城郭探訪

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蜂屋城   近江国(栗東)

2016年04月29日 | 居館

お城のデータ
所在地:栗東市(旧・栗太郡栗東町)蜂屋  map:http://yahoo.jp/-nfSeb
現 状:宅地
区 分:居館
築城期:南北朝期
築城者:蜂屋氏
遺 構:?
目標地:宇和宮神社・蜂屋公民館
駐車場:蜂屋公民館に駐車
訪城日:2016.4.21

お城の概要

 栗東市の北部、野洲川と葉山川に挟まれた平野部に立地する蜂屋地区では、近年の発掘調査で飛鳥~奈良時代にかけての遺構・遺物が検出されるなど、古代から人の営みがあったことが知られています。
 蜂屋地区の中央を流れる中ノ井川、蜂屋からその下流の綣・野尻などの地域を灌漑する用水である中ノ井川は、慶長年間(1596~1615)にはすでに水利組合が組織されていました。また、中ノ井川は生活用水としても利用されていました。現在でも中ノ井川に面した家々の庭先には川へ降りる「カワト」が設けられており、生活用水として用いられていた。

お城の歴史

宇和宮神社境内社の八幡社は当地の武士蜂屋氏の守護神。

蜂谷氏は南北朝時代に南朝に所属して活躍した栗太武士である

中ノ井川通船資料(海老川通船図) 明治12年(1879)館蔵 里内文庫

近年の発掘調査で飛鳥~奈良時代にかけての遺構・遺物が検出されるなど、古代から人の営みがあったことが知られています。また、金勝寺二十五別院の1つとされる蜂屋寺があったとも伝えられています。

 蜂屋地区の中央を流れる中ノ井川は、野洲川より分流し草津志那に至り琵琶湖に注いでおり、栗東唯一の船便があった。川沿いに宇和宮神社のお旅所があって、その場所が「船ダマリ場」となり、明治十二年頃まで活躍していたとのこと。 この中の井川に沿って、今でも石仏が集中して存在している。当時の水運の安全や氾濫よけの願いであったろうか。住民の篤い信心が今にも伝わっており、それ故に古社が守られている。

        

 

蜂屋石仏・・像の周囲及び裏面の刻銘によると、願阿弥陀仏という人が仁治2年(1241)西方浄土に往生を願って建立したものである。

蜂屋地区の中央には中の井川が流れている。この川は野洲川より分流し草津志那に至り琵琶湖に注いでおり、栗東唯一の船便があった。
この川沿いに宇和宮神社のお旅所があって、その場所が「船ダマリ場」となり、明治十二年頃まで活躍していたとのこと。
この中の井川に沿って、今でも石仏が集中して存在している。当時の水運の安全や氾濫よけの願いであったろうか。
いずれにしても住む住民の篤い信心が今にも伝わっており、それ故に古社が守られている。

  

 宇和宮神社のお旅所

永久寺

永正2年(1505)に宇和宮神社の社殿を再建した棟札の案文が蜂屋永久寺にあろ。

      

宇和宮神社の前に竹藪が残存する、近年畑化・開墾されようだが、館遺構か?

            

宇和宮神社

   拝殿

宇和宮神社(うわみやじんじゃ)  栗東市蜂屋231-1  
主祭神:倉稲魂神 御食津神 大山祇女神 土祖神  例祭:五月五日

宇和宮神社のある蜂屋(はちや)集落の中央を中の井川が市道に沿って西流する。かつては琵琶湖まで通船されていた。
現在は、西部には東海道新幹線が南北方向に通過し、その西には工場が立地する。


飛鳥時代の頃は中央大豪族の物部氏の田荘であったとされる。奈良時代に金勝山に金勝山大菩提寺が建立されると、この大菩薩寺の二十五別院の一つ、物部山蜂谷寺が今から約1150年前当地に開かれお堂が建立されたとされる。
興福寺官務牒疏には「蜂屋寺、在栗太郡物部郷、号物部山、僧房二十宇、天平四壬申(732年)勅願、隆尊僧正開基、本尊九品阿弥陀仏、
建久三年(1192)再建・・・」とある。だが蜂屋寺跡はまだ不明のままである。

宇和宮神社の開基や沿革について不詳であるが社伝によると養老元年(717)の勧請とされる。

蜂屋の歴史、宇和宮神社の社歴を知るには,関わりが大いにありそうな廃寺「蜂谷寺」の所在の検出が待ち遠しい。

境内社の八幡社は当地の武士蜂屋氏の守護神。蜂谷氏は南北朝時代に南朝に所属して活躍した栗太武士である。
永正2年(1505)現本殿を改修したと棟札に記されている。 本殿が重要文化財である。
近くを新幹線が走っているが、境内は静寂である。集落全体にしっとりと落ち着いる。

  本殿

稲荷社 

宇和宮神社の鎮守の森も、神社土塁か?

           

蜂屋公民館    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、『日本城郭大系』11、宇和宮神社の由緒
 本日の訪問ありがとうございす!!

勝長氏館  近江国(日野)

2016年04月29日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町松尾   map:http://yahoo.jp/ZmBIia

現 状:集落・神社

区 分:居館

築城期:江戸期か?

築城者:勝長氏

遺構:標高:196m  比高差:10m

目標地:勝長神社

駐車場:勝長神社近くに路上駐車

訪城日:2016.4.8 

お城の概要

松尾の丘の上にある。付近は住宅が多い。広くはない。このあたりは蒲生野である。この神社の周辺は近江の金属採取と精錬の地域であったようだ。

勝長氏館は、松尾地区の『勝長が岡』が居館跡と云われ、現在の勝長神社境内周辺にあった。神社と周辺の宅地は、丘陵頂上部にあり、神社境内から日野の市街地を南に見下ろすことができ、ここに豪族の居館が築くのに適した地形と思われた。

