城郭探訪

yamaziro

深川城(岩ケ谷邸) 近江国(甲南)

2014年09月30日 | 丘陵城

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町深川小字猪ケ谷  (旧甲賀郡甲南町深川)   map:http://yahoo.jp/0cyk14

別 名:岩ケ谷邸

現 状:森林

区 分:丘陵城

築城期:鎌倉期

築城者:

城 主:鵜飼源左衛門の居邸

遺 構:曲輪・土塁・竪堀

比高差:30m

目標地:希望ヶ丘保育園

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.30

お城の概要

JR草津線の甲南駅の北の踏切を東へ渡り正面が城址。

お奨め:お城に入るのは、希望が丘団地殻の一番西端宅の西から平削地(曲郭)、土塁・櫓台(頂部)

 JR踏切を渡り正面を右折、50m先に墓地(駐車場)から、直登。

希望が丘側の道沿いに現地まで行くと周囲に住宅団地は迫り、段郭が三つ確認できる。東側の道沿いからは、段郭が三つ確認できるが、入城は不可。

 

歴 史

『甲賀郡史』に岩ケ谷氏邸阯、鵜飼源左衛門の居邸。伝承地。

お奨め:お城に入るのは、希望が丘団地殻の一番西端宅の西から平削地(曲郭)、土塁・櫓台(頂部)

希望が丘側の道沿いに現地まで行くと周囲に住宅団地は迫り、段郭が三つ確認できる

深川城(鵜飼源左衛門の居邸)遠望・・・矢川神社近くから。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀郡志、甲賀の城、遺跡ウォーカー、

本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


市原Ⅱ城  近江国(甲南)

2014年09月29日 | 

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町市原字中垣外  (旧甲賀市甲南町市原字中垣外)   map:http://yahoo.jp/9wlTHC

現 状:宅地

区 分:平城

築城期:15世紀頃

築城者:

城 主:

遺 構:

目標地:「市原会議所」南東の民家(甲南町市原714宅)

駐車場:市原会議所駐車場

訪城日:2014.9.27

城域内の遺構か

 

お城の概要

甲南町市原には3つの城館が分布しているが、市原Ⅱ城と仮称された当城は市原集落内北東寄りに所在する。遺構は個人宅敷地内の南西側に近年まで土塁の一部が残存していたが、平成13年(2001)の新築建設に伴い完全に消滅した。ただその際に町教委による発掘調査が行われ、15世紀代の遺物が出土した。
また地元の伝承によると、かつて土塁の外側には「ソウボリ」と呼ばれる堀や、北東辺に土塁が存在していたようだ。このことから土塁と堀に囲まれた約60m四方の単郭方形の城館であったと推測される。

 歴 史

 「南山巡狩録」には、正平15年(1360)9月、石堂利部頼房は仁木三朗義任を総大将に率いる伊勢・伊賀の軍勢2000余騎が近江国に打越、甲賀郡葛木山に陣をとる。佐々木大夫判官高頼の籠もる市原城を攻撃したことが見える。

 佐々木方は目加田・楢崎・儀俄・平井・池田赤一揆を一手とし、青地・馬淵・伊庭・三井・三上黄一揆を一手とし左手の河原に陣を・・・佐々木は吉田・隠岐・黒田・鈴村を初として宗徒の者を馬廻にひかへて備えたり・・・云々

「太平記」延文五年(1360)、佐々木高秀方が守る。


ただこの市原城が、市原地区に所在する市原Ⅱ城や古屋敷館の可能性もある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!   


古屋敷館    近江国(甲南)

2014年09月28日 | 居館

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町市原字城  (旧甲賀郡市甲南町市原字城)   map:http://yahoo.jp/a-3hNJ

別 名:市原城

現 状:竹林

区 分:居館

築城期:鎌倉期

築城者:

城 主:

遺 構:曲輪・土塁・横堀

目標地:西願寺・美須美神社

駐車場:杣川に注ぐ滝川の川岸

訪城日:2014.9.27

水田の中にポツンと竹林があります。竹林の中は藪状態ですが、土塁がコの字状に残り、外側に堀跡らしい窪みが残存。

お城の概要

古屋敷館は、市原集落の北はずれ、杣川に注ぐ滝川が西辺で接している。すぐ北方では滝川を挟んで目と鼻の先に杣中城が対峙する。
「甲賀郡志」では、ここが「市原城址」としている。

現在残る遺構は、概ね北半分だけと推測され、竹林に覆われている。

縄張は大半を占める主郭Ⅰは南側を除き25mの土塁で三方囲み幅9m・高さ2mが残存、土塁で区画され一段低い曲輪Ⅱは三角形が設けられ、それぞれが土塁に囲まれている。土塁の外側にはの横堀が幅8m、深さ2~3mにもおよぶ、さらにその外周には土塁がめぐり守備している。

