶ崎城でしんがりを努めた木下籐吉郎(豊臣秀吉)の活躍で、無事帰京できたという。

 姉川の合戦で、浅井・朝倉連合軍を敗った信長。そして、その信を受け天下取りの道を進んだ秀吉。さらに、秀吉のしんがりを助け、後に謝意を受けた徳川家康…金ヶ崎城をめぐる出来事は、それぞれの武将にとって天下取りへの転換点となっているのです。 

信長公記 巻三 元亀元年4、金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

  25日、信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

 しかしそこから木目峠を越え、あすには越前国内へなだれ込もうというとき、軍中に最悪の飛報が届いた。江北の浅井備前守長政が掌を返し、敵方についたという報であった。
 信長公ははじめこの情報を信じなかった。浅井は歴とした織田家の縁者であり、さらには江北一円を申し付けてもいる。不足のあろうはずがなく、虚説に違いなし、というのである。しかし信長公のもとへはその後も諸方から続々と同様の注進が届き、もはや浅井離反が事実であることは疑いようがなくなった。
 運命は、突如として変転した。信長公はただ一言、「是非に及ばず」 と、つぶやいた。
 4月28日、信長公は撤退を開始した。木下藤吉郎を殿軍として金ヶ崎の城に残し、みずからは駆けに駆けて30日には近江に出、地元の豪族朽木信濃守元綱の先導で朽木越えをして京都への撤退に成功した。

 越前撤退後、信長公は明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、武藤上野守友益に人質供出を要求させた⑤。交渉の末、武藤の母親が信長公のもとへ人質として差し出され、武藤の城は破却された。両名は5月6日針畑越えの道をとって京へ戻り、信長公へ復命した。
 このとき稲葉一鉄親子と斎藤内蔵助利三は江州守山に駐屯し、近江路の警固にあたっていた。そこへ一揆がむらがり起こってへそ村⑥に火の手をあげ、守山にも焼き討ちをしかけてきた。しかし稲葉は町の諸口を支えて逆に敵を追い崩し、数多の敵を討ち取った。比類なき働きであった。

 その後信長公は京表の諸大名から人質を取りかためて公方様へ進上し、大事出来の際には時日を移さず必ず入洛することを誓い、5月9日京を離れて岐阜へ下っていった。途中志賀⑦・宇佐山⑧の城に森可成を残し、12日⑨に永原まで出てこの地に佐久間信盛を置き、長光寺⑩には柴田勝家を入れた。安土にも中川八郎右衛門が残された。かくのごとく城塞ごとに兵が入り、近江回廊は厳戒態勢がしかれた。

④現滋賀県朽木村から京都北郊に出る道 ⑤武藤友益は若狭の将で、織田勢の若狭侵入に対抗していた。⑥現栗東市 ⑦⑧現大津市内 ⑨正しくは13日 ⑩現近江八幡市長光寺町

此処から【金ケ崎城】

主郭部

 参考資料:Wikipedia・『信長公記』・敦賀観光案内サイト 漫遊敦賀/金ヶ崎城跡】敦賀戦国浪漫パンフレット

 

井伊直虎、実は「男」? 江戸時代の新史料発見

2016年12月16日 | 番外編

井伊直虎、実は「男」? 江戸時代の新史料発見

井伊家が拠点としていた井伊谷を今川家の家臣の子に与えたと伝える「雑秘説写記」。指さし部分は井伊谷を表す「井の谷」と記されている

 戦国時代を舞台にした来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎とみられる人物について記した江戸時代の新史料が見つかったと、井伊美術館(京都市)が十四日、発表した。従来の史料と併せて検討した結果、直虎は女性ではなく、今川家の重臣の息子だったと判明したと説明している。

 直虎は史料が少なく謎の多い人物。「次郎直虎」と書かれた戦国時代の連署状や、井伊家当主の娘が「次郎法師」と名付けられ地頭となったと伝える史料などがある。これらを結びつけ、女性の次郎法師が後に直虎を名乗ったと考えられている。

 同美術館によると、新史料は、井伊家が従っていた今川家の武将、新野親矩(にいのちかのり)の娘らから、彦根藩(井伊家)の家老が寛永十七(一六四〇)年に聞き書きし、家老の子孫が約百年後にまとめた「雑秘説写記(ざつひせつしゃき)」(縦約二十七センチ、横二十一センチ)。

 戦国期に井伊家が拠点とした井伊谷(いいのや)(現在の浜松市北区)について「(今川家が重臣の)関口越後守(氏経)の子を井伊次郎とし、井伊谷の知行を与えた」と伝えている。この息子が永禄六(一五六三)年か翌年ごろに領主となったと推測される。息子は新野のおいで「次郎法師」のいとこに当たることも分かり、後に氏経と親子で「次郎直虎」の連署状を出したと考えられるという。

 井伊美術館の井伊達夫館長が約五十年前、滋賀県彦根市の古道具店で今回の史料を購入。今年八月に記述を見つけた。

 来年の大河ドラマの時代考証を務める小和田哲男静岡大名誉教授(戦国史)は「面白い史料かもしれないが、聞き書きという二次史料で『次郎直虎』という表記は出てこない。直虎が女性であることを否定するものではない」と指摘している。

 

井伊直虎、実は男?大河の次期主人公に別人説

戦国時代を舞台にした来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎とみられる人物について記した江戸時代の新史料が見つかったと、井伊美術館(京都市)が14日、発表した。従来の史料と併せて検討した結果、直虎は女性ではなく、今川家の重臣の息子だったと判明したと説明している。

