城郭探訪

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西迎山城(迎山城 西の丸) 近江国(甲賀・水口)

2014年02月27日 | 平山城

東迎山城 ・ 西迎山城    甲賀郡水口町下山
   両城とも伴氏の城と伝える。どちらの城も四方土塁型で周囲に空堀や水堀がある。
  西迎山の方は丘陵が斜面であり、南背後土塁のは切り込み式で高い。

   模型写真

 

所在地:甲賀市水口町下山 map:http://yahoo.jp/9qlT2N
    旧:甲賀郡水口町下山

・別 名:迎山城 西の丸

・目標地:九品寺前を東に100m

・区 分:丘城

・比 高:30m

・現 状:雑木林

・遺 構:堀・土塁・説明板

・築城期:戦国期

・城 主:伴伝佐衛門 伴又左衛門

・路上の駐車から:2

訪城日:2014.2.20

 

迎山城  

 大字下山字迎山 津田氏作業場東30mの所の南山道路より約100mの高所にあり土盛り高平均3m内面積600㎡東の丸は傍田氏宅の東にあり城跡または物見台城主は、伴伝佐衛門 伴又左衛門

 県道164号線を挟んで、東側には東迎山城、西側に下山城が位置し、いずれも台地の先端に築かれている。

 耕地により城域は北側土塁は破壊されているが、(甲賀地区における一般的な城館)
土塁なども削り取られているが、西側と南側に高さ1m足らずの低土塁が残る。南側には空堀を配して、丘陵を掘切っている。
西側は崖状に落ち込む自然地形で、現在でも高低差は7~8mを測る。

歴 史
 この城は伴谷地域をその勢力化においた土豪伴氏の城跡です。伴氏は延慶年間(1308~1310年)に櫟野(いちいの)<=旧甲賀町>から移り住んだと伝えられ、近隣である柏木の山中氏、水口の美濃部氏と拮抗したり協力したりして領地を支配しました。

伴氏は俗に言う甲賀武士であり、戦国末期の甲賀群中惣の一員でありました。 

                   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


伴屋敷城 近江国(甲賀・水口)

2014年02月27日 | 平山城

 下山城屋敷は下山城の城主の居館 だったそうですが残念ながら最近造成されてしまって土塁等が壊されてしまいました。

  

・所在地:甲賀市水口町下山 map:http://yahoo.jp/9qlT2N
    旧:甲賀郡水口町下山

・目標地:九品寺の西隣

・区 分:平城

・比 高:0m

・現 況:空地

・遺 構:土壇、段丘、堀(思川を水掘りに、下山城を詰め城に)

・築城期:戦国期

・築城者:伴氏

・路上の駐車からの:2

・訪城日:2014.2.20

 

 伴屋敷城は、下山城のある丘陵から伸びる舌状台地の先端部に築かれていた。 単郭方形の縄張りで、かつては北と西側に土塁が残存したとか。

 現在は、完全に宅地造成され消滅していたが、切岸状の台地前端部の様相は城郭遺構の名残と云える。 また、伴屋敷城の東側にある九品寺にもかつては土塁が残存していたとか。

歴史

 伴屋敷城は、延慶年間に伴景秀によって築かれたと伝えられている。 伴氏は、甲賀郡櫟野より移り、神宮領柏木御厨の伴谷山村三郷に勢力を誇り、山中・美濃部両氏とともに「柏木三方中」を構成した有力土豪。

 平素の居館である伴屋敷城・伴氏建立の九品寺と南側の丘陵にある下山城共に伴谷の中核を成し、伴同名中の中でも伴総領家の詰の城として位置付けされている。

九品寺 浄土宗     大字下山字市場

 

由緒  応永23年(1416)伴周防守、伴氏の菩提寺のため尭譽上人を請し創建。
       開基は隆堯法印で天台宗として生まれる。慶長年間焼失し、貞亨3年(1686)僧見達再建した。当時は安土浄厳院の末寺であったが、明治23年(1890)京都市智恩院の末属となった。

墓地には大きな石塔があり慶長14年(1609)と刻してあり、又小さな石塔には文禄元年(1592)の銘がある。

 眞言宗   光明院
       下山城主伴太郎左衛門秀景、浄土宗九品寺創建により、廃寺となり、又本尊等も不明である。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました


音羽野城 近江国(甲賀・土山)

2014年02月26日 | 平山城

県道9号線青瀬橋の南詰、妙楽寺の反対側に上水道施設があり、そこに案内板と石碑が建っている。

文明年間(1470~1486年)に頓宮四方介利盛が音羽野村を領した後に築城し頓宮城より移り住みました。それ以来、当城に住み代々継ぎましたが、元亀元年(1570年)、頓宮因幡守守孝の時に、近江の守護職佐々木六角氏没落した際に織田信長に従いましたが、天正十三年(1585年)豊臣秀吉によって改易されました。

音羽野城の位置は、現青瀬橋の南東の小高い丘上にあって、現状は松、杉等の混植林となっている。本丸跡と考えられる地点には庭石などの残され、内堀・外堀も原形をとどめています。  <現地案内板より 土山町教育委員会

甲賀市史7巻甲賀の城より 

 

・おとわのじょう 
  別名  -----

・住所:甲賀市土山町瀬ノ音 旧:甲賀郡土山町  map:http://yahoo.jp/30Q6Qy                          ・目標地点:野洲川 青瀬橋の南詰                                                 ・区分
:丘陵城                                                               ・比高:30m 丘城(290m/30m)
・現況:山林