南側は田地として開削・消滅しているため、垣根がされている。

 

「太平記」には、正平15年(1360)仁木義任率いる伊勢・伊賀の軍勢が、佐々木高頼の籠もる市原城を攻撃したことが見える。ただこの市原城が、市原地区に所在する市原Ⅱ城や市原城の可能性もある。

曲郭Ⅱ

竹林の外、北隣に井戸(危険)

東側土塁

南側から曲郭Ⅰへ

駐車スペース川岸

北は滝川を挟んで目と鼻の先に杣中城。 市原集落の北はずれ、杣川に注ぐ滝川が西辺で接している。

古屋敷館遠景

西願寺(東・・・直線150m)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、日本城郭体系

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市原城  近江国(甲南)

2014年09月28日 | 平城

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町市原字城  (旧甲南町市原字城)   map:

現 状:工場・田地

区 分:平城

築城期:鎌倉期

築城者:

城 主:

城 域:

遺 構:城郭・土壇

目標地:和晃技研の工場地

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.27

お城の概要

市原城は、市原集落の東北東、杣川西岸の緩やかな段丘上に位置する。現在は地表面に遺構は全く残っていないが、明治時代に作製された地籍図からこの地が比定されている。田園の中にポツンと建つ和晃技研の工場地の南半分、その南側の道路付近で、工場を東側から見ると少し高くなっているのは城の名残りかも知れない。
地籍図から市原城は、約50mの四方に堀をめぐらせた単郭方形と想定される。

 

歴 史 

 「南山巡狩録」には、正平15年(1360)9月、石堂利部頼房は仁木三朗義任を総大将に率いる伊勢・伊賀の軍勢2000余騎が近江国に打越、甲賀郡葛木山に陣をとる。佐々木大夫判官高頼の籠もる市原城を攻撃したことが見える。

 佐々木方は目加田・楢崎・儀俄・平井・池田赤一揆を一手とし、青地・馬淵・伊庭・三井・三上黄一揆を一手とし左手の河原に陣を・・・佐々木は吉田・隠岐・黒田・鈴村を初として宗徒の者を馬廻にひかへて備えたり・・・云々

「太平記」延文五年(1360)、佐々木高秀方が守る。

ただこの市原城が、市原地区に所在する市原Ⅱ城や古屋敷館の可能性もある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系

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新宮城/新宮支城 近江国(甲南)

2014年09月28日 | 丘陵城

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町新治  (旧甲賀郡甲南町新治   map:https://yahoo.jp/gAp3nc

             新宮支城                    map:https://yahoo.jp/TRWNk9

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:服部氏

城 主:服部氏

遺 構: 土塁・堀・碑・説明板

標 高:208m  比高差:20m

目標地:善願寺・新宮神社

駐車場:登城口下 路上駐車

訪城日:2014.9.27

お城の概要

甲賀郡中惣遺跡群(寺前城,村雨城,新宮城,新宮支城,竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。

新宮城は磯尾川の西岸にあり、北東へ伸びた尾根に築かれている。谷を挟んで南には新宮支城がある。

新宮城は南西端の最高所に主郭を置き、北東へ伸びた尾根に曲輪を展開する。 主郭は方形で高土塁が巡り、南西側は深い空堀で遮断し土橋が架かる。虎口は北と東にあり、北虎口は北下の堀切に出る。東虎口は二郭へ通じ、二郭は鈎状に屈折した虎口が付き、さらに北東下の段へと続く。二郭の北下には両側から土塁状の伸びた空間があり、池なのか虎口なのかよくわからない地形がある。麓付近には大きな平段がいくつか展開している。

東麓の県道49号線沿いに道標があり、山道が付いている。山上の宅地側からも道がある。

県道49号線、新宮神社参道入口にある善願寺の隣に「新治の七城」と題した案内板が設置されており、ここに縄張図が記されている。

新宮支城との二城連結の甲賀特有の城郭であるこの新宮城は、丘上の主郭と麓にかけての段状郭で構成される、主郭は30m四方で周囲を土塁で囲み
北と東に虎口を開き、空堀も使用し防御している。
麓にかけての段状郭には進入路を屈折させた桝形虎口を使用し敵の侵入を阻む構造を設けている。

この新宮城と谷を挟み隣合わせに存在する新宮支城は現在史跡として整備されており、比高も低い為手軽に訪城することができる。

 新宮城・新宮支城

お城の歴 史

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。

 永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。

同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。 そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。

同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。

新宮城、新宮支城もそのような甲賀郡中惣の城の一つで、 服部氏の居城とされる。

甲南町新治の磯尾川沿の丘陵地に所在し服部氏の城と伝わる。

新宮城は中世甲賀武士の組織、甲賀中惣の城の一つであり、有事には総領家を中心とし同規模の武士団が連合し共闘した。

新宮支城登城口

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、日本城郭体系、近江の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!  


