城郭探訪

yamaziro

栃ノ木峠・淀川の源

2018年07月23日 | 文化財

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概要

標高は538mであり、険しい山道を抜ける峠である。また福井県における嶺南嶺北を隔てる三つの峠の最南端に位置する。「酌子峠」(しゃくしとうげ)、「虎杖崩」(いたどりくずれ)といった別名があり、それぞれの名の由来にも諸説ある。ただし栃ノ木峠という名の由来は峠付近にの大木があった為、という説が有力である。古代から北国街道の難所として知られており、安土桃山時代からは特に重要な要所とされた。またこの付近には若狭野坂山地越前両白山地湖東伊吹山地がそれぞれ聳えており、これらの山地の間をほぼ直線状に南北に伸びる柳ヶ瀬断層が形作る谷の最高点が栃ノ木峠になっている。南側から峠まではなだらかに登っているが、峠から北側は急傾斜のヘアピンカーブで下っている。ちなみにかなりの長さを持つ国道365号で、山岳系の難所としてはこの栃ノ木峠が随一であろう。

福井県側から滋賀県側を望む(2010年撮影)

道路状況

決して低くはない峠ではあるが、カーブミラーやガードロープも設置されており、1.5車線以上の道幅が常に確保されているので、山道に慣れたものなら走りやすい部類の峠に入る。ただし連続カーブや曲がり損ねたら崖から落下という箇所があったり、道幅の割りには大型車が嶺北方面(武生市福井市、加賀北陸方面)への抜け道としての利用も多く、初心者にはあまり勧められない道と言える。滋賀県側の峠の麓から福井県道・滋賀県道140号敦賀柳ヶ瀬線が分かれており、ここを経由することで国道8号の峠である新道野越に出ることが出来る。こちらの峠のほうが栃ノ木峠に比較し、はるかに安全に走ることが出来る峠なので、運転に自信のない人はこちらを使ったほうが良い。福井県敦賀市内に国道476号が走っており、南越前町で国道365号と重複するので利用しやすい道である。

淀川の源

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「淀川の源」の碑

淀川水系の最北端に位置する滋賀県長浜市余呉町。
福井県との県境にほど近いこの町の栃ノ木峠に「淀川の源」の碑が建っています。
この碑の建つ場所は、高時川の最上流部に位置し、この地で生まれたせせらぎは、高時川を経て姉川となり琵琶湖に流れ込みます。 また、琵琶湖では滋賀の山間部に発する大小支川と一緒になり勢田川から流れ出て宇治川となり、木津川、桂川を合わせて大阪平野を流れ、神崎川、大川を分派して淀川として大阪湾に注ぎます。
淀川の河口から最も遠い所(最北端)にある、高時川最上流のこの碑は、淀川水系の源に位置します。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

碑の位置

  • 滋賀県長浜市余呉町中河内栃ノ木峠
    (北陸自動車道木之元ICより国道365線を福井方面へ25㎞、県境付近の進行方向右側)
  • 北緯 35度41分41秒
  • 東経 136度9分43秒
  • 標高 約540m
  • 淀川河口からの距離 約170km

参考資料:わたしたちの長浜、Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす。


板取関所 (越前・今庄)

2018年07月22日 | 関所

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国道365で今庄に向かう途中に、「板取の宿」の標示。左手に駐車場があり、公共トイレも備わっています。
車を下りると、駐車場の入口に立派な案内板があり、「板取宿の由来」が記してあります。それによると、
 板取宿は、北国街道(東近江路)の玄関口。宏壮な門構えの板取番所がありました。間口三間(約5.4m)、奥行三間半(約6.4m)の平屋建ての棟。中には、刀・弓矢・火縄銃・具足が備えてあり、役人3人、足軽1人が常駐。宿場は、幕末において戸数53戸。うち3軒の問屋、7軒の旅籠、3軒の茶屋。その他は、継立(つぎたて)に従事する家々だったようです。
 石畳の両側に見えてくるのは、茅葺きの独特な屋根を持った古い民家。「甲造(かぶとつく)り型」と呼ばれるらしい。確かに正面から見ると、頭に被(かぶ)る兜(かぶと)のよう。今まで見たことがない珍しい形。玄関口に近寄ってみると、玄関の戸口脇に、「福井県認定証 ふくいの伝統的民家」という標示がなされていました。

 家並みを抜けると櫓(やぐら)みたいな施設があり、その手前が番所の跡でした。この櫓は、往時、この番所に併設されていたのでしょうか。としたら、見張り台のような役割を果たしていたのだろうか、と思いつつ、その櫓の上に登ってみました。

 そこからもと来た道を引き帰しました。かつては53戸あったという宿場跡も、現在は10戸ほどしかなく、旅籠や問屋などがあったところは広場になっていたり畑地になったりしています。宿場としての長い歴史に裏づけられた雰囲気に満ちていました。

 

江戸時代に関所を設けた
 江戸時代には家康の子、結城秀康が入国以来関所を設けて旅人を取り締まった。

後に板取番所として、藩士が駐在した。
 番所の構造は、宏荘な門構えの内に、間口三間、奥行三間半の平屋建ての棟を設け、刀、弓矢、火縄銃、具足を備え、役人三人、足軽一人が常駐し、厳重な警備に当っていた。
 板取には幕末の頃、戸数五十三戸のうち三軒の問屋をはじめ、七軒の旅籠、三軒の茶屋のほか継立従事の家が建ち並んで賑わっていたという。

本日の訪問ありがとうございす。