城郭探訪

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隠岐城 近江国(甲賀)

2014年05月31日 | 居城

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。 義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

所在地:滋賀県甲賀市甲賀町隠岐字門ノ内(大岡寺)  map:http://yahoo.jp/472LQc

遺 構:郭、土塁、櫓台、空堀

現 状:寺地、山林

区 分:丘陵城

城 主:近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

標 高:207m   比高差:20m

目 標:大岡寺

駐車場:大岡寺境内

訪城日:2014.5.27 

佐治川の北岸の舌状部に築かれた隠岐城は、周囲の田圃との、比高差10m~30m。

隠岐支城群は佐治川の対岸に密集している、

歴 史

『甲賀郡志』によれと、城主は隠岐氏とある

隠岐家は、甲賀二十一家は、甲賀五十三家の中でも六角氏より感状を貰うほど信頼の厚かった二十一家の1つ。後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

「近江守護佐々木秀義五男佐々木五郎隠岐判官義清城跡。元弘年中義清十一世孫佐々木兵庫頭清三再城跡。義清領地故隠岐村名付山下一円門之内云々。」
                               ー 城跡に立つ大岡寺石柱裏の碑文 ー

 佐々木秀義(本名 源資長)は源為義の猶子。平治の乱後、近江佐々木庄領家・預所職を没官され、奥州藤原秀衡を頼り東下するも途中秀義の武勇に惚れていた相模渋谷庄司重国に引き留められ娘婿となる。子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親などの豪族級東国武士の娘婿になった。

佐々木義清の子孫は隠岐・出雲の守護職を世襲し、鎌倉幕府の有力御家人として地歩を固めた。義清孫の秦清の子息のとき義清流佐々木氏は二流に別れ、次男時清は隠岐守護職を継承し隠岐佐々木の祖となり、三男頼秦は出雲守護職を継承し塩冶氏の祖となった。
元弘年中(1331~33)といえば南北朝期であろうか、清三が城として再び要害化したようだ。

北近江半国守護京極氏の重臣たる隠岐氏の城跡は、今は寺院になっており、僅かに全面に残る土塁の残片と削平地のたたづまいが当時を偲ばせている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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横関館 近江国(甲良)

2014年05月31日 | 居館

慰霊碑

 

甲良:正楽寺の勝楽寺に石田三成に使えた横関三河守の墓碑が残る。

 

 

勝楽寺山城の麓の勝楽寺は、佐々木道誉が晩年を過ごした寺で、お墓もあるが赤報隊に燃やされた歴史がある。

また石田三成に使えた横関三河守の墓も今に伝わっている。

佐々木道誉の屋敷は麓に広がり、その跡地には、御舘、舞台などの石碑が建っている。

勝楽寺山城は、寺の裏山に高築豊後守が築いたもので、湖東平野を一望できる要地。登城途中にお稲荷さまがあるが、謡曲『狐釣』の舞台として、お稲荷さまが祀られています。

所在地:犬上郡甲良町横関    map:http://yahoo.jp/zhSZlW

現 状:宅地、寺領

遺 構:供養塔、堀跡(せせらぎ用水路)

区 分:居館

築城期:豊織期

築城者:横関氏

訪城日:2014.5.28

歴 史

 領主であった横関三河守が、関ケ原の合戦で石田三成方についたため、徳川軍に追討され、逃げのびる際、里人に預けられた観音様。

 里人は十八日講を作り観音堂を守ってきた。甲良町の横関の地域の特産品として開発した清酒「夢かんのん」は、甲良町で収穫される良質の米を使い、横関三河守の子孫が経営する長野県松本市の醸造会社が醸した純米酒という。

 

横関観音堂(背後より)

隣には地名になっている「横関三河守正資」公供養塔があります。

 

証得寺:菩提寺カ?

八幡神社 :犬上郡甲良町横関

御祭神 應神天皇 甲良親王
 
御神紋 左三ツ巴
 
御由緒
創祀年代不詳。
社伝によれば横関三河守正資此所に居城する頃氏神として勧請した。明治44年郷社甲良神社に合祀。昭和22年旧来に復した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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平子館 近江国(甲賀・土山)

2014年05月31日 | 居館

 

所在地:滋賀県甲賀市土山町平子小字森添(津嶋神社)

  map:http://yahoo.jp/DxzcV6

区 分:居館

遺構:土塁

築城期:

築城者:

目標地:津嶋神社

訪城日:2014.5.27  

 平子館は、平子地区北西部にある天秀寺隣りにある津島神社から東側の平子地区集会所までの一帯にあったと比定され、   

 神社境内右手に低い土塁(下部が後世の石積み)    