探訪【近江水の宝】杣(そま)の里をゆく—矢川神社・矢川津—

2014年09月28日 | 探訪「近江水の宝」

◆日時:平成26年9月27日(土)   13時〜16時15分頃

◆詳細:
古代から甲賀の地域支配の拠点として、また物流の集積地として重要な役割を果たしていたのが、杣川の水運と矢川津です。
川の名前となっている「杣(そま)」は、古代には樹木を製材し平城京や東大寺などに供給する杣山として利用されていた事に由来します。切り出された木材は、現在の甲南町矢川橋付近の川辺にあったとされる「矢川津」と呼ばれる川津に運ばれ、そこから川伝いに琵琶湖に一旦流され、後に瀬田川を下らせて奈良へと運ばれました。山から川、川から湖、そして再び湖から川へ。まさに近江水の宝にふさわしい情景といえます。
今回の探訪では、忍びの里こうなん・観光ボランティアガイド部のガイドと県文化財専門職員が同行案内し、甲南駅周辺の文化財を詳しく訪ねます。

◆集合:JR甲南駅13時(受付開始12時45分〜)

◆距離:約8km(アップダウンあり・実標高差50m・延べ標高差390m)

◆持物:健康保険証(コピー推奨)、水筒、ウォーキングできる服装とトレッキングシューズ等(暑さ対策を万全にお願いします)

◆行程:
甲南駅⇒浄福寺⇒甲南ふれあいの館⇒地蔵堂⇒矢川神社⇒矢川津(写真なし)⇒地蔵堂⇒古代の埋もれ木⇒新宮神社表門⇒甲賀郡中惣遺跡群(新宮城)⇒
伊賀街道常夜燈⇒湖南支所⇒甲南駅

◆定員:80名

◆費用:50円(ガイド料)

県教育委員会専門員本日のガイドさん

ありがとうございました! 

本日の歩行数 14,415歩

歩行距離    10.8km

実歩行時間  2:17:28

消費カロリー 449.7kcal

脂肪燃焼量  64.2g

  本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!! 


尊勝寺城(多賀古屋敷)  近江国(浅井)

2014年09月26日 | 平城

田んぼの中に残る土塁

お城のデータ 

所在地:長浜市尊勝寺町  (旧東浅井郡浅井町尊勝寺)   map:http://yahoo.jp/fwvRGh

現 状:称明寺・宅地

区 分:平城

築城期:

築城者:

城 主:東野行一? 大橋秀元?

城 域:70m×40m

遺 構: 土塁,堀

目標地:称明寺

駐車場:称明寺駐車場

訪城日:2014.9.23

門前参拝者用駐車場(土塁で囲ってます)

お城の概要

尊勝寺地区にある平野神社が尊勝寺城の城址で、平野神社の東~南~西にかけて、高さ2mほどの土塁が巡っている。
 土塁は基底部で幅5~6mはあり、かなり分厚い。その周囲を取り巻く幅1mほどの堀もしっかりと確認できる。

 平野神社の北側にある称名寺との間の田んぼの中に、長さ20mほどにわたって土塁がしっかりと残っており、城域としては南北70m,東西40mぐらいであろうか。

 

歴 史

平野神社の北側に位置する称名寺は、湖北十ヶ寺のひとつで津布良山と号し、もとは美濃国安八郡津布良荘奥村(現大垣市あたり)に寺基をおいたが、文明13年(1482)に教円が本願寺蓮如に帰依し真宗に改め天正年間(1573~1592)に近江に移ったとされる。

 従って、尊勝寺城の跡に称名寺が建てられたと考えるのが妥当であるが、称名寺は方一町ほどの堀で囲まれた「多賀古屋敷」と呼ばれる土豪居館の跡に建てられており、平野神社を含む、複雑な複合遺跡である。
また、この尊勝寺が小谷城下の一部であったとも考えられている。

 なお、称名寺は湖北十ヶ寺衆として、元亀年間(1558~1573)に浅井氏と連合して織田信長に対抗したと考えられている。
 天正5年(若しくは同7年)8月17日の顕如消息によれば、信長の加賀出兵に際して、称名寺の教宗が北陸に下されており、天正年間(1573~1592)の石山合戦にも参戦していたようである。

湖北十ケ寺と称される湖北を代表する浄土真宗寺院のひとつ。浅井長政に与し、民衆と共に織田信長に対抗しました。

  その後は長浜城主の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に協力し、本能寺の変で明智光秀軍が長浜城を攻めたとき、住職の性慶は秀吉の母なかと妻のおねを岐阜へ連れて逃げています。こうしたことから、称名寺は秀吉に手厚く保護されました。