お城の歴史

勝長氏館は、築城年代は定かでないが勝長氏によって築かれた。

 日野の綿向神社の現本殿は、宝永4年(1707年)に、蒲生家の家臣・勝長半兵衛なる者が宮奉行となり氏子中の寄進により再建された。また、宝永5年(1708年)徳川綱重の代官・竹田喜左衛門政為は社殿を修造する。徳川綱重は第3代将軍・徳川家光の三男で、6代将軍・家宣の父にあたる。綱重は甲斐甲府藩主であったが、所領は甲斐、武蔵、信濃、駿河、近江に散在したことから、近江に代官がいてもおかしくはないが、1678年(延宝6年)兄の第4代将軍・家綱に先立って35歳の若さで死去したので、宝永5年(1708年)に綱重の代官は存在しない。
 また、蒲生家も寛永11年(1634年)に断絶しているので、宝永4年(1707年)の蒲生家の家臣・勝長半兵衛なる者の正体不明。

              

  

    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、綿向神社の由緒

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標(しめ)の松塚(蒲生貞秀の墓所)   近江国(日野)

2016年04月29日 | 文化財
 
お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/1KdkYZ

現 状:畑地

区 分:墓所

築城期:室町期

築城者:蒲生氏

遺 構:廟・墓石

標 高:200m   比高差:13m

目標地:標の松塚

駐車場:標の松塚横空き地に駐車

訪城日:2016.3.27

お城の概要

日野町村井の信楽院の西(往古日野川対岸=1547(天文17)年まで日野川の河床だった田園地帯)に位置する、又、現在は館の上部は墓地に造成されている。墓地への参道を挟んで西丘陵城に詰め城と思われる遺構が現存する。

また、参道の脇には、『標の松塚』が祀られいる。蒲生氏14代・貞秀の墓所。(氏郷は19代)
永正元年(1504)、蒲生貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それが「標の松塚」。

お城の歴史

蒲生氏14代・蒲生貞秀の墓所。(氏郷は19代)
1504(永正元)年、貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それがここ「標の松塚」。

 現地説明板
『標(しめ)の松塚』
 蒲生貞秀は蒲生家をおこした英主といわれ戦国の武将としてもその名が高い。貞秀は和歌にも優れ、新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)に収録されているほどの文化人でもあった。貞秀は永正元年(1504)自分が亡くなってからの墓所を決め、一本松を植えて和歌を詠んだ。
「引うへし 松の下はに世をへれは 千とせの後の人もたつねむ」
 この松を標の松と呼び、文化8年(1811)碑が建てられた。この碑文は、信楽院住職が作り、西大路藩士小串同行が敬書している。
                          『日野観光協会・日野公民館』

  

  永正11年3月5日(1514年3月30日)死去。貞秀戒名「信楽院殿大弐法眼知閑大徳」

  「標松塚」の石碑   

「武芸はいふに及ばず、歌道にも達したり」(『蒲生軍記』)と記述のある貞秀。

『新撰菟玖波集』(室町時代後期の准勅撰連歌撰集)に5首が選ばれ、また、『蒲生貞秀詠草』『貞秀朝臣集』等を残しています。

墓所背後の井戸 

蒲生家菩提寺・信楽(しんぎょう)院から南西の畑を越えたところの竹藪には、蒲生貞秀(さだひで)廟所(遠景)

・信楽(しんぎょう)院

音羽城を築いた貞秀は、戦いに出る時何時も、槍の先に冠子に入れた阿弥陀仏にを槍の先に引っ掛け、念仏をとなえながら戦ったといわれ、こんなことからこの仏を「槍かけ本尊」とも呼び、今もこの寺に安置されている。

参考資料:現地説明板

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森氏館     近江国(日野)

2016年04月29日 | 居館
  
お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/vy_WIz

現 状:竹藪・畑地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:森民部丞

遺 構:廓・敷割 詰め城(210m)

標 高:200m   比高差:13m

目標地:標の松塚

駐車場:標の松塚横空き地に駐車

訪城日:2016.3.27

お城の概要

日野町村井の信楽院の西(往古日野川対岸=1547(天文17)年まで日野川の河床だった田園地帯)に位置する、又、現在は館の上部は墓地に造成されている。墓地への参道を挟んで西丘陵城に詰め城と思われる遺構が現存する。

また、参道の脇には、『標の松塚』が祀られいる。蒲生氏14代・貞秀の墓所。(氏郷は19代)
永正元年(1504)、蒲生貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それが「標の松塚」。

お城の歴史

蒲生家 家臣
 森民部丞 元亀元年四月、越前攻めに参加。天正十八年、韮山城攻めに参加。天正十八年十月、五千五百石。
 天正十九年、奥州攻めで戦功があった。五千五百石。子は成見、大膳。
 蒲生氏郷に伴い(伊勢松坂・会津黒川(会津若松)へ

 蒲生成見  森民部丞の次男。権六。蒲生真令の婿養子。義父と異なり、石田家には仕えず蒲生家に残った。
 蒲生大膳  森民部丞の子。権六の弟。蒲生真令が石田家に仕えると、それに従い石田家に移る。
         関ヶ原合戦では西軍に属す。敗北後、戦場から無事に逃れている。
森氏館(遺跡ウォーカーの比定地)遠景
 墓地への参道奥が墓地 
          
参道を挟んで、詰め城か?見張り台か?
         
  
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、蒲生家の家臣
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荒川城   近江国(大津・志賀)

2016年04月28日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)荒川町 map:http://yahoo.jp/lOPlN1

現 状:資材置場・空地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:木戸十乗坊

城 主:木戸十乗坊

遺 構:鹿垣・敷石?/城に使われていた石?

標 高:117m   比高差:ー

目標地:荒川のグランド・萬福寺

駐車場:荒川のグランド下の空地

訪城日:2016.4.23

お城の概要

荒川城は荒川の城之本にあったとされ、小字「城之本」「北堀」「城之東」の地名が残る

この城に関しての文献資料はほとんど見当たらないが、地区有の資料に明治18年に荒川村総代堀平氏によって描かれた絵図が残っており、それには城之本の地域の中に古城跡が描かれている。出典の根拠は不明だが、「北辺65間(117m)・東辺38間(68m)・南辺72間(130m)・西辺44間(80m)」の規模が描かれている。また同時に、「木戸十乗坊越前守古城跡、本村中央ヨリ北東地ニアル」と墨書があり、ここの城主は木戸十乗坊となる。同氏は木戸城の城主でもある。

現在は、城郭遺構は不明だが、東側に猪垣と伝えられる石積みがある。古老に聞いても「城之本」の名以外は伝わっていない、比定地の畑を宅地化の際、石がまとまって出てきたとのこと。

お城の歴史

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡=(木戸山城)」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を「城の尾=(木戸山城)」といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町) 

 元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

 元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。集落とグランドの下の「猪垣」

グランドに駐車   

猪垣にゲートあり、集落へ入ってすぐ右側が、遺跡ウォーカーの比定地(ヘンス囲われた)http://yahoo.jp/lOPlN1

遺構か?   出土石の一部か? 