歴  史  

詳細不明。

   津嶋神社と天秀寺一帯が館跡と見られている。

 津嶋神社の東側にわずかに空堀跡と見られる窪んだ地形が残っている。

西端の残された土塁

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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青龍山(せいりゅうやま)砦 近江国(多賀)

2014年05月31日 | 

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町敏満寺  map:http://yahoo.jp/UcC2tw

区 分:山城(砦)

現 状:山林、胡宮神宮磐座(奥ノ院)

遺 構:曲輪、土塁、岩土塁、虎口、茀土塁、櫓台、

標 高:312m    比高差130m

築城期:

築城者:

訪城日:2014.5.27

お城の概要

 幹線道路や集落にほど近い山で胡宮神社の磐座が山頂に鎮座する。近年参道(ハイキングコース風)再整備さて比高130mも、東側の伐採・植樹で多賀町の全容の眺望が望む。遺構は山頂部に小規模に残る。縄張は「く」の字形をしていて、北西部は周囲に土塁をめぐらし、北方に虎口、中心に櫓台程度の盛りあがりが確認できる。しかし相当風化していて判りづらい。南東の削平地の先端には物見岩らしき遺構が残る。

歴  史

織田信長に抵抗する浅井氏や六角氏の残党と連携した宗門一揆衆が立て籠もったという伝承があるが、詳細は不明である。 敏満寺城の城域は西山麓の胡宮神社まで、南1kmには勝楽寺城があり、こうした城に何らかの関係があったことは間違いなさそうである。敏満寺城の詰め城カ!

近年参道(ハイキングコース風)再整備され、 

道路両側に、駐車5~6台可! 登り口:http://yahoo.jp/YmroWg

 

 

 

 

 

 

 

頂部 城域へ 

尾根の北端に、南北50m、東西30mの曲輪がある。曲輪周囲には高さ1mほどの土塁が築かれた単郭の城である。
 曲輪の北側には食い違い虎口が明瞭に残っている。南側にも虎口があるが、こちらは平虎口で、北に大手を開いていたのではないかと考えられる。

 

主郭の虎口 

胡宮神社の磐座

下山

親切階段は380段+旧30段 

・・・国道307敏満寺南の交差てんより(遠望)

参考資料:

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佛生寺城 近江国(彦根)

2014年05月30日 | 山城

所在地:彦根市仏生寺町  map:http://yahoo.jp/YS_RPF

区 分:山城

現 状:山林・廃村

遺 構:矢倉台、曲郭、土塁

築城期:南北朝期

築城者:畑氏

城 主:畑 城左エ門

訪城日:2014.5.9

 

お城の概要

 一説には「年貢道」と云われる裏街道が近くを走っており、間道の押さえとして築かれたとの考えられる。

 多賀の町から彦根鳥居本に間道の押えの砦・城して利用、中山道の間道の監視目的の城であるという側面はあり、こうした間道を押さえるだけなら小さな砦・城である。  

  「ふるさと鳥居本」(彦根市鳥居本学区自治会刊)の仏生寺の記述には「金亀城(仏生寺城) 鳥居本村大字仏生寺の山上にある。今は城山(引用者者※的場。下屋敷、中屋敷、上屋敷、内屋敷、殿屋敷、大街道、浄土山、看観など総称して城山)と称す。また其の南方なる小字勘定谷にも一砦跡あり城跡と伝わる」とある。

 城山と称する山地は現在山麓の小字坂屋へ挙家移転した旧仏生寺の集落で、いわゆる家屋敷跡であるが、その一角に城跡と称すにふさわしい遺構が残る。櫓台跡の小高い凸地を残して削平され、南へ向けて舌状に張り出している。これが佛生寺城の中枢であった。

 そこから谷を隔て南尾根筋に「ふるさと鳥居本」にある一砦跡が存在するが、その遺構は山尾根を削平、尾根と並行して土塁を設け120mにも及ぶが明確とはいい難い。

歴 史

 佛生寺城主を『淡海国木間攫』には、畑 城左エ門としているが、隣村の荘厳寺城主として『大洞弁財天古城主名札』畑 四朗左衛門の名の見られ、同一人物と考えられる。

 No.1佛生寺城

No.2山上砦(詰め城)

間道脇の佛生寺城No.1

石仏 砦跡

見張り櫓か 郭跡   廃村に今も1軒がお住まい削平地・・・郭跡

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』5(旧愛知・犬上郡の城)・『淡海国木間攫』・『大洞弁財天古城主名札』・『ふるさと鳥居本』

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曽我城 近江国(多賀)