 直虎は史料が少なく謎の多い人物。「次郎直虎」と書かれた戦国時代の連署状や、井伊家当主の娘が「次郎法師」と名付けられ地頭となったと伝える史料などがある。これらを結びつけ、女性の次郎法師が後に直虎を名乗ったと考えられている。

(共同)

 井伊家が拠点としていた井伊谷を今川家の家臣の子に与えたと伝える「雑秘説写記」


井伊直虎:遠江・井伊氏お家断絶の危機を救った女領主

2016年12月16日 | 番外編

2017年(平成29年)の大河ドラマは 龍潭寺ゆかりの井伊家の当主、
井伊直虎の生涯を描く 「おんな城主 直虎」です

http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/225827.html

         
 遠江・井伊氏お家断絶の危機を救った女領主

井伊直虎(いいなおとら) <次郎法師(じろうほうし)>

次郎法師
「次郎法師と虎松」 ©光山房

◆父:井伊家22代 井伊盛(なおもり)
母:新野左馬助親矩妹(にいのさまのすけちかのりいもうと)(祐椿尼・松岳院)

 井伊直虎(次郎法師)は、井伊家第22代当主・直盛の一人娘。
直盛には男子がなく早くより娘の許婚(いいなずけ)として従弟(いとこ)の井伊直親に家督(かとく)を継がせる予定であった。
ところが直親の父が今川氏に殺され、直親(9歳)自身も命を狙われたため、信州へ身を隠すことに。
直虎は直親が亡くなったと思い、龍潭寺で出家し次郎法師を名乗る。
 11年後、井伊谷に戻った直親は、直盛の養子となり奥山家の娘と結婚し、虎松(24代直政)が生まれる。
 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで直虎の父・22代直盛戦死。井伊家の家臣多数死亡し、大きな損失を被る。
 1562年(永禄5年)、23代直親が謀殺されると井伊家は存続の危機に。
翌年、20代直平死去。井伊の名を継ぐ男子は、直親の遺児、幼い虎松ただ一人となり、1565年(永禄8年) 龍潭寺南渓和尚の計らいで次郎法師はその後見人として井伊直虎と名乗り、女領主として井伊家を支えた。
井伊谷徳政令にみられる政治手腕は優れており、歴代当主に記名はないが
井伊家受難の時代を救った女領主として後世に語り継がれる人物である。
身を隠していた直政を1575年(天正3年)浜松城主 徳川家康公に仕えさせ、出世を見届けた直虎は、1582年(天正10年)8月26日、激動の人生に幕をとじる。 

 戒名「妙雲院殿月船祐圓大姉(みょううんいんでんげっせんゆうえんだいし)」(南渓過去帳には「月泉祐圓禅定尼(げっせんゆうえんぜんじょうに) 」と記載)   

 龍潭寺には井伊家墓所があり、直虎は生前結ばれることのなかった直親の隣に祀られている。


  直虎をめぐる井伊家 家系図

 


井伊直虎(次郎法師)(右側)と
井伊直親(左側)のお墓



 井伊家御霊屋にある
 井伊直虎(次郎法師) と母の
 お位牌
 
 



 ▼「井伊直虎(次郎法師)」関連書籍

 *「遠江井伊氏物語」武藤 全裕(著)
 * 「井伊直虎~戦国井伊一族と東国動乱史~ 」小和田 哲男(著)
 *「湖(あわうみ)の雄 井伊氏~浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像~」
   公益財団法人 静岡県文化財団
 * 「井伊直虎物語」浜松歴女探検隊
  
※上記4つは龍潭寺内売店でも販売しております


 *「井の国物語」谷 光洋(著)
 *「女(おなご)にこそあれ次郎法師」梓澤 要(著)
 *「剣と紅」高殿 円(著)
 * 「文明・自然・アジール~女領主井伊直虎と遠江の歴史~」夏目 琢史(著)
  「井伊直虎 女領主・山の民・悪党 (講談社現代新書)」夏目 琢史(著)
 * 「女城主・井伊直虎」楠戸 義昭(著)
  他


佐和山城 近江国(彦根)

2016年12月13日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外「澤山城図」
滋賀県犬上郡多賀町多賀大社「多賀大社社頭絵図」
(写真提供 長浜市長浜城歴史博物館)

お城のデータ

所在地:彦根市鳥居本町・古沢町 map:http://yahoo.jp/XyyV9G

現 状:山林(主郭部は公園)

区 分:山城

築城期:鎌倉期

築城者:佐保六郎時綱

改築期:織豊期

改築者:石田三成

廃城者:伊井氏

主な城主:佐保氏、小川氏・磯野氏・丹羽氏・石田氏・伊井氏

遺 構:曲輪、土塁、石垣、井戸、堀 

標高:233m 比高差:130m

目標地:近江鉄道:鳥居井本駅

駐車場:近江鉄道:鳥居井本駅

訪城日:2016.12.11

お城の概要

「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近に 佐和山の城」とまで謳われたご存知、石田三成の居城であり、彦根城を眼下に見下ろす佐和山に築かれた城である。
近江鉄道鳥居本駅から国道8号線を彦根市街に向かって東進し、佐和山トンネル手前の川沿いを少し北に入ったところに大手門跡であるが、現在はここから登る事はできず。僅かに残る石垣を見ながら本丸に到達。 城址は彦根城築城期に徹底的に破却された。

