考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「修行」と「人生は過程である」

2007年11月17日 | 物の見方
 玄侑宗久さんのテレビ番組「知るを楽しむ」(?)を見た。
 「禅の修行」ってのは、「自分に対する信頼」を元に自分を確認することなのかなとちょっとだけ思った。それが常に継続していく。(「だから、人生とは過程なんだよね、きっと」と私の中でリンクする。)
 肉体を酷使することで、自分を知る、それまで意識上でしか知り得なかった自分「以外の自分」を知る、というか。でも、これは、そもそも自己の存在に対する根源的な信頼、変容に対する柔軟性も含めた信頼のようなものがないとできないんじゃないのかな、とか。

 生徒が「変わりたい」と思ったとき、或いは、だれでもそう思ったときにするのが、着るもの、格好、ヘアスタイルを変えることである。物理的な「肉体」の延長を変化させることではないか。しかし、安易である。
 それを難儀にも肉体そのものを酷使することで行うのが修行なのかな、と。だから、偽物でなく、根源的な変容に至る可能性を秘める。それでも、或いは、その変容をもぐくめて全てが自分なのだ、と。
 人間は、肉体無くして存在し得ない。「脳」なくして存在し得ない。入出力を司る「身体」なくして存在し得ないという前提である。

 ちょっと余り脈絡無く思っただけ。(整合性があるかどうかわからない。)

可算不可算

2007年11月15日 | 教育
 自由英作文を書かせると、まあ、英作文を書かせると、多い間違いが、名詞の可算不可算に関するモノ。
 あれほど言ったのに、同じ間違いが多い。

 小学校の時から、「教材の精選」によって与えられる量が減ったから、「差異」に気が付く能力が退化(というか、育ってない)したんだろうなぁ。。「差異」を見出すのは「感覚」だから、動物的な本能にも関わらないのかなぁ。

 そう言えば、今日、生徒「賞味期限が切れていたらどうするの?」私「ニオイで判断する」生徒「えっ? ニオイ? オレ、わかんないけど、母さんはわかるらしい。」私「腐ったのはイヤなニオイだけど、発酵食品は良い匂いがするよ」生徒「ヨーグルトとか?」私「そうだね。」生徒「じゃあ、納豆は?」私「そういうニオイじゃないだろ」生徒「納豆が腐るとどうなるの?」私「納豆は、腐ったのを食べるとお腹こわすよ。タンパク質はアブナイ。」別の生徒「食ってハラ壊したら悪くなってたってことだよ」・・・


まな板のジレンマ

2007年11月10日 | 生活
 料理を手早く作ろうと思ったら、いかにしてまな板の洗う回数を減らすかがちょっとした盲点である。
 うん。キュウリを切ってからトマトを切るか、トマトを切ってからキュウリを切るかだけでも違う。(だって、トマトを先に切ると、まな板はべとべとになるけど、キュウリを切った程度ではそう汚れない。)
 しかし、万が一、「食中毒菌」が入り込んでいたら。。。。(トマトとキュウリには、まあ、心配はほぼないだろうが。)まな板は、食材毎に洗うべき、ということになる。

 世の中によくあるジレンマ。

 

蛇とカンガルーと鯨さんと相対性と絶対性

2007年11月09日 | 教育
を見せて、「これらはなぁに?」と聞かれると、多分、言葉に窮するか、瞬間的に「蛇とカンガルーと鯨」としか答えようがないだろう。
 コトバに窮するのは、蛇はくねくねしているし、カンガルーは二本足(しっぽも入れれば三本足?)、鯨は水の中。

 しかし、もし、このなかに「紅葉の葉っぱ」でも、「盆栽」でもを加えよう。それで、蛇とカンガルーと鯨を指して「これらは何?」と聞けば、答えはたちどころに、「動物」となる。
 なぜなら、この3つが「紅葉」「盆栽」と「分類」されたからである。

 人間がモノを考えるとき、このような比較・対照が、かなりの役割を果たす。比較して初めて「わかる」ことも多い。

 私が相対性の対極に絶対性を置くのもだからである。「相対性」は、たとえ陰に隠れて見えない「絶対性」であろうと、絶対性という概念と対にしなければ捉えられようのない概念である。

 

