城郭探訪

yamaziro

東野山砦=陣城(実山砦=左禰山砦) 近江国(余呉)

2014年11月30日 | 陣城

東野山陣城 現地見学会(ウッデイパル城郭フオーラム)

日 時   2014年11月29日(土)見学時間帯10:00〜16:00
内 容   菖蒲谷陣城 東野山陣城見学                                                              

講 師   長谷川博美氏 (愛知中世城郭研究会)

 

森林文化センターで、解説・講義

 

特製弁当で昼食

 城郭フオーラムリポート                                                                                                                                               

名人掘久太郎秀政の東野山は天正11年賎ケ岳合戦で羽柴秀吉の先方を守る優秀なエリート青年武将でした。あの猛将柴田勝家の南下を防いだ。城郭史において特筆されるべき、平面構造を備えた高度な縄張です。午前中は森林文化センターで講演の後に特性弁当を食べ、フォーラムらしい学習会を展開。

午後にはは雨が止んで、見事な東野山城、菖蒲谷城を見学する事が出来ました。

特に女性の方が熱心に勉強されて素晴らしい躍進です。草刈り作業の方々のお陰で見事な構造の城址を見学出来ました。     講師 長谷川博美

 

東野地区にある体育館裏手より山に向かって伸びる林道を進んだ先に東野山砦へ

バスで、現地(頂上近くまで)

お城のデータ

所在地:伊香郡余呉町東野  map:http://yahoo.jp/2sIxM6

別 名:実山砦,左禰山砦

築城者:東野備前守一族 

改築者:堀久太郎秀政

初城主:東野備前守一族

陣 将:堀久太郎秀政

区 分 :山城

遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀

城  域:250m×150m

標 高:407m    比高差260m

市指定史跡

訪城日:2014.11.29

お城の概要

東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。

 この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。

 東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!

 東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。

 中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
 また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山、別所山を真正面に望むことができる。

 滋賀県中世城郭分布調査資料によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。

 南側には竪堀が麓まで続いているのだが・・・・。

 余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。

  

黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書「長浜城歴史博物館蔵」

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている。同博物館が京都市内の古美術商から購入した。

 賤ケ岳合戦は長浜市北部の余呉湖周辺で展開され、秀吉が同じ織田信長家臣の柴田勝家を破って天下人へ踏み出した戦い。秀吉の7人の部下「七本槍(やり)」の活躍で知られる。

 

お城の歴史

黒田官兵衛も謫陣していた。

東野山砦は別名実山砦(さねやまとりで)とも称し、京極氏や浅井氏が湖北に君臨していた頃より、その支配下にあった豪族東野備前守一族の居城のあったところである。

 天正 11年(1583)の賤ヶ岳の合戦には、羽柴秀吉方の勇将で佐和山城主であった堀秀政がここに砦を築き、行市山に陣する柴田勝家方の佐久間盛政と対陣した。

堀秀政は、ここを拠点として北国街道を南下しようとする柴田勝家軍を牽制することで秀吉軍の勝利に貢献した。

  現在残っている遺構は、豪族東野氏の構築したものではなく、賤ヶ岳合戦に堀秀政が改築したものと考えられる。

 

菖蒲谷砦

堀切・土橋

下山・・・林道へ

北陸自動車道の陸橋上に、迎えのバスが  

 参考資料:城郭フォーラムレジュメ、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


【全国城郭サミットin彦根】に参加しました! 

2014年11月29日 | 講座

城の魅力、まちづくりに 滋賀・彦根で全国サミット

                                          ・・・・京都新聞より

城や城郭がある自治体の関係者らが参加した全国城サミット(彦根市・滋賀大講堂)

 

  城と城下町の持つ魅力を再発見する「全国城サミットin彦根」のシンポジウムが28日、滋賀県彦根市馬場1丁目の滋賀大で開かれた。城や城郭がある1都2府19県から約270人が参加し、城を生かしたまちづくりを議論した。

■整備や遺産登録議論

 開会式では、主催団体を代表して大久保貴彦根市長が「彦根城はまちの顔、シンボル。城のたたずむ意味を考えるのが重要」とあいさつした。

 シンポジウムでは、元NHKアナウンサー松平定知さんが彦根城について「工期短縮とコスト削減を考え、大津城や長浜城、小谷城、佐和山城の建物を利用したが、とてもきれいな城になり、西の要として極めて重要な役割を担った」と話した。

 このあと、分科会に分かれ、「城郭整備」「世界遺産」「まちづくり」のテーマごとに4人の専門家が加わり、意見を交わした。

 同サミットは、昨年6月に福島県会津若松市で初めて開かれて以来2回目。来年は岐阜県大垣市で開催する。

 今回の関連イベントとして30日午後2時から彦根城大手前保存用地(旧近江高跡地)で流鏑馬(やぶさめ)などが披露される。

彦根城(国立滋賀大学)

会場の滋賀大学経済学部講堂

主催市彦根市長の挨拶

会津若松市

基調講演 【一城一話】~彦根城~ 講師 松平定知 氏

 松平定知 氏の紹介

 京都造形芸術大学教授・国学院大学客員教授 元・NHK理事待遇アナウンサー
 NHKの番組に多数出演。退職後も2009年3月まで「その時歴史が動いた」を、現在は、NHK・TV「世界遺産100シリーズ」を放送中。

松平定知さんが、彦根城について「工期短縮とコスト削減を考え、大津城や長浜城、小谷城、佐和山城の建物を利用したが、とてもきれいな城になり、西の要として極めて重要な役割を担った」と話した。

次回開催の大垣市に引き継がれた!