集落内

  

真っ直ぐ進むと「萬福寺」      

本堂の北側に土塁痕?     

萬福寺本堂の背後の様子・・・ここも城域内か?         


詰め城を求めて

仮称)【荒川山城】としておこう。

                     

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、遺跡ウォーカー 

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平尾館    近江国(愛東)

2016年04月28日 | 居館

  

 お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)平尾町 map:http://yahoo.jp/nJeMpK

現 状:集落・宅地馬

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:平尾平助

遺 構:

目標地:北野神社・平尾会議所

駐車場:平尾会議所に駐車

訪城日:2016.4.16

お城の歴史

北野神社の御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉(信長の九男・鍋との子))その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

『甫庵信長記』に、馬廻として平尾久助はいるが、『信長公記』には、馬廻として平尾平助がいる。

『信長公記』 天正十年(壬午)・・・・六月大 二日 午の刻に京都から早馬が来て、今朝本能寺にて信長が他界したと告げる。明知日向守光秀が中国への軍勢を丹波から京へ差し向け逆心して信長を討ったということである。京都から同時に届けられた書状は次の通りである。

「本日卯の刻に光秀が一万七千騎で丹波から京へ入り、二手に分かれて攻め向かう。光秀は七千騎にて本能寺へ向かう。もし信長へ加勢の軍勢があれば横鑓に攻め懸かって討つようにと明智左馬助を大将として六千騎が内野に控えて陣を取る。卯の下刻に本能寺合戦が始まり、巳の刻に本能寺に火がかけられ信長が自害する。」

 本能寺にて討死した面々は、森乱丸、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正材、村田吉五、澤田伊賀守、小川愛平、金森義入、魚住勝七、今川孫二郎、乾兵庫助、狩野又九郎、薄田與五郎、森力丸、同小坊丸、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀松、山田彌太郎、飯河宮松丸、種田亀介、柏原鍋丸、祖父江孫介、大塚彌三、同又一郎、平尾平助、針阿彌、津田茂助、織田源三郎殿、松田主水正、小倉松助、湯浅甚介、中尾源太郎、高橋虎松丸等である。この他に逃げ散った者は多い。以上の者は残らず討死である。さらに御馬廻衆五十三騎が討死したということであるが確かなことはわからないので名前を記すことはできない。・・・・・。

平尾平助は同一人物か?

遺跡ウォーカーの比定地

北野神社 滋賀県東近江市平尾町617

御由緒
崇徳天皇の御代に北野神社の御分霊を勧請し、その後住人平尾平助が社殿の造営に力をいたし、慶長年間僧深誉上人東光寺再興の際当社にも意を注ぎ、高野の城主羽柴武蔵守(織田信吉)その子三河守良秀も厚く崇敬し社領を献じている。寛政3年本殿を再建した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「旧愛知・犬上郡の城」北野神社の由緒・信長公記

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京都守護職の上屋敷跡発見 三つ葉葵紋の瓦出土///京都新聞

2016年04月27日 | 文化財

画像に含まれている可能性があるもの:食べ物安土桃山時代の大名屋敷を飾ったとみられる金ぱく瓦(左)と幕末の京都守護職上屋敷跡で見つかった三つ葉葵紋の瓦

 幕末に会津藩主・松平容保が務めた京都守護職の上屋敷の遺構が京都市上京区の京都府庁北側の発掘調査で見つかった、と府埋蔵文化財調査研究センターが26日発表した。京都守護職の屋敷遺構は初確認で、長屋の状況が当時の藩士の暮らしをしのばせる。

 自動代替テキストはありません。調査地は上京区下長者町通新町西入ルの府庁北側の中立売署跡。古地図では、容保が京都の治安を守る守護職の就任に伴い、1865年に完成した京都守護職上屋敷の北辺で、藩士が寝泊まりした長屋群があった場所とみられる。

 画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外建物跡の柱穴は、3棟分見つかった。宿舎のような長屋風で、重さに耐えられる基礎工事がなされ、2階建てだった古地図の記述と合致する。徳川や松平家の家紋である「三つ葉葵」の軒丸瓦も出土している。

 調査地は安土桃山時代にさかのぼると、豊臣秀吉の聚楽第造営に伴い、大名屋敷が建設された地域でもある。発掘では「剣花菱」の金ぱく瓦の一部も出土したが、古地図に記載がなく、どの大名の屋敷跡かは断定できないという。

 同センターは「京都守護職の屋敷跡が古地図の記述通りと分かり、長屋が2階建てだったことが実証された意義は大きい。容保はあまり宿泊しなかったようだが、当時の藩士の生活の様子を知る史料ともなりうる」と話している。


八尾山(やつおやま)城(八ツ尾山城)    近江国(多賀)

2016年04月27日 | 山城

林道や城道から見た「北側の多賀・彦根・琵琶湖の景色」が綺麗で、比高差を忘れる山城。

主郭の北橋の物見櫓?