江 北 十 ヶ 寺

福田寺

(長沢城)

誓願寺

福勝寺

(福勝寺城)

浄願寺 順慶寺
坂田郡近江町長沢 坂田郡近江町箕浦 長浜市大戌亥町 長浜市榎木町 長浜市西上坂町
金光寺

中道場

(授法寺)

真宗寺

(増田城)

称名寺

(尊勝寺城)

誓願寺

(内保城)

長浜市十里町 長浜市西上坂町 東浅井郡びわ町益田 東浅井郡浅井町尊勝寺 東浅井郡浅井町内保

 蓮如が寂した年があけると十六世紀。日本史の上で最大の内乱時代「戦国の世紀」の幕が開く。この乱世に本願寺は、信長の天下制覇をさえぎる巨大な法城にまで発展していく。

 そして、福田寺は本願寺十一世顕如の時代に、石山本願寺を支える軍事力の重要な柱石となり、このころ福田寺は「長浜御坊」と称される小法寺を形成していく。

やがて、慶長元年(1596)、長浜御坊大通寺が建立されるが、このとき、福田寺をはじめ十ヶ寺は御坊建立の肝煎役をつとめている。

本願寺と福田寺に隆昌をもたらした力は何処にあったのか、それを知るためには、信長の覇権阻止に死闘を続けた湖北一向一揆をかえりみなければならない。

 

 湖国の一揆は、湖東、湖西、湖北の三つの地域で燃え上がった。湖北三郡を中心として、浅井・朝倉の勢力と連携して信長と対決した江北一向一揆は、湖北の有力寺院十ヶ寺が結束した。その筆頭に立ったのが、福田寺十一世覚世であった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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山本山城  近江国(湖北)

2014年09月26日 | 戦国山城

 

『城歩会』山本山城 見学会 9月23日 秋分の日
山本山城 「琵琶湖北岸最大級の城」
 講 師  長谷川博美
 予約 宮本まさこ 携帯090-1583-9033 参加費1000円(資料・縄張り概要図付き)
 集合 滋賀県長浜市湖北町津里305宇賀神社   11時集合

  

お城のデータ 

所在地:長浜市湖北町山本・高月町西阿閉  (旧東浅井郡湖北町山本・高月町西阿閉)   maphttp://yahoo.jp/KuMpY7

別 名:山本城・阿閉山城

現 状:山林

区 分:山城

遺 構: 曲輪・土塁・竪堀・堀切・土橋

標 高:324m  比高差:235m

築城期:治承4年(1180)

築城者:山本義経

城 主:阿閉氏,浅見氏,阿閉氏

目標地:宇賀神社(湖北町津里)

駐車場:宇賀神社駐車場

訪城日:2014.9.23

若宮古墳へ(宇賀神社登り口より)

山本山城へ(宇賀神社登り口より)

お城の概要

賤ヶ岳から南に派生した尾根の南端の頂部にある。 頂部が主郭で南に二の丸その東に三の丸を配し、主郭から北側に続く尾根にも馬場などの曲輪群がある。

宇賀神社より800mと標識には書いてありますが、急でジグザグな山道はけっこうきつい。若宮古墳を見学しながら!

30分程度で二の丸に到達します。二の丸は公園化され、南側遺構が破壊されている。主郭は四方を巡る土塁はよく残り。主郭の北側には見当杭と呼ばれる杭が建っていた高まりがあります。この高まりは往時は櫓台であったろうと想像できます。その先は堀切があり、さらに先は馬場があります。馬場の先には宗教関連の碑があり、その先には連続堀切があるようですが連続堀切が続きます。二の丸から見る琵琶湖は絶景。

西麓にある朝日山神社脇から登ることもできる。麓から重機「山上二の丸の公園化のため」で取り付けたハイキング道を登りつめると三の丸へと着く。ここは土塁が背後を固めているがハイキング道が曲輪内を突き破っている。 更に登ると二の丸に出るがここは緩やかに南に傾斜している。 これを北側に進むと主郭となり、土塁で囲まれた曲輪となり、南北東に虎口がある。ただ、北側はハイキング道用に取り付けたような感じもする。
主郭の北は空堀を経て一番馬場、二番馬場となり、ここは土塁が残っている。 ここから北側は土橋の架かる空堀と曲輪の連続である。

歴 史

平安時代末期に山本兵衛尉義経が籠った山本城がこの城であったと云われる。 その後京極氏の被官阿閉氏の居城となったが、永正年間(1504年~1521年)頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期浅井亮政と対立したが後にその傘下に組み込まれ再び阿閉氏が城主となった。