休憩後、分科会へ

 分科会に分かれ、「城郭整備」「世界遺産」「まちづくり」のテーマごとに4人の専門家が加わり、意見を交わした。

分科会「城郭整備」に参加しました。

仙台城(青葉城)の報告

福岡城の報告

津軽氏 弘前城の報告

パネル ディスカッション

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


松原城(旧彦根藩松原下屋敷・お浜御殿) 近江国 (彦根)

2014年11月29日 | 居城

お城のデータ

所在地:彦根市松原町515

お城の概要

「お浜御殿」と呼ばれる「旧彦根藩松原下屋敷」は、彦根藩11代当主井伊直中によって文化7年(1810)頃に琵琶湖畔に改築・造営された下屋敷。井伊家が内々で使用していた屋敷で、彦根の井伊家の居宅となっていた。

 総敷地面積約2万1000㎡。現在は国の名勝に指定され、奥座敷棟、台所棟などが残る。敷地の半分を占める庭園は、優れた造園技術を駆使した江戸時代を代表する大名庭園で、琵琶湖の水位の変化に応じて水が満ち引きする汐入[しおいり]形式の池は、淡水を利用した汐入形式の池としては日本唯一。西側は洲浜[すはま]が穏やかに広がり、東側には築山に石燈籠や石組が配され趣がある

歴 史 

松原氏の居城。松原氏は近江中原氏の一族で、代々六角氏に属してきた。

松原氏の本城は磯山城とされるが、松原城は磯山城の居館とも考えられ、佐和山城の支城として機能。浅井氏の重臣・磯野員昌が佐和山城に入城した1561年には、浅井氏に属していたとされる。

江戸末期に彦根藩の下屋敷が建ち、『松原下屋敷(お浜御殿)』として現存する。

名勝「旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園」は、11代当主井伊直中により文化7年(1810)ころに琵琶湖畔に造営された下屋敷で、もうひとつの国指定名勝の玄宮楽々園とは立地も趣も異なる大名庭園です。

 琵琶湖の水を直接取り入れていた数少ない汐入形式の庭園で、池と緩やかな起伏によって造営された伸びやかな回遊式庭園でもあり、江戸期を代表する大名庭園として貴重であるため平成14年3月に国の名勝に指定され、その後、平成15年度から公有化を進め、平成24年度に完了しました。今後、国の補助と指導を得ながら、庭園や歴史的建造物の保存修理を実施し、一般公開を図っていく予定です。

 本庭園は、彦根市民の大切な宝であり、新たな観光資源でもあります。そこで、いまだ整備の途中ですが、紅葉の季節の観光シーズンにあわせて皆さんに特別に公開します。
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー 、彦根市

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高島市「大溝の水辺景観」国の重要文化的景観に選定

2014年11月28日 | 探訪「近江水の宝」

=中近世の城下町と巧みな水利用=                                  

 乙女池(左)周辺地域と琵琶湖

◇高島
 中・近世に遡る大溝城及びその城下町のたたずまいを残す「大溝の水辺景観」(高島市)が、国の重要文化的景観に選定された。今回の選定により県内の重要文化的景観は六件となる。
 大溝は琵琶湖北西岸にある集落で、集落南部には湖岸砂州によって琵琶湖と隔てられる内湖・乙女が池が広がる。景観を構成する主な要素は、(1)城の内堀や水とともに暮らす生活習慣を今も伝える乙女が池と打下(うちおろし)集落(2)織田信長の甥・信澄によって築かれ、その後廃城となった大溝城跡(3)旧城下地区の道路中央を流れる「町割り水路」(4)大溝藩主・分部氏の陣屋の総門―の四点。

 

陣屋があった大溝城跡

 大溝城は天正六年(一五七八)の築城。天守は早い段階で移築され、現在は天守台の石垣のみ残る。安土城や長浜城と同様、内湖を堀として利用し、現在でも水堀の景観を残しているのは、大溝城跡のみである。さらに信澄は城下町を建設するほか、乙女が池東側の砂州上に立地する打下地区に水軍を配置した。
 徳川時代の元和五年(一六一九)、大溝藩主として入った分部氏は、陣屋を城跡に置くとともに、かつての城下町に武家地と町人地を整備し、境界に総門を設けた。町人地の通り中央には、町割り水路が設けられ、かつては洗い場など生活用水として利用された。
 また、城下町では古式上水道が今も利用され、乙女が池と琵琶湖に挟まれた砂州上にある打下地区では、高波・浸水防止のため築かれた石垣が独自の景観を形成し、水とともに暮らす生活を今に伝える。

 町割り水路が残る城下町

滋賀報知新聞

 


小島城(児島城)  近江国(守山)

2014年11月27日 | 平城

お城のデータ

所在地:守山市小島町1571   maphttp://yahoo.jp/b0kOZ5

別 名:児島城

現 状:天満宮・集落

区 分:平

標 高:84m 比高差:0m

遺 構:土塁・空堀・説明板

築城期: 戦国期

築城者:児島高徳

城 主:児島高徳・児島重範

目 標:天満宮

駐車場:天満宮・小島公民館駐車場

訪城日:2014.11.27

 

お城の概要

 小島天満宮に神社の縁起を記した石碑があり、ここに小島城についてもかなり詳しく触れられています。

小島城については、滋賀県安土城郭調査研究所発行の『淡海の城』で「現況不明」とされていますが、私が見たところかなり遺構のはっきりしている城です。小島天満宮の南辺に明確な土塁があり、境内との差は1メートルないくらいですが、外側との比高差は4メートルほどはあるかなり立派なものです。

社伝によれば、高徳が社殿とともに社地の西に池を掘ったとされていますが、あるいはこの土塁の外側に堀を兼ねて穿ったものかもしれません。

  