お城のデータ

別 称:八ツ尾山城 
所在地:犬上郡多賀町佛ケ後~藤瀬 map:http://yahoo.jp/J9yQEw
現 状:山林

区 分:山城 
築城期:織豊期

築城者:今井氏?
遺構等:曲郭・堀切・腰廓・土塁・物見櫓・塹壕堀(城道)
標 高:616m  比高差368m

目標地:林道の車両進入禁止場所 標高:248m地点
駐車場:林道の車両進入禁止場所に1台可

訪問日:2016.4.26

お城の概要

犬上川が平野部に流れ出す所に川を挟むように勝楽寺と籠城山城があり、勝楽寺城・籠城山城を見下ろすように東に標高616mの八ツ尾山の山頂に八尾山城は残存する。

藤瀬集落からダートの林道を登って行きますが、路肩が微妙に崩落していたりで、やや危険です。 テープで車両通行止めの案内があるところまで登ります。ここに乗用車一台分は置けるスペースはあります。

林道を蛇道のようにくねくね曲がりながら1200m進むとП字のカーブの右上に、塹壕堀(城道)が見える、
主郭は北側に櫓台と思われる一段高くなった部分があり南側にも掘り残したような土塁が見られます。主郭の自然の地形を利用した切岸で。北側を除き腰郭が残る、南と東の尾根に曲郭が。東の尾根は堀切で分断されますが堀切から東に先さらに50m行く堀切が見られます。
主郭北は谷を掘り下げた深い堀切になっておりその北に削平地があります。最後の尾根を左手に進むとややL字に曲がって行き、最初の堀切に到達します。この堀切、小さいながら明瞭です。この堀切を越えてさらに登ると城域の西側に廻り込んでいるようです。「八ツ尾山あと2分」の標識で左手に下りて行くと長大な堀切があります。主郭の西下になる感じです。ここを登ると主郭です。主郭は西側が一段高く櫓台の感じです。東側に細長く平坦地が延びています。東側端に土塁の盛り上げリがあります。この北側には帯郭があります。主郭に戻り、北側尾根に4段の段郭があります。切岸がしっかりした段もあり、北端の郭にはU字に土塁が残ります。その下には、自然地形を利用したのか巨大な堀切があります。北端の郭とは高低差6mくらかな?。この堀切幅も10mくらいはある。また、堀切底部にはさらに堀状の窪みがあり、遺構はよく見ることができる。

お城の歴史

八尾城は、永源寺にもあるが、築城年 :南北朝期 築城者:小倉右京亮実房である。

『嶋記録』には、八尾山城(多賀町)

 今井一門連書之写シ「豊洲城、古ハヤツオ(八尾)又セイラクジ(勝楽寺)ナドにもありしよし申伝候」と掲載あり。

       ()内は、管理人が、解釈を漢字に・・滋賀県中世城郭分布調査5「旧犬上郡・愛知郡の城」49頁

藤瀬集落の【八尾山観音寺】の石碑の遠景が八ツ尾山の頂部が城址です。

石碑を右に、クネクネ曲がる林道を標高248mまでここから徒歩で1200m登る・・・・。 

     

ここまで、駐車位置から林道を1200m位  П字カーブの左側塹壕堀(城道か)が林道から見える。

塹壕堀(城道)を登る            

進むと林道に出た 

再び、左手に塹壕堀(城道)に入る   シダの海(腰まで)を漕いで登った 二重堀  

ここから綺麗な空堀(城道10m程)                          

城道(登山道)の目印テープ発見 

紫のpp紐発見            

  最初の廓に登ると、三角点のコンクリート柱(登城記念に2枚)、ここをまた左手に進む。

  

最初の堀切「     

小さな標識で【八ケ尾山あと2分(高取山まで50分)】書かれた標識が木に括ってあり、矢印方向へ。

  

 

  

主郭手前最大の堀切(自然のの地形を更に削り込んで)

    

  

主郭に到着                      

下山します。

               

  勝楽寺城・籠城山城の遠望 荒神山城は遠くに!

  林道を駐車位置まで約1200m下る。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査5「旧犬上郡・愛知郡の城」

    本日の訪問ありがとうございす!!


歓喜寺城(歓喜寺)   近江国(大津・志賀)

2016年04月25日 | 城郭寺院

 

歓喜寺(薬師堂)

               

歓喜寺城

お城のデータ

所在地:大津市(旧:滋賀郡志賀町)大物  map:http://yahoo.jp/Tw6PSl

現 状:山林

区 分:城郭寺院

築城期:室町期

築城者:比叡山延暦寺

遺 構:寺院・石垣・庭園・堀切・土塁

標高:309m 比高差:ー バイパスから172m

目標地:歓喜寺

駐車場:歓喜寺駐車場

訪城日:2016.4.23

お城・寺院の概要

 百間堤のある四ツ子川の谷をはさんだ西の尾根の中腹に、平安時代に最澄が開基したと伝えられている歓喜寺の薬師堂がひっそりとたたずんでいる。幸い、車で歓喜寺まで舗装の参道がついている。

 お堂に向かって左手に斜面を平削地に造成した、石垣や堀切で区切られたいくつかの歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。

志賀町大物所在の 歓喜寺・歓喜寺は、かつての元亀の騒乱に対処しては、僧坊跡が三カ所豪快に堀切で城郭化されている。いずれも僧坊を破壊して砦化した平削地の作事で建物は城砦・曲郭に転用したのであろう。石垣や堀切で3つに区切られた歓喜寺城郭や庭園跡が残存する、繁栄した様子がうかがえます。

 歓喜寺は、 山岳寺院の一角に築造された「平地の城館をモデルとしての山岳寺院」で、僧坊をの城館・廓に転用したのである。

その 築城契機は明確ではないが、背後山頂の 歓喜寺山城の城郭遺構や土塁・石垣・堀切も残存する。

 余談ですが、2008年の開帳(33年に一度開帳されて来た)の準備のため、薬師堂を開けたとこと、本尊が消えていたという。警察に被害届を出したが発見されていない。歓喜寺は戦国時代の頃には、土塁や石垣で囲われた山城のような寺だったは、元亀3年(1572)織田信長軍の焼き討ちに逢う。その際、もの際、本尊の薬師瑠璃光如来立像を僧侶が山中に埋めて守り、後に住人が発見。文禄元年(1592)に住民らが薬師堂を建て、志賀地域一帯の信仰を集めていきたという。

お城・寺院の歴史

木戸庄は、木戸城主の所領である。木戸庄には、木戸城・荒川城・歓喜寺城・南比良城・北比良城・比良城がある。

歓喜寺は、元亀3年(1572)の元亀争乱で焼失してしまいますが、文禄元年(1592)に村人が薬師像を土中から見つけたため、薬師堂が建立されいます。

また、薬師堂の東側山頂には歓喜寺山城も残存する。

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町)  元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

  元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

 『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

 信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

  信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

 信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

  7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。 

           