本丸跡今は公園化し遺構は少ないが、虎口や天守台・角石垣・井戸等が残る

西眼下に後伊井氏の居城彦根城・城下町か一望できる。東側の旧大手門・城下町(三成時代)は鳥居本宿へ移動し寂しい。秋風が気持ちよかった。

お城の歴史

鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保六郎時綱が築いた砦が始まりとされる。

永正・大永年間(1504年~1520年)には六角氏の拠点となったが、戦国後期には六角氏の勢力は衰え、新興勢力の浅井氏支配下の磯野貞昌が入城した。

 元亀元年(1570年)、姉川の合戦後、佐和山城は織田方に包囲され、羽柴秀吉による「員昌に翻意あり」という流言を信じきってしまった浅井氏は、佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめた。これによって元亀二年(1571年)二月二十四日、八ヶ月に及ぶ激戦の末、ついに員昌は織田信長に降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城した。

天正十年(1582年)、清洲会議で明智光秀討伐で軍功があった堀秀政に佐和山城が与えられた。

天正十三年(1585年)、堀氏が転封になると代わって堀尾吉晴が入城。さらに、天正十八年(1590年)七月には五奉行の一人・石田三成が入城し、荒廃していた佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守を擁する近世城郭を築いた。

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで三成が惨敗を喫すると、徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城に猛攻撃を実施し、城を守っていた三成の父・正継、兄・正澄は自害して果てた。翌六年には徳川四天王の井伊直政が入城したが、井伊氏は新たに彦根城を築き、佐和山城は徹底的に破壊された。

  

 

 

 

佐和山城  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

彦根城より佐和山を望む
彦根城より佐和山を望む
城郭構造 連郭式山城
天守構造 五層(三層説あり。非現存)
築城主 伝・佐保氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 石田三成
主な城主 佐保氏、小川氏磯野氏
丹羽氏石田氏井伊氏
廃城年 慶長11年(1606年
遺構 石垣土塁曲輪、ほか
指定文化財 なし
位置 北緯35度16分46.2秒
東経136度16分8.13秒
佐和山城図

佐和山城(さわやま じょう)は、日本中世中期から近世初期にかけて、近江国坂田郡(現・滋賀県彦根市)の佐和山に存在した日本の城山城)である。現・佐和山城址。 坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において機内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点であり、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる[2]

羽柴・豊臣の時代

天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに、天正18年(1590年)には五奉行の一人である石田三成が入城したとされるが、三成の佐和山領有が文献上でみえるのは文禄4年からである。

  三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)。

三成は関ヶ原の戦いに敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。

佐和山城の戦い

慶長5年(1600年9月15日関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継正澄皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)]

徳川時代、そして、廃城

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない。しかしそれでも、石垣の一部土塁曲輪その他施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・『ウィキペディア(Wikipedia)長浜歴史博物館

本日の訪問ありがとうございす!!

 


連続講座「近江の城郭」第2回 佐和山城跡

2016年12月13日 | 山城

  

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」第2回 佐和山城跡

  佐和山城は、東山道をにらむ位置に築かれた要衝で、中世には北の京極氏・浅井氏と南の六角氏の間で何度も争奪戦が繰り広げられた「境目の城」として有名です。信長の近江進攻後は、近江支配の拠点城郭の一つとなり、秀吉時代には家臣の堀尾吉晴が城主となって、徳川家康の進攻に備える役割を担いました。その後、五奉行の一人であった石田三成の居城となるなど、近江支配の拠点の一つとなっています。

今回の講座では、佐和山城跡についての最新の調査成果・研究成果を彦根市教育委員会文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

1.日時:平成28年12月11日(日曜日)10時00分~16時30分

  • 鳥居本地区公民館集合
    ※彦根市鳥居本町1491-6 近江鉄道鳥居本駅下車徒歩20分
    ※近江鉄道 彦根駅9時31分発→鳥居本駅9時36分着 米原駅9時07分発→鳥居本駅9時14分着 をご利用ください。
    ※職員が鳥居本駅前で誘導
  • JR彦根駅解散

 

 

2.場所

  • 講義:鳥居本地区公民館(彦根市鳥居本町1491-6)

  • 現地見学:佐和山城跡・佐和山城城下町跡

3.行程

  • 鳥居本地区公民館(講義・昼食)→佐和山城町→佐和山城大手口→佐和山城→佐和山西麓城下町→JR彦根駅
  • 全行程約10km※山道あり

4.主催:滋賀県教育委員会

5.協力:彦根市教育委員会

6.講師

講義「大津籠城戦と佐和山城掃討戦」:松下浩(滋賀県教育委員会文化財保護課)

  • 現地探訪:彦根市教育委員会文化財課専門職員

7.定員:60名(事前申込制先着順)

8.参加費:無料


片桐且元の苦渋、豊臣存続への思い解説 「湖灯塾」

2016年12月10日 | 講座

   

 

片桐且元の苦渋、豊臣存続への思い解説 滋賀「湖灯塾」

苦渋に満ちた戦国武将片桐且元の人生について語る太田さん(近江八幡市出町・京都新聞湖灯ホール)苦渋に満ちた戦国武将片桐且元の人生について語る太田さん(近江八幡市出町・京都新聞湖灯ホール)

 京都新聞主催の講演会「湖灯塾」(滋賀中央信用金庫協賛)が10日、滋賀県近江八幡市出町の京都新聞湖灯ホールであった。長浜城歴史博物館館長の太田浩司さん(55)が「大河ドラマ『真田丸』をめぐる群像~片桐且元(かつもと)を中心に」をテーマに講演した。