歴 史

 天満宮の門前から集落の北そして西へと、半円状に水路が走っています。『守山城物語』に掲載されている地籍図によれば、この水路の内側に「堂ノ後」「木戸」といった小字が、水路の外側に「墓ノ垣ト」「正三垣ト」「ヒタチ垣ト」といった小字が見受けられます。これらの「垣ト」とは、「垣外」すなわち城外を指すものと考えられ、この水路が小島城の外濠であったものと推測されます。天満宮の南には、土塁に沿った直線状の水路があり、これが当時のままであれば、城はかまぼこ型を、そうでなければ円形に近い構造をしていたものと思われます。

 城主についてですが、児島高徳が築いたとするのはさすがに無理があるように思われます。 ただ、社伝によれば天満宮造営以前は杉和賀村と呼ばれていたということから、高徳の一族がこの地に住して一帯も小島と呼ばれるようになったと考えることは可能かと思われます。史料上の裏付けはできませんが、小島氏(児島氏)という在地領主がいて小島城がその居城であった。

小島天満宮一帯が城跡と伝わる。天満宮の社伝によると、嘉暦元年(1326)に児島高徳が社殿を造営したとされる。ただ、高徳は備前国の国人であり、元弘二年(1332)の後醍醐天皇の決起をきっかけに世に出た人物である。嘉暦元年の時点では高徳が近江に神社を造営する。

さらに天満宮には、児島高徳の子孫の児島重範なる人物が元亀元年(1570)に植えた杉があったと伝わる。

史料上は存在の確認できない人物、詳細は不明。

駐車位置向かいの池

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、守山城物語  

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播磨田城(田中館)  近江国(守山)

2014年11月27日 | 平城

 

城のデータ

所在地:滋賀県守山市播磨田町   maphttp://yahoo.jp/S-TvFV

別 名 :田中館

現 状:八太神社・田地・宅地

区 分:平

標 高:84m 比高差:0m

遺 構:曲郭・土塁・空堀

築城期:室町期

築城者:田中荘司

城 主:田中荘司

目 標:八太神社

駐車場:八太神社東側駐車場

訪城日:2014.11.27

 

お城の概要

 播磨田城は、播磨田地区にある八太神社東側の水田から東側の宅地一帯に築かれていた。 

発掘調査の結果、室町時代の遺跡であると確認されている。播磨田町は、近くに幹線道路が走っているため宅地化・市街地化が進んでいますが、播磨田城址一帯は、宅地化で露出遺構は田地の一部を残して、新興住宅地に平成22年に消失した。

 小字古城と呼ばれた住宅地の一画に、土塁の痕跡と思しき土盛りが残っていた。また、古城と八太神社の間の田地は、北を除く三方を土塁状の畦と堀状の水路が巡っており、城郭遺構も消失。この部分は、北にもう少し広い方形に近い曲輪であったと推測され、先の字古城の土塁と合わせると、最低2つの曲輪をもった城であったが。

水田と民家の間に土塁が残存していた、お城。
 城の遺構は、水田と民家の間には低いが土塁が残存していた。                                                           また、資料によれば東側の住宅地にも土塁が残存しているようだが、民家敷地内で確認することは出来なかった。

歴 史

播磨田城は、築城年代は定かでないが500~600年前の室町期、佐々木氏の家臣田中氏によって築かれた。 

八太神社の東に小字古城と呼ばれる場所があり、土塁の痕跡が見受けられる。『近江輿地志略』によれば、播磨田村には田中荘司と称する佐々木氏家士の屋舗があり、田中荘司は播磨田のほか吉身、守山、金ヶ森、市三宅に所領をもっていたとある。播磨田城はこの田中荘司の城館と推測されるが、詳細は不明である。

 播磨田町にはこの他に田中館という城館名が伝わっているが、田中荘司の館という意味で播磨田城と同じものを指すと、滋賀県安土城郭調査研究所発行の『淡海の城』などでは推定している。

 

 

延命地蔵横・・に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、守山城物語  

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播磨田城遺跡発掘調査報告 2010年-守山市

  宅地造成前・・・平成22年には、土塁・堀・曲郭跡が残存!

播磨田町字宮前地先で、分譲住宅用地造成工事に伴い、約515 ㎡を対象に、平成22 年6 月24 日から同年8月10 日までの期間をもって発掘調査を実施しました。

http://www.city.moriyama.lg.jp/maizobunkazai/documents/maibuncenter_8_03.pdf


文化財の撮影方法学ぶ 安土城考古博でアドバイス

2014年11月25日 | 講座

文化財の撮影方法学ぶ 安土城考古博でアドバイス

寿福さん(左)のライティングの説明を聞きながら、シャッターを切る参加者=近江八幡市安土町下豊浦・安土城考古博物館 

安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)で24日、文化財や美術を専門とする写真家、寿福滋さんを講師に招き、仏像など文化財の撮影方法を学ぶワークショップが開かれた。

 約20人が参加し、寿福さんが事前に撮影した写真を使いながら、レンズの特性や光りの特徴などを講義した。

 続いて、鎌倉時代ごろの毘沙門天像を題材にした撮影会を行い、寿福さんが作品を講評した。寿福さんはライトの位置を変えながら「思いを表現するなら極端なライティングがいい」「もっと前へ肉薄して」などとアドバイスし、参加者は耳を傾けながら熱心にシャッターを切っていた。

 同市小船木町から参加した上垣香織さん(37)は「光りの当て方によって仏像の印象が変わった」と話していた。(京都新聞)

京都新聞の江夏順平記者(イケメン?)