 治承四年(1180年)に山本義経の本拠地である山本山城を平知盛・資盛が攻めたと言う記録があるようです。山本氏は、源氏の旗揚げとともに平氏打倒の挙兵をし木曽義仲の上洛を助けますが、義仲の滅亡とともに没落します。戦国期は浅井氏の家臣の阿閉氏の居城となりますが、織田信長の小谷城攻めの時に阿閉氏は織田氏に寝返ります。山崎の合戦時は明智光秀に味方し、秀吉方の攻撃で城は落ち廃城となります。

織田信長による小谷城攻撃では、阿閉氏の籠る山本山城が天正元年羽柴秀吉謀略によって開城となり、小谷城は孤立し落城した。

二の郭からの眺望(琵琶湖) 

二ノ丸到着(公園化)

主郭へ

尾上城(尾上漁協・小江神社一帯)

近世の有力者であった「滝本藤太夫」の屋敷付近が尾上城の跡だと云われている。小江神社の西側一帯で、かつて礎石が十二個並び、「十二石」あるいは「城ヶ石」と呼ばれていた。

文治年間(1185年~1190年)に浅見実勝によって築かれたと云われる。山本山は浅見氏の詰め城として!浅見氏は湖北の有力国人となったが、浅見俊孝のとき浅井亮政によって攻められ高島新庄へ退いたと云われる。

 

三の丸へ

三の郭堀切 三の曲郭の土塁南側は重機で破壊され!

堀切があり、さらに先は馬場があります。馬場の先には宗教関連の碑があり、その先には連続堀切がある

見学会参加者の記念撮影

昭和37年までの小学生の通学路を下山

本日の歩行数15,797歩

  実歩行時間2;52

  歩行距離 11.8km 

  消費カロリー384.9kcal

 脂肪燃焼量54.9g

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、長谷川博美(城郭研究家)の資料・説明

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!   


矢倉城 近江国(草津)

2014年09月26日 | 平城

 

お城のデータ 

所在地:草津市矢倉二丁目   map:http://yahoo.jp/n6G5Qu

現 状:矢倉神社・スギ薬局

区 分:平城

築城期:

築城者:

遺 構: 土塁

目標地:矢倉神社

駐車場:スギ薬局駐車場

訪城日:2014.9.18

お城の概要

矢倉城はR1沿いの森、矢倉神社付近にあったとされる。
鳥居脇の森林内には土塁のような高まりが見られるが、城との関連は不明。

 

歴史

不明

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!                                

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大路井城  近江国(草津)

2014年09月25日 | 平城

大路井城 草津市街地の城

お城のデータ 

所在地:草津市大路2丁目   maphttp://yahoo.jp/rDEL4x

現 状:小汐井神社・宅地

区 分:平城

築城期:

築城者:

遺 構: 

目標地:小汐井神社

駐車場:小汐井神社駐車場

訪城日:2014.9.18

お城の概要

大路井城は県の遺跡地図によると、JR草津駅の南東約300m、小汐井神社とその南側の宅地一帯にあったとされる。
市街地の中心部にあり、遺構どころか往時の形状も留めているか判らない。

草津城と同様、草津宿に程近く往時から草津の中心地であり、街道を監視する位置にあったことだ。

歴 史

不明

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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草津城  近江国(草津)

2014年09月21日 | 平城

資料に登場するも詳細は不明の城郭跡

草津宿本陣に程近い城

城のデータ

所在地:草津市草津3丁目6  map:

区 分:平城 

現 状:民家

遺 構:

築城期:

築城者:

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.18

お城の概要

JR草津駅からほぼ線路沿いに大津・京都方面へ進んだところに、国指定史跡である東海道53次の52番目の草津宿(くさつじゅく)本陣がありますが、その付近にあったとされるが草津城になります。

江戸時代の宿場町を思わせる街づくりで辺りは舗装・整備されており、草津城周辺と考えられいる一帯も住宅地で、中世城郭跡としての往時を偲ぶ雰囲気や、遺構などは残念ながら残っていません。

また石碑や解説板の類も用意されておりませんので、正直本当に城跡に行ったと言えるか不安になる場所です。

歴 史

草津城は「日本城郭大系」にも登場はしますが、「近江の顔・近江の城と古戦場」に収録されているが詳細は不明とのみあり、築城者やその時期などは分からないようです。

 

草津周辺には他にも戦国時代を駆け抜けた城跡は多く、その多くが近江守護だった佐々木六角氏に仕えていたことから、草津城も実在したれば、同じ運命を辿っていたのでは。

 

参考資料:近江の城、日本城郭体系、

 