・遺構等:郭・土塁・堀・庭園・石碑・説明板
・時代/人物: 長享年間(1487年~1489年)/頓宮四方之介利盛 
最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:妙楽禅寺そばから15分

・撮影・訪問時期:2014.2.24

 

歴史  

 

築城年代は定かではないが頓宮四方介利盛によって築かれたと云われる。 文明年間(1469年~1487年)に音羽野村を領した頓宮治三郎正盛の子利盛が、長享年間(1487年~1489年)に頓宮城より移り居城したと伝える。頓宮氏は、甲賀武士甲賀五十三家の一つに属しており、同じく甲賀武士として中世長享の役等で活躍した土山氏、黒川氏、大河原氏は、頓宮氏の一族である。
 長享年間(1487年~1489年)頓宮治三郎正盛の子、頓宮四方之介利盛により音羽野城へ移住している。

 

佐々木六角氏が織田信長に攻められて没落すると、頓宮因幡守守孝は信長に降ったが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって改易となった。

 

 概要

 

音羽野城は野洲川に面した丘陵の北西端に築かれている。 台地の上は広い平坦地が拡がっているが、音羽野城はこの台地の北西隅部のみ活用して方形居館を築いている。

 

縄張りは単郭の方形居館で東西60m、南北70m程の規模である。周囲は土塁と空堀が巡らされているが、北側のみ空堀はなく切岸になっている。この北側は地形に応じてやや弓形となり北東隅は北に張り出している。

 

虎口と見られる土塁の開口部は東中央、南中央と南西隅にある。 東の虎口は土橋が架かり、周囲には石が散在しているが、石積の跡のような感じではない。 南側は東からL字に折れた空堀が内側、西からL字に折れた空堀が外側に巡り、中央虎口から西側が二重空堀になっているのが特徴である。中央虎口も土橋状になっているが、この付近は複雑な地形になっており、後世の改変の影響も考えられる。


城址は北に野洲川が流れる丘の先端にあります。祠の裏手へさらに登っていくと堀のようなところを歩きます。

5分の歩かないうちに左手側が城址です。基本は単郭方形ですが大きな主郭(東西50mほどありそう)です。

主郭南側は前面に堀が走り南西側と南東側の平虎口があります。堀の外側も平坦地が続き郭跡のような感じです。主郭には土塁が巡りこれも分厚く高さも2mほどあります。主郭の一番奥(城址碑とところから直登した場合はこの辺に出ますが)北西側に庭石のような石がゴロゴロしており庭園跡とわかります

参考資料;淡海の城、近江の城郭、甲賀市史7巻(甲賀の城)・現地説明板、見学会資料(講師:長谷川博美)

本日も訪問、ありがとうございました。


黒川氏城 近江国(土山)見学会

2014年02月25日 | 平山城

~積雪の黒川氏城~ 

 

甲賀織豊系傑作城郭入門 黒川氏城 現地見学会

内 容:城郭研究家による本格城郭見学入門講座                                                                  

講 師:長谷川博美氏

主 催:米原文化協会城歩会                                                                                            

長谷川氏E-mail wwmy29831@maia.eonet.ne.jp                                                                                         

石垣�石垣城門�石段�石築地跡�横矢と櫓台�櫓群の配置�馬出し曲輪�翳し曲輪

行き止曲輪�竪土塁�井戸貯水槽�水の手曲輪�横堀配置�横掘千鳥の配置�掘切�土塁

甲賀の城�織豊の城�犬走り�帯郭�5間×8間外枡形�土橋21竪掘り21切岸 22喰違虎口

                                 

・所在地:甲賀市土山町鮎河(旧:甲賀郡土山町鮎河) map:http://yahoo.jp/QF1HG9

・築  城 :永禄年間(1558~1569)                                                                                                                                             ・

・築城者:黒川与四郎                                                                      

初城主:黒川玄蕃佐                                                          

・標 高:430m 比 高:100m 

・現 況:山林

・区 分:山 城                                                                                                    

・遺構等:堀・土塁・石垣・堀切・石碑

・城 域 :220m×330m

・訪城日:2014.2.24

黒川氏城の築かれている山は比高50mほどの小山であるが、県道側は比較的斜度がきつく、県道9号線と県道507号線の交差点北側(左手)の駐車場前、黒川氏城へ登りやすい。

 この黒川城は単郭方形の城砦の多い甲賀地方にあって、複郭で規模が大きい上、縄張りの複雑さでは近江の数ある城砦の中でも際だっている

県道9号線沿いから黒川氏城へ。

 縄張りで特徴的なことは横堀を多用している点にある。近江において横堀が観られる城砦は、甲賀地方の城館とは異例の黒川氏城の横堀は単に曲輪周囲に巡らせただけではなく、横堀を通路(堀底道)として使うことで敵を誘導、迎撃する横矢の計画的意図がみえ、戦術的に横堀を多用している。

 また、甲賀地方は甲賀五十三家に代表され、あるいは「甲賀郡中惣」にみられるように、独立性の強い小豪族の集まりで、和田氏の城砦をとっても、小さな谷を囲むように和田城・和田支城といった単郭方形の小さな館城(やかたじろ)を幾つも築くパターンが多い。


 一方、黒川氏城は主曲輪を中心とした求心性の強い曲輪配置をしており、甲賀武士とは違った権力構造をもった勢力によって築かれたカ、歴史的には甲賀五十三家の一家である黒川氏の居城。