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9「旧滋賀郡の城」、遺跡ウォーカー、 

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木戸山城(城尾山城)  近江国(大津・志賀)

2016年04月25日 | 山城
 

お城のデータ

別 称:城尾山城

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)木戸字畑山

現 状:山林

区 分:山城

築城期:室町期

築城者:田中坊定成

城 主:田中坊定成・佐野秀方(のち十乗坊栄有) 

遺 構:土塁、堀切、帯郭、武者隠し、畝状竪堀

標 高:469.8m  比高差:294m

目標地:木戸山登山口

駐車場:木戸山登山口周辺空き地に路上駐車

訪城日:2016.4.23

お城の概要

 比良山中腹に張り出す尾根の付け根に部分に位置し、尾根筋上約150mに亘って広がっているが、明瞭に遺構が残るのは、最高所の主郭部と尾先部の段郭で中間部は明瞭性に欠ける。
 主郭部は南を除く三方を土塁に囲繞された小じんまりした主郭(17m×11m)に、南から西側に続く帯郭と東側にも帯郭が付帯している。北側は堀切で遮断され、南側切岸上部の主郭一段下に武者隠しが設けられ横矢を効かした防備を固めている。

 城内道は北の尾根越え道から東側帯郭に入り、南へ回り込み主郭に入ったようである。なお、主郭部から死角となる眼下を見張るため、尾先に見張台が設けられたと思われる。
この城跡で目を引く特異な遺構がある。木戸越道から分岐して堀切を通過し荒川方面に下る尾根越え道の西斜面部分90m間で、5、6ケ所もの屈曲が設けられ、また、道の脇には栗石を石塁状に積み上げ、その溝内を通路としている。

お城の歴史

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾(木戸山城)といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

 延暦寺隆盛の頃に田中坊定成が木戸庄を分領し、堡塞を築いて住したとされるのが、この城跡とされる。元亀の兵乱には、六角氏に属した佐野秀方(のち十乗坊栄有と号した)が在城、籠城した。

 元亀二年織田信長の比叡山焼打の累を受け、翌三年樹下神社の社殿が焼失した。当時織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方元亀4年(1573)には朝倉方の馬場兵部丞や多胡宗右衛門尉も守備に就いたようであるが、落城して諸氏は山中に隠れたと伝えられる

道案内

木戸集落の樹下神社前に案内柱がある。(安養寺)~湖西バイパスへ、林道の入口付近に駐車し、林道(木戸峠へ通じる登山道)を登って行くと大きな砂防ダムを二つ通り過ぎ、その先Ⅰ00m程進むと右手にピンクのビニールテープ巻いた檜を、右に分岐して尾根に向かう山道がある、尾根に出た右手が主郭。

一つ目と次の砂防ダムを間に右手に目印のテープがあるが、そこから山道に入り尾根に出て尾根筋を登って行っても城跡に到達できる。

木戸集落の樹下神社前の木戸山城への案内柱

木戸集落の登山道マップ前から琵琶湖

車は湖西道路バイパスのガードに駐車して

 

林道は車は無理です          一つ目砂防ダム  砂防ダムの間は、広い林道?(レスキューポイントだった) 

  二つ目砂防ダム

林道に脇の檜にピンクのビニールテープを右に、城道です。

      懸け上げ土塁の土が流げれて石塁に?         

主郭に到着、右が主郭! 

                             

下城します

   下城時に気づく?【武者隠しか?】上からの【横矢】か・・・銃座・弓座・礫石を投げる・砕石を落とす?

  k 登山道の下り。

帰り道に気付いたが、砂防ダムの間に、登城路あった!搦め手道かも?

 ピンクのビニールテープの目印 

  砂防ダムの間は、広い林道?(レスキューポイントだった)

帰り道、砂防ダム間にビューポイント・・・堅田方面

   下の砂防ダムにレスキューポイントの表示

                

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、近江輿地志略』『武家中興盛衰記補』

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野々口城   近江国(大津・志賀)

2016年04月24日 | 山城

 

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)南比良町 map:http://yahoo.jp/IgPXri

区 分:山城

現 状:山林頂部

築城期:織豊期後期

築城者:野々口丹波守

遺 構:堀切・土塁・曲廓・一騎駆け

標 高:399.5m  比高差:122m(林道の駐車位置から)

目標地:百間堤・林道の上部鹿垣

訪城日:2016.4.23

お城の概要

 比良山系の堂満岳(1057m)が南東に張り出した東端の支峰上(399.5m付近)、通称ハナノオに位置し、北比良地先西近江路(国道161号)からは西方1.4kmに当たる。

『新註近江興地志』には、「《野々口丹波守屋敷遺跡》 北比良村上の街道より山の方一四丁にありと記すは当城を指すものであろう。

南比良峠への林道を百間堤を超え、300m程進むと右側にピンクのテープが揺れている。お城の入口です。の表示板と右進むと山麓に平坦地があり、《野々口丹波守屋敷遺跡》。

表示板の後ろから、左へ進むと城道は整備されいる。後はジクザクの城道を登れば頂部に野々口城が待っている。

頂部遺構は、登って来た道の反対側に虎口が設けてる。

 

お城の歴史

『新註近江興地志』には、「《野々口丹波守屋敷遺跡》 北比良村上の街道より山の方一四丁にあり」と記す。

津田 信正、江戸前期の尾張藩士の妻が「野々口丹波守」の娘・・・ウィキペディア

百間堤

鹿垣の手前の路上駐車、反対側が城への入り口(ここまでは車可)

《野々口丹波守屋敷遺跡》

城道をひたすら、頂部へ(ジグザグ道だが迷う事はない)

最初の遺構か?自然の地形を利用した中間の曲廓か?

一騎駆け(両側は切岸状約10m)

 

ここでⅤターンし上部廓へ

東へ下る・・・これが大手道かも?

Ⅴターン

主郭虎口を見上げる

頂部の主郭だか、城郭遺構?・・・違和感が(17:00だ、後日再訪して確認を使用)

      

主郭虎口から戻ることに

 一騎駆け

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア

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木戸城     近江国(大津・志賀)

2016年04月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)木戸   map:http://yahoo.jp/xUnObU

現 状:水田

区 分:平城

築城期:室町期(1500年頃)

築城者:木戸十乗坊か?