         本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!                                                                                <iframe src="http://bc.geocities.yahoo.co.jp/bc/no/382116061" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="0" height="0"></iframe>


高嶺中城 近江国(甲賀)

2014年09月21日 | 丘陵城

城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町高嶺  (旧甲賀郡甲賀町高嶺)  map:http://yahoo.jp/nVt0Cq

区 分:丘城  

標 高:255m  比高差:30m 

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・堀切・郭・竪堀

築城期:室町期

築城者:高峯蔵人

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.17

 

お城の概要

基本構造は、中心に曲輪Ⅰと周辺に曲輪Ⅱ・Ⅲからなる。

曲輪Ⅰは、東西40m×南北50mの長方形に近く土塁が四方に構築され丘陵続きとなと南側は高さ3mを超える。主郭に接する北西・南西に派生尾根上に削平された曲輪Ⅱ・Ⅲを認める。曲輪Ⅲは規模も南北20m×東西40mを図る。曲輪Ⅰは、南側の堀切は大規模で、土橋状遺構も確認できる。両端には竪堀になって斜面をくだる

虎口cの外に曲輪Ⅱあり現状急勾配で主郭の付属遺構と考える。

歴 史

この高嶺の地区六城(高嶺北城・高嶺中城・高嶺東谷城・伊賀見城・高嶺山城・高嶺南城)の本城と考えられる城で、高嶺氏の城砦郡であり、高峯蔵人の城と言われます

高峯氏は伊賀との国境を守るため、六城を構築したようですが、天正年間に滅びたとされるようです。

 

高嶺中城 (遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

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獅子ヶ谷城(毛枚(もびら)城)  近江国(甲賀)

2014年09月19日 | 丘陵城

 お城のデータ 

所在地:甲賀市甲賀町毛牧字師々ヶ谷  (旧甲賀郡甲賀町毛牧字師々ヶ谷)   map:http://yahoo.jp/WbQnpd

別 名:毛枚城(甲賀郡志1120頁)

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:毛牧太郎

城 主:毛枚太郎

遺 構:曲輪 ・土塁・井戸・櫓台

標 高:220m  比高差:40m 

主 郭:40m四方

目標地:毛枚(もびら)大福寺・毛枚バス停

駐車場:大福寺参拝者用駐車場

訪城日:2014.9.17

お城の西側から、「櫻神社跡」に進む道があります。

お城の概要

城は毛枚川の東側の北へ延びた丘陵に築かれている。 周囲に高土塁が巡らされた単郭の城である。

毛枚川の東側に位置する北へ延びる丘陵の、頂上部分に築かれている。南から北へ切込土塁で囲み曲輪を形成。東側から北側には帯曲輪を配している。

丘陵の先端側の小屋の付近から斜面を登れます。大土塁の上にでます。

 城跡は木々が多く藪状態ですが南の大土塁、東、北、西を巡る分厚い土塁、北西と南東に虎口形状はなかなか見ごたえあります。

また、南東の虎口をでると付属の郭の様な平坦地があります。井戸も残っているようです。

丘城。土塁・堀・井戸の遺構が残る。

主郭は40m四方で土塁で囲む、主郭内の南側が一段高くなっている。北西橋に井戸が残る。が未整備のため確認は困難である。

曲郭Ⅰ(主郭)を囲む土塁でaが最も高く櫓台となっている。東西13m南北6mの規模、曲郭Ⅰから約8mを図る。

曲郭Ⅰの北端にあるbも櫓台で、曲郭Ⅰから約4mを図り、bの西に窪みがあり、郭Ⅱに連絡する。曲郭Ⅱは東西17m・南北25mもの曲郭である。

曲郭Ⅲ・Ⅳは開削畑に、c・dも堀切も後世埋められはようである。

歴 史

室町時代に、「日本城郭体系」には城主は毛牧太郎とある。毛枚氏によって築かれたと伝わっているが、詳細不明。

 毛枚氏と山岡氏

 毛枚景広は貞景から数えて5代目に当たる。山岡系図には、「太郎 左衛門尉  近江国甲賀郡毛枚邑に住す。よりて毛枚(もびら)をもって称号とす。のち景政にいたるまでおなじ。」としている。また、それより以前に編纂された寛永諸家譜には、「その(貞景)末孫毛枚太郎景広、大原の庄毛枚村の山間に舘をかまふ。これによりて人みな山岡の名をよぶ。子孫のいみなにみな景の字をもちひて首にをく。景行天皇の末流をしらしめんがためなり。」 今に残る山岡城跡を訪ねた。県道から程近い所ではあるが急峻な細い坂道を上りきったところに岡本氏邸があり、その裏に城跡が認められた。天然の要害を利用して防備の備えを図っている。眼下に毛枚が一望できる高台である。