ここで一直線に加工されたような石を見つけました。、祭礼に使ったものカ。

歴 史

永禄年間(1558~1569年)に黒川玄蕃佐がこの山に築いた城です。

今も頂上には四十間の方形(一間=約1.82m)の旧址があり、また、石垣、石段の一部、堀や屋敷の跡が残っています。

黒川氏は守護六角氏に属し、長亨・明応の頃(1487~1501年)にしばしば戦功をたてます。黒川久内は、長亨の乱(1487年)の功により黒川・黒滝を領し、以後子孫が世襲しました。(この当時は黒川城?)織田信長の上洛阻止に失敗した六角氏のために、家臣辻和泉を東国甲斐武田信玄応援の使者として派遣し、義賢の二男中務大夫賢永を甲斐へ下らせた。

黒川玄蕃佐に至り、黒川氏城を築城し山女原・笹路・黒川・黒滝・鮎河の松尾川東方を支配し、子の八左衛門が継承しましたが、天正十三年(1585年)に紀伊川堤防修築工事の責任を問われ、黒川を除く地域は没収され城は廃城となりました。 

 天正十三年(1585)の甲賀破儀をもって改易されたが、後に再び本領黒河のみを食封として許された。しかし豊臣秀頼に属して、慶長十九年(1614)、大阪冬の陣に参軍したため領地を失った。

その後黒川氏の娘が紀州徳川頼宣の側室として綱教を生み幕下に列せられ、黒河村を復した。

主郭北虎口(主郭北側より)

主郭北虎口(主郭北側より)

主郭北虎口(主郭より)

主郭内

主郭東側・・櫓台

主郭大手の桝型虎口前の石碑

主郭

大手道最初の虎口

北側【黒川氏城】・・・(遠望 ウグイ川より)

北側 城道登り口(獣害フェンス外から)

黒川氏城現地説明板・主郭までの所要時間:県道沿いにある説明板のところより15分

  設置場所・・・県道509号http://yahoo.jp/GjG3Al

参考資料;淡海の城、近江の城郭、長谷川講師の資料・説明

本日も訪問、ありがとうございました。


連続講座「近江の城郭」 第4回 【元亀争乱を歩く~坂本・穴太】

2014年02月23日 | 歴史講座・フォーラム

元亀元年(1570)9月、大坂本願寺を攻撃している織田信長の隙をついて浅井・朝倉連合軍が湖西路を坂本まで南下し、信長の背後をうかがいました。一方信長も、これに対応するように京を経て坂本に進軍します。反撃された浅井・朝倉軍は比叡の山々に立て籠もり、信長軍は山麓の要所に陣所を構え、両軍のにらみ合いが続きました。信長最大の危機、志賀の陣です。両軍の対峙は三ヶ月近くにおよび、この年の暮れ、将軍足利義昭の仲介で講和して両軍とも引き上げました。またこのとき延暦寺が浅井・朝倉軍を受け入れたことが、翌年の延暦寺焼き討ちにつながります。

今回の講座では、坂本から穴太にかけて点在する織田軍の陣所跡と合わせ、中世に大いに繁栄した坂本の町について、地元大津市の文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

 

1.日時 平成26年2月22日(土) 10:30~16:30

○集合:京阪電車坂本線坂本駅 ※JR湖西線比叡山坂本駅から徒歩約12分

○解散:京阪電車坂本線穴太駅

2.行程 坂本駅→坂本の町並み→公人屋敷(旧岡本邸)→大津市坂本市民センター(昼食・講義)→無動寺口→盛安寺→高穴穂神社→穴太駅・唐崎駅 全行程約4km(平坦道)

       ルート地図はこちら

3.内容 講義「元亀争乱を歩く」 講師:仲川靖(滋賀県教育委員会文化財保護課)

                     会場:大津市坂本市民センター

現地探訪 坂本の町並み・織田軍陣所跡 解説:大津市教育委員会文化財専門職員

4.主催 滋賀県教育委員会 5.協力 大津市教育委員会

6.定員60名参加・・・96名

7.参加費 400円(保険料・拝観料等実費分 )

8.持ち物 健康保険証、弁当、水筒、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

9.その他

(1)講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。

(2)単独回のみの参加も可能です。

(3)受講された方には修了証を発行します。

10.参加申込・問い合わせ

 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当

 〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所

  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

 

講義「元亀争乱を歩く」 講師:仲川靖(滋賀県教育委員会文化財保護課) 会場:大津市坂本市民センター

光秀の供養塔穴太積みの石垣

足利義晴の供養塔

 ノルディックウォーキングで坂本駅へ

本日も訪問、ありがとうございました。

第5回 徳川幕府西国支配の要~彦根城跡(彦根市)

 日時:平成26年3月22日(土)10:20~15:30

 場所:彦根城跡(現地探訪)

     大学サテライトプラザ彦根(講義)

 講義:関ヶ原合戦と近江 上垣幸徳(滋賀県文化財保護課)


山寺城 近江国(草津)

2014年02月17日 | 平山城

 十二将神社の鳥居から山寺城の前を通る道は、今でも「馬場」と呼ばれている。

城郭の概要

所在地:草津市山寺町

区 分:平城

城 主:宇野氏

遺 構:土塁、櫓台、虎口、空堀・水堀、西側郭跡

訪城日:2014.2.13

本殿の西側空堀(操作場を造る際に周辺の城郭遺構が壊されたカ?)