 且元は近江出身で豊臣秀吉の「賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍(やり)」の1人として頭角を現した。関ケ原合戦後、豊臣政権の存続を思いながらも徳川家康に従い、大坂夏の陣が終わって20日後に病死した。

 太田さんは「戦場での活躍より事務官僚として有能だった」と指摘。且元が秀吉の息子秀頼を補佐し、同時に家康の家臣だったことについて「両属性があり複雑な立場だが、豊臣政権が復活できないことを誰よりも分かっていた。豊臣を一大名として残そうと真剣に考えていた」と語った。

 大坂冬の陣の和睦成立直前に且元が西本願寺宗主に「喜ばしい」と伝えた書状を紹介、「且元が家康側に回ってから出した書状は1通も見つかっていなかった。早く和誼になり、豊臣家が残ってほしいとの思いが垣間見られる」と話した。

 且元が豊臣方の中心人物として竹生島や石山寺など県内各地の寺の復興に尽力したことなどを振り返り、「近畿地方の統治において且元の果たした役割は大きい」と述べた。

【京都新聞 2016年12月10日】

大坂冬の陣、和睦交渉内情伝える 武将・片桐且元の書状発見

 

大坂冬の陣の徳川方の内情を西本願寺宗主に報告する片桐且元の書状。表面のけば立ちもあり、且元筆の書状と考えられるという(30日午後4時12分、京都市下京区・龍谷大大宮図書館)

  賤ケ岳の七本槍の一人として豊臣家に仕えた近江出身の戦国武将片桐且元(かつもと)(1556~1615年)が、徳川方についた直後に起こった大坂冬の陣(14年)の和睦交渉の内情などを西本願寺宗主に伝えた書状が見つかり、龍谷大大宮図書館が30日、発表した。発見した本願寺史料研究所の大喜直彦・上級研究員(日本史)は「冬の陣終盤の徳川方の詳しい様子を記す貴重な史料」とする。

  軸装された書状は縦30.5センチ横49センチ。今年6月に東京都の古書店の目録の記述から発見した。古書店が所有していた経緯は不明という。

  書状の日付は、1カ月続いた戦いが佳境を迎えた12月18日。大坂城への砲撃を指揮した且元が西本願寺12代宗主の准如(じゅんにょ)に宛てており、大坂城に近い「備前島」に布陣する且元のそばで、戦況に満悦する江戸幕府2代将軍秀忠の姿が記される。「大坂より色々御詫言候」と、豊臣側から非を認めてきたという記述がある。

 書状にある日付の翌日、和睦は成立した。大喜上級研究員は「大坂の陣の具体的な方法がより明らかになった。和議開始当日の戦場の様子も分かる」としている。且元の書状は10月13~21日、京都市下京区の龍谷大大宮学舎本館で特別展示さた。 【 京都新聞 2016年09月30日】

 

片桐且元

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

Katagiri Katumoto.jpg片桐且元像(模写、大徳寺玉林院所蔵)
片桐 且元( かつもと)は、賤ヶ岳の七本槍のひとり。秀吉からは長らく助作(助佐)と呼ばれていた。

 豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆

生涯 

近江国浅井郡須賀谷の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男(1556)に生まれる。

元亀元年から天正元年9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落した。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に感状が現存する。17歳の且元も一貫して浅井方として戦い、幼き浅井三姉妹大野治長兄弟らと共に、落城を経験した。

秀吉の直参衆

片桐門  天正18年(1590年)に且元が薬師寺の普請奉行を務めた際、馬上のまま出入りしたという宿舎の正門。MOA美術館内に移築。

羽柴秀吉は、長浜城主及び北近江3郡の領主となり、且元は、近江国生まれの石田正澄三成兄弟と秀吉に仕官。毛利輝元に対する中国攻めにも従軍した。

天正11年5月、信長死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ヶ岳の戦い福島正則加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられた。秀吉から摂津国内に3千石を与えられた。

天正12年6月、小牧・長久手の戦いに従軍。

天正14年、方広寺大仏殿の建設で作事奉行を務めた。

天正15年の九州征伐に従軍し、軍船の調達を担当。

天正18年の小田原征伐では、脇坂安治徳川家臣と共に小田原城の接収に立会った。

 秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では弟・貞隆と共に出征。釜山(現在の釜山市)昌原城(馬山城)に駐在し、秀吉からの一揆衆のなで斬りや街道普請などの指令を取り次ぎ、2度の晋州城の戦いなどに参加した。文禄2年、講和に向けた休戦により9月から10月に帰国した。

文禄3年、伏見城普請を分担。文禄4年、5,800石を加増され、本知の4,200石と併せて1万石となった。所領は播磨、摂津、伊勢に点在していた。

文禄5年閏7月13日に発生した慶長伏見地震以降は、復興事業に関連した大坂の都市改造計画にかかわた。

慶長3年3月15日の醍醐の花見では三の丸殿に御輿添頭(警護役)として随従。同年8月15日、小出秀政らと共に秀頼の傅役(輔佐役)5名の1人として指名され、大坂城番の城詰めとして近侍することになった。

豊臣家家老

豊臣秀頼   徳川家康
豊臣秀頼
 
徳川家康

慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀頼が五大老五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、且元の屋敷に2泊している。以後ふたりは連絡を取り続けていくことになる[10]。慶長5年(1600年)長束正家ら奉行衆より、小出秀政と且元は大坂城の所務の監督的な立場に、家康ら大老衆からは石田正澄、石川貞清頼明兄弟と共に御奥の警護役に任じられている[11]