2014年05月30日 | 居館

曽我城館に建つ曽我神社

所在地:滋賀県犬上郡木曽字曽我   map:http://yahoo.jp/XCjWaS

築城期:文明17~18(1484~85)年頃

築城者:曽我兵庫允師助

城 主:赤田(曾我)次郎

遺 構::曲輪、墓地、墓碑、慰霊碑

目 標:曽我神社・開蓮寺

訪城日:2014.5.27

お城の概要

曽我城は、木曽集落北側上方にある開蓮寺北西の山中にあったとされる。同じ木曽地区に所在する小林城とは東方山続きで、所在地の北側には芹川ダム湖がある。

木曽地区は旧道がすぐ山麓を走り、山と旧道の狭い場所に集落が建つ。現在は民家のすぐ裏に堤防とフェンスが建設され、フェンスを越えたところに開蓮寺が建っている。この開蓮寺は城主赤田氏の菩提寺だというが、無人化し荒廃している。

 遺跡地図では山腹の急斜面が示されている。開蓮寺の東側山中に「赤田家遺蹟之碑」が建っているが、急斜面で狭い山腹のこの付近に城の施設と思える遺構は見当たらず。開蓮寺北西山中も同様に、急斜面で平削地すらないが、開蓮寺西隣・後方尾根の北の谷筋には平坦地がある。

 曽我神社には曽我祐重と師助を祀る曽我神社が建てられている。

境内には曽我兵庫允の碑があり、隣接する旧永晶庵の墓地には曽我氏代々の墓石がある。

曽我氏代々の墓曽我氏代々の墓石

また集落内に鎮座する曽我神社付近に曽我城があったという説もあるが、こちらも非常に狭い場所である。

曽我神社の東隣の墓地には、城主曽我氏の墓が建つ。末裔がお住まいなのだ。

 歴 史

曽我城は、文明17~18(1484~85)年頃に曽我兵庫允師助が久徳郷の背後の山裾に築いたものとされる。

 曽我氏は恒武平氏の嫡流である平良文の曽孫・千葉介常将の子・常信が相模国足柄郡曽我郷に移り住んだことに始まる。
常信の孫・祐信の子が“曽我の仇討ち”で有名な十郎祐成、五郎時致(ときむね)兄弟である。

 時致(ときむね)の孫に当たる祐重が承久の乱の際、北条義時に属して宇治川の合戦で討死にした功により、子祐盛に犬上郡久徳郷曽我の地頭職が与えられた。

 応永年間(1393~1427)多賀庄に京極道誉の勢力が伸びるおよんで曽我氏は衰退し、替わって赤田信濃守高が越後から赴任して曽我城を本拠とした。

赤田家遺跡の碑

 また、近隣の開蓮寺は赤田氏の菩提寺で、境内には赤田家遺跡之碑が建てられている。
この碑は讃岐丸亀藩最後の藩主・京極朗徹の孫である京極高修子爵によって書かれたとある。赤田家と京極家の繋がりは相当に深いものがあったということか。

多賀氏が勢力を拡大すると赤田氏は河瀬庄八丁村の八丁城(八町城)に移り、曽我城は廃城となった。

その後、久徳郷に城を構えたのが久徳城主・多賀二郎定高である。  

 応永年間(1393~1427)多賀庄に京極道誉の勢力が伸びるおよんで曽我氏は衰退し、替わって赤田信濃守高が越後から赴任して曽我城を本拠とした。

赤田氏の菩提寺「開蓮寺」の後方の山は中腹(現在は、曽我集落の墓地)まで、曽我城(曽我氏・赤田氏)の詰め城であった。か?

    開蓮寺は城主赤田氏の菩提寺だというが、無人化し荒廃している。          

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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小林城 近江国(多賀)

2014年05月30日 | 平山城

 

別 名:小林遺構

所在地:犬上郡多賀町木曽字小林 map:http://yahoo.jp/5cJJoN

現 状:山林

区 分:平山城

遺 構:曲郭

築城期:室町期カ

築城者:小林宗家

目 標:照蓮寺

訪城日:2014.5.27

 

小林城は、彦根市との境 界付近のR306号すぐ北側、木曽小林地区集落西側の丘陵上一帯に築かれていたとされる。

                       

お城の概要

小林集落北西の照蓮寺背後から山中に入り、獣害フェンスを入り、元墓地?を進み、南の尾根へ斜面を登る。ほどなく山頂平坦部に辿り着く。

 標高約165mの頂部は、獣害対策フェンス沿いに南北に約150m。東西50m平削地が広がっている。平削地の山中は下草で、城跡の遺構を確認は困難である、御椀型の城郭で、防御には不安が残る。

 頂部の南方からさらに西方は痩せ細った尾根が東西に続き、湖東平野の堤防のようだ。又平削地の北側は切岸状の谷筋であった。

最近この尾根部に獣害フェンスが設置され、それに伴ってか森林が伐採されていて、彦根方面の遠望が開けていた。城山の北側は水路や池が通り、水源としては良い立地に築かれている。

自然の地形を利用して、東に開口分を(甲賀の単郭のように)、頂部の平削地は詰め城カ?、或いは曽我城の出城カ?