山寺城は十二将神社の東側、竹藪一帯である。
主曲輪の広さは南北30~35m,東西25m程度で、曲輪東側には土塁を築き、南側には土塁を利用した形で虎口、北東隅には5m四方の櫓台が設けられている。
 主曲輪の西側にかけての緩やかな傾斜地の中に、幾つかの曲輪が確認できる。

山寺城は緩やかで入り組んだ谷地を形成する小丘の先端に築かれています。一見して、肥沃な谷地であったと推測されますが、城自体は居館程度の      域を出るものではありません。単郭方形の館城で、土塁と櫓台が残っているという、主郭部は矢竹や雑木で確認出来ず藪漕ぎしないと主郭にはたどり着けない、危険で登城は諦めた。

 十二将神社の鳥居から山寺城の前を通る道は、今でも「馬場」と呼ばれている。この馬場と呼ばれる道の東側は帝産バス会社の操作場となっている。
 この操作場を造る際に周辺の城郭遺構が壊されたカ、主要な遺構を残すような形で造成されている。

 宇野氏の居城とされるが、詳細は不明

在地領主宇野氏の居城と伝わる。宇野喜十郎盛親の名が見られる。子孫宇野氏は、江戸時代も膳所藩の志津郷代官として栄えた。

山寺城の土塁

山寺城の土塁

西側の水堀(北~・南~)

 

大槻神社2の鳥居を背に登城口

主曲輪の西側にかけての緩やかな傾斜地の中に、幾つかの曲輪が確認できる。

山寺城の土塁

山寺城の土塁

山寺城の土塁

本日も訪問、ありがとうございました


小槻(小杖社)大社遺構 近江国(草津)

2014年02月17日 | 遺蹟

小杖社(おづえしゃ)の石碑

・所在市:滋賀県栗東市下戸山1200

・創 建:青地基氏

・創建期:弘安4年(1281)10月

 

小槻大社(おつきたいしゃ、おつぎ)は、滋賀県栗東市にある神社。式内社で、旧社格は郷社。神紋は「下り藤」・「真向の兎」。

別に小杖社(おづえしゃ)・小杖宮・小杖大明神とも称される。

参道脇の大空堀

小槻大社の二の鳥居

竜王社

中世には青地荘の領主青地氏の崇敬を篤した。現本殿は永正16年(1519)4月領主青地元眞が建立・・・・中世武士の気骨をよく表現した建築物として評価は高い。

内陣宮殿は弘安4年(1281)10月青地基氏が新造し、宮殿両側壁に青木基氏以下一族の名が墨書されている。

 

概要

栗東市中部、草津川・美濃郷川合流点の北東丘陵上に鎮座する。川を挟んで南西丘陵上には小槻神社が対峙している。

小槻神社とともに、当地を支配した古代豪族・小槻山君の氏神を祀る神社である。社名は「大社」であるが『延喜式神名帳』での分類は小社であるという数少ない神社の1つである。

本殿と木造男神像が国の重要文化財に指定されている。そのほか、社殿南部には巨大な円墳があり、境内周辺には古墳群(小槻大社古墳群)が残っている。

歴史

社伝では、古代に栗太郡(現在の草津市・栗東市一帯)の豪族小槻山君(小月山公とも)が、祖神として於知別命を祀ったのが創祀とする。

 小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷に采女も献上していた。小槻大社内には小槻大社古墳群が残る他、周辺には直径50mの円墳の下戸山古墳、栗太郡衙跡とされる岡遺跡が残っている。これらから小槻山君は栗太郡郡司クラスの家柄だったと推測され、付近には同じく於知別命を祭神とする小槻神社が残っている。小槻山君は貞観15年(873年)京に居を移し、のち小槻氏(官務家)として朝廷に仕えた。

平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国栗太郡 小槻大社(をつきのおほやしろ)」と記載され、式内社に列している。

小槻氏が移ったのちは、付近に拠点を持つ青地氏の崇敬を受け、社頭が整備された。

明治9年(1876年)近代社格制度において村社に列し、明治14年(1881年)郷社に昇格した。

参考資料:ウィキペディア、現地説明石碑

本日も訪問、ありがとうございました


山中城 近江国(甲賀・土山) 

2014年02月16日 | 平山城

山中城は国道1号線の鈴鹿峠を越える手前の山中地区にあり、現在では国道1号線に面した十楽寺と熊谷板金の駐車場間に城址碑が建つ、山城に土塁・平削地・石仏が残る。

所在地:甲賀市土山町山中 map: http://yahoo.jp/pQMyD3 

初城主:山中新五郎俊直

現 状:山林

区 分:山城

遺 構:石碑、山城に土塁・竪堀・石仏

築城期:鎌倉期 建久5(1195)年

築城者:山中新五郎俊直

目標地:熊野板金・城跡碑

駐車場:熊野板金横~要時間:15分

訪城日:2014.2.12                              

                              

お城の概要

 

『日本城郭体系 11』によりますと、

 

所在地は「甲賀郡土山町山中」、創築年代は「建久五年(一一九四)」、創建者は「山中新五郎俊直」、形式は「山城」です。「山中城は、土山町大字山中の中央、現在の国道一号線(東海道)の南方の山腹にある。城跡は、郭の東と西に土塁を残している。また、付近に「堀内」「大門」「同心屋敷」などの小字がある。

辺り一帯は階段状の水田となっており(近代に開墾したものだろう)。城址の石碑の後方山中に、土塁・竪堀・主郭・石仏が残る。近くには大門、堀内、同心屋敷などの地名が残っている。