9月の関ヶ原の戦いでは文治派奉行衆を中心とした石田三成方(西軍)に付き、秀政、頼明、弟の貞隆などの旗本も加わる大津城の戦いに、増田長盛と同じく家臣を派遣したが、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍勝利の後は、長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走した。この功績により、逆に家康から播磨国伊勢国の所領6千石と引替に大和国竜田2万4千石を与えられた[注釈 5]。また同じ頃、茨木城の城主となった。

 以降、家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となった。当初は全国の蔵入地を総監する立場から、徳川氏の所務方の大久保長安の検地]などに協力。また寺社奉行として、当初は豊臣公儀の政策だった畿内を中心とした多数の寺院復興事業に取り組む。

慶長9年の秀吉7回忌と同15年の13回忌の大祭(臨時祭礼)では総奉行を務める。また朝廷との橋渡しを務めた他、慶長14年の後陽成天皇の寵姫と不良公家の乱行醜聞として悪名を轟かせた猪熊事件では、京都所司代板倉勝重に協力した。

慶長10年頃からは、家康から豊臣家直轄地の摂津国・河内国和泉国小豆島[16]を管轄する、国奉行のような立場に任じられる。同年までを区切りに行われた本多正純による西国33国の郷帳・国絵図作成事業では、奉行担当国の絵図作成だけではなく、家康在所の伏見城内において全般的な実務にも当たっている。

慶長16年、駿府城を本居としていた家康が4年ぶりに上洛。これより前に家康から秀頼に二条城での会見要請があり、秀頼の母・淀殿は「家康から大坂城へ来るべき」と難を示すが、且元が「関東と不和となり合戦起こらんこと必定」と上洛を説得をして会見を実現させた。その際に吉凶を占ったクジで大凶を引くと、吉に書き直させたという。3月28日の二条城会見では且元も同席した。 同年の禁裏普請では、大坂方で3万石を負担した。

既に慶長11年には、家康らの意向に沿って管轄内にキリスト教禁止令を発布していたが、慶長19年には、前年公布の以心崇伝が起草した禁止令に従い、教会を打ち壊して棄教政策を徹底し、53人を肥前国長崎へ送った。

方広寺鐘銘事件

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」

慶長19年3月には、再建開始から14年目の方広寺大仏殿がほぼ完成し、秀頼の名において全国から鋳物師を集める。 銘文を南禅寺長老の文英清韓に選定させていた梵鐘も4月には完成し、奉行代表として「片桐東市正豊臣且元」の名も刻まれている。棟札の書は三井寺興意法親王による。

5月、家康は且元に対して方広寺の供養の導師に真言宗仁和寺門跡覚深法親王を指名する。7月、後水尾天皇より大仏開眼法要天台宗妙法院門跡常胤法親王を指名する勅命が下される。家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出した[25]。18日は、秀吉17回忌の大祭の日となっていたため、且元は、両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とする。

7月末、板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられる方広寺鐘銘事件が起こる。崇伝と本多正純を中心に調査が行われ、板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。8月13日の夜、大坂城下が静まらない中、且元、大野治長、清韓などが駿府へ派遣される[26]。17日に鞠子宿にて清韓が駿府奉行に囚えられる。

8月18日に銘文に対して崇伝が住職を務める臨済宗の南禅寺及びその下位に属する京都五山の7人の僧侶に検証が命じられ 清韓が銘文に隠し題として「国家安康」と家康の諱を用いたことは不敬とみなされ、更に林羅山より呪詛などと批難された。

19日の入府より、且元は、崇伝らへの弁明に務めたが、家康との会見も無いままだった。しかし、29日に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われ、家臣の山本豊久は「騙し合い」と評している。9月8日、崇伝より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい」と伝えられ、9月12日に帰坂する。

徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝らに半ば言い含められたものかは不明だが、戦争を避けるために「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の中からひとつを早急に選ぶことを提案するが、大野治房渡辺糺といった淀殿の側近たちから家康との内通を疑われるようになる。 9月23日、織田信雄より薄田兼相らを討手とする暗殺計画を知らされ屋敷に篭り守りを堅める。 秀頼や木村重成からこれを調停する動きがあったものの、28日に高野山に入るとして城を出ることを決め、秀頼側からも不忠者であることを理由に改易が決められる。そこで蔵米や金などの勘定の引き継ぎを済ませると、10月1日に300程の雑兵を率き連れ、弟の貞隆や石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去した。且元は貞隆の茨木城へ入り、勝重に援兵を要請した。 この日は、既に勝重から且元の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康による、徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもある。

大坂の陣

「大坂夏の陣図屏風」右隻 (部分、大阪城天守閣収蔵)

大坂の陣には家康に人質を送って従属し、10月10日には、且元は土佐国へ大坂への米の回送を禁じている。10月12日には家臣の多羅尾半左衛門を300の兵での救援に向かわせたが既に遅く、迎撃されて半左衛門も戦死に至る。自らも本隊を率いて、海路を進むために尼崎の港を目指したが、上手くいかずに逃げ帰る。

家康が二条城に到着した23日には軍議に加わり、先鋒を命じられる。11月1日には小豆島周辺3ヶ国に物資の回送と大坂城の経済封鎖を命じ、3日には絵図の制作にあたり、5日には今井宗薫ら堺衆の奮戦を賞賛するなど、徳川方に厚い全面的な協力をした。12月、徳川方は真田丸の戦いでの敗戦や兵糧不足の問題などで戦況は思わしくなかった。そこで16日より北側だけでも100門以上の大筒石火矢での攻撃を開始し、18日には且元も家康の砲術方の数十人を率いてこれ加わり、備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃などを行った。この戦果が大坂方を講和の席につかせる一つの契機となった。