日本の教育を少しでもマトモにするために、センター試験を作る人へのお願い

2007年11月08日 | 教育
 毎年、出題方法を変えてください。昨年は、こういう形式だったけれど、今年は、どうなるか、来年はどうなるか、さっぱり予測が付かない、という状況にして下さいな。

 英語なら、今年は発音が30点も出たが、次の年は全くでなかったとか。(笑)神出鬼没に。
 並べ替えも、全然でなかったり、長文の中で並べ替えをさせたりとか。アルファベットを数字に置き換えて答えさせたり。(要は、綴りを書かせる問題を出したり。これって、面白そうじゃん♪)

 「傾向」があるから、「対策」を立てるという発想になる。だから、「傾向」を無くしてしまえばいいのです。

 で、そんな試験でも出来るようになるためには、あらゆることを普段から勉強する習慣をつけることが最大の「試験対策」になるわけですから、学校の授業が少しはマトモになるでしょう。

 現場から文句がでたら、次のように言いましょう。
 なぜなら、どんな問題が出ても「できる生徒」を目指して現場が指導すればいい、それが教育でしょ、と。試験対策が勉強の目的ではないでしょ?と。あんたたち、何言ってるの、と恫喝してやればすむんです。
 すると、現場は「生徒の負担が大変になる」と言うでしょう。そう、そもそも勉強とは、大変なことなのですよ、大変でなかったら、勉強ではありません。出来るだけすればいい、誰にでも能力の限界があります。出来ないことがあっても、仕方がないことです、そう言いきりましょう。だって、これは真実です。「誰でも出来るようになる」は幻想です。こう言っても良いでしょう、「できないということがわかる」のも勉強の大切な目的だと。
 それでも、反対する人はいるでしょう。この人たちは、目先と今現在の「空気」に囚われて、ホンモノの勉強が何であるかを理解してないのです。諦めているのです。しかし、地道に説得を続けましょう。学校の先生は、大方真面目です。言われ続ければ、だんだん「その気」になります。そういうものです。日本人だから、いったん方向付けが出来れば、「空気を読んで」「そんなもんだ」と思うようになりますから大丈夫です。(その点、生徒と変わりません。)やがて、ホンモノの勉強がなんであるかがわかってくる人も増えてきます。

 また、試験の目的は「序列」を付けることに過ぎません。どんな試験でも「序列」つきますから、何の問題もないはずです。「平均点」さえ気にして作ればそれで良いわけです。ま、これが結構難しいのだろうけれど。だったら、配点は試験後に考えればいいのです。正答率の高い問題の点は低く、正答率の低い問題の点を高くする等いろいろ考える。それで、平均点が120か130にすれば良いのです。「生徒のでき次第で配点が変わる」というシステムに変更してしまえばいいのです。とすると、真剣に勉強をし、真剣に受験しなければならなくなる。誰がそれが出来るかなんて、受験生自身は判断できません。非常に合理的な点数の付け方になります。「これは簡単だからみんな出来るだろうから、外してもっと難しいのをやって高得点を狙おう」と考えるヒマがあったら、易しい問題をしちゃった方が早い。

 今の勉強は、「試験対策」です。生徒の教員も「試験対策」に翻弄されています。
 こんなので日本中、勉強ができるようになるわけがない。学習が身に付くわけがない。

 「大学入試センター」に出来ることは、これくらいでしょう。

 どうぞ、日本の未来のために頑張って下さい。
 
 (困るのは、教材屋さんかな。)