安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)・・・館内

中庭

安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)

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梅戸城 伊勢国(大安町)

2014年11月25日 | 丘陵城

梅戸城

お城のデータ

所在地:いなべ市大安町門前字天水   maphttp://yahoo.jp/6tp7SA

現 状:光蓮寺山公園・山林

区 分:丘城

標 高:84m 比高差:40m

遺 構:曲輪・土塁・空堀・石碑・説明板

築城期: 戦国期

築城者:春日部左衛門太夫  改築者:梅戸左衛門高実(高貫)

城 主:梅戸左衛門高実(高貫)・次男:実秀

目 標:光蓮寺

駐車場:光蓮寺駐車場

訪城日:2014.11.23


 

お城の概要

梅戸城は、光蓮寺山標高84mの東部先端に築かれていた。現在光蓮寺山西部には工場が建ち幹線道路が走っていて、そちら側からの梅戸城は、比高差のない平城のように見える。しかし東側から望むと、高い丘陵地の天然の要害だ。

主郭部には石碑が建ち、光蓮寺山公園として一旦は整備されたようだが、その後放置されている。遺構の確認は困難だが、主郭部には土塁がめぐり、比高差のない西側は空堀で防備されていた。

西側にはNTTの鉄塔や畑地、公園化などにより破壊された部分も多く、全貌が把握しづらい状態だ。

 梅戸城は梅戸高実の墓所である光蓮寺の西の丘陵に築かれており、現在は光蓮寺山公園として整備されている。

 現在公園の石碑が建ち三角点のある所が一段高く土塁のようである。その背後は堀切はなく無線中継施設や畑などとなって平たい土地が続いている。三角点のある所から南に向かって曲輪があり、周囲には土塁が残っている。もう一段南に小郭がある。堀切が残っているとされる。

 長谷川博美氏(中世城郭研究家)墓前で手書き!見事であった。

歴 史

 城主梅戸氏は、国人田光氏の末裔で、北伊勢四十八家の一つ、付近にかなりの勢力を誇っていた。近江と北伊勢を結ぶ八風街道を押さえていた梅戸氏に目をつけた近江守護六角高頼は、四男・高実(高貫)を養子として送り込んだ。

 高実は近江国佐々木六角氏の六角高頼の四男で梅戸氏の養子となり家督を継いだ。伊勢国桑名から近江国八幡に通じる八風街道一帯を領した梅戸氏は、通行税徴収のために梅戸城を築いたとされる。

永禄4年(1561)高実が死亡し、次男・実秀が跡目を継いだが、永禄11年(1568)織田信長の北勢侵攻により滅ぼされた。

梅戸高実

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 梅戸 高実(うめど たかざね、 文亀2年(1502年)- 永禄4年(1561年))は、戦国時代の武将。六角高頼の子で梅戸氏に養子に入る。

梅戸氏は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である高実を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

後に梅戸城(現・三重県いなべ市大安町門前字天水。光蓮寺山公園として整備されている)を築城する。高実の死後は次男の実秀が家督を継いだが、1568年に織田信長に攻められて滅亡している。

 

光蓮寺から登ってもいいですが、西側からハイキングコース(林道)が通じている。 

主郭に薄く残る土塁

城址公園碑・説明板三角点主郭南東部の切岸と空堀?曲郭Ⅱ・・・主郭の間に近世の切通し(林道)曲郭Ⅱの土塁で囲う。梅戸城(遠景)駐車場

本堂の裏に墓碑が。

ご住職の御好意で案内して頂きました。

宝篋印塔享禄・天文(1528~54)の頃、笠間郷を管理していた春日部左衛門太夫の居城が、光蓮寺後方の丘陵にあったが、朝明郡田光を領していた梅戸高実により滅ぼされ、以後梅戸氏の居城となって梅戸城と称された。高実は近江の佐々木高頼(六角氏)の四男で、梅戸家を継ぎ、左近太夫に任ぜられた。

 


 この地は伊勢湾を一望でき、さらに寺から約200メートルの雑木林の中に「史蹟八風街道番所趾」碑があるように、桑名と近江日野を結ぶ八風街道が通過する地点で、通行税徴収の権利を手に入れるため、春日部氏を滅ぼして田光城の支城としたものである。

 その子高宗は天文23年(1554)に他界しており、次男の高秀が後を継いたが、永禄11年(1568)織田信長の伊勢平定の戦いの際に戦死し、梅戸城も落城した。この時、高実は逃れて伊勢長島城に入り、一向宗とを率いて織田軍と戦い、天正3年(1575)一揆が平定された後、千草氏などと共に長島において切腹を命ぜられ、その生涯を閉じた。


 光蓮寺の本堂裏にある石組みの塚の上に、数基の宝篋印塔(の部分)が五輪塔群と共に祀られており、台上中央にある相輪・笠・基礎・基礎の部位で出来た総高180センチほどの宝篋印塔は梅戸高実の墓と伝えられている。

中央の宝篋印塔の笠と最下部の基礎は同一の塔のもので、この中では一番古く14世紀末、中段の基礎は15世紀中頃、相輪はそれよりやや後と思われる。この塔の左右にある小形の笠1・塔身1・基礎5を含めて、これらの宝篋印塔の造立は、応永頃から永正頃(15世紀~16世紀中頃)のものと思われ、この宝篋印塔を梅戸氏の墓とするに「矛盾しない」とのことである。

長谷川博美氏(中世城郭研究家)墓前で梅戸城概要頭を手書き!見事であった。

ご住職の御好意で本堂へ

木造薬師如来坐像【光蓮寺】とても、綺麗な

 光蓮寺の本尊。昭和54年に県文化財の指定を受けた木造の坐像。
平安後期に作られたと伝わっています。作者は、不明とも行基とも。

桧材寄木作で、彫眼。像の高さは89.4cmの結跏趺座(けっかふざ;座禅の時の座り方)で、円満安産の相です。

 衣文の彫りは浅く流れるような線で彫られています。肉髻珠(にくけいしゅ;仏頭ともいい、頭にあるぼこぼこした部分のこと。二段になっている)や、百豪(びゃくごう;眉間にある光を放つ珠玉のこと)は水晶が使われています。顔は丸顔で温和。平安朝様式をよく伝えています。台座は後の時代に補われました。