慶長20年(1615年)1月に隠居を願い出たが許されず、竜田や伏見などに転居の後、4月は駿府に屋敷が与えられた。江戸への拝謁の途上で夏の陣が起こると、4月26日の夜半には竜田城の周辺へ放火が行われた。

5月6日午後、且元は道明寺に到着。7日早朝、久宝寺で将軍・徳川秀忠麾下の弟・貞隆の隊に合流し、軍監・石川貞政、蒔田広定ら諸将と会した。且元・貞隆隊は岡山口への布陣を命じられた。 初陣の嫡男・片桐孝利には家臣の梅戸八右衛門を付けて送っている。

大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいることを、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元に知らせてきたので秀忠に通報し、豊臣氏は助命叶わず滅亡した。

前年より肺病を患い、家康より送られた片山宗哲の診察を受けていたが、大坂夏の陣から20日ほどした5月28日に京屋敷にて60歳で死亡した。 葬儀は大徳寺で行われた。

且元の跡は嫡男の孝利が跡を継いだが、竜田藩1万石はその甥で4代片桐為次が早世したことで明暦元年(1655年)に無嗣断絶となった。こうして且元の系統は絶えたが、大和小泉藩1万1千石の藩主となった弟・片桐貞隆の家系は明治まで大名として存続して家名を伝え、その子孫は明治になって子爵に叙せられている。

逸話

片桐東市正且元(落合芳幾画「太平記英勇伝七十五」より)
  • 兄の賢珍を継いで、天正17年に近江国草津の芦浦観音寺の住職と、近江国と大和国で合わせて4万石の蔵入地の代官となるが、豊臣秀吉に若き日の且元と石田三成の教育を命じられた。
  • 絵本太閤記』に、山崎の戦い決着後の夜に、死体を装って秀吉に不意打ちしようとした明智光秀の側近の明智光近を討ったという且元の活躍。
  • 『多田雪霜談』によると、天正14年、秀吉により摂津山下城主・塩川長満の攻撃を、池田輝政堀尾吉晴と共に命じられた。山崎の戦いで光秀に味方し逃亡した地黄城能勢頼次の旧領は長満の領地となっていたが、後に秀吉の命で頼次に戻されており、それを九州征伐で頼次が留守になったところで長満が再領有しよう攻撃したためだという。『川西市史』ではこれを別説とし、『高代寺日記』によれば、塩川氏の取り潰しの原因はお家騒動だと記している。また『能勢町史』によると、頼次は島津義弘が能勢郡を在京賄料として拝領していた天正年間に、野間神社の再興願いを聞き遂げられており、秀吉の死後には徳川家康に取り立てられ、関ヶ原の戦いの後に3千石で再興となる。その後、大坂夏の陣の出陣による留守中に、大坂方となった長満の子の塩川頼面が領内に攻め込み、それを頼次を含めた徳川軍が破り、頼次は5377石に加増されている。
  • 慶長19年、豊臣家と徳川家の関係は緊張が高まり、2月17日には家康はイギリス商人より大砲、弾薬、鉛600キログラムを購入。『東武談叢』などによると、前田利長に豊臣家の織田長益と大野治長から、調練の依頼及び軍資金と兵糧の準備完了を報告する密書が送られており、利長は家康へ転送している。6月22日、徳川家康より且元と大野治長は、豊臣家が浪人を召し抱えて調練に励んでいるという風評への憂慮を告げられ、その一方でそれぞれ5千石の加増を受けたとしている。

江藤加賀右衛門(青木加賀右衛門・青木重直?)屋敷   近江国(安土) 

2016年12月10日 | 館跡

蒲生郡志には、案内板の縄張図には他に、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。

『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』に綴じ込まれている「大正4年11月測量の縄張図も安土城の全貌を知るのに役立ちます。

これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。

また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道 ” で詳しく紹介しています。

江藤加賀右衛門屋敷(青木加賀右衛門・青木重直?)
 安土城図江州安土古城図
安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町下豊浦   map:http://yahoo.jp/4xU3Op

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:江藤氏

現 状:現・安土城祉・山麓館跡 

遺 構:石垣・土塁・空堀・城道

目標地:安土城跡

訪城日:2015.6.13・2016.12.10

お城の概要

安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

お城の歴史

安土城が完成する前にあった「江藤氏屋形」

青木重直 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
 
 
青木重直
時代 戦国時代 - 江戸時代
生誕 享禄2年(1529年
死没 慶長18年11月21日1614年1月1日
改名 重直→浄憲(法名
別名 貞勝[要出典]通称:加賀右衛門(加賀右衛門尉)、刑部卿、法印
墓所 佛日寺[1]大阪府池田市
官位 刑部卿法印
主君 土岐頼芸斎藤道三義龍丹羽長秀豊臣秀吉
氏族 青木氏
父母 父:青木某
一重、女(小寺則頼[2]室)、重経[3](渥美重経)、直継[4]可直[5]

青木 重直(あおき しげなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

略歴

武蔵七党の一つ丹党の末で美濃国に流されたと称する青木氏の一族。ただし重直より前は、諸系図によって内容が異なり、確かではない。

初め土岐頼芸、次いで斎藤道三に仕えた。

『信長記』の一部によれば、永禄2年(1559年)に織田信長が初めて上洛した際に斎藤義龍の命令で信長の命を狙った刺客の一人だったという[6]