お城の歴史

 山中氏は建久年間(1190~98)以降、鎌倉幕府の命をうけ鈴鹿山警固役として、山中悛直から代々鈴鹿の関所を守り、山賊などの討伐もおこなってきた。

甲賀二十一家山中氏の本拠。

 山中俊信の代には居館を柏本荘(水口)に移し、山中城は一族が守つていたが、天正13年(1585)豊臣秀吉のために城地を没収された。

『日本城郭体系 11』によりますと、

山中新五郎俊直は、建久五年に鎌倉幕府より鈴鹿山守護として、鈴鹿山賊、盗賊を鎮める役命を受けている。

この山中村地頭職、上山村友行名下司職は、山中俊直、俊信、有俊、氏俊を経て、建武二年(1335)になり、実秀の代に、為顕と道俊で所領を二分して、鈴鹿山警固役は二人で役を果たしている。

南北朝の動乱で、勢力を増大した道俊は、養子頼俊をして柏木御国惣庄検断職をもたせ、甲賀郡内でも代表的な武士に成長した。」とありる。なお、甲賀郡土山町山中は現在甲賀市土山町山中になっています。

Osamu Tanakaさんの写真蟹坂古戦場(かにさかこせんじょう)

天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍政を盛りかえし、さらに北伊勢の軍政を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍政五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。

 近江の山中氏は、戦国時代に甲賀二十一家の随一と称され、鈴鹿山麓の山中村から起こったと伝えられている。山中氏は橘姓といい数種類の系図が伝来しているが、それぞれ異同が著しく、にわかにその世系を特定することは難しい。いずれにしても、平安末期ごろ、荘園の下司・公文として武士化していたようだ。
 鎌倉時代はじめの、嘉禄二年(1226)、橘中務丞俊信が、鈴鹿山の賊を退治した功によって、山中村地頭.鈴鹿山盗賊追捕使に補任された。そして、山中にちなんで山中を称するようになったという。山中氏系図によると、俊信以前に岩屋・大平・石部・野村・山村・三雲・宇田・原らの諸氏が分出しており、山中氏は惣領を中心とした武士団を形成していたようだ。
 また山中氏は、伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、幕府からも公卿勅使「儲役」、「鈴鹿峠警固役」を公認されていた。「儲役」とは朝廷が伊勢神宮に特別なことを祈願する勅使である公卿勅使を接待する役であり、「鈴鹿警固役」とは公卿勅使を近江・伊勢国境附近で警護する任をいった。
 山中氏は鈴鹿山麓の山中村を本拠としていたが、やがて、惣領家は柏木御厨に移住したため山中氏は二流に分かれた。柏木に移った山中氏は、柏木御厨五郷(本郷・酒入郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷)を領して、戦乱を生き抜き甲賀郡屈指の国人領主に成長していったのである。

熊谷板金の西横を詰め城へ

        竪堀

土塁

主郭に東海道に向け石仏(台座から折壊)

      

国道脇に駐車

参考資料;淡海の城、近江の城郭、日本城郭体系 11、甲賀市誌7巻甲賀の城・現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


音羽野城 近江国(甲賀・土山)

2014年02月15日 | 丘陵城

県道9号線青瀬橋の南詰、妙楽寺の反対側に上水道施設があり、そこに案内板と石碑が建っている。

文明年間(1470~1486年)に頓宮四方介利盛が音羽野村を領した後に築城し頓宮城より移り住みました。それ以来、当城に住み代々継ぎましたが、元亀元年(1570年)、頓宮因幡守守孝の時に、近江の守護職佐々木六角氏没落した際に織田信長に従いましたが、天正十三年(1585年)豊臣秀吉によって改易されました。

音羽野城の位置は、現青瀬橋の南東の小高い丘上にあって、現状は松、杉等の混植林となっている。本丸跡と考えられる地点には庭石などの残され、内堀・外堀も原形をとどめています。  <現地案内板より 土山町教育委員会

甲賀市誌7巻甲賀の城より 

お城のデータ
所在地:甲賀市土山町瀬ノ音 旧:甲賀郡土山町  map:http://yahoo.jp/30Q6Qy                          目標地:野洲川 青瀬橋の南詰                                                 区 分
:丘陵城                                                               標高:290m 比高差:30m

現 状:山林
遺 構:郭・土塁・堀・庭園・石碑・説明板

築城期:長享年間(1487年~1489年)

築城者:頓宮四方之介利盛
駐車場:妙楽禅寺そば
訪問日:2014.2.12

 お城の概要

 

音羽野城は野洲川に面した丘陵の北西端に築かれている。 台地の上は広い平坦地が拡がっているが、音羽野城はこの台地の北西隅部のみ活用して方形居館を築いている。

 

縄張りは単郭の方形居館で東西60m、南北70m程の規模である。周囲は土塁と空堀が巡らされているが、北側のみ空堀はなく切岸になっている。この北側は地形に応じてやや弓形となり北東隅は北に張り出している。

 

虎口と見られる土塁の開口部は東中央、南中央と南西隅にある。 東の虎口は土橋が架かり、周囲には石が散在しているが、石積の跡のような感じではない。 南側は東からL字に折れた空堀が内側、西からL字に折れた空堀が外側に巡り、中央虎口から西側が二重空堀になっているのが特徴である。中央虎口も土橋状になっているが、この付近は複雑な地形になっており、後世の改変の影響も考えられる。

 