臨済宗妙心寺派笹笠間山光蓮寺は、天平8年(736年)僧 行基の開祖と伝わっています。

秀吉の掟書き「禁制」山岡撤収の書

参考資料:現地説明板・城祉碑 ・ご住職の説明・Wikipedia

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


北金井城(金井城) 伊勢国(員弁町)

2014年11月24日 | 丘陵城

お城のデータ

 所在地:いなべ市員弁町北金井亀谷   map: http://yahoo.jp/zCcekZ

別 名:金井城

現 状:雑木林

区 分:丘城

標 高:65m 比高差:10m

築城期:織豊期

遺 構:空堀・土塁・土橋・石碑・説明板

築城者:種付大蔵大夫高盛

城 主:種付大蔵大夫高盛・種村弾正左衛門秀政・種村千代次秀信

目 標:員弁町西方の円願寺・円頓寺・西宮稲荷

市指定史跡

駐車場:員弁町西方の円願寺駐車場

訪城日:2014.11.23

お城の概要

先の道を下ってしまったら、降りたすぐに「西宮稲荷」があり、道沿いそこから50m先に切通しのような細い道があり、徒歩でそこに入りすぐ左側に直登10m、主郭の奥<主郭先端の土塁に出ます。

 案内板のある方から入りますと両サイドにまずは大きな空堀、それを渡り、平虎口を抜けて主郭に入ります。主郭は四方を高い土塁が巡り、城内は100m×60mほどでかなり大きい。 

北金井城は員弁川の河岸丘陵に築かれている。本丸は河岸丘陵に面し、(北に二ノ曲郭、南に三ノ曲郭があったが)現在は主郭遺構が良好に残存。

主郭は周囲に高土塁が巡り、北に土橋の架かった虎口が開く。土橋に面して東西隅部は北に張り出し横矢を掛けている。

虎口はもう一つ西側に開いている。

虎口長谷川博美氏(中世城郭研究家)現場で手書き!見事であった。

歴 史

築城年代は定かではないが永正2(1505年)頃に種付大蔵大夫高盛によって築かれたと云われる。 種付氏は近江国神崎郡種付郷発祥で、種付高盛は近江国佐々木六角氏の一族六角高成の孫にあたる。

大永2年(1522年)美濃国土岐大膳大夫道誉が北伊勢に侵攻し金井城を攻めた時、周辺の諸豪族は連合してこれに立ち向かい平古野で土岐軍を撃ち敗り、土岐道誉は自刃して果てた。

天文元年(1532年)には道誉の子、土岐掃部助が弔い合戦として金井城へ攻め寄せたが、この時も周辺の諸豪族が連合して戦い伏兵をもって撃ち敗り、土岐掃部助は討死した。

永禄11年(1568年)北伊勢に侵攻した織田信長に降伏した。元亀3年(1572年)に種付高盛は没し四男種付弾正左衛門秀政、さらにその長子種付千代次秀信が家督を継いだ。

天正4年(1576年)秀信は滝川一益に長島城へ出頭するよう命ぜられ謀殺された。

この地方、梅戸城・田光城なども含め城主は近江佐々木氏一族です

大永二年(1505年)に種村大蔵大夫高盛によって築かれたとされます。高盛は江州佐々木氏六角氏頼の末孫で江州神崎郡種村郷の居住したもので種村氏と称したとされます。永禄十一年(1568年)、織田信長侵攻時に抗戦しましたが降伏し信長の支配下となりました。高盛(永禄三年(1572年)88歳で没)の四男の種村弾正左衛門秀政の嫡男の種村千代次秀信が跡を継ぎますが、天正四年(1576年)、秀信は、滝川一益から心変わりしたものと疑われ、伊勢長島城に呼び寄せられ自決して果てました。残った家人は城を焼き皆離散したとされます。 (現地案内板より)

ここから切通し状の林道へ

稲荷社

中ほど、獣道状を直登

北金井城址碑

虎口空堀と土橋

土橋と空堀説明版

道案内  

員弁町西方の円願寺を目指す。円願寺の北側の道を西へ進むと橋本縫製があり、そこを南へ曲って突き当たりまで行くと駐車場がある。

参考資料:現地説明板・城祉碑  

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


伊坂城 伊勢国(四日市)

2014年11月24日 | 戦国山城

 

城のデータ

 所在地:四日市市伊坂町古屋敷  map: http://yahoo.jp/1OCG8a

別 名:西ノ広城

区 分:丘城

標 高:98m 比高差:30m

築城期:室町期

遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀切道・家臣団屋敷遺構

築城者:春日部太郎左衛門尉

城 主: 春日部太郎左衛門尉

目 標:伊坂ダム 

駐車場:伊坂ダム駐車場

訪城日:2014.11.23

南端の土塁部に林道が通る伊坂ダム湖(駐車場に駐車)

登城案内

伊坂ダムへ向かい上り坂を上がる~約700m先突当り右折南東方向~すぐ左手駐車場。徒歩道順:駐車場から南東へ進む~すぐ左手農道を下る~一旦下り、田畑が開けてすぐ登り坂を登りきると城域南端の土塁が現れ、左手に赤い杭があり、そこから入山(駐車場から約200m先) 大手道と土塁大手道より、堀切へ

