城郭探訪

yamaziro

北菩提寺城 近江国(湖東)

2013年06月01日 | 平城

 北菩提寺地区西側にある蛭子神社境内の南側にある竹薮が北菩提寺城だ。

所在地:東近江市北菩提寺町
    旧:愛知郡湖東町北菩提寺

目標地:蛭子神社

区 分:平城  比高差:0m

現 状:神社・雑木林

遺 構:郭・土塁・堀

築城期:

築城者:

駐車位置から:2

訪城日2013.6.1

 北菩提寺集落の北西はずれにある日吉神社の南東、蛭子神社の南側の竹薮一帯が北菩提寺城跡である。80m四方の方形単郭で周囲に土塁と堀が廻っていた。

今も竹薮の中、北側と西側、南側の半分程に土塁と堀が残っているとされるが、竹の密集が酷く遺構の確認はままならない状態である

 

 城の縄張りは、土塁と堀に囲まれた方形単郭の典型的な土豪の居館と云える。

囲に土塁を廻らせた単郭方形の城で、曲輪の広さはおおよそ50m×50m、西側と北側の土塁は見事に残り、周囲には堀跡も認められる。

現在、城のある竹薮の周囲にフェンスが張られ、神社側と南側の民家脇から入ることができるが、竹薮内は荒れていて、写真を撮るどころではなかった。 それでも、竹薮の北から西側にかけて土塁と空堀を何とか見ることができた。

    

歴史

 北菩提寺城は、築城年代は定かでないが加藤氏によって築かれた。 加藤氏は、愛智郡誌に佐々木六角氏の家臣・加藤六郎左衛門尉貞転・同民部丞が在城した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


畑田城 近江国(愛知川)

2013年06月01日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町(旧・愛知川町)畑田  map:http://yahoo.jp/5MstkAこの地図のURL

目標地:天-神社

区 分:平城

現 状:神社・宅地

遺 構:土塁・説明板

築城期:鎌倉期

築城者:佐々木氏

城 主:羽柴長兵衛

駐車場:路上駐車

訪城日::2013.5.31

お城の概要
天一神社の北側(本殿の裏手)から集落北側沿いに土塁の痕跡がいたるところに残ります。

説明板には北側に2~3mの土塁が200mほど残るとありますが、そんなに高い土塁は見当たらなかったです。

集落北側の一番東側に高めの土壇が認められます。説明板には草の根広場の東側の藪に土塁・堀・井戸が完全な形で残るとあります。



【歴史】
佐々木氏(六角氏)系の城です。

畑田城は畑田地区の若宮神社前に案内板が建てられており、若宮神社には高さ1m足らずの土塁と堀跡状のものが残っている。

 神社前の案内板には、かなり大きな城郭を想定した記載があるが、確認まではできなかった。

 畑田城は、鎌倉時代から戦国時代まで近江国の守護佐々木(六角)の家臣が居城し、戦乱時には、観音寺城を守る前線基地として機能していたと思われます。
 城の全貌はつかめないが、集落の北側に東西2百メートル南北百メートルほど、高さ3~4メートルほどの土塁や堀が残っています。また、郭(土塁と堀で画かれる)は、横に六つ並んでいます。草の根広場の東側の薮には、土塁と堀・井戸が完全な形で残っています。これらの郭は、東側と西側の土塁のラインが一致しなく、中央の三つの郭が突出しています。この三つの郭が、原基的なもので東側や西側に翼のように広がる郭は、後に付加されたものです。
 郭が付加されるのは、戦乱が激しくなる戦国時代と考えられます。このころになると、かなり広範囲に集落を囲もうと努力し、戦乱に備えています。

 

「大洞弁天当国古城主名札」には、畑田村屋敷主として羽柴長兵衛の名が見える。

現地案内板には、「鎌倉時代から戦国時代まで近江守護職佐々木氏の家臣が居城し、戦乱記には観音寺城を守る支城として機能していたと思われる。城の全貌はつかめないが、集落の北側に東西200m、南北100mほど高さ3~4mほどの土塁が残っている」と記されている。

 さて、羽柴長兵衛とは何者か?