たぶん、抽象化の大変さと寄せ鍋のダシ

2007年11月06日 | 教育
 生徒が勉強をしているそばを通りかかったら、「先生、これ、むずい」と言ってきた。私の授業の生徒だが、その子が勉強をしていたのは私の授業のテキストでないが、私も使ったことがあるだ。文法的に多少の歯応えはあるものの、結構面白い内容の文章である。
 「これ、中身はおもしろいよ。ちゃんとノートに、単語を書いて調べてるか」と覗き込んだら、欄外の新出語だけを書いている。「わかんないのは全部調べて、書くんだよ」(私の授業のは、やってないもんね。知ってるぞ。)
 とか何とかやり取りしていたら、「ここ、わからん」と言ったのが、such as だった。A such as B というヤツである。Suchには、いろんな使い方があるから、難しいと言えば難しい。「辞書を引け。で、同じ例文を探せ。」と言ったら、引くが、わからんらしい。電子辞書だとやりにくいよ、と言うと、「自分でもそう思う」。というわけで、じゃあ、私の紙の辞書を貸してやろう、と持ってきてやった。(まあ、近くにあった。しかし、なんと親切なのだろう。笑)
 しばらくして見に行ったら、紙の辞書はヨコに置いて、「載ってない、わからん」と言う。そんなわけはない、どれどれ、と捜すと、当たり前だがちゃんと載っている。ただ、純粋な?見出し語ではないから、見付けにくいのである。
 「よく捜せよ。見出し語の端だけ見ただけじゃだめだよ」と差し出したら、やっと「あ、これか」と見付けてくれた。(ああ、良かったぁ。)で、例文、用例を読ませる。

 ↑ここまでは、実は、マクラ。(笑)

 その後が、これまた大変だったのだ。訳をすると、「BのようなA」だが、例文の該当箇所が、「オレンジやレモンのような果物」という訳になっていた(と思う。)その上で、その子が「わからん」と言った本文を読ませる。で、何か共通点は何かを探させようとしたのだが、まあ、これが大変だったのよ。

 辞書の用例の「オレンジやレモンのような果物」で、「オレンジ、レモン、果物」に何か関係のようなモノはないか、と聞くと、オレンジとレモンは柑橘類、と答える。う~ん、確かにそうなのだけれどなぁ。。。もうチョイ、なんだよなぁ。。。内心、おいおい、「果物」はどうしたんだよぉ~、ってところだ。

 「オレンジとレモン」が、「果物」にくくられることを気付かせるのに、(私の感覚としては)もの凄く時間が掛かったのだ。で、その子がテキストで「わからん」のも、Aに当たる名詞の意味がこれ、多義語だモノだから、なかなか意味を取り出せない。しかし、まあ、なんとか見付けた。

 ああ、良かった。
 で、やっと、ベン図?を書いて、説明ができたのである。
 ほっ。
 
 Such asは、私は A such as B としない。「総称的な名詞 such as 具体的な名詞」と板書する。初出なら、具体的な名詞は、総称的な名詞に含まれるものでしょ、と言う。(そう言えば、最近、ベン図は描いてないなぁ。。)

 この熟語は、オレンジ、レモン、果物をそれぞれ、てんでばらばらなものと解釈するとわからない。分類する意識が無いと理解できないのである。
 で、これがその生徒の場合、とってもとっても難しかったようなのだ。

 私がこの熟語を習ったのは、高校1年の構文集で1学期だった。よく覚えてないが、誰かが、好きなのが、jucy fruit such as pears, peaches and oranges. だったんじゃないかと思う。梨や桃がなぜジューシーなのかなぁと思ったような気がする。(笑)(peachesは、なかったかなぁ。オレンジがなかったのかなぁ。。う~ん。。。。どーでもいいことだけど。)しかし、この例文で、私は、梨や桃やオレンジがジューシーな果物に分類されてるんだということは、わかった。

 今回、生徒が辞書で見付けた例文では、「オレンジやレモン⊂果物の仲間」という発想がしにくかったのだろう。「この3つにどんな関係があるか」という私の問い方が悪いのかなぁ。(と言って、長年これでやってきちゃってるんだけれど。笑)

 しかし、具体的なもの(オレンジ、レモン)を更に高度な概念(果物)にカテゴライズすると言う考え方は、抽象化の一つである。だって、「果物」というモノそのものは「ない」。これは、あくまでも、ヒトが「果物」というジャンルを自分で作り上げた分類の一つにすぎない。「違うモノ」を「同じモノ」として強引にくくってしまう発想は、自力で開発するにはかなり難しいのかなぁと思う。

 今の生徒を見ていると、「世の中のモノは、多く分類され、まとめ上がった分類にまた新たに名前が着けられているのだ」という発想が非常に乏しいのではないかと思うのだ。
 これって、勉強をする上で、致命的なんじゃないのかなぁ。(まあ、偏差値60辺りの「壁」は、これに関わると思う。)