曲郭跡を、後世に墓地として使用いていたか?

  

歴  史

「多賀神社文書」に小林左衛門尉宗家の名がみえるが、その他詳細は不明。

尚、同じ山塊のここから東方約400mには曽我城が所在する。

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査 、淡海の城、多賀文書、

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岩室城 近江国(甲賀)

2014年05月29日 | 居城

   

所在地:滋賀県甲賀市甲賀町岩室字中野(広潭寺) map:http://yahoo.jp/ndJaa6

区 分:平城

現 状:寺地(広漂寺)

遺 構:土塁・虎口(広漂寺裏)

目 標:野洲川 岩室橋~岩室集落内 広漂寺  

築城期:室町期(正応年間)

築城者:岩室家教(岩室大学)

城 主:岩室氏

訪城日:2014.5.27

お城の概要

 岩室集落の中にある広潭寺のある場所が岩室城址だ。 寺の本堂裏(墓地)と庫裡裏に僅かであるが土塁が残っている。

 広潭寺住職の奥方によると、「寺の山門前には沼地と化した堀跡が子供の頃にはあった」

 また、現在は山門の両側に塀があるが、ここには元々土塁があり、塀を修築する前には、甲賀町が建てた史跡案内板があったが、修築後にはその案内板も撤去されたとか。 

寺紋は三つ葉葵

現在は広潭寺の境内となっている。遺構は境内の裏側にわずかに土塁の一部を留める程度である。

 寺の古里の庭園も土塁と印塔が 虎口したの野洲川段丘の平削地石仏の台座少し気になる!楼門の横・・土塀の石積    

広漂寺土塁の裏、野洲川南段丘(遠景)

歴 史  

室町期に、岩室大学により築かれたと伝わるが、詳細は不詳。

又、築城年代は、正応年間(1288年~1292年)岩室家教によって築かれたと云われる。

岩室氏は山中氏の一族で岩室を領して甲賀五十三家の一員であった。

その子孫の岩室貞俊の時、豊臣秀吉に属していたが、天正13年(1585年)紀伊川治水に関して罪をおかし領地を没収されたという。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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平野城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月29日 | 居城

 

 

所在地:甲賀市水口町和野字東岨(平野)  map:http://yahoo.jp/gPqzyk

現 状:寺地(意頼寺)

遺 構:土塁・空堀・櫓台カ

区 分:平城

目標:平野バス停・意頼寺

標 高:199m    比高差:0m

築城期:

築城者:

訪城日:2014.5.27

お城の概要

平野城は、野洲川南岸と嶬峨城がある山塊の間で東西に広がる平地の西和野集落内(平野)に所在する。

現在平野城内には意頼寺が建立されているが、この意頼寺を取り囲むように三方に高さ約2m~3m土塁が残っている。南面だけは土塁がないが、土塁の途切れる部分を見ると明らかに破壊されたような断面になっており、本来は約50m×60m四方でを土塁、空堀を含めると75m方形が廻っていた。また東辺の土塁外側には堀跡の痕跡が見られ、(意頼寺の石碑の道路脇まで)空堀も本来は四方を廻っていた可能性がある。

平野城は単郭の居館とみられ、現在は意頼寺の境内となっている。 南側を除く三方に土塁が残っているが、外側の堀は圃場整備によって失われている。集落との比高差はない。

土塁上は建物が建つほど幅が広く、削られ物見櫓でもあったような感じ。

平野城は甲賀郡では数少ない遺構の残る平地城館ではあるが、分厚い土塁が廻る単郭城館は甲賀の典型的な縄張でもある。

歴 史

 佐治氏は甲賀郡佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。甲賀郡は近江国南部に位置し、伊賀と並んで忍者の里として有名なところである。

戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、山中氏、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。そして、業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。

乱世を生きる

 佐治氏の歴史に関しては不明なところが多いが、南北朝の動乱期、佐治河内守基氏と一族が近江守護佐々木道誉に属し、北朝方として活動していた。建武四年(1337)の正月、後醍醐方の勢力が信楽に蜂起した。これに対して道誉は、山中・岩室・美濃部・小佐治ら甲賀武士たちをもって迎撃させた。その後の一連の戦いにおいて、山中道俊が本隊を率い、小佐治基氏は別働隊に属して奮戦したことが『小佐治基氏軍忠状』によって知られる。