お城の概要

 伊坂城は、朝明川の北側標高98mの細い丘陵地に築かれていた。現在は西側に伊坂ダム、南東側に東名阪道が通り、近年東側寸前まで宅地造成され伊坂台団地が迫っている。

 南端の土塁はそれに沿って林道となっていて、低く削られてしまったように見える。その土塁付近から主郭に向かって城道が走り、その両側には地形を利用し階段状に曲輪が連続している。
城道は中程で直角に曲がり堀底道となる。その南側が最高所で、約15m四方の手狭な物見台(釣鐘堂跡?)がある。そして物見台から堀切を挟んで北側が主郭で、虎口は内枡形である。

約60m×50mの四方を土塁で囲んだ主郭、主郭を北側に下ると、横並びに6ヶの小さい曲輪が並ぶ。主郭西側下段の腰曲輪には井戸が残っていた。
城域は木々に覆われ、陽が当たらず北勢地方でも有数の見応えのある城だった。

また、この城山以外にも東方の東名阪道や団地付近が近年発掘調査され、屋敷や城道遺構が確認されたそうだ。これを含めると伊坂城は相当な規模であったようだ。

第二名神高速道路の発掘調査の現地説明会に参加した。

 伊坂城の半分は、第二名神の地中保存か、平削・破壊か・・・・? 伊坂城は、甲賀:江南の竜法寺城と同じ運命! 

堀切に、登城・・・受付へ下山。

歴 史

平安末期~鎌倉初期にかけて桓武平氏(伊勢平氏)の平正度を祖に持つ進士(富田)家資一族が伊勢国で春日部氏を名乗り、詮義のとき伊勢国朝明郡を所領した。

春日部一族は一部、国衙の関係者として武蔵国にも移り住んだ。(大井氏・紀姓春日部氏)
伊勢春日部氏は守護北畠氏に仕え、神戸氏・関氏らと共に、伊勢六人衆と呼ばれた。
室町中期には萱生城を本拠とし、分家が伊坂城や星川城をを築城し勢力を拡大した。

 萱生城主の一族である春日部太郎左衛門尉が築城したとされ、永禄十一年(1568年)の織田信長の伊勢侵攻の時に萱生城とともに落城したとされます。
春日部太郎左衛門尉が居城していた永禄11年(1568)、信長勢の伊勢侵攻により他の城共々落城した。
その後の春日部氏は勢力を失ったが、江戸幕末まで武家として存続したという。

 

 

受付で「伊坂城址発掘調査(第6・7次)現地説明会資料」等を頂き、順路沿いに見学!

残された約半分の主郭(曲郭Ⅰ)

発掘現場の職員様が非常に親切丁寧で職員様の対応が良い印象を受けました。

曲郭は掘立柱(土中埋め込み)?

曲郭Ⅰと曲郭Ⅱの間の堀切・・・・櫓門の基礎石が!櫓門は後世の作事カ?。

 三重県の埋蔵文化財センター職員の解説や配慮は真適切で的を得た解説でした!非常に解り易く、質問にも丁寧に説明して頂き、感激!

堀底より、曲郭Ⅱへの段状城道残された曲郭Ⅲの一部

曲郭Ⅱと曲郭Ⅲの間の堀切は5m超、竹で3m・5mを堀底に建てて頂き実感・納得土橋カ?曲郭Ⅱの虎口

 

 

 

出土品展示テント

発掘現場の責任者に、伊坂ダム駐車場まで案内頂きました。感謝!!

伊坂城周辺の城址。

三重には約1,200もの城郭遺構あると。・・・・近江は1329の城郭遺構

参考資料:伊坂城址発掘調査(第6・7次)現地説明会資料  

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


池田東城  近江国(甲南)

2014年11月20日 | 丘陵城

愛宕社・石仏

お城のデータ  

所在地:甲賀市甲南町池田字坊谷・山添       (旧甲賀郡甲南町池田字坊谷・山添 )      map:http://yahoo.jp/NbLn0g

現 状:山林

区 分丘陵城

築城期:室町期

築城者:池田大和守

城 主:池田大和守

遺 構:曲輪・土塁・堀切・井戸

標 高:210m    比高差:20m

目標地:堀ノ内集会場前・堀ノ内バス停

駐車場:堀ノ内集会場

訪城日:2014.11.19

 

お城の概要

 畑地から細い道を林に入ると、虎口形状を伴った土塁が。城址は右手ですが、左手側にもピークがあり、主郭外の家臣曲郭カ。周囲に土塁があり、遺構であっても不思議ではないんですがね。 

 林の入り口まで戻ると右手に登る道があります。ここを登ると祠があり、さらに登ると一基の墓碑のあるピークです。ここは櫓台カ。

この先に土塁が続き、右手下が主郭ですが藪状態です。戻って祠の先を下りると今は畑地ですが主郭東側下に平坦地があります。主郭は小さめですので、この平坦地に居館があったのかもしれません。

歴 史

『佐々木南北諸士帳』に、池田城主 佐々木随兵清和源氏 池田太郎定信。

                池田城主 後に信長随兵トナル 池田庄三郎亘輝。

                池田城主 其後備前北方住国主トナル 青木筑前。の名が見える。

鈎の陣夜襲 長享元年(1487)9月、足利義尚六角攻めのため近江に進発。湖南湖東で高頼軍と合戦。義尚、同年10月1日鈎の安養寺へ陣を移す。その日の夜、甲賀武士が攻撃する。(第1回)同年12月20日の攻撃で義尚負傷。(第2回 これも疑問) 延徳元年(1489)3月26日、義尚(義煕)25歳で病死。(手傷が死因とする説があるが、間違いであろう。