斎藤氏滅亡後は織田氏家臣の丹羽長秀に仕え、山崎の戦い賤ヶ岳の戦いに参加した[7]。後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。

文禄2年(1593年)10月17日、摂津国豊島郡のうちで1,400石を与えられ、文禄4年(1595年)9月21日、菟原郡で360石を加増された[8]。この後に剃髪して浄憲と称し、刑部卿法印に叙された。

慶長18年11月21日(1614年元旦)、大坂で死去した。享年86。

遺領は長男の一重が相続した。 

訪城日:2015.6.13・2016.12.10

     江藤屋敷の石垣  虎口 南曲輪の敷石 

安土城前掘

 

武藤屋敷の石垣  

江藤屋敷を東側から 江藤屋敷の北石垣 

 観音寺城遠景 

2015.6.13

 

 「安土城」と「江藤屋敷」の間の堀切

江藤屋敷の石垣      

空堀の安土城側石垣

 

空堀の江藤屋敷石垣 東側石垣(孕み崩落が激しいが)

 

  虎口(屋敷内から)  

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査・ウィキペディア(Wikipedia)、蒲生郡志

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安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した(伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物)

安土城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
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安土城
(滋賀県)
安土城大手道
安土城大手道
城郭構造 山城
天守構造 望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存)
築城主 織田信長
築城年 1576年(天正4年)
主な改修者 羽柴秀吉
主な城主 織田氏、明智氏
廃城年 1585年(天正13年)
遺構 天守台、曲輪、石垣、堀
指定文化財 国特別史跡
再建造物 一部の石垣・大手道石段・門跡
位    置 http://yahoo.jp/TCtQmZ

安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城である目加田(目賀田)支城があった。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。

この城を築城した目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。


桜生城出城  近江国(野洲)

2016年12月09日 | 平山城
  • 桜生出城です
  • 国道8号線脇の空き地に駐車し、城郭まで直登しました
  • 国道脇の埋もれ城郭です

 

お城のデータ

所在地 : 野洲郡野洲町小篠原  map:http://yahoo.jp/21rYc2

現 状:山林

区 分: 平山城(標高140m)

遺  構 : 曲輪・竪堀・腰郭・

築城者:澤弾正少弼清光

築城期:永禄年間

初城主:澤弾正少弼清光

標 高:140m 比高差40m

目標地:桜生史跡公園

駐車場:桜生史跡公園(国道沿い空きスペース)

訪城日 : 2013.11.22・2016.12.8

 

お城の概要

桜生(さくらばさま)城の北北東270m程の国道8号線沿い東側丘陵上に位置しており、東山道を見下ろすことが出来る。
細い東西方向の尾根上を削平し、東から西に三段の郭を連続させている。

東端に巨石があり城外の急斜面となるが、その先が土取りで破壊されており、堀切等の遮断施設の存否は不明。

なお、北東面に竪堀が入れられている。
全体的に遺構は、風化が進んでいるのが遺構は残る。

お城の歴史

桜生城の死角を補い街道監視の砦として機能していたと考えられているが、詳細については不明である。

桜生史跡公園の国道8号線添い(空きスペースに駐車し)

 

国道8号線を横断、の東側から入城した。

尾根まで、直登しました!

尾根頂部の出城

東側古墳の巨岩

下山します。

山麓館か?

 

大岩山古墳(日吉神社の裏山)

                出城の西山麓 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


夕日ヶ丘城(向山城) 近江国(野洲)

2016年12月08日 | 平山城

 

お城のデータ

別  名 : 向山城

所在地 : 野洲郡野洲町大篠原成橋 Yahoo!地図http://yahoo.jp/tQqeZ7

築城年 :文明年間(1469~87)

築城者: 田中四郎右衛門・奥左門守之」とあり

改築者:馬淵氏

形 式 : 平山城

標 高:146m   比高差:40m

遺  構 : 竪堀・櫓台・土塁・廓・竪堀・堀切

訪城日 : 2016.12.8

お城の概要

夕日ヶ丘城は、大篠原成橋集落の北西にある向山の夕日ヶ岡と呼ばれる三つのピークを持つ独立丘陵の中央ピーク上に位置している。周辺には、星ヶ崎城、小堤城山城、上永原城などが2~3km程の距離で所在している。

 中央ピークの東側鞍部から西に向け登って行くと、山頂部が北に張り出た所に取り付く。その斜面には、この城の見所である畝状竪堀が設けられており、竪堀の間を抜け不明瞭な堀切を経て、北東の郭に入る。北東側の中央には、方形土壇が築かれており、櫓が設けてあったと思われ、北東や南東の郭をはじめ四方への睨みを利かせている。北東土壇と中央土壇の間には、四方を土壇と土塁で囲繞された郭、中央土壇の南西側に削平地、その北西側一段下に腰郭、南西端が墳丘の土壇となっている。墳丘土壇の西側鞍部は堀切で遮断している。

いずれの遺構も不明瞭であるが、織田信長軍の破城を受けたのではないかとされている

歴   史

「鏡山の西入日岡ニ城ヲ築キ 田中四郎右衛門・奥左門守 之」とあり、これは大篠原字向山の向山城(従来夕日ヶ丘城等と呼んだ)であり、また、古絵図には「入日岡 田所殿屋敷跡」と記されている(大篠原共有文書)が、詳細については不明である。