 今のところはまだ手近にないだけかもしれないが、電子辞書やパソコンの検索機能にない機能の一つが、こういった分類ではないのかなぁ。検索機能でいろいろ出てきて、次から次へと、まるで、点と点がとめどなく結びついていく過程はもの凄い。その意味では、全然関係のなさそうなところに「飛んでいく」ことも出来る。新しい発見もある。しかし、ある一定の複数の事項に関して共通点を見出し、「一纏め」にするという大ざっぱな機能は、ひょっとして、人間の脳独自のモノものなのかなぁ。。だって、その「一纏め」の方法は、はっきり言って、人によって異なるからだ。(「学説」というのが一種のそれだ。)

 「AならB,CならD、EならF」などの羅列的な発想はいくらでも出来る。しかし、じゃあ、AとFにはどんな繋がりがあるのか、それとも無いのか。そういう考え方は、点と点を結びつけるだけでは不可能だろう。これが「抽象化」ということで、「分類」に大きく関わる。入れ子構造或いは、階層的な発想になる。

 勉強の苦手な子はこれが苦手である。得意な子は、これが得意である。「分野」によって、一纏めにする能力が苦手だったり得意だったりすることもある。
 ゆとり教育とかで、知識の総量が減った。これは、分類するための材料が減ったということにもなる。だから、知識がバラバラに羅列的になる。少ない材料で関係性、共通点、相違点を見出すのは難しいものだ。
 持って生まれた能力はそんなに低くないとも思うのに、通じないことがあるがなかなか苦しい。

 相違点を見出すのは、「感覚」である。その「感覚」を子どもの時に研ぎ澄まさずにきたものだから、--△と□、○程度の違いしか訓練してないから、大きくなって五角形や六角形が出てきても、五角形は五角形、三角形とは関係がない、みたいな発想になるんじゃないのかなぁ。
 五角形は△が5つ集まったとか、△と□がくっついたなど、五角形に潜む△を見つけ出すことも難しくなってたりするんじゃないのかな。(これはただのたとえ。下手くそな譬えだけど。笑)
 また、スーパーに行けば何でも売っている。「果物屋さん」も少なくなってきている。そんなこんなで、カテゴライズしてモノを考える機会も減ってきているのだろうか。

 物事は、バラバラでも、実は、ヒトは生きていける。文明や文化が進めば、バラバラになる可能性は高い。ものが豊富だということは、それぞれの特長を生かしてモノをあつかえ、と言うことになる。
 肉じゃがなら荷崩れしないメークインの方が良いけどポテトサラダなら男爵の方がいいとか。
 調味料の種類が増えた。洗剤も種類が増えた。「これにはこれ」。極端な話、寄せ鍋を作るなら、それ用の「だし」がないと鍋ができないと思う人が多くなっているってことはないのかなぁ。昆布でダシを取って、醤油や塩で適度に味付けして云々、という根本的なものがだんだん忘れられて今の時代になってるのだろう。

 えっ? それが「抽象」とどんな関係があるかだって?
 メークインも男爵も「ジャガイモ」。増えた調味料の種類の多くは「醤油」。もともとは、「同じ」だということ。醤油があれば、醤油ベースの調味料は作れる。わざわざ買う必要はない。それを、さも、別物であるかのように並ばせて売っているスーパーの棚を見ると(そりゃ、作る人がいて、買う人がいるから売ってるわけであるけれど)、レモンとオレンジが同じ果物に分類されることに気が付かないのと似てないかなぁと思ってしまう今日の「ほり」であった。。


きっと悪文に違いない

2007年11月05日 | 教育
 授業で使っているテクストだが、文章がややこしくってしようがない。もっと簡明に書けよ、と言いたくなる。(自分のことは棚に上げて・笑)

 言葉が書き連ねてあるのだが、生徒は、要するに「こーゆーことなんだ」というけっこう単純な筆者の主張を汲み取れない。英語を丁寧に日本語に置き換えて自分が思い込んだ訳語で考えようとするものだから、かえって難しくなる。

 英語には言い換え表現が多い。だから、それにさえ気が付けば、「これはあれの言い換え」、「これとあれが対比」など読み替えていくことが出来ればそれなりにわかってくるはずだと思うが、一つ一つの単語の訳語に引っ掛かって、全体の文章構成が見えないのがわからない原因のようだ。(しかし、まあ、センター対策だと、意外に細かいことまで選択肢で問うている。重箱の隅を突っつくような問題もある。こんなのは、真の読解力を損ねるだけではないのかなと思うのだけど。)