遺 構:石垣(当時ものか、近世の棚田土留め石垣か?は不明だが川原石に石垣)。曲廓・基壇

標 高:90m   比高差:ーm 

目標地:JR志賀駅

駐車場:JR志賀駅に駐車

訪城日:2016.4.20

お城の概要

「楽浪の里志賀」には、以下のように解説されている。楽浪(さざなみ)の里志賀(志賀の城郭2)

 旧北国街道に面する木戸城もしくは荒川城が平地城館となり、歓喜寺城がこれらの詰城である。木戸城を扇の要にして、背後の南北位置に歓喜寺山城と木戸山城を配置して展開したとも考えられる。また、木戸城は木戸十乗坊の城と言う伝承もある。湖岸の木戸城と詰城の木戸山城と対と考えられる。


志賀町域南部では、その城郭群の構成が不明であるが、南部では木戸川と比良川の間に10城が密集しているが、比良川から鵜川までには2城しかなくかなりの不均等さを見せる。
・平地の館城と背後の詰城といった戦国期の単純な構成をとらず、両城郭の間の山麓付け根に館城を構築する事。これらは比良の大規模山岳寺院に隣接して平地館城を元に山容あわせた山寺城とした。

・山岳寺院内の館城と詰城が背後の山頂部に築城(歓喜寺山城や野々口山城)これは他の地域では見られない。
・比良山麓付け根に築かれていた山岳寺院が、平地や湖岸に寺坊を移し、寺院が経済運営に利便を図った。、(比良城=田中坊城)。
・主戦場となる歴史的な経緯があり、それへの対処として行われた。
・各城郭の築造が幾つかの時期に行われたため、多くの城郭が造られた。

城築城の年代は城の虎口の構造の複雑さと土塁の完成度による。さらに築城の契機により志賀町域の勢力分布も推定が可能となる。北小松の伊藤氏の勢力は増して来たことが考えられる。複郭式の館城群を営み、北小松の港を抱え湖上交通の掌握、さらに比良山麓から朽木方面への山路の監視などからそれがうかがえる。
 なお、城郭機構の特徴か志賀町域での城郭は、二期に別れて発達した。
 第1期は大規模な土塁を削り出し方法で屋敷を城塞化した時期であり、1520年頃から起きた足利氏、佐々木六角氏、伊庭氏などの抗争の激化に対応した。
・第2期は浅井氏や信長の侵攻が活発化、本格的な山城の築城と合わせた平地館城との連携が必要となった1540年代以降である。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、志賀郡 「木戸城主 佐々木隋兵士族 木戸越前守秀氏・佐野十乗坊」と記す。

『当代記』には、木戸城(志賀町) 

 元亀3年3月11日条 「十一日、滋賀郡へ出給、木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)両城取出を被取、明智十兵衛光秀、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門被置」

 元亀4年7月26日条 「江州田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)・木戸両城被取懸所」と記す。

『近江輿地志略』の木戸村の「木戸古城跡」荒川木戸村の間、西の山にあり。今其名を城の尾といふ。里民傳云。十乗坊といふ者在城すと。木戸十乗坊が事は『武家中興盛衰記補』のもあり。或云ふ木戸越前守在城せしと。信長と朝倉戦争の時は、朝倉方田子左近兵衛氏久といふ者居住す。」と記す。

信長公記 巻五 元亀三年   建設と政略と  むしやの小路御普請の事

 信長公は木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の攻囲を明智ら三将にまかせ、みずからは3月12日京へのぼった。宿は二条妙覚寺に定めた。-----

信長公記 巻六 元亀四年   湖上疾る  大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事

 7月26日、信長公は京を出て坂本へ下り、そこから件の大船に乗って江州高島郡へ出陣した。そして陸の味方と協同しつつ、敵勢の籠る木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城へ押し寄せた。信長公は直属の馬廻をもって攻撃にあたらせ、両城に猛攻を加えた。そのため城兵はほどなくして降伏し、城を退いた。落城後、信長公は両城を明智光秀に与え、みずからは高島郡内にある浅井久政・長政父子直轄の知行所へ馬を進めた。そして林与次左衛門方に陣を取り、ここから知行所内へ兵を放って諸所をことごとく放火した。

遺跡ウォーカー

の比定地

湖岸の樹下神社御旅所も駐車可



木戸 樹下神社 :滋賀県大津市木戸680-1

  

木戸集落の樹下神社前の『木戸山城(城尾山城)』への案内柱

由緒
樹下神社は、木戸城主佐野左衛尉豊賢の創建と伝えられる。1429年に社地を除地とせられ、爾来木戸城主の崇敬あつく
木戸荘五ケ村の氏神として崇敬されてきた。元亀の兵火にあい社殿を焼失した。
当時、織田軍に追われて山中に遁世していた木戸城主佐野十乗坊秀方が痛憂して天正6年(1572)再建し、社殿を再造し
坂本の日吉山王より樹下大神を十禅師権現として再勧請し、郷内安穏 貴賤豊楽を祈願せられたと伝わる

歴史

正平3年(1348)に、木戸城主佐野豊賢により創祀され、木戸庄の惣社として崇敬されたと伝わる。元亀の争乱時に戦禍に見舞われ荒廃したが、天正6年(1578)に再建された。明治9年に村社に列し、同41年には神餞幣帛料寄進社に指定された。また地元の言い伝えでは、本来は境内社である「峰神社(祭神は比良明神)」が本宮で、比良山を神体参としていたという。天正の再建時に日吉大社樹下宮を勧請したため、地主神と勧請神の立場が入れ替わったとされる。 

   

           

本殿背後の鎮守の森(城祉か?}

         

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 木戸 浄土宗 安養寺 所在地:滋賀県大津木戸679

由 緒  (安養寺の御住職より拝領した資料)  

当山の創立は、木戸城主、従五位下、佐野越中守の豊賢、兼山徒十乗坊。佐々木山の内判官満高に属し、軍功ある後、薙髪して、浄閑という。同人(浄閑)、貞和四威子年(1348)、当山に天台宗安養坊を建立。門珠(門流・門徒の意か)を修行せしめ給う。応永十一年申敏(1404)六月一九日、卒す。

