城郭探訪

yamaziro

田中江城 近江国(近江八幡)

2013年06月21日 | 平城

お城のデータ

所在地:滋賀県近江八幡市田中江町  map:http://yahoo.jp/ezCIl3

遺 構:曲郭、堀

区 分:平城

築城者;永原氏

築城期:文明年間

目標地:称念寺

訪城日:2013.6.21

 稱念寺門前の堀。

お城の概要

 称念寺南側の門前と西辺に、堀が残っています。寺に必要とは思えない形状の堀ですので、城に伴うものと思われます。また、寺の東に細長い長方形の水路に囲まれた区画があり(上の地図でも北と西の水路が確認できます)、やはり城の一部と推測されます。

この区画の東端は江戸時代の朝鮮人街道に接し、西端には八幡神社が鎮座しています。

 宅地化、干拓・農地化が進み遺構は破壊されていきました。

 

 

歴 史

永原城主永原氏の支城で、文明年間(1469~86)の築城とされる。永原官六や岡野加賀守が城将を務めた。廃城時期は不明だが、六角氏が滅び、永原氏が永原城を去った永禄十一年(1568)ごろと推測される。

秀吉が、水口岡山城の築城のため、坂本城の小材と田中江港に陸揚げ、陸路水口へ。大材は野洲川を水口へ。

内湖は、第二次世界戦争の敗戦の引揚者のため、干拓された。

 田中江は、古くは琵琶湖と水路で結ばれた湖港の町だったそうです。現在残る水路から単純に考えると、まさに八幡神社の付近に田中江の港があったのではないかと思われます。琵琶湖からはやや内奥にある上永原城の永原氏にとっては、街道と湖港に挟まれた田中江城は非常に重要な拠点であったものと推測されます。 

また、には佐々木盛綱を匿った等の伝承が残り、『中世城館調査報告書集成』ではこれをもって稱念寺周辺を田中江城址とする根拠としている。盛綱が身を隠したというのは、平治の乱での敗北に伴うものと推測されるが、『集成』の推測が正しいとすれば、鎌倉時代までには何らかの城館が営まれていたということになる。

 

八幡神社西側の堀。 

 

 朝鮮人街道に面した北東隅の堀。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


信長と秀吉の金箔瓦再現  (滋賀報知)

2013年06月21日 | 文化財

 

■平成25年6月21日(金) 第16607号

=凹凸に貼り分けた輝き 元瓦窯業の松井さん製作=

松井さんが製作した信長(中央から右側の2枚)と秀吉の金箔瓦

◇近江八幡
 近江八幡市郷土史会会員の松井秀夫さん(船木町・61歳)が、信長と秀吉が居城に使った二種類の金箔瓦を作った。
 軒丸瓦と軒平瓦で、信長の瓦は安土城跡から、秀吉の瓦は伏見城跡からそれぞれ見つかったものを参考に研究調査を重ねて再現した。
 信長の瓦は、瓦を装飾する三つ巴の文様の凹面に金箔が貼られ、秀吉の瓦は凸面に貼られているのが特徴で、金箔の輝きで浮かび上がる文様に陰と陽の対照的な違いがある。どちらも金箔面の下地に朱漆が塗られ、金箔をむらなく貼る工夫と金の発色を鮮やかにする技巧が施されている。
 かつては八幡瓦の窯業を営み、現在は工務店を経営する松井さんは「小さい頃から瓦をみてきたので、金箔瓦には興味を抱いていた。金箔瓦は、湿度の変化によって固まる漆塗りの特徴を活かして耐久性を持たせ、金箔の鮮やかさを保つために下地に朱色が選ばれていることが分かった。最初は、単に瓦に金箔を貼ったものだと考えていたが、当時の職人の技術に感心させられた」と話している。
 金箔瓦は、金箔を扱う京都の技術者に製作を依頼したもので、同じ文様でも金箔の使い方の違いが、信長と秀吉の人物像に重なる。
 金箔瓦は、二十三日午後一時半から近江八幡市立図書館で京都府立山城資料館の森島康雄氏を講師に招いて開かれる歴史講演会「秀次公と聚楽第」(主催・近江八幡市郷土史会)で展示される。入場無料。予約不要。