甲賀21家の1つ、池田家 池田大和守

大原源三  望月出雲守   和田伊予守   美濃部源吾   池田大和守   山中十郎   鵜飼源八   服部藤太夫  芥川左京亮        神保平内   佐治河内守   上野主膳正   伴播磨守   高嶺蔵人 大河原源太   隠岐左近  多喜勘八   頓宮四方介   内記伊賀守   岩室大學介   大野宮

 

民家裏・墓地の裏

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳  

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


池田西城  近江国(甲南)

2014年11月20日 | 丘陵城

お城のデータ  

所在地:甲賀市甲南町池田字山添       (旧甲賀郡甲南町池田字山添 )      map:http://yahoo.jp/7dFKsB

現 状:山林

区 分丘陵城

築城期:室町期

築城者:池田大和守

城 主:池田大和守

遺 構:曲輪・土塁・堀切

標高:220m   比高差:20m

目標地:堀ノ内集会所・自動車修理工場

駐車場:堀ノ内集会所

訪城日:2014.11.19

  池田西城遠望

お城の概要

 池田西城は、堀ノ内の集落の南側丘陵の端部に位置し、谷を挟んで築かれている。

曲郭Ⅰ(主郭)は、東西30m×南北35mで、四方を土塁で囲んでいる。土塁は南西部が主郭から4mと高く、北側土塁は内部への崩落があるが2m。虎口aは北西隅に、北側には二段の平削地(墓地)が残る。南西には堀切bが設けられている。

曲郭の南西麓に池状の窪みがあり、貯水施設と確認できる。

地元では「シロヤマ」呼ばれ、池田東城の間を「堀之内」、谷へ続く道と県道付近を「門の辻」と呼んでいる。

歴 史

池田東城が本城で、ここは支城のようです。

室町期築城

『佐々木南北諸士帳』に、池田城主 佐々木随兵清和源氏 池田太郎定信。

                池田城主 後に信長随兵トナル 池田庄三郎亘輝。

                池田城主 其後備前北方住国主トナル 青木筑前。の名が見える。

 鈎の陣夜襲 長享元年(1487)9月、足利義尚六角攻めのため近江に進発。湖南湖東で高頼軍と合戦。義尚、同年10月1日鈎の安養寺へ陣を移す。その日の夜、甲賀武士が攻撃する。(第1回)同年12月20日の攻撃で義尚負傷。(第2回 これも疑問) 延徳元年(1489)3月26日、義尚(義煕)25歳で病死。(手傷が死因とする説があるが、間違いであろう。

 甲賀21家の1つ、池田家 池田大和守

大原源三  望月出雲守   和田伊予守   美濃部源吾   池田大和守   山中十郎   鵜飼源八   服部藤太夫  芥川左京亮        神保平内   佐治河内守   上野主膳正   伴播磨守   高嶺蔵人 大河原源太   隠岐左近  多喜勘八   頓宮四方介   内記伊賀守   岩室大學介   大野宮

墓地

県道沿いの自動車修理店

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳  

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


村嶋支城  近江国(甲南)

2014年11月17日 | 丘陵城

お城のデータ  所在地:甲賀市甲南町柑子字向川  (旧甲賀郡甲南町柑子字向川)  map:http://yahoo.jp/pBu2mm

現 状:森林 

区 分:丘城 

標 高:250m 比高差:30m

築城期:南北朝期:明応年間(1492-1501)

遺 構:曲輪・土塁・横堀・堀切・土橋

築城者:望月重元

城 主: 望月重武

目 標:柑子公民館

駐車場:柑子公民館駐車場

訪城日:2014.11.3 2014.11.13

 

堀切a

お城の概要

 柑子集落(柑子会議所)の東の丘陵の頂部に位置し、山麓から比高30mをはかる。

浅野川を渡り、小字向川の北側の家屋の倉庫の南に登城道がある。BSアンテナを目安に、少しも登ると「堀切a」、そのまま登ると祠を祀る。(祠への参道を)!ここまでは、綺麗に整備されている。

更に竪堀城平削地が連なり、祠の南に平削地Ⅰ、「横堀状のb」を設けるが途中で途切れる。

祠の東側に進むと巾5m程の南へ「平削地Ⅱ」が40m程続く。深い堀切cで東側を遮断。城域から進むと自然地形の南へ80m程続く。戻り、最高所より東に巾10m程自然地形の北東に迂回して下山した。支城の東側の南北に武者溜りの用な底曲郭跡を連想される。

左支城背後の最高所(二等三角点の石碑があった)右が村嶋支城

堀切a

堀切C

歴 史 

  望月村嶋城主 望月村島守重元の次男重武の居城であった。  【佐々木南北諸士帳】に糀村城主 佐々木随兵 望月刑部左衛門  糀村城主 箕作随兵 望月出雲守の名が見える。

甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

  • 望月家- 筆頭格。一族の著名人物として望月出雲守・望月吉棟・望月兵太夫・望月与右衛門がいる。望月出雲守の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。

登城口の手前の民家

村嶋支城・・・遠景(柑子会議所より)

 

望月氏

望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られており、これらの産駒は途中の近江国甲賀付近で休養や調教(飼養牧)を行っていた。

 望月氏と甲賀の地は古より関係があり、平安時代には平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家(諏訪氏の出自との説もあり。尚、三郎は望月家嫡男に多い幼名であり、三男を意味しない)が朝命により赴任し、近江国甲賀郡主となり十六ヶ村を贈った。これが甲賀望月の祖である。

 恩賞として その後、信濃の望月氏の支流が甲賀の地で独自に武士団へと発展し、戦国時代には、後に甲賀忍者と呼ばれる甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、伊賀の「服部氏」、甲賀の「望月」と称されるようになる。望月出雲守が望月城(現:甲賀市)を築城するなどの記録が残されており、望月出雲守屋敷跡は現在甲賀流忍術屋敷となっている。

【佐々木南北諸士帳】に糀村城主 佐々木随兵 望月刑部左衛門  糀村城主 箕作随兵 望月出雲守の名が見える。

甲賀五十三家(こうがごじゅうさんけ)は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

  •  望月家- 筆頭格。一族の著名人物として望月出雲守・望月吉棟・望月兵太夫・望月与右衛門がいる。望月出雲守の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系  

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竜法師城 近江国(甲南)

2014年11月17日 | 丘陵城

第二名神高速道路に破壊された、哀れな城郭!