 その後、近江国南半分の守護職に佐々木六角氏が補任されると、甲賀郡の武士たちは六角氏の被官に組み込まれていった。佐治氏も六角氏の被官として勢力を維持、応仁の乱に際しては、美作守為氏が六角軍の一翼を担って各地に転戦している。また、為氏は乱の最中の文明二年(1470)、小佐治、伊佐野、平野三ヶ村の氏神である佐治神社の再建を行ったことが棟札に残されている。

 応仁の乱を生き抜いた六角高頼は、寺社領を押領するなどして勢力を拡大していった。幕府からは再三にわたって返還命令が発せられたが、逆に高頼は幕府奉公衆の所領までも押領するようになった。

 長享元年(1487)、将軍足利義尚は幕府の命令を無視し続ける高頼を討伐するため、近江に出陣した。いわゆる長享の乱であり、佐治河内守は三雲氏らとともに高頼を支援して活躍。義尚の拠る鈎の陣を夜襲、大いに武名をあげた。この戦いに活躍した甲賀武士五十三家が甲賀五十三家と呼ばれ、そのなかで高頼から感状をもらった二十一家がとくに甲賀二十一家に数えられ武名を讃えられたのである。

 その後も六角氏は、戦いに敗れると甲賀に奔り、甲賀武士たちの支援を得て勢力を盛り返すということを繰り返した。時代は下剋上が横行する戦国乱世であったが、甲賀諸将の中から甲賀を統一して六角氏を倒して戦国大名に飛躍する者は出なかった。戦国時代、甲賀の武士たちは同名中を組織し、さらにそれが集合して「甲賀郡中惣」という地縁的連合体を結成しており、突出した大名が出にくい環境にあった。いいかえれば、甲賀郡の平和と秩序を維持した強固な自治組織をみずからで運営し、その庇護者として六角氏を立て、その軍事力の一翼を担ったとも考えられる。  

駐車可(生活改善センター)

   意頼寺の裏の土塁の角に物見台があったカ?

平野城館前にバス停「平野」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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今宿堀田陣屋 (甲賀・土山)

2014年05月29日 | 陣屋

八幡神社から東の「ホッタヤシキ」を望む・・・空き地。

所在地:甲賀市土山大野

現 状:空地

遺 構:なし(私有地で破壊カ)

築城者:堀田氏

築城期:江戸期

築城者:堀田伯耆守

訪城日:2014.5.27

今宿城の南、野洲川段丘沿いにある、八幡神社の東側は「ホッタヤキシ」と呼ばれる。「ホッタホウキノカミ」の屋敷と伝えられる。それは、元今宿城にあったものを、八幡神社の東に移ったと伝えられる。

         

 今宿堀田陣屋は、土山町大野のうち、今宿集落の国道を挟んだ南側にあったとされる。八幡神社が建つ東隣りで、現在の空き地である。

遺構らしきものはなく規模なども不明である。

歴 史

当初は北側にあった中世今宿城の跡地に屋敷を構えていたが、のち(江戸期)にこの地に移転したと伝わる。

宮川藩(長浜市)堀田氏13000石は、蒲生郡や甲賀郡に所領が点在していたため、各地に陣屋が設けられていた。

今宿村は、『元禄郷帳』に近江宮川藩領をあり、このホッタヤシキは、宮川藩堀田氏の陣屋である。

 

近江宮川藩は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。

藩史

藩主家は堀田家である。第3代将軍・徳川家光の時代に老中となった堀田氏初代正盛は、継祖母・春日局が乳母を務めた徳川家光が3代将軍となると近習に取り立てられ、家光から重用されて下総国佐倉藩12万石の大名にまで栄進した。正盛は家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信が跡を継いだ。

しかし正信は、万治3年(1660年)に老中・松平信綱と対立したため、所領を没収され改易となった。

 正信の嫡男・堀田正休は父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国吉井藩に封じられた。正休は元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が成立した。

第3代藩主・堀田正陳は若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。第5代藩主・堀田正穀の時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国に替えられたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増であった。この実質加増は文化4年(1807年)2月7日に元に戻された。第6代藩主・堀田正民は絵画に造詣が深かった文化人である。幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。

歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、そして若年寄など幕府の要職を務めているが、藩政における治績はほとんど見られない小藩だった。