 しかし、あまりに予習をしてないから、まあ、つまりは、質問しても答えられないから(難しいことを聞きすぎている気がしないわけでもないが。)、とうとう「訳してこい」と言った。
 日本語の単語に置き換えるのが目的なのではない。大事なのは、「筆者は何を言いたがっているか」を掴むことだから、要約でも良いよとは言っている。ただし、段落毎に読むのは鉄則である。
 だから、ワケの分からない訳をする子と有る程度わかって要約をする子とに分かれる。出来ても出来てなくても。自分でやることでしか力は付かないのだから、やることが大事なのであって、予習の結果の出来そのものはどうだってかまわない。授業では、顔を見ながらそれなりに説明をする。(で、これをアテにされて予習をしてこないのが困るんだよな。)一番大切なのは、「わからないとき、どうするか」だろう。それを言ってるつもりなんだけど、「結果」だけを求めて「わかった」ことにする。まあ、それもないわけではない。けど、「どうするか」という方法をこそ学んで欲しいものだ。

 和訳の良いところは、「自分がわからないところがわかる」ことだと思う。それが筆者の主張でもあったり、的確な日本語の表現だったりする。前者がわからないのは、読解力がないからであり、後者ができないのは国語力の問題である。

 にしても、文章につまらないのが多い。1行で済むところを長々と書き連ねている。

 えっ? 誰かのブログと同じだって?? それでもそれよりマシだろうって??
----まあ、それは言わないでよね。

 

「情報化」と「伝言ゲーム」の共通点--養老先生の魅力と楽しみ方

2007年11月04日 | 養老孟司
 「ぼちぼち結論」の「なぜ脳なのか」で、養老先生は、子ども時代に終戦を迎えて「だまされた」と思ったから、騙されたくないと思って解剖学を選び、騙されたくないと考えていたらひとりでに「脳が現れた」と書いている。
 で、こういった肝要な話は、本を読んでもらえれば良いことであるが、この経緯を語る途中でこんな表現が出てくる。(P.161)

「(略)。ただしその情報化にはかならずウソが入る。情報は実際ではないからである。伝言ゲームをやれば、イヤというほどわかるはずである。」

 小難しい「情報化」を、身近なバスのゲーム(遠足の時など昔はよくやったなぁ)の「伝言ゲーム」と同列に扱う。
 私は、正直言って、こんな一節を読むとき、養老先生って、アタマ良いなぁと感心する。

 人によっては、「『伝言ゲーム』はたかがゲームで、仮想の世界じゃないか、『情報化』は、実社会で行われている重要な活動だから、たかが遊びと一緒にするなんて、この人、どうかしている。わけがわからん。」と思うんじゃないかと思う。こういった考えの基底には「ゲームのような遊びと現実の社会は異なる」という前提がある。だから、情報化とゲームは、それぞれの前提が外れているから、「なんでここでゲームがでて来るんだ?」と思うだろうと想像する。或いは、「伝言ゲームは決まったコトバを伝授するだけだ。情報化は、もっと複雑な事象を言語化することだ。だから、違う。」とか。
 いずれにせよ、「情報は、特定の人間の脳を経由して言語化され、人に伝わられる」という共通性に気が付いていないから「相違」の方に目が行っての言ということになる。

 だから、私は、誰でもが知っている「ゲーム」という「遊び」と、「情報化」という現実社会の最優先事項に共通する上記の観点に、「伝言ゲーム」で必ず生じる「ウソが入る」という状況を敷衍して「共通点」として見抜く養老先生は、本当に抽象化能力が凄いと思うのだ。

 う~む。さすが。
 だって、私は、「伝言ゲーム」と「情報化」にこんな共通点を思い付かない。自分の思い付かないことを思い付く人を、私は(自分の定義で)「アタマが良い」と思っている。養老先生は、本当にアタマが良い。