豊賢二世の子、俊賢、寺地を検地とせらる。(境内。三十間、十五間、一反五畝歩)。本尊阿弥陀仏は。僧源信の作なり。当寺は、即ち佐野氏の菩提寺たり。元亀三年(1572)、信長の兵燹(へいせん)に罹り焼亡す。天正九年(1581)、木戸城主、十乗坊栄有法師(秀方)再建して、浄土宗安養寺と改められ、幻誉信窮を中興開山とす。本尊は、聖観世音にして僧行基の作なり。創立は、比叡山の峰にして、承和五年(838)浄安の開基なり。これまた、信長の焼亡する所となる。天正九年十乗坊再建して、安養寺の末派とさらる。十乗坊栄有法師は、慶長六年(1示すこと601)正月十六日卒す。当山境内に墳墓あり。

干時明治三十年五月、古書に依り由緒の概略を示すと云繭。     現住 長谷尾天信誌

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・領主佐野氏の菩提寺であって、永禄、元亀のころまでは野離子川の辺りにあったという。 現在の本堂は、寛政6年(1794)の再建であり、境内には領主佐野十乗坊栄有の墓がある。

 

 

     

西方寺 

         西方寺参道 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、『近江輿地志略』、安養寺の由緒、樹下神社の由緒、『信長公記』『当代記』『佐々木南北諸氏帳』 

 本日の訪問ありがとうございす!!


和邇城(和迩城) 近江国(大津・志賀)

2016年04月22日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町高城)和邇高城   map:http://yahoo.jp/xUnObU

現 状:山林

区 分:平山城

築城期:室町期(1500年頃)

築城者:和邇越中守信方

遺 構:曲廓・土塁・基壇。

標 高:185m   比高差:30m (公園より)

目標地:和邇高城のニュータウンの「虹ヶ丘給水タンク・ガスタンクと隣りに公園」

駐車場:公園に駐車

訪城日:2016.4.20

お城の概要

 JR和邇駅から、西丘陵にニュータウンがある、中央の道を頂部まで行くと南側に「森林」と「和邇高城の虹ヶ丘給水タンク・ガスタンクと隣りに公園」がある。

 この平山の森林が城址で、住宅地の中心に山林が残り、城道が造られているが、城跡は自然の地形利用した非常に古い作事で、詰め城・砦・物見廓?の様相で整備されていないが。

 滋賀県志賀(現・大津市)にあたる。大和の豪族和邇氏の部民が設定されていたことによる地名とされ,隣接する小野の和邇大塚山古墳の被葬者は和邇氏系の有力者と推定されている。

 

曲廓は東中腹20m×20m程の平削地と思われ、土塁・切岸で防御(現在はニュータウン化で防御性は感じないが)

お城とへは公園の角から、登城路がある。

あるいは、南山麓の大津赤十字志賀病院(和邇中)の隣の稲荷社への参道から、稲荷社~左への登城路がある。

お城の歴史

 和邇氏代々の居城で 築城期は不明だが、城があった旧高城村は足利尊氏により園城寺に寄進された後、1500年代に和邇越中守信方らによる統治が始まったとされる。

『佐々木南北諸氏帳』には、「志賀郡 和邇城主 佐々木隋兵氏族 和邇丹波守秀俊・和邇兵内左衛門貞季・和邇兵吉・和邇豊五郎実勝・和邇金蔵成覚・和邇越中守秀正」の名を記す。

『多聞院日記』には、和邇城(志賀町) 元亀元年7月6日の条「一、去廿日信長ワニ、カタタニ被陣取了」と記す。

『細川両家記』には、和邇城(志賀町) 永禄12年9月23日条「信長は帰国せんとて坂本迄下給へば、越前衆わに・片田迄上候て陣取」と記す。

『和邇町誌稿』では、「中世末期に和邇金城坊なるものがこの地に陣屋を築いた」とされている。

信長公記 巻三 元亀元年 能戦  観世大夫、金春大夫立合に御能の事

ーーーー京での予定を終えた4月20日、信長公は軍兵を率いて京を進発し、まっすぐに越前をめざした。その日は坂本を越えて和邇で宿陣し、翌日は高島郡の田中城に宿泊した。22日になって若狭に入り、熊川の松宮玄蕃領を経て23日佐柿の粟屋越中守勝久の館に着陣した。

巻五 元亀三年

 この年3月5日、信長公は江北に出兵して赤坂に陣を取り、翌日横山まで進んだ。そして7日に小谷と山本山の間五十町の地に進出し、ここに陣を据えて与呉・木本方面を放火した。江北の諸侍はかねがね、「与呉・木本へは、途中節所を通らねばたどり着けぬ。もし織田勢かの地を攻むることあらば、われらはその場所にて一戦に及ぶべし」と広言していたが、結局足軽の一兵さえ出すことはなかった。信長公は何ら妨害を受けることなく作戦を遂行し、9日無事横山に軍勢を収めた。翌10日は常楽寺に宿泊し、11日になって志賀郡へ出陣した。信長公は和邇に陣を構えて木戸・田中(比良城=田中左衛門尉定光の城=現福田寺)の両城を囲ませ、付城を築いて明智光秀・中川重政・丹羽長秀の三名を置いた。

和邇氏は、

 大和国添上郡和邇より起こり、孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命から出たと称する皇別氏族とされます。その本宗家は、和珥臣ですが、継体朝頃に途絶えたため、添上郡春日に遷った支族の春日臣の方が本宗家に取って代わりました。春日臣から、和邇や和邇部を名乗るものが出たので、春日から和邇に改姓したというような記述になったと思いますが、本宗家は別にありました。

 和邇氏の実際の始祖は和邇日子押人命だと思われ(孝昭天皇後裔は後世の仮冒)、元々の姓は「鰐積」(安曇、穂積、出雲積などと同じ)だったと思われます。だからこそ、春日臣から和邇を名乗る者が出たのだと思います。「鰐」をシンボルとする海神系の氏族集団でしたので、本来は安曇同族で、綿津見豊玉彦が遠祖であったはずです。


背後の林城址頂部

ブルーシートの所から山にはいる。この公園内の空きスペースに駐車

三角点

更に進むと、南山腹に稲荷社が祀られている。

山腹の稲荷社、曲廓跡か?