六角佐々木氏重臣馬淵氏の城と伝わる

馬淵氏は、佐々木定綱の五男定広にはじまるが、夕日ヶ丘城がいつごろ築かれたのかは明らかでない。

馬淵氏は、南北朝時代には野洲郡の郡奉行に任じられており、古くから篠原周辺に勢力をもっていた。夕日ヶ丘の名は、南東2㎞ほどのところにある、向山城の別称入日ヶ岡城に関連したものとも推測される。向山城は文明年間(1469~87)の築城とされているため、夕日ヶ丘城もその前後に築かれたものとも推測される。

  山麓の向山神社は、永正四年(1507)に馬淵山城守宗綱によって再建されたと伝わるため、このころまでには、城も築かれていたのではないかと考えられる。

 宗綱の娘は、蒲生定秀に嫁いだとされる。宗綱は、永禄十一年(1568)の信長上洛戦で戦死したとされているが、定秀の生年を考えると、不可能ではないが相当な高齢で戦に臨んだものとみられる。

宗綱とその子兵部少輔建綱は、永禄十年(1567)の「六角氏式目」に連署している。           

式目が制定されるきっかけとなった同六年(1563)の観音寺騒動では、元家臣の在地領主永原氏が六角氏に抵抗し、「篠原上の城」と同「下の城」に立て籠もった。六角義賢は、永原氏制圧のために星ヶ崎城へ入ったが、このときの馬淵氏の動向については詳らかでない。

一説には、馬淵父子も離反したともいわれるが、いずれの側にあっても、夕日ヶ丘城は前線の城の1つとなったものと推測される。
 

 信長上洛後の夕日ヶ丘城および馬淵氏については詳らかでない。

『日本城郭大系』には、元亀元年(1570)に馬淵甲斐守秀信が弥勒寺城や岩倉城に拠って信長に抵抗したものの、敗れて滅ぼされたとある。

このときまで夕日ヶ丘城が存続していたのか、城で戦闘があったのかなど、詳細は不明である。

 

鉄塔から三上山

北側畝状竪堀(シダで良く解らないが)

主郭部の郭(平削地)と低土塁

 曲輪の削平状態は良いとはいえず、城域の判断は難しいが、南北に延びる北尾根に2本、南尾根に1本ある堀切が城域の北限と南限か。その他に竪堀が3本確認できる。(古墳上の築城なので、又近世ハイキングコースや里山整備の実施され改変されたカ?)

東側竪堀物見櫓か(古墳か?)

十八号古墳

明治期の村誌に「馬淵氏の倉庫なり。今猶紅腐の米あり。」と記されているそうです。

堀切

駐車場可


 参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、淡海の城、日本城郭体系

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笠川城 近江国(栗東)

2016年12月06日 | 平城

お城のデータ

所在地:栗東市笠川  map:http://yahoo.jp/H4EBr6

現 状:宅地

区 分:平城

築城期:

築城者:笠川氏

城 主:笠川氏

遺 構:新興住宅で破却か?不明

標 高:95m

目標地:八幡神社

駐車場:笠川自治会館or路上駐車

訪城日:2016.12.3

お城の概要

『滋賀県城郭分布調査3』、「集落北西端の薮が微高地となっており、川沿いに土塁状の遺構も存在するが城館の土塁とは判断できない。ここで殿様が、御旅所の八幡神社へ来る大宝神社の祭りを見物したという伝承がある。

なお『近江栗太郡志』は、村の北端の「今田となる」地を「殿屋敷」と称するとしている。」 

お城の歴史

笠川氏代々の居城。(かさがわ)と読む。古代この地に蟠踞した豪族の笠氏による。
築城時期など、詳細は一切不明。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査3(野洲・栗太郡の城)・栗太郡志・遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございす!!


井伊直虎と謎の超名門『井伊家』

2016年12月04日 | 番外編

来年大河ドラマの予習本!「井伊直虎と謎の超名門『井伊家』」

=歴史作家の第一人者迫る=

◇全県
 「浅井三姉妹の戦国日記」がかつて話題となった八幡和郎・衣代夫妻の共著で来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」を題材にした「井伊直虎と謎の超名門『井伊家』」(講談社+α文庫)=本体七百八十円=が刊行された。
 どうして、有力戦国大名でも三河以来の徳川譜代でもない井伊家が、重んじられたかは、謎となっている。その謎を解く鍵のひとつが、藩祖で徳川四天王の一人である井伊直政の養母というべき井伊直虎(次郎法師)で、NHKの大河ドラマ(2017年)の主人公。
 直虎は、信長・秀吉・家康とほぼ同世代の女性で、亡くなったのは、井伊直政が徳川四天王の一人として頭角を現したのを見届けたのち、本能寺の変の直後である。

 このため、彦根がドラマの舞台として出てくることはないようだが、井伊直弼が登場して先祖である直虎のことを語るというような噂もあり、いろんな形で彦根藩主としての井伊家も登場しそうだ。

 本書では、井伊家の発祥、直虎のこと、そして彦根藩についての全体像を様々な視点から紹介している。
 内容は、

▽「井伊直虎は信長・秀吉と同世代人」

▽「井伊家は徳川家より名門か」

▽「次郎法師直虎と井伊直政の時代~青春篇」

▽「築山殿は井伊家出身か?」

▽「井伊直政とその養母としての直虎」

▽「『小さな政府』でまずまずの善政」

▽「幕府に井伊大老の仕事を否定され新政府側に」

▽「日本一の城下町彦根と彦根藩領だった世田谷区」など。

■滋賀報知新聞 平成28年12月1日(木) 第17668号