貞景――景重――景光――信遍(のぶゆき)――景広――景範

 景広の子供に景範、貞広、景忠がいて、山岡氏に続く家系は、山岡系図では景範であるが、貞広としている系図もある。また、景忠は、「甲賀郡上野邑に住するにより、毛枚を改めて上野を称す。子孫繁茂して二十余家となる。」と記されている。南北朝期活躍する上野氏は、毛枚氏の分かれである。

 毛枚氏から山岡氏への系図は、

景範(毛枚氏)――広政――景政――景通(大鳥居氏)――景久――景以(かげもち)――資広(山岡氏を称す。景広ともいう。)――景長

  山岡氏の始祖景広については、諸家譜に「近江国田上の城に住し、永享年中同国栗太郡勢多邑を討取、初めて勢多の山田岡に城を築きてこれに移る。この時一字を略して山岡の二字を用いて称号とす。後勢田城を嫡男景長に譲り、石山の古城を営みてこれに住し、剃髪して光浄院と号す。嘉吉2年(1442)死す。」

山岡景以の墓碑

 右の墓は毛枚にあり、「山岡主計頭景以之墓」と読める。景以は二人いて、一人は上の系図に見える大鳥居氏の時代の人であり、もう一人は景隆の末子である景以である。この墓碑は後者である。彼は叔父道阿弥(景友)の跡をついで3000石を宛行われた。また、毛枚が山岡氏のルーツであることは、山岡景隆の最期が毛枚の地であったことでも頷ける。
 現在、山岡会があり、臨湖庵は瀬田川沿いの勢田城跡にあったが、今は石碑と説明板残っている(マンション前に)。子孫の方々は時に毛枚の城跡にも来られるとか・る。

お城の西側から、「櫻神社跡」に進む道があります。

獅子ヶ谷城(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

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毛枚(もびら)北城 近江国(甲賀)

2014年09月19日 | 丘陵城
近年(昭和50年代)まで居住者がいたお城
 井戸:深さ3m以上

(馬蹄形の堀切が背後を固めているお城。)

 お城のデータ 

所在地:甲賀市甲賀町毛牧字深谷  (旧甲賀郡甲賀町毛枚小字深谷)   maphttp://yahoo.jp/Iu0a3O

区 分:丘陵城

築城期:室町期・豊織期

築城者:

遺 構:曲輪 ・土塁・大堀切・井戸・櫓台

標 高:210m  比高差:10m 

城 域:東西30m×南北40m

目標地:毛枚(もびら)大福寺・毛枚バス停

駐車場:大福寺参拝者用駐車場

訪城日:2014.9.17

お城の概要

毛牧北城は、甲賀町毛牧にある大福寺の背後にある。主郭である曲輪Ⅰに西側を除く三方を土塁が囲んでいる(土塁b)
 
土塁は南側のaが最も高く3m、頂部10m四方もある櫓台となる。
 
櫓台aの南側には、堀切cがある。底部の幅は約6m櫓台までの深さは約10mにも及ぶ。

また、堀切cは土塁bを囲むように湾曲している主郭Ⅰは、聴き取り調査数十年前まで居住者が存在していた。

井戸は3m超の深さ、曲郭の削平地まで水が張っていた。居住者が使用されていたら、城郭遺構は不明である。

毛牧北城は、毛牧地区の集落北にある大福寺北側背後に築かれている。 寺の庫裏へと通じる北側から登城路がある。虎口は近代開削されたようだ、本来の城通は西側に虎口が曲郭二であったが、山麓道路拡幅で削減されたようだ。

 毛牧北城は、丘陵先端部を馬蹄形の堀切で城域を確保し、南の堀切に面した大土塁から曲輪の周囲に土塁を廻らした縄張りで、北を流れる杣川方面の展望は極めて良く、毛牧地区の西側にある山岡城の出城であったのではないか?。
 
 
歴 史

毛牧北城は、築城年代や築城者など詳細なことは不明。

大福寺の裏の城道(近年の削道)主郭虎口(近年の開削)

北の土塁

東の土塁左下は大堀切櫓台a部の平削地10m四方もある頂部の平削地、櫓台?狼煙台?

 

登城路・・城道

本来の城道・・・曲郭Ⅱと上に曲郭Ⅰの北土塁。

毛枚北城(遠望)

道路の反対側に「文化財を大切にしよう」滋賀県教育委員会と場違い!