参道は南山麓の大津赤十字志賀病院の方面へ

 

戻ります

ツツジが2種咲いてました。

大手城道だったか?

城底道が、稲荷社まで

稲荷社も曲廓跡か?

稲荷社の右へ登り、頂部へ

コイワカガミ頂部の基壇横矢か?武者隠し土塁(頂部北東部)

曲廓部か?公園の南側斜面(造成用で削土跡)

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1・9「旧滋賀郡の城」、『日本城郭大系』11、『信長公記』、『多聞院日記』、『細川両家記』

  本日の訪問ありがとうございす!!


岡村城    近江国(栗東)

2016年04月21日 | 平城

お城のデータ

所在地:栗東市岡   map:http://yahoo.jp/NPvC-R

現 状:圃場

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:宇野弥三郎家永

遺 構:圃場整備で消失、城跡碑・駒札

目標地:呉羽テック・治田郵便局の西方直線約400m・地山古墳

駐車場:城跡碑前に路上駐車

訪城日:2016.4.21

お城の概要

栗東市岡の田んぼのあぜ道に「城跡碑と駒札」ポツンと建つ(新幹線と名神高速道路の間に)

江戸時代以前の官道、東海道に接し、通行を監視する要地にあった。場所は小槻大社のお旅所、若宮神社の西側の高台にあった。が、圃場整備で遺構は消失、「平成十九年一月二十一日 岡自治会」によって、城跡碑と駒札が設置された。

お城の歴史

現地駒札説明板・城跡碑説明文には、

 初代城主は田上の関ノ津城宇野源太郎の子で弥三郎家永といった。家永は室町幕府の初代将軍足利尊氏に属していた多くの戦功で宇野丸の太刀と岡の地を与えられ、この地に城館を築いた。

 暦応四年八月二十八日戦死の記録があり、築城はそれ以前のことである。子孫は代々小槻大社の榊本衆を務めている。(駒札の説明文)

 城跡碑には、「岡村城址 室町時代の暦応年間(1338~1342)宇野彌三郎家永が、戦功により足利尊氏から宇野丸の太刀と岡の地を与えられ入封したことに始まる。江戸時代初期まで存在したようです。」

「所在地 滋賀県栗東市岡 四二四番地(旧ニ三番地)この城は当時都と東国を結ぶ主要な街道であった、伝東海道の街道坂(通称かとさか)に南面して築城された中世城館であったと推定されてる。。

 

 「岡村城址 室町時代の暦応年間(1338~1342)宇野彌三郎家永が、戦功により足利尊氏から宇野丸の太刀と岡の地を与えられ入封したことに始まる。江戸時代初期まで存在したようです。」

 

「所在地 滋賀県栗東市岡 四二四番地(旧ニ三番地)この城は当時都と東国を結ぶ主要な街道であった、伝東海道の街道坂(通称かとさか)に南面して築城された中世城館であったと推定されてる。

参考資料:現地駒札説明板、現地城跡碑説明文

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百間堤(南比良)

2016年04月20日 | 探訪「近江水の宝」

地元住民による案内板

四ツ子川の「百間堤」(大津市大物地先)

見学日:2016.4.20

 JR湖西線志賀駅から線路に沿う道を高島市方向に1kmほど進むと、大物(だいもつ)の集落に入ります。集落内の道を山手(西側)に進んで国道161号を越え、湖西道路志賀バイパスの下をくぐり抜けます。山手の別荘地帯には進まず、右折して志賀バイパスの側道を高島市方向に進み、左折して山に向かう林道に入ります。坂道をしばらく登ると突然左手に巨大な石塁群が姿を現します。この石塁が四ツ子川の百間堤(ひゃっけんつつみ)です。

 「大物区有文書」や『近江国滋賀郡誌』(宇野健一1979)・『志賀町むかし話』(志賀町教育委員会1985)などによると、四ツ子川が嘉永5年(1852)7月22日卯刻(現在の暦でいうと9月6日朝6時頃)に暴風雨で大規模に氾濫し、下流の田畑や人家数戸が流失する被害が出ました。四ツ子川は集落の上側(西側)で左折して流れているため、それまでも暴風雨や大雨でしばしば洪水を起こしていて、下流の集落や田畑に被害をもたらしていました。そのため、住民は藩への上納米の減額をたびたび役所に願い出ていました。

 そこで、当時大物村を治めていた宮川藩(現在の長浜市宮司町に所在)の藩主堀田正誠は、水害防止のために一大石積み工事を起こすことにしました。若狭国から石積み名人の「佐吉」を呼び寄せて棟梁とし、人夫は近郷の百姓の男女に日当として男米1升、女米5合で出仕させました。1m前後の巨石を用いて長さ百間(約180m、ただし実測では約200mあります)、天場幅十間(約18m)、高さ五~三間(5.5~9m)の大堤を、5年8ヵ月の歳月をかけて完成させました。

 

集落用の用水路

 百間堤は崩壊することなく現在でも当時の姿をとどめ、その迫力には驚かされます。また、下流の生活用水や水田の水源用に堤を横断して造られた水路は、石造建築の強さと優しさが表れています。百間堤に続く下流部の堤は女堤(おなごつつみ)とよばれ、女性でも運べる程度の石で造られています

 平成25年(2013)10月15・16日に滋賀県を通過した台風26号は、県内各地に多くの被害をもたらしました。大津市北小松の北比良山系から楊梅滝(第116回)を経て流れ下る滝川も、JR湖西線の鉄橋付近で氾濫し、周辺の別荘地は床下まで浸水しました。JR湖西線蓬莱駅付近から北小松駅付近にかけては、比良山系と琵琶湖に挟まれた狭隘な地形で、山地から流れ出る大小の河川が小規模で急な扇状地を形成しています。過去に幾多の被害に見舞われた集落は、扇状地の扇頂部の斜面と湖岸に沿った平坦地に集まっています。こういった洪水や干ばつ被害から集落を守った江戸時代の大規模な治水工事の歴史遺産を、訪ねてみることにしましょう。

参考資料:滋賀県文化財保護協会

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