城郭探訪

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戌山城跡 越前国(大野)

2013年06月05日 | 戦国山城

 

所在地:大野市犬山  map:http://yahoo.jp/-AoqJ8

築 城期:南北朝期~室町末期

築城者:斯波義種

初城主:斯波義種

区 分:山城  

遺 構:堀切,畝状堅堀,土橋,土塁

城 域:420m×500m

標 高:324m      比高差:約100m

市指定史跡

訪城日:2013.6.3

 

  越前と美濃を結ぶ旧美濃街道(大野街道)が、花山峠を越えて大野盆地に入ると右手(南側)に目に入る山が、飯盛山山系の犬山(高180m)である。  なお、最近は戌山城の麓を国道158号のバイパスが通るようになり、花山峠を通る機会は減少している。

康暦元年4月、斯波義将は、将軍義満の御所を包囲して圧力を加え、管領細川頼之を京から追放した (康暦の政変) 。

直後、義満からの管領就任要請を受諾し、全国守護の一斉更迭を行い、細川派の力を削ぐとともに、自身は畠山氏と越中守護職と交換することで、念願の越前守護職を奪還した。

その義将は弟の義種に大野郡を任せ、戌山城を築かせたといわれる。


 名族斯波高経の五男として生まれた義種は、幼少のころ最初の守護職として若狭守護に任ぜられ、兄義将の管領時代には、信濃ついで加賀の守護に就き、被官の二宮氏を守護代として支配にあたったが、その子の満種時代に、将軍義持から忌避されて高野山へ遁世し、以降は守護職に就かず、被官二宮氏とともに私領ともいうべき大野を拠点とした。

もちろん、武衛家(斯波宗家)の庶流として被官の二宮氏ともども大半は在京していたが、武衛と違って越前へ下国することもあったと考えられる。

 その斯波氏庶流(大野氏)の居城戌山城は、中世の山城の特徴を良く残しており、特に山麓より山頂にかけて大規模な堀切跡は、さすが斯波氏の居城という印象を与える。

 登城山口は整備されて、北西端に登山道が開かれ、誰でも登れるようになっている。かつては清滝の洞雲寺の後背から登った。

                  

 犬山の北西、“みくら清水”の横から山中に入ると、すぐに曲輪状の削平地があるが、これは多分古墳遺構。

急な斜面を直登するような形で北西側尾根筋を登ると約10分ほどで小振りな堀切に至る。ここからが城域となる。
更に5分ほども登ると、深さ約4m、城内側からは15~20mはあろうかという2つめの堀切に出る。この堀切の手前の曲輪が北西尾根の防御拠点で曲輪周囲に無数の畝状の竪堀を配しているが、曲輪の削平状態も良いとはいえない。
 更に10分ほどで深さ5mほどの3つめの堀切に出る。堀底から城内側の切岸は高さ20mを超える強烈な堀切で、足場が造られていなければとうてい登ることは出来ない。
 この堀切を越えると二の曲輪に至るが、二の曲輪周囲の急斜面には無数の畝状竪堀を配し、まさに鉄壁の防御である。
二の曲輪から主曲輪(25m×20m程度)へは高さ5~6mほどの高低差を伴っているだけで、構造的には二の曲輪と主曲輪を併せて「主曲輪」とする。

 主曲輪を中心として、登ってきた北西尾根の他に北東尾根、南尾根と3本の尾根が放射状に延びている。
北東尾根には階段状に曲輪を配し、3~5つの曲輪毎に堀切を入れ、4つの堀切を確認。山城の堀切には平坦な尾根筋に3重、4重の堀切を設けていることはよくあるが、戌山城のように急斜度の尾根に4重もの堀切を設けているのは非常に珍しい。
 主曲輪から南尾根へは、20mを超える強烈な堀切を介し、4つの堀切を経て小曲輪群に至る。

 戌山城は竪堀と堀切,切り岸を多用した山城で、土塁は主曲輪北東のもの以外には確認できなかった。

 畝状堅堀は朝倉氏の城に多く見られる特徴の一つで、朝倉氏によるものと考えられるが、城域全体に配置された個々の防御パーツのスケールの大きさは、朝倉氏滅亡後、天正期に豊原寺を中心とした一向一揆勢が改修したではないか。

なぜなら、弱者ほど堅固な城を築くものである。

                                          

  本丸(主郭)は、一辺30m程度で北側の頂上の平坦部にあり、大野市教育委員会の解説案内。周辺には空堀もみられ、竪堀あとも散見される。また 、南側や東山麓にも城砦が広がっており、かなりの規模である。

 主郭からの眺望は、後に大野城が建立された亀山も含めて大野盆地が一望でき、抜群である。

 応仁の乱の発端を担った斯波氏の家督争いの当事者である斯波義敏は、この庶流大野氏(斯波持種)の出身である。

 後、朝倉氏の越前支配とともに、この山城も朝倉氏に接收されたが、朝倉氏滅亡時にはもう殆ど使われておらず、最後の大野郡司朝倉景鏡は平地の亥山城(土橋城)を居城としていた。

 朝倉氏支配が安定し、繁栄を謳歌するなか、要害山城の意義が薄れていったのは当然かもしれない。

 朝倉氏滅亡後の天正三年、大野に入部した信長臣金森長近は一旦戌山城に入ったものの、亀山に新城(大野城)を、その麓周辺部に家臣や町人を配置するあらたな城下町づくりに乗り出し、戌犬山城は廃城となった。
 

  「城跡考」によれば、戌山城は足利尾張守三男斯波伊予守義種・大野左衛門佐満種・大野修理太夫持種・大野修理太夫義鏡・斯波氏家臣千福中務大輔・朝倉下野守経景・朝倉与三衛門景職( かげもと)・朝倉孫八郎尹景(景隆)・金森五郎八郎長近等の居城と記されている。

 戌山城は斯波高経が越前国を領した時に、三男・義種が大野郡を領時に築いたのが創築とされ、その後、義鏡まで4代にわたって斯波氏の居城となった。
      ただ、主郭(本丸)に近づくにつれて、堀切は大規模で、かなりの高低差があり。周辺の郭は一辺10m前後で、全て見たわけではないが、10以上はあるものと思われる。

      

       

 

 

参考資料:長谷川博美レジュメ、越前の城、現地説明板

参考にnetよりユーチューブ:https://www.youtube.com/watch?v=G1Mv48XYjYw

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