考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「情報化」と「伝言ゲーム」の共通点--養老先生の魅力と楽しみ方

2007年11月04日 | 養老孟司
 「ぼちぼち結論」の「なぜ脳なのか」で、養老先生は、子ども時代に終戦を迎えて「だまされた」と思ったから、騙されたくないと思って解剖学を選び、騙されたくないと考えていたらひとりでに「脳が現れた」と書いている。
 で、こういった肝要な話は、本を読んでもらえれば良いことであるが、この経緯を語る途中でこんな表現が出てくる。(P.161)

「(略)。ただしその情報化にはかならずウソが入る。情報は実際ではないからである。伝言ゲームをやれば、イヤというほどわかるはずである。」

 小難しい「情報化」を、身近なバスのゲーム(遠足の時など昔はよくやったなぁ)の「伝言ゲーム」と同列に扱う。
 私は、正直言って、こんな一節を読むとき、養老先生って、アタマ良いなぁと感心する。

 人によっては、「『伝言ゲーム』はたかがゲームで、仮想の世界じゃないか、『情報化』は、実社会で行われている重要な活動だから、たかが遊びと一緒にするなんて、この人、どうかしている。わけがわからん。」と思うんじゃないかと思う。こういった考えの基底には「ゲームのような遊びと現実の社会は異なる」という前提がある。だから、情報化とゲームは、それぞれの前提が外れているから、「なんでここでゲームがでて来るんだ?」と思うだろうと想像する。或いは、「伝言ゲームは決まったコトバを伝授するだけだ。情報化は、もっと複雑な事象を言語化することだ。だから、違う。」とか。
 いずれにせよ、「情報は、特定の人間の脳を経由して言語化され、人に伝わられる」という共通性に気が付いていないから「相違」の方に目が行っての言ということになる。

 だから、私は、誰でもが知っている「ゲーム」という「遊び」と、「情報化」という現実社会の最優先事項に共通する上記の観点に、「伝言ゲーム」で必ず生じる「ウソが入る」という状況を敷衍して「共通点」として見抜く養老先生は、本当に抽象化能力が凄いと思うのだ。

 う~む。さすが。
 だって、私は、「伝言ゲーム」と「情報化」にこんな共通点を思い付かない。自分の思い付かないことを思い付く人を、私は(自分の定義で)「アタマが良い」と思っている。養老先生は、本当にアタマが良い。

 養老先生を読むと、小難しい中に、こういった卑近な例がさり気なく持ち出されていることがよくある。全く関係のなさそうな事項が突然出てくることもある。もっとも、ほんの一言付け加えているような、今回の伝言ゲームのような例は、「こういった点でこれとこれには共通点がある」とまで親切に書いてない。(書くわけない。)だから、読者は自分で気が付くほかない。これがまたちょっとした「目から鱗」だものだから、私は読んでいて、思わず「わはは。。」とか、くすりと笑い出したくなり、養老先生は本当に抽象化能力の高い人だと感心するのだ。

 養老先生のアタマの中には、自分の身の回りの出来事や体験の全てを基盤にして、このような「まとめ上げ方」で抽象化する発想があるのだろう。だから、文章の中で、小さな具体が適切な場所でそこかしこ顔を出す。養老先生の議論は、小さな具体の集積が上手にまとめ上がって(としか私はもう表現しようがない)、抽象化し、難しい議論に発展しているのだ。

 養老先生の考えに、昨日今日の付け焼き刃は何もない。人のコトバの受け売りもない。全てが自分が咀嚼し、自分の体験から出してきた言葉なのだ。だから、「解剖は自分にとって修行だった」と彼は言えるのだろうし、養老先生の言うことは、「もっともなこと、当たり前なこと」なのだ。