 

滋賀県甲賀市甲南町竜法師(竜法師城) - Yahoo!地図http://yahoo.jp/tqohdY

 


所在地:甲賀市甲南町竜法師(旧甲賀群甲南町竜法師) 残存する竜法師城の一部 - Yahoo!地図http://yahoo.jp/tqohdY

 

竜法師城遠景

 世の戦国ブームに便乗しようというわけではありませんが、近年、当協会では幾つかの中世山城の調査を実施しています。その1つに、平成15年度に実施した甲賀市竜法師城(りゅうぼしじょう)遺跡があります。滋賀県=近江の国は、約1,300箇所と「城跡県」を名乗れるほど多くの城跡があり、特に旧甲賀郡(甲賀市・湖南市)には300以上が集中しています。甲賀の城跡には、お茶屋御殿としての性格も持つ甲賀市水口城跡(県史跡)や山頂に堂々たる縄張りを見せる同水口岡山城(新近江名所図会第159回)など、一般にイメージされる「城跡」然とした遺跡もありますが、その大半は「単郭・方形」と呼称される単純な城跡です。大きな土塁や深い堀跡など、それなりに「感動もの」の城跡も多いのですが、見ただけでは城跡とは気付かない、小規模で簡単な城跡も多くあります。竜法師城もそうした簡単な城跡の1つで、丘陵を「コ」字形に削った土塁と、それに囲まれた平坦面を基本とする、最も簡単な構造の城跡です。もちろん、何ら伝承や記録を持たないものでした。

 

竜法師城遺跡調査状況

竜法師城遺跡調査状況

 

 さて、城跡の発掘調査といえば、どのような出土遺物を期待されるでしょうか。刀や槍などでしょうか? 特に、甲賀の城と言えば、手裏剣や鎖鎌などの「忍者」特有の武器を期待したくなるのが人情です。事実、調査時の私も、撒菱(まきびし)を踏まないように毎日細心の注意を払ったものです。しかし、実際は少量の土器などが出土しただけ。中には意味ありげな出土状況も見られましたが、土師皿と擂鉢ばかりです。これは、竜法師城が日常生活の舞台ではなく、見張り台、あるいは緊急時の逃げ城としてのみ利用されていたことを示しているのです。しかし、唯一、「忍者」を彷彿とされる遺物が出土しています。これが、今回の逸品「石製神像」?です。

 

妖しい土師皿が見つかりました

妖しい土師皿が見つかりました

 


石製神像写真

石製神像写真


 これは、砂岩系の柔らかく小さな長三角形状の石材(長さ約13㎝・幅約6㎝、厚さ約4㎝)の表裏に、神像らしきものを印刻しています。実際には年代の決め手もなく、一緒に見つかった土器の年代から中世末と考えています。さて、この「石製神像」は基本的に表裏ともに同じ文様を印刻しているもので、石材先端を烏帽子に見立て、その下に実に簡素に「ヒゲ面」を表現し、胸部には「門構え」に「井」を加えたような文様を飾ります。ただし、表は深く、裏は浅く掘られていることが特徴です。また、表は丸い「つぶらな目」の表現に対し、裏は細い「つり目」の表現になっています。この違いを「笑い」と「怒り」と理解し、しかもそれらが「深い」と「浅い」によって表現されていることを考えるならば、この「石製神像」の表裏は「陰・陽」を表現していると解釈できそうです。さらに、胸部の「門構えに井」の文様についても、呪法の1つである「九字」(本来は縦4本・横5本)を表現していると考えることも不可能ではないでしょう。「門構え」部分も何かの印のような表現です。このように見れば、この石製品は単純に「神」を表現したのではなく、「陰陽道」系の信仰・呪法に基づく「神像」といえそうなのです。そういえば、関津遺跡から出土した絵画木板の「けったいな姿の人物たち」(第62回)にも似ていますし、最近では、塩津港遺跡からも似たような人物を描いた呪符木簡が出土しています。

石製神像実測図

石製神像実測図

 ところで、「陰陽道の呪法」・「印を切る」といえば忍者です。巻物を咥え、「ニンニン、ドローン」というやつです。これは漫画や小説の世界ですが、今回の「石製神像」は、まさに、甲賀武士団が「陰陽道の信仰・呪法」を身につけ、「ニンニン、ドローン」をやっていたことを示す可能性を示しているのです。そう見れば、この神像、実に妖しく、恐ろしくも見えてくるのです。ただし、その「ニンニン、ドローン」が、単なる「護身」としての信仰であったのか「巨大な蝦蟇が出現する」特殊な効果を狙ったものなのか、あるいは甲賀武士団の特質なのか中世末の一般的な信仰形態であったのか、まだまだ解明されるべき課題は山積みです。しかし、この「石製神像」は「忍者の実在」に一歩近づく、伝奇系時代小説マニアには垂涎の逸品であることは間違いありません。

 

 

 

 

竜法師城跡(甲南町竜法師  map:http://yahoo.jp/P9p3Gh

城郭フォーラム~村の城を探る 甲賀・伊賀の城~シンポジウム概要~

http://www.oumi-castle.net/gensetu/kouga_iga/sinpo.htm