城郭探訪

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姉川の合戦史跡めぐりウォーキング 2013.6.29

2013年06月29日 | 探訪「大地の遺産」

元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が、姉川を挟んで壮絶な戦いを繰り広げた『姉川の合戦』に由来する姉川南岸史跡をガイドさんの解説付きで巡ります。

茶臼山山頂では新緑の森林浴を楽しみながら、姉川の合戦場を見下ろすビューポイントを堪能頂いた後、稲の苗が植えられた田園風景に溶け込んだ史跡を巡るウォーキングを堪能いただけます。

開催期間平成25年6月29日(土)8:30~
場所北郷里公民館 滋賀県長浜市東上坂町976-7
  [自動車]北陸自動車道長浜ICから車で5分
  [駐車場]有

龍ヶ崎砦(茶臼山古墳群)遠景 横山城遠景

遠藤直経の戦場墓碑:元亀元年、遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。

 

⑥龍ヶ鼻の砦郡

 [地図をみる]

 この背後の山である龍ヶ鼻は、姉川合戦の直前に、織田信長や徳川家康が本陣を敷いた砦跡です。元亀元年(1570)6月19日、浅井長政を攻めるため、織田信長は大軍を率いて近江に入りました。21日から浅井氏の居城小谷城を攻めましたが、その構えが固いとみるや、わずか1日の攻撃で兵を返しました。

24日にはこの龍ヶ鼻に陣を移し、徳川家康もそこへ合流して、南方の横山城の攻撃を行います。信長や家康の陣跡は、ここから東へ約300メートル程登った龍ヶ鼻砦跡(標高187メートル)や、そこへの途中、茶臼山(ちゃうすやま)古墳(滋賀県指定史跡、前方後円墳)の後円部にあたる龍ヶ鼻陣所付近にあったと見られます。

合戦の当日にあたる28日未明、浅井・朝倉軍が姉川北岸に前進したのを見て、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」に、それぞれ本陣を移し合戦が行われました。

 

この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山(かつやま)」と呼ばれるようになったとされます。

徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。江戸時代以来「流岡(ながれおか)神社」が鎮座していましたが、明治41年に上坂神社(東上坂町)に合祀されました。

この「流岡神社」には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、境内の大杉の上部が枯れているのは、合戦の折、両軍の矢が飛びかって枝を折ったためと伝えられています。一方、上坂神社には織田信長が寄進した金燈籠(かなどうろう)が現存しています。

上坂氏館 

戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂(こうさか)氏の館跡です。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。

関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました。

館跡は土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。

  

 

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


姉川の合戦 織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」

2013年06月29日 | 陣屋

①姉川古戦場・血原・本陣

姉川古戦場

『日本戦史』によれば、合戦は28日未明に、この西方に陣した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政らが側面から朝倉軍を突き形勢は逆転しました。一方、この一帯では浅井・織田軍の間でも戦闘が開始され、最初浅井軍が優勢でしたが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川軍の加勢により、浅井軍も敗退したと伝えられています。

合戦検証”姉川の戦い1”

 

ただ最近、姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられています。

合戦後、織田信長は本陣を横山城や虎御前山城におき浅井氏攻撃を続けましたが、最終的に浅井氏が滅亡したのは、3年後の天正元年(1573)9月1日でした。

なお、合戦があった太陰暦6月28日は、28日未明に至り、浅井・朝倉軍が約3キロ北方に当たる大依山から前進し、姉川北岸に布陣するのを見た織田軍は、援軍に来た徳川家康軍と共に、姉川南岸に軍を展開しました。この時、織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」に、徳川家康の本陣は岡山(勝山)に置いたと伝えられています。浅井軍と信長軍との戦いは、最初は浅井軍が優勢でしたが、

  遠藤直経の討死の墓(圃場整備で移設)

それを象徴するのが遠藤直経の討死です。

 直経は信長本陣深くまで攻め入り、味方の首級を一つ提げ、織田勢に偽装して信長の首をねらいましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討死したと伝えられています。現在、直経の戦死した場所には、その墓が残りますが、信長本陣の「陣杭の柳」の後方300メートルに当たり、織田軍が一時は後退し劣勢を強いられていたことを示すと考えられます。

 ここは姉川合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討死した場所と伝えられ、小字も「円藤(遠藤)」といいます。遠藤直経は「喜右衛門」と名乗り、坂田郡須川(米原市須川)出身で、一時同郡宇賀野(米原市宇賀野)にも居住していたことが知られる浅井氏の重臣です。

 多くの古文書にも登場しますが、『浅井三代記』などの俗書にも多く取り上げられ、浅井氏家臣中でも逸話が多い武将と言えるでしょう。姉川合戦の際、自軍の敗色が濃くなると、味方の武将首一つを携え敵軍に偽装、信長の陣中深く忍び込みましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討ち死にしたと言われています。

 かつて当地の約40メートル程北の畑の中に、「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えてきましたが、昭和54年に墓標が建てられました。平成9年、圃場(ほじょう)整備事業のため、現在地に移転しています。なお、毎年7月には、その追悼法要が現在も執り行われています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝

 


姉川の合戦 茶臼山砦

2013年06月29日 | 

  

所在地:長浜市北里 map:http://yahoo.jp/OHNVtf

平成25年6月29日(土)

⑥龍ヶ鼻の砦郡

 

 この背後の山である龍ヶ鼻は、姉川合戦の直前に、織田信長や徳川家康が本陣を敷いた砦跡です。

元亀元年(1570)6月19日、浅井長政を攻めるため、織田信長は大軍を率いて近江に入りました。21日から浅井氏の居城小谷城を攻めましたが、その構えが固いとみるや、わずか1日の攻撃で兵を返しました。

24日にはこの龍ヶ鼻に陣を移し、徳川家康もそこへ合流して、南方の横山城の攻撃を行います。信長や家康の陣跡は、ここから東へ約300メートル程登った龍ヶ鼻砦跡(標高187メートル)や、そこへの途中、茶臼山(ちゃうすやま)古墳(滋賀県指定史跡、前方後円墳)の後円部にあたる龍ヶ鼻陣所付近にあったと見られます。

合戦の当日にあたる28日未明、浅井・朝倉軍が姉川北岸に前進したのを見て、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」に、それぞれ本陣を移し合戦が行われました。

龍ヶ崎砦(茶臼山古墳群)遠景 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