若宮神社周囲の土塁

 

 

天一若宮神社

『太閤史料集』『近畿・近国の戦国合戦』という本。

何だか密林にて定頼の名前で検索をかけると、物凄い勢いで、日蓮宗徒と一緒に定頼の兵が山科本願寺焼き討ちしたことを説明した一文が出てきます。

信長の先を行く男佐々木定頼←← 日本で最初に楽市楽座を始めた人であり、日本で最初の城割りをした人なんだ!1530年生まれと見ると、若い。

佐々木定頼と四十歳近く年下なんて若すぎる!畿内が大混乱してた頃に、まだ木下藤吉郎(秀吉)生まれたて、戦国時代。佐々木定頼の娘と、細川晴元が結婚した年に生まれた秀吉。
 六角が支配していた頃の江東に、羽柴姓を名乗ってる人がいたんです。勿論、秀吉が羽柴姓を名乗る前。羽柴長兵衛という名前の人で、畑田城の城主。

 城主をしていたほどの人なのですから、秀吉がその人のことを知らなかったとはちょっと思えない。秀吉の秀は六角義秀の秀を貰って付けたとか。羽柴長兵衛は六角家臣。

秀吉が羽柴を名乗ったのは、柴田と丹羽の機嫌を取る為、柴田の柴が、丹羽の丹の下にあるのはおかしい。とか、秀吉が羽柴を名乗った頃は、織田家中で丹羽より上位の人がまだいたとか)その辺を考えると、この羽柴長兵衛は捨て置けない。

 信長の外戚(土田御前の家系)がどうやら六角の血筋らしい、土田御前そのものが高頼の娘だと史料もあります。秀吉が六角家臣の人の名字を名乗った、とするのはちょっと苦しいが← 単純に、秀吉自身が放浪時代に羽柴長兵衛と何かあったとも考えられる。

  秀次切腹に連座して木村重茲が切腹させられた後、近江馬渕に逃れた重成を、六角義秀が保護して育てたとか。この時には、義秀は死没してます、全面的に信じるのも?重成が佐々木源氏の木村氏だという可能性は強い気がします。佐々木源氏の真野氏なのでしょう。

 

先輩諸士のサイトで土塁の一部が写真に撮られていたが、私が訪城した時には完全に破壊され跡形もなかった。城ブームの昨今でも史跡の破壊が進んでいることを痛感させられた。

 2004年7月の土塁

神社後方

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


平居城 近江国(愛知川)

2013年06月01日 | 平城

城跡碑

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町平居  (愛知郡愛知川町平居)   map:http://yahoo.jp/YpcS12

目標地:平居公民館

区 分:平城

現 状:宅地

遺 構:土塁・石碑

築城期:鎌倉期

築城者:小倉氏

城 主:小倉大輔入道

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.5.31

 

お城の概要

個人宅の入口にある城址碑の横手はつる薔薇で、土塁の痕跡か残っていますが!花畑・菜園?

「平居村地券取調総絵図」で小字西屋敷に周囲を草荒とした方形区画があり、その南辺には土塁痕も描かれ、この区画が平居城跡と比定されている。

平居城の堀は、愛知井である藤川が直結しており、灌漑水利を掌握して、居館主導で集落を形成したと考えられている。
地籍図と伝承から100m×150mの巨大な在地土豪の居館が想定されている。周辺の小字には東屋敷、馬場も認められる。

先輩諸士のサイトで土塁の一部が写真に撮られていたが、私が訪城した時には完全に破壊され跡形もなかった。城ブームの昨今でも史跡の破壊が進んでいることを痛感させられた!

歴 史


史料では城主として小倉大輔入道の名がありようです。

平居城は、平井氏の居館である。

近江愛智郡誌は、「豊国村大字平居に平井氏在邸の址あり今竹林と化す。平居氏は鎌倉時代以降近江武士の有勢者たり、戦国末に平居加賀守定武あり佐々木六角義賢及び義治の親任厚く武勇と才識を兼ねたり」と記す

「江州佐々木南北諸士帳」には、「平井城主 佐々木旗頭 小倉備前守実治」とある。

平井氏について、「近江愛智郡誌」は、愛智流と小倉流の二氏があるとする。愛智流平井氏は、「東寺百合文書」で円城寺領公文・当国御家人として南北朝時代には愛知郡内で活躍していたことが確認されている。

戦国時代には六角氏・重臣の加賀守定武がおり、娘を小谷城主・浅井長政に嫁がせたことで著名である。

一方、小倉備前守実冶については、近江愛智郡誌の「小椋氏系図」に小倉流平井氏に「実冶、山田右京亮・山田住、後に高野城立て籠もる」とある。また、天文24年(1555)の「豊満大明神御渡り次第」の上庄筆頭に署名する小倉藤助実冶がおり、愛知井の水利を掌握していた上庄の筆頭者として、平居城に居していたと考えられるとされる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江愛智郡誌、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 

 

2004年7月の城跡碑