東野山陣城 現地見学会(ウッデイパル城郭フオーラム)
日 時 2014年11月29日(土)見学時間帯10:00〜16:00
内 容 菖蒲谷陣城 東野山陣城見学
講 師 長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)
森林文化センターで、解説・講義
特製弁当で昼食
城郭フオーラムリポート
名人掘久太郎秀政の東野山は天正11年賎ケ岳合戦で羽柴秀吉の先方を守る優秀なエリート青年武将でした。あの猛将柴田勝家の南下を防いだ。城郭史において特筆されるべき、平面構造を備えた高度な縄張です。午前中は森林文化センターで講演の後に特性弁当を食べ、フォーラムらしい学習会を展開。
午後にはは雨が止んで、見事な東野山城、菖蒲谷城を見学する事が出来ました。
特に女性の方が熱心に勉強されて素晴らしい躍進です。草刈り作業の方々のお陰で見事な構造の城址を見学出来ました。 講師 長谷川博美
東野地区にある体育館裏手より山に向かって伸びる林道を進んだ先に東野山砦へ
バスで、現地(頂上近くまで)
お城のデータ
所在地:伊香郡余呉町東野 map:http://yahoo.jp/2sIxM6
別 名:実山砦,左禰山砦
築城者:東野備前守一族
改築者:堀久太郎秀政
初城主:東野備前守一族
陣 将:堀久太郎秀政
区 分 :山城
遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀
城 域:250m×150m
標 高:407m 比高差260m
市指定史跡
訪城日:2014.11.29
お城の概要
東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。
この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。
天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。
東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!
東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。
中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山、別所山を真正面に望むことができる。
滋賀県中世城郭分布調査資料によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。
南側には竪堀が麓まで続いているのだが・・・・。
余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書「長浜城歴史博物館蔵」
賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け
長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。
自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている。同博物館が京都市内の古美術商から購入した。
賤ケ岳合戦は長浜市北部の余呉湖周辺で展開され、秀吉が同じ織田信長家臣の柴田勝家を破って天下人へ踏み出した戦い。秀吉の7人の部下「七本槍(やり)」の活躍で知られる。
お城の歴史
黒田官兵衛も謫陣していた。
東野山砦は別名実山砦(さねやまとりで)とも称し、京極氏や浅井氏が湖北に君臨していた頃より、その支配下にあった豪族東野備前守一族の居城のあったところである。
天正 11年(1583)の賤ヶ岳の合戦には、羽柴秀吉方の勇将で佐和山城主であった堀秀政がここに砦を築き、行市山に陣する柴田勝家方の佐久間盛政と対陣した。
堀秀政は、ここを拠点として北国街道を南下しようとする柴田勝家軍を牽制することで秀吉軍の勝利に貢献した。
現在残っている遺構は、豪族東野氏の構築したものではなく、賤ヶ岳合戦に堀秀政が改築したものと考えられる。
菖蒲谷砦
堀切・土橋
下山・・・林道へ
北陸自動車道の陸橋上に、迎えのバスが
参考資料:城郭フォーラムレジュメ、現地説明板
本日も訪問、ありがとうございました。