歴代宮川藩主

堀田家 譜代。1万石→1万3000石。
  1. 堀田正休(まさやす)【元禄11年(1698年)3月7日藩主就任-正徳5年(1715年)6月29日隠居】
  2. 堀田正朝(まさとも)【正徳5年6月29日藩主就任-享保4年(1719年)8月20日死去】
  3. 堀田正陳(まさのぶ)【享保4年10月18日藩主就任-宝暦3年(1753年)10月4日死去】
  4. 堀田正邦(まさくに)【宝暦3年11月25日藩主就任-安永元年(1772年)6月2日死去】
  5. 堀田正穀(まさざね)【安永元年7月25日藩主就任-文化12年(1815年)2月6日隠居】
  6. 堀田正民(まさたみ)【文化12年2月7日藩主就任-天保9年(1838年)8月19日死去】
  7. 堀田正義(まさよし)【天保9年10月11日藩主就任-天保12年(1841年)8月3日(または9月27日)死去】
  8. 堀田正誠(まさみ)【天保12年9月25日藩主就任-文久3年(1863年)5月12日死去】
  9. 堀田正養(まさやす)【文久3年7月4日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日免官】

幕末の領地

近江国

    • 滋賀郡のうち - 4村
    • 野洲郡のうち - 3村
    • 甲賀郡のうち - 5村
    • 蒲生郡のうち - 5村
    • 愛知郡のうち - 3村
    • 坂田郡のうち - 16村
 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

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今宿城 (甲賀・土山)

2014年05月28日 | 平山城

所在地:甲賀市土山町大野字千代 map:http://yahoo.jp/eUrYsE

現 状:雑木林・公民館・茶園

区 分:平城

遺 構:曲郭、土塁、横堀

目 標:今宿公民館・国道1号線(Honnda Cars土山) 裏

訪城日:2014.5.27

公民館の裏 東側から城内へ

今宿城は土山町大野のうち、その西方の旧東海道に沿って形成された今宿集落の南側にあり、現在は旧東海道と国道1号線に挟まれた位置になっている。

遺構は雑木林の中に、図のようにⅠのみ四方を土塁に囲まれた曲輪が完存していて、横堀を挟んで曲輪Ⅱと土塁bが開墾や造成によって途切れてはいるものの部分的に残っている。

 遺構の北側には公民館が建っているので、都合よく駐車できる。公民館の裏東側より侵入でき、南側Honnda Caesからも車置場に回り込むと、ⅠⅡ間の横堀・土塁が出している(かなり削土(甲賀の平城は私有地のため)、され丸裸であるが遮閉版で何とか防御出来ている)。

両側を土塁に挟まれた横堀は少なく移動し易い。ⅠⅡの曲輪内は全く整備されていない、綺麗に整備された土塁上から見学する。

曲輪Ⅰは約30m四方の方形で、西辺土塁が最も高く、曲輪面からは約7m。南隅に虎口aが開口している。

曲輪Ⅱは北東辺が消失しているが、途中土塁の基底部が残っているため、曲輪Ⅰとほぼ同等の方形曲輪であったと思われる。

東方では途切れた土塁の断層面が見えていて、河原石を含む盛土が観察できる。北西辺には2ヶ所の開口部があり、虎口跡だと思われる。
土塁bは本来、公民館付近を取り囲む曲輪の南辺であることが想像できる。

この遺構の他にも、西方の集落内に一部土塁が残っている。また古い空中写真には現在では残っていない土塁が点在して写っているようで、本来の城の規模はもっと大きかったことが伺える。

つまり今宿城は、曲輪それぞれが独立した同名中の城であったと考えられる。

今宿公民館

入城口(公民館裏)              

国道1号線【honnda 土山】の裏山・・・中央虎口(街燈の下)

国道側南の虎口  アルミホイルを台座に祠 郭内 郭内    東北の隅の土塁(破壊・開墾し茶畑に)

 

江戸時代になって、この地は宮川藩堀田氏領となり、一時期今宿城跡地に陣屋屋敷が構えられていたが、のちにその南方へ移動したと伝えられている。

国道1号線の南側の八幡神社の東へ 今宿堀田陣屋 (甲賀・土山)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

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嶬峨城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月28日 | 平山城

 

所在地:滋賀県甲賀市水口町嶬峨字山屋敷

遺 構:曲輪、土塁、井戸

区 分:山城

築城者:儀俄俊光

築城期:室町期(元久年間)

訪城日2014.7.27

 

嶬峨の集落南にある城山(小高い丘)の山麓に玉泉寺があり、寺の一段上に稲荷神社がある。

   嶬峨城は、この稲荷神社の左手奥。     
  甲賀の居館によく見られる方形単郭の縄張りで、約50m四方、高さ約3m(内郭部)の土塁が廻り、その周囲には空堀が廻らされている。 ブッシュが内郭部を覆っているが、土塁と空堀はなかなか見応えがある。