歴 史  

南北朝の動乱
頓宮という地名が出てくるのは、文治6(1190)4月の伊勢内宮役夫工作料未納について書き上げた注文の中に「頓宮」の名が見えるのが地名としての初見とされている。
「頓宮文書」には,建武3(1336)正月2日の近江国頓宮知綱着到状があり、それには頓宮肥後弥三郎知綱と記されているおり、上記肥後守である盛氏と同じ国司、肥後の名乗りのため裔と考える。この着到状は足利尊氏に呼応し挙兵したことである。南朝側に味方した頓宮弥九郎とは一族の者とされている。また応永21(1414)113日の大野光保譲状により甲賀郡大野郷が譲与されているため、その際に近江へ移住したのでは考えられる。
近江の地で頓宮氏が台頭し、南北朝時代では南朝側に前記の頓宮肥後弥九郎が五辻宮守良親王に味方して兵を挙げ甲賀郡をまとめたが、足利尊氏の命を受けた甲賀の小佐治右衛門三郎・山中橘六・美濃部兵衛三郎などが佐々木秀綱に従って攻め、頓宮肥後弥九郎は岩倉城(信楽町)へ拠るが守れず、和束(京都府)へ逃れた。再び、和束・信楽の兵を集めて、頓宮氏は近江の鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・小佐治合同軍に囲まれ、鮎河城を支えられずに庚申山(水口町)に拠るが、ここも支えきれず和束へ退いた。再々度、頓宮弥九郎は鮎河城に拠るが、佐々木秀綱・山中五郎・柏木源蔵は鮎河城を襲い、火を放って城を焼き滅亡させられた。

 頓宮四方介利盛によって築かれたと云われる。 文明年間(1469年~1487年)に音羽野村を領した頓宮治三郎正盛の子利盛が、長享年間(1487年~1489年)に頓宮城より移り居城したと伝える。

頓宮氏は、甲賀武士甲賀五十三家の一つに属しており、同じく甲賀武士として中世長享の役等で活躍した土山氏、黒川氏、大河原氏は、頓宮氏の一族である。
 長享年間(1487年~1489年)頓宮治三郎正盛の子、頓宮四方之介利盛により音羽野城へ移住している。

佐々木六角氏が織田信長に攻められて没落すると、頓宮因幡守守孝は信長に降ったが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉によって改易となった。

 

http://yahoo.jp/leoPYt

林道~祠~uターンして

城址は北に野洲川が流れる丘の先端にあります。祠の裏手へさらに登っていくと堀のようなところを歩きます。

5分の歩かないうちに左手側が城址です。基本は単郭方形ですが大きな主郭(東西50mほどありそう)です。

主郭南側は前面に堀が走り南西側と南東側の平虎口があります。堀の外側も平坦地が続き郭跡のような感じです。主郭には土塁が巡りこれも分厚く高さも2mほどあります。主郭の一番奥(城址碑とところから直登した場合はこの辺に出ますが)北西側に庭石のような石がゴロゴロしており庭園跡とわかります

駐車(農道)http://yahoo.jp/e_PNXM

参考資料;淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城・現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


土山城 近江国

2014年02月14日 | 平山城

城郭の概要

所在地:甲賀市土山町北土山 Maphttp://yahoo.jp/xaeaEc

築 城 :文明年間(1469~1487)

初城主:土山鹿之助盛忠

区 分 :平山城

遺 構 :空堀、土塁、堀切、土橋、池

  土山城は鈴鹿山麓を伊勢に向かって延びる東海道沿いに位置する城郭遺跡です。城郭の遺構は近世東海道における滋賀県最後の宿場、土山宿の北東に位置する丘陵上に残存しています。この城は『甲賀郡誌』では文明年間に土山盛忠による築城、天正年間に滝川益一により落城と伝承されています。

 土山城の遺構は現在のところ山頂部とそこから南西に延びる尾根上を中心として大小の郭が残存しています。山頂部に一辺50m前後という最大規模を持つ方形の郭Ⅰがあります。周囲は高さ3m前後の土塁で囲まれ、北および南辺に虎口が1箇所ずつ開口しています。南辺虎口の前面には土塁で囲まれた角馬出状の虎口空間Ⅱが存在しています。城内での位置や構造からこの郭が「主郭」と考えられます。郭Ⅰの北側には規模の小さな郭がいくつか構築されています。その中には縁辺に土塁をもつ郭もあります。また、主郭の北側には竪堀が配されています。

 土山城跡平面図(福永清治氏作図)

 

  土山城では、平成21年度に甲賀市が実施した里山森林と遺跡整備を兼ねた事業により、城跡内部が間伐され、遺構へ向かう通路・案内看板が整えられました。城跡内部・周囲の見通しがきくようになり、郭の形状や土塁の残存状況も捉えやすくなり、見学し易くなりました。

緩やかな傾斜の谷筋の山道を約5分ほど登ると、分厚い土塁で造られた虎口に到着する。虎口横の武者隠し的な曲輪が目を引く。

 城域は東西に広がる緩やかな丘陵地としている。曲輪配置は丘陵地の高低差を巧みに利用しており、土塁と思えば曲輪の切岸で、切岸を登り、空堀を越え30分は歩き回らないと全貌が掴めない。