大福寺(遠望)・・・気になる東側(右上)の平削地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

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山岡城 近江国(甲賀)

2014年09月19日 | 丘陵城

 お城のデータ 

所在地:滋賀県甲賀市甲賀町毛枚小字谷出   maphttp://yahoo.jp/DGoBB2

区 分:丘陵城

築城期:室町期・豊織期

築城者:山岡景隆・景友

遺構:曲輪 ・土塁・空堀

標 高:220m   比高差:20m 

目標地:毛枚(もひら)大福寺・毛枚バス停

駐車場:大福寺参拝者用駐車場

訪城日:2014.9.17

甲賀市史甲賀の城より

 目印の常夜燈3基

お城の概要

毛枚集落に3城あり、毛枚川の北側大福寺の背後に毛枚北城がある。その南300mに獅子ヶ谷城。毛枚川を挟んで北西に山岡城が残存するは、規模は一番大きく、三城は接近性から見ても関わりは深かったのでは? 

 城は毛枚川の西岸にある丘陵に築かれている。南側は民家が立ち並んでおり、どの程度の規模であったかはわからないが、北側から西側に土塁が残り、北西側に土塁の切れ目があり虎口のようである。

毛枚川に面した道路(ちょうど大福寺の南側)に三基の常夜灯があり、その少し南側に西側へ登る石段がある。この石段を登りつめた先にある民家の北側が城址。

城へ坂道を北側から

V字に斜面を墓地の裏から城に入りました

 歴史  

山岡城は、山岡影隆・景友が城主と伝わる。 

山岡氏は「新訂寛政重修諸家譜」によれば、鎌倉期の貞景の代に三河国より甲賀郡大原村に移って大原氏を称した。子孫の景廣は甲賀郡毛枚村に住し、毛枚氏を称した。さらに景通の代に大鳥居氏、資広の大に栗田郡瀬田城に移って山岡氏を称し、以後栗田郡を拠点とした。室町期の事である。

築城年代は定かではないが室町時代から安土桃山時代にかけて山岡景隆・景友によって築かれたと云われる。

景隆は瀬田城主ではじめ佐々木六角氏に仕え、後に織田信長に仕えた。

本能寺の変の後に明智光秀に誘われたが、これを拒み瀬田橋を焼き落として安土城に攻め寄せるのを防いだ。

弟景友は佐久間盛信に仕えて、後に道阿弥と称して徳川家康の近習となった。

 

 毛枚氏と山岡氏 

 毛枚景広は貞景から数えて5代目に当たる。山岡系図には、「太郎 左衛門尉  近江国甲賀郡毛枚邑に住す。よりて毛枚(もびら)をもって称号とす。のち景政にいたるまでおなじ。」としている。また、それより以前に編纂された寛永諸家譜には、「その(貞景)末孫毛枚太郎景広、大原の庄毛枚村の山間に舘をかまふ。これによりて人みな山岡の名をよぶ。子孫のいみなにみな景の字をもちひて首にをく。景行天皇の末流をしらしめんがためなり。」 今に残る山岡城跡を訪ねた。県道から程近い所ではあるが急峻な細い坂道を上りきったところに岡本氏邸があり、その裏に城跡が認められた。天然の要害を利用して防備の備えを図っている。眼下に毛枚が一望できる高台である。

貞景――景重――景光――信遍(のぶゆき)――景広――景範

  景広の子供に景範、貞広、景忠がいて、山岡氏に続く家系は、山岡系図では景範であるが、貞広としている系図もある。また、景忠は、「甲賀郡上野邑に住するにより、毛枚を改めて上野を称す。子孫繁茂して二十余家となる。」と記されている。南北朝期活躍する上野氏は、毛枚氏の分かれである。

  毛枚氏から山岡氏への系図は、

 景範(毛枚氏)――広政――景政――景通(大鳥居氏)――景久――景以(かげもち)――資広(山岡氏を称す。景広ともいう。)――景長

   山岡氏の始祖景広については、諸家譜に「近江国田上の城に住し、永享年中同国栗太郡勢多邑を討取、初めて勢多の山田岡に城を築きてこれに移る。この時一字を略して山岡の二字を用いて称号とす。後勢田城を嫡男景長に譲り、石山の古城を営みてこれに住し、剃髪して光浄院と号す。嘉吉2年(1442)死す。」

 山岡景以の墓碑

  右の墓は毛枚にあり、「山岡主計頭景以之墓」と読める。景以は二人いて、一人は上の系図に見える大鳥居氏の時代の人であり、もう一人は景隆の末子である景以である。この墓碑は後者である。彼は叔父道阿弥(景友)の跡をついで3000石を宛行われた。また、毛枚が山岡氏のルーツであることは、山岡景隆の最期が毛枚の地であったことでも頷ける。
 現在、山岡会があり、臨湖庵は瀬田川沿いの勢田城跡にあったが、今は石碑と説明板残っている(マンション前に)。子孫の方々は時に毛枚の城跡にも来られるとか・る。

  

曲郭二は、整備され公園化されているが、土塁・虎口残存。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城、

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!