 この城は「山屋敷」と呼ばれているところで、嶬峨には他に備後城・堀田陣屋がある。 
                                     

歴 史

 嶬峨城は、元久年間に儀俄俊光によって築かれた。 儀俄氏は、蒲生氏の分流で嶬峨庄の地頭職を代々であった。

 儀俄氏は、室町時代には近江守護六角氏の被官で、長享元年には鈎の陣では戦功をたて、甲賀53家(甲賀忍者)に数えられている。

 永禄11年、儀俄氏の主家観音寺城を、織田信長に攻められ、六角義賢・義弼父子は敗れて六角氏は滅亡するが、蒲生氏は信長に通じていたため、儀俄氏も本領安堵された。

 しかし、天正13年に甲賀破儀のため城は破却、領地没収となり儀俄氏は滅亡した。 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

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一円屋敷 近江多賀

2014年05月26日 | 居城

 

              

一圓屋敷・多賀「里の駅」

一圓家は江戸時代の庄屋で、屋敷は安政4年(1857)に建てられたとされ、平成20年に所有者の一圓六郎氏よりNPO法人彦根景観フォーラムに譲渡された。現在は同団体と、地元住民らで組織の多賀クラブとが結成した団体「多賀『里の駅』」が地元の町おこしの拠点として活用している。敷地1,678㎡、建物面積が約560㎡。3つの蔵がある。

一圓家年表

寛文 1661年 初代 高重 江戸時代はじめに初代(1672年没)
    2代 高義 杢太夫(もくだゆう)を世襲(1705年没)
正徳 1711年 3代 高次(友之助)(1758年没)
宝暦 1751年

4代 秀綱(弥惣八)(1795年没)

寛政 1789年 5代 秀経 (杢太夫)(1793年没)
享和 1801年 6代 秀成 (弥惣八)(1808年没)
文化 1804年 7代 秀房 (杢太夫)「庄屋」の初見(1829年没)
天保 1830年

8代 有秀 (杢太夫)「庄屋」の初見(1881年没)
安政4年1月、現在の場所で屋敷の普請開始。5月11日、井伊直弼の領内巡見。 

明治 1868年 9代 秀延 (弥太郎)(1891年没)
   

10代 秀褒 (杢太夫)
明治14年生、26才で郡会議員。その後、大正期まで行政委員を歴任。 醒井村より国会議員であった江龍清雄(えりゅうすがお)の二女が嫁入り。明治政府の重鎮であった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)との交流。東久世は一圓屋敷1階次の間に掲げられた扁額「対山軒」の筆者。明治24年、屋敷は茅葺きから瓦葺きへ。2階の増築。明治34年~40年頃、日本画家の内海吉堂(うつみきちどう)が滞在し、衝立や戸棚などに絵を描く。

昭和 1926年 11代 菊太郎 
    12代 六郎 現当主 

伊勢と多賀のつながり
 実は一圓屋敷には、江戸時代に京都で活躍した小澤華岳の「おかげまいり絵図」(天保9年(1838年)が飾られていた。これは、天保元年(1830年)に427万人もの人々が押し寄せた伊勢神宮への参拝の喧騒を生き生きと描いたもので、なぜこの絵が多賀の一圓屋敷にあるのか謎だった。

伊勢と多賀のつながりが見えた。

「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度 熊野に三度 お多賀さんへは月詣り」

と民間で歌いはやされたフレーズには、現代風に言えば、伊勢神宮との本店・支店関係における正統性を強調しつつ、巧みなプロモーションによって参詣客を増やす「フォロアーの戦略」がうかがえる。
 そういえば、彦根から多賀に至る道にも「伊勢」や「鳥羽」という名前の店舗や旅館があることに気づいた。地域あげて、大プロモーションを展開していたのかもしれない。

   

一圓氏

一圓 但馬守 (いちえん たじまのかみ、生没年不詳)

は、戦国時代の武将。宇多源氏京極氏支流であり、始めは土佐一条氏の家臣として後に長宗我部氏に仕える。

初代は一圓氏直。父は一圓隼人、弟に一圓帰部。官位は但馬守。一円とも名乗る。安芸羽根城城主。

 生涯

一圓氏は滋賀県犬上郡多賀町一円より派生した京極氏の一統であり、一条氏が応仁の乱で土佐に一圓氏直が付き添い共に下向した。長宗我部氏の史料である一宮興人夫割張に但馬守の名前がのっており、土佐一条氏滅亡後には長宗我部氏に仕え、安芸羽根城城主として働いた。