 主曲輪の東には袖曲輪を介して堀切を2本配置し、また南には土橋を介して馬出し曲輪を設け、虎口は枡形と単純明快な中にも先進的な縄張りがなされている。

 郭Ⅱ・Ⅳ間の堀切

 残存する遺構は土の盛り切りによって構築されています。この構築手法は城郭としては古い手法だといえます。また、郭Ⅰのように郭の周囲を土塁で囲むという形態は甲賀郡内に残る城郭遺構に類似しています。しかし、土山城の遺構には角馬出状の虎口空間という城郭としては新しいとされる要素も存在しています。この角馬出状の虎口空間については、天正12年の小牧・長久手の戦いの際に羽柴(後に豊臣)秀吉が土山に在陣したという記録があることから、この秀吉の布陣によって構築されたものではないかとも考えられています。そうであれば、もともと「甲賀の在地の城郭」として構築されたものが天正年間に新しいスタイルを取り込んだ城郭として改修されたものであるかもしれません。

 一方、郭Ⅰから南西へ伸びる2本の尾根上ではそれぞれ大規模な郭が構築されています。この2本の尾根上に構築された郭は堀切によって区画されています。南側の尾根では土橋により郭間が連絡されている部分もあります。北側の尾根上の郭Ⅲは約70m×30mと規模が大きく、縁辺北東部に土塁の存在が確認できます。南側の尾根で最も大規模(約50m×25m)な郭である郭Ⅳの南西には郭Ⅰで見られるのと同様の角馬出状の虎口空間Ⅴが接続しています。2本の尾根に挟まれた谷部分も段状になった郭として利用されていると考えられ、現状ではこの部分に山麓から郭Ⅰに通じる通路があります。ただ、これらの郭の内部については発掘調査が行われていないため詳しい状況は判明していません。

郭Ⅰの内部

 土山城へは麓の甲賀市土山町から城跡に向かう道があります。国道1号線土山支所前交差点から北へ進み通称トラバースロードへ右に曲がり小川を越え50m北へ200m集落内道へと向かいます。集落内の集会所の前を過ぎると南からの登り口があり、説明板が設置されています。 土山城は文明年間(1469~1487)音羽野城主頓宮四方介利盛の二男・土山鹿之助盛忠の築いた城とされる。
土山鹿之助は甲賀武士五十三家で、また二十一家にも数えられる甲賀の名門である。

 天正10年(1582)土山左近太夫盛綱に至り、織田信長の家臣滝川一益の甲賀攻めまで子孫相次いで本城の領主であったが、甲賀攻めを契機に滝川氏に属している。

 土山城の規模は東西60m、南北50mの主曲輪以外に、広大な空堀や土塁を巡らす住居跡がある。

駐車場登山口付近から50m東に、駐車利用することができます。http://yahoo.jp/PaDl4A

参考資料;淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城・現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。


頓宮城 近江国(甲賀)

2014年02月14日 | 丘陵城

現在 東光禅寺の裏山が頓宮城

・所在地: 滋賀県甲賀市土山町頓宮851 MAPhttp://yahoo.jp/5TEso6

・遺構:石碑、説明板(駒札)、土塁、空堀

・城主:頓宮氏(甲賀武士53家の1つ、有力土豪)

目標地点:東光寺
・区分:丘城                                                                  ・比高:20m 
・現況:山林・神社

・遺構等:郭・土塁・堀・碑
・時代/人物: 鎌倉期/頓宮氏 
・最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:城址碑から5分

・訪城日:2014.2.14

東光禅寺参拝者用の無料駐車場を利用。

城址碑・駒札現地説明板(駒札)

 頓宮城址は、鎌倉期には頓宮牧荘の中心部にあり、郷村制の成立と共に所を得て、土山地方における有力土豪として成長した頓宮氏の城(砦)である。
 現在、その遺構の多くは失われているが、石碑より登り東西に伸びる一帯の台地は、城山と呼ばれており、南・西両面は、やや屹立した要塞をなし、後方東面に空堀を巡らし、西に大日川を隔て、北城および城の前と呼ばれる丘に続き、眼下は野洲川流域まで展望できる山塞である。
 頓宮氏は、甲賀武士甲賀五十三家の一つに属しており、同じく甲賀武士として中世長享の役等で活躍した土山氏、黒川氏、大河原氏は、頓宮氏の一族である。
 長享年間(1487年~1489年)頓宮治三郎正盛の子、頓宮四方之介利盛により音羽野城へ移住している。これにより廃城となった。

郭Ⅱ(現在は主郭南側下には平削地は戦没兵士(英霊)の墓碑が。)

右に登れば主郭です。

城址碑の所から丘に登りますと祠がある場所、主郭である。

30m×50mの四方程度の平坦地で東側からコの字の低い土塁。北側は自然の崖を切岸に、東側は空堀5m、高差5mにも及ぶはっきりと確認できますが、東側から北側に堀が巡っている。堀を隔てて東側にも削平地が確認できますが城域カ?。頓宮城丘陵周辺は、大茶畑です。土山茶は宇治茶の元の言われている。

また、頓宮池ノ谷城、頓宮舘跡が

縄張り図:甲賀市誌7巻「甲賀の城」より

主郭(虎口より)・・・奥に祠

手水岩のみ残っています

北側土塁

北東側土涙

東側:空堀

北東の土塁より、主郭

虎口手前も土塁・武者隠し

空堀の北東隅は、崩落でした。

虎口手前の土塁

頓宮城より、東海道・野洲川望む!