 養老先生を読むと、小難しい中に、こういった卑近な例がさり気なく持ち出されていることがよくある。全く関係のなさそうな事項が突然出てくることもある。もっとも、ほんの一言付け加えているような、今回の伝言ゲームのような例は、「こういった点でこれとこれには共通点がある」とまで親切に書いてない。(書くわけない。)だから、読者は自分で気が付くほかない。これがまたちょっとした「目から鱗」だものだから、私は読んでいて、思わず「わはは。。」とか、くすりと笑い出したくなり、養老先生は本当に抽象化能力の高い人だと感心するのだ。

 養老先生のアタマの中には、自分の身の回りの出来事や体験の全てを基盤にして、このような「まとめ上げ方」で抽象化する発想があるのだろう。だから、文章の中で、小さな具体が適切な場所でそこかしこ顔を出す。養老先生の議論は、小さな具体の集積が上手にまとめ上がって(としか私はもう表現しようがない)、抽象化し、難しい議論に発展しているのだ。

 養老先生の考えに、昨日今日の付け焼き刃は何もない。人のコトバの受け売りもない。全てが自分が咀嚼し、自分の体験から出してきた言葉なのだ。だから、「解剖は自分にとって修行だった」と彼は言えるのだろうし、養老先生の言うことは、「もっともなこと、当たり前なこと」なのだ。


「センターは書かないから」だってぇ。

2007年11月02日 | 教育
 今授業でやっている教材について、「これだけの単語がわからないんですが。」と生徒が相談に来た。どうやら、「こんなにたくさん覚えなければならないのですか」という内容のようだ。それで、たぶん、その子は、私が「そうだね、大変だから、これとこれだけは覚えようね」と言ってもらえるのを期待したようだ。

 おあいにく様。
 「テキストに出てきた単語は、全部覚えるべし。」と、そのときはそこまではっきりとはいわなかったが(でも、授業中にはそう言っている。)、どうせまた次に必ずでるのだから、覚えなさい、たくさん覚えておいた方が、読むのがラクになるでしょ?と言った。

 すると、「単語を覚えればそれで良いんですか」と曰う。

 こういった反応は、今の子の特徴である。
 「何何しろ」と言うと、必ず、「それ『さえすれば』いいんですよね」という年の押し方をする。ここ数年、特に新課程になって、必ず、間違いなく、全ての生徒がと言っていいほど、こういった反応をする。

 部活動などで、かなりの成績を上げるような生徒でもそうである。
 ねぇ、部活であれだけ頑張ったのは、「これさえすればいい」って気持ちでやってたの?

 「効率の良さ」を勘違いしているのだ。「努力しないこと」が尊ばれる価値観である。「努力は最低限でよい」という発想なのだ。部活の努力な一体何だったのだ。

 あー、ヤダ、ヤダ。
 
 「センターは書く必要がないし。。。」と言い訳する。「時間がないし。。」
 「だったら、単語カードを作るなり、トイレにでも何でも張って覚えたらどうだ? やってご覧。とにかく。」

 だから、マーク試験は、ダメなんだって。
 ふつーだったり、ふつーより少し上位に位置する生徒に勉強をさせにくくする「効果」覿面なのだ。「書かないのだから、書けるように単語を覚える必要はない。」というのが理由である。
 まあ、要は、英語を習得する気がないのである。試験さえ出来れば、良い。英語は大学にはいるための手段に過ぎないから、記述試験がないなら、それでいいというのだ。
 英語が「道具としての語学」とも生徒には認められていないのだ。それがどうやら、今の「進学校に通う生徒の常識」のようだ。

 これが「格差」の温床になるのだろうな。
 一見無駄に見えることに大きな宝が隠れていることを知る生徒と、上っ面だけの効果しかねらえない生徒で、やがて大きな違いが出てくる。
 上位数パーセント、正確には、1,2%だろう、その程度の集団と、それ以外の大多数の集団に大きく分かれる社会になるのだろう。

 個人の能力に関しても、同様な傾向が見られるだろう。
 有る能力だけは特別に優れているが、他の自分の興味のないことは全然ダメ、など。それで喰っていけるようになると、「これでいい」となる。

 (大分端折るけど)たぶん、社会は、今後どんどん「スリル満点」になってくるのだろうな。公教育の目指した社会は、そういことか。
 これがなるほど「自己責任」って奴なんだね。