弟の一圓帰部は長宗我部氏滅亡後に浪人したが、長宗我部盛親が大坂の役にて参戦することに至ると、これに参戦し盛親と共に戦うも敗戦し、その後は阿波へと逃亡した。

一圓氏はその後土佐で帰農し、直系の子孫は高知県田野町一円に、滋賀県の宗家である一圓氏は現在も犬上郡一円に在住しており、彦根藩の庄屋として生き残り明治維新後には地元で石炭の卸売り業を営んでいる。

また、高知の一族には高知市初代市長となり、後の高知商業の前身となる簡易商業学校の設立にも携わった一圓正興がいる。

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甲賀武士団の城

2014年05月26日 | 戦国山城


 甲賀武士の生立ちから。

長享元年(1487)、足利将軍:義尚による近江守護:六角高頼の追討において、六角氏は甲賀に拠り、甲賀武士団(甲賀忍者)が将軍勢を敗走させている。

この結果、甲賀武士が甲賀の領主となって六角勢の中核となり、甲賀五十三家と呼ばれるまでに至った

特筆すべきは、「惣中」という自治組織を取入れ、甲賀共和国を造り上げていたことである。城については、村を見渡せる高所や交通要所に小さな城を多数造り、ネットワーク化して安全確保を図っていた。

しかしながら、織田信長の軍事力には敵わず、大半が焼き討ちにあっている。

更に、秀吉の雑賀攻めに反抗したため、甲賀郡惣中は解体されてしまった。

  さて、永禄11年(1568)、六角承禎は織田信長の上洛を阻めず、観音寺城も落とされて三雲氏を頼っている。元亀元年(1570)~天正2年(1574)にかけて、承禎は織田勢に追われ又も望月氏を頼っている。この望月氏の拠点が望月城ではないかと推測されている。

 

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講師:中井均県立大教授 講座「東近江市域を中心とした中世の山城について」

2014年05月25日 | 歴史講座・フォーラム

八日市郷土文化研究会会長挨拶

講座テーマ

講師紹介(八日市郷土文化研究会会長」

 

熱弁の講師は中井均県立大教授

講師紹介

 講師は「近江の山城―ベスト五十を歩く」や「日本の城」など多数の著者であり、近江を中心とした山城の実地調査や現地説明会を開催するといった幅広い活動に取り組んでいる、中世の山城研究の第一人者である中井均滋賀県立大学教授。

 

https://www.facebook.com/photo.php?v=296928727136376&saved

 

はじめに

・今、お城は面白い⇒大地に刻まれた歴史遺産【戦国時代が体感できる】

・中世の城とは、「土」かた「成」るもの【土木施設:普請】⇒曲郭、切岸、土塁、堀切といった防御施設

・滋賀県では、1981年から10年間にわたって県内に所在する中世城館跡の悉皆調査を実施⇒県内「に約1300ヶ所もの城館跡の存在することが明らかになった【近江は湖国であるとともに「城の国」でもある】

◆戦国時代最大の城「観音寺城」・・・(詳細略)

◆土豪たちの山城

・布施山城

・大森山城

・雪野山城

 後藤屋敷

◆軍事的最前線の城

・佐生城

・井元城

◆おわりに

・近江の城を語らずして、日本の城は語れず

・城跡は親しみやすい遺跡⇒各地で整備がさかん【まちづくりの核】

・郷土への誇り、愛着、自信」へ【歴史あるあるまちは、魅力あるまち】

・滋賀県に残された1300もの城跡のストーリー

  中世の山城跡が多くあることで全国的にも有名な近江の中でも、東近江市域には観音寺城など多数の城跡がある。

講演では、城跡の現状と歴史的背景がわかりやすく解説された。

参考資料:講座レジュメより

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東近江市の中世山城 八日市郷土文化研究会

=講師は中井均県立大教授 25日 八日市コミセンで=

◇東近江
 八日市郷土文化研究会は、講演会「東近江市域を中心とした中世野の山城について」を二十五日午後二時から八日市コミュニティセンターで開催する。
 中世の山城跡が多くあることで全国的にも有名な近江の中でも、東近江市域には観音寺城など多数の城跡がある。講演では、城跡の現状と歴史的背景がわかりやすく解説される。
 講師は「近江の山城―ベスト五十を歩く」や「日本の城」など多数の著者であり、近江を中心とした山城の実地調査や現地説明会を開催するといった幅広い活動に取り組んでいる、中世の山城研究の第一人者である中井均滋賀県立大学教授。
 参加費は三百円(資料代)。問い合わせは、同研究会藤本長蔵さん(0748―56―1087)まで。

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