東光禅寺の墓地

参考資料;淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城・現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。

 


黒川氏城 現地見学会

2014年02月04日 | 平山城

甲賀織豊系傑作城郭入門 黒川氏城 現地見学会
日 時 201423日(月曜)
内 容 城郭研究家による本格城郭見学入門講座                                                                  講 師 愛知中世城郭研究会  長谷川博美氏
主 催 米原文化協会城歩会、近江中世城郭調査委員会

事務局  宮本優子氏                                                                                    長谷川氏E-mail wwmy29831@maia.eonet.ne.jp                                                                                         

石垣�石垣城門�石段�石築地跡�横矢と櫓台�櫓群の配置�馬出し曲輪�翳し曲輪

行き止曲輪�竪土塁�井戸貯水槽�水の手曲輪�横堀配置�横掘千鳥の配置�掘切�土塁

甲賀の城�織豊の城�犬走り�帯郭�5間×8間外枡形�土橋21竪掘り21切岸 22喰違虎口

 

左川田氏(踏査協力)

講師長谷川氏(中央)の踏査図・右宮本氏(踏査協力)

参加者の記念撮影14名+2名

現地見学会の踏査図面の概略説明・・・長谷川講師(右2人目)

見学会講師の長谷川博美先生より、作成された縄張り図を元に概略説明がありました。 

縄張り図を見て、まず吃驚、東京ドーム5個強の面積があるという、城郭見学会で最大級。

入城開始

近江ノ国_米ちゃんのblogより

http://84630803.at.webry.info/201402/article_2.html


・住所:甲賀市土山町鮎河(旧:甲賀郡土山町鮎河) map:http://yahoo.jp/QF1HG9
・区分:山城                                                                 ・築城者:黒川与四郎                                                           ・標高:450m 比高:100m 
・現況:山林

・遺構等:堀・土塁・石垣・堀切・石碑・説明板
・時代/人物: 応仁年間(1467~1469)/黒川氏
・主郭まで:県道沿の説明板より15分

・城 域 :220m×330m
・訪城日:2014.2.3

滋賀県中世城郭分布調査より

縄張りで特徴的なことは横堀を多用している点にある。近江において横堀が観られる城砦は、甲賀地方の城館とは異例の黒川氏城の横堀は単に曲輪周囲に巡らせただけではなく、横堀を通路(堀底道)として使うことで敵を誘導、迎撃する横矢の計画的意図がみえ、戦術的に横堀を多用している。

 また、甲賀地方は甲賀五十三家に代表され、あるいは「甲賀郡中惣」にみられるように、独立性の強い小豪族の集まりで、和田氏の城砦をとっても、小さな谷を囲むように和田城・和田支城といった単郭方形の小さな館城(やかたじろ)を幾つも築くパターンが多い。

 一方、黒川氏城は主曲輪を中心とした求心性の強い曲輪配置をしており、甲賀武士とは違った権力構造をもった勢力によって築かれたカ、歴史的には甲賀五十三家の一家である黒川氏の居城。

歴  史

 大河原家・黒川家ともに、近江守護職六角氏(観音寺城主)との繋がりは深く長享・明応の乱(1487~1501)に戦功をたてた。六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱 「鈎の陣の戦い」に参戦しての勲功により感状を与えられた甲賀二十一家の一で両家ともに「地域連合惣」の北山九家の一です。

大河原源太が鮎川を、 黒川久内黒川・黒滝の地を領有し以後代々子孫が世襲していますが、六角氏が衰退により甲賀五十三家も弱体化していく中、天正13年(1585)羽柴秀吉によって解体されて共に滅びます。

永禄年間(1558~1569年)に黒川玄蕃佐がこの山に築いた城です。

今も頂上には四十間の方形(一間=約1.82m)の旧址があり、また、石垣、石段の一部、堀や屋敷の跡が残っています。

黒川氏は守護六角氏に属し、長亨・明応の頃(1487~1501年)にしばしば戦功をたてます。黒川久内は、六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長亨の乱「鈎の陣の戦い」(1487年)の功により黒川・黒滝を領し、以後子孫が世襲しました。

(この当時は黒川城?)織田信長の上洛阻止に失敗した六角氏のために、家臣辻和泉を東国甲斐武田信玄応援の使者として派遣し、義賢の二男中務大夫賢永を甲斐へ下らせた。天正十三年(1585)の甲賀破儀をもって改易されたが、後に再び本領黒河のみを食封として許された。しかし豊臣秀頼に属して、慶長十九年(1614)、大阪冬の陣に参軍したため領地を失った。

黒川玄蕃佐に至り、黒川氏城を築城し山女原・笹路・黒川・黒滝・鮎河の松尾川東方を支配し、子の八左衛門が継承しましたが、天正十三年(1585年)に紀伊川堤防修築工事の責任を問われ、黒川を除く地域は没収され城は廃城となりました。 

しかし、旗本となった黒川氏の家譜を載せる「寛政重修緒家譜」によれば、黒川玄蕃佐盛治は六角氏からのち織田信長に仕え、徳川家康の 「伊賀越え」にあたっては弟を人質として出し、その後駿府で閑居していた。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時には東軍に属し、 戦後甲賀郡内において800石余を賜り、その子盛至の時、咎めを受けて一旦改易されるが、その後再度旧知を復せられたとある。

その後黒川氏の娘が紀州徳川頼宣の側室として綱教を生み幕下に列せられ、黒河村を復した。

昭和五六年建立

ここで一直線に加工されたような石を見つけました。

何か、神仏に使ったものでしょうか。「青地さん、石のお話ありがとうございます。」

県道へ下山しました。

全員でクールダウンをして、解散です!

甲賀の巨大山城に、感激・感涙しながら・・・米ちゃんと家路に!

 

黒川氏城現地説明板

設置場所・・・県道509号http://yahoo.jp/GjG3Al

参考資料;淡海の城、近江の城郭、長谷川講師の資料12p・説明

本日も訪問、ありがとうございました。