考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

たぶん、抽象化の大変さと寄せ鍋のダシ

2007年11月06日 | 教育
 生徒が勉強をしているそばを通りかかったら、「先生、これ、むずい」と言ってきた。私の授業の生徒だが、その子が勉強をしていたのは私の授業のテキストでないが、私も使ったことがあるだ。文法的に多少の歯応えはあるものの、結構面白い内容の文章である。
 「これ、中身はおもしろいよ。ちゃんとノートに、単語を書いて調べてるか」と覗き込んだら、欄外の新出語だけを書いている。「わかんないのは全部調べて、書くんだよ」(私の授業のは、やってないもんね。知ってるぞ。)
 とか何とかやり取りしていたら、「ここ、わからん」と言ったのが、such as だった。A such as B というヤツである。Suchには、いろんな使い方があるから、難しいと言えば難しい。「辞書を引け。で、同じ例文を探せ。」と言ったら、引くが、わからんらしい。電子辞書だとやりにくいよ、と言うと、「自分でもそう思う」。というわけで、じゃあ、私の紙の辞書を貸してやろう、と持ってきてやった。(まあ、近くにあった。しかし、なんと親切なのだろう。笑)
 しばらくして見に行ったら、紙の辞書はヨコに置いて、「載ってない、わからん」と言う。そんなわけはない、どれどれ、と捜すと、当たり前だがちゃんと載っている。ただ、純粋な?見出し語ではないから、見付けにくいのである。
 「よく捜せよ。見出し語の端だけ見ただけじゃだめだよ」と差し出したら、やっと「あ、これか」と見付けてくれた。(ああ、良かったぁ。)で、例文、用例を読ませる。

 ↑ここまでは、実は、マクラ。(笑)

 その後が、これまた大変だったのだ。訳をすると、「BのようなA」だが、例文の該当箇所が、「オレンジやレモンのような果物」という訳になっていた(と思う。)その上で、その子が「わからん」と言った本文を読ませる。で、何か共通点は何かを探させようとしたのだが、まあ、これが大変だったのよ。

 辞書の用例の「オレンジやレモンのような果物」で、「オレンジ、レモン、果物」に何か関係のようなモノはないか、と聞くと、オレンジとレモンは柑橘類、と答える。う~ん、確かにそうなのだけれどなぁ。。。もうチョイ、なんだよなぁ。。。内心、おいおい、「果物」はどうしたんだよぉ~、ってところだ。

 「オレンジとレモン」が、「果物」にくくられることを気付かせるのに、(私の感覚としては)もの凄く時間が掛かったのだ。で、その子がテキストで「わからん」のも、Aに当たる名詞の意味がこれ、多義語だモノだから、なかなか意味を取り出せない。しかし、まあ、なんとか見付けた。

 ああ、良かった。
 で、やっと、ベン図?を書いて、説明ができたのである。
 ほっ。
 
 Such asは、私は A such as B としない。「総称的な名詞 such as 具体的な名詞」と板書する。初出なら、具体的な名詞は、総称的な名詞に含まれるものでしょ、と言う。(そう言えば、最近、ベン図は描いてないなぁ。。)

 この熟語は、オレンジ、レモン、果物をそれぞれ、てんでばらばらなものと解釈するとわからない。分類する意識が無いと理解できないのである。
 で、これがその生徒の場合、とってもとっても難しかったようなのだ。

 私がこの熟語を習ったのは、高校1年の構文集で1学期だった。よく覚えてないが、誰かが、好きなのが、jucy fruit such as pears, peaches and oranges. だったんじゃないかと思う。梨や桃がなぜジューシーなのかなぁと思ったような気がする。(笑)(peachesは、なかったかなぁ。オレンジがなかったのかなぁ。。う~ん。。。。どーでもいいことだけど。)しかし、この例文で、私は、梨や桃やオレンジがジューシーな果物に分類されてるんだということは、わかった。

 今回、生徒が辞書で見付けた例文では、「オレンジやレモン⊂果物の仲間」という発想がしにくかったのだろう。「この3つにどんな関係があるか」という私の問い方が悪いのかなぁ。(と言って、長年これでやってきちゃってるんだけれど。笑)

 しかし、具体的なもの(オレンジ、レモン)を更に高度な概念(果物)にカテゴライズすると言う考え方は、抽象化の一つである。だって、「果物」というモノそのものは「ない」。これは、あくまでも、ヒトが「果物」というジャンルを自分で作り上げた分類の一つにすぎない。「違うモノ」を「同じモノ」として強引にくくってしまう発想は、自力で開発するにはかなり難しいのかなぁと思う。

 今の生徒を見ていると、「世の中のモノは、多く分類され、まとめ上がった分類にまた新たに名前が着けられているのだ」という発想が非常に乏しいのではないかと思うのだ。
 これって、勉強をする上で、致命的なんじゃないのかなぁ。(まあ、偏差値60辺りの「壁」は、これに関わると思う。)

 今のところはまだ手近にないだけかもしれないが、電子辞書やパソコンの検索機能にない機能の一つが、こういった分類ではないのかなぁ。検索機能でいろいろ出てきて、次から次へと、まるで、点と点がとめどなく結びついていく過程はもの凄い。その意味では、全然関係のなさそうなところに「飛んでいく」ことも出来る。新しい発見もある。しかし、ある一定の複数の事項に関して共通点を見出し、「一纏め」にするという大ざっぱな機能は、ひょっとして、人間の脳独自のモノものなのかなぁ。。だって、その「一纏め」の方法は、はっきり言って、人によって異なるからだ。(「学説」というのが一種のそれだ。)

 「AならB,CならD、EならF」などの羅列的な発想はいくらでも出来る。しかし、じゃあ、AとFにはどんな繋がりがあるのか、それとも無いのか。そういう考え方は、点と点を結びつけるだけでは不可能だろう。これが「抽象化」ということで、「分類」に大きく関わる。入れ子構造或いは、階層的な発想になる。

 勉強の苦手な子はこれが苦手である。得意な子は、これが得意である。「分野」によって、一纏めにする能力が苦手だったり得意だったりすることもある。
 ゆとり教育とかで、知識の総量が減った。これは、分類するための材料が減ったということにもなる。だから、知識がバラバラに羅列的になる。少ない材料で関係性、共通点、相違点を見出すのは難しいものだ。
 持って生まれた能力はそんなに低くないとも思うのに、通じないことがあるがなかなか苦しい。

 相違点を見出すのは、「感覚」である。その「感覚」を子どもの時に研ぎ澄まさずにきたものだから、--△と□、○程度の違いしか訓練してないから、大きくなって五角形や六角形が出てきても、五角形は五角形、三角形とは関係がない、みたいな発想になるんじゃないのかなぁ。
 五角形は△が5つ集まったとか、△と□がくっついたなど、五角形に潜む△を見つけ出すことも難しくなってたりするんじゃないのかな。(これはただのたとえ。下手くそな譬えだけど。笑)
 また、スーパーに行けば何でも売っている。「果物屋さん」も少なくなってきている。そんなこんなで、カテゴライズしてモノを考える機会も減ってきているのだろうか。

 物事は、バラバラでも、実は、ヒトは生きていける。文明や文化が進めば、バラバラになる可能性は高い。ものが豊富だということは、それぞれの特長を生かしてモノをあつかえ、と言うことになる。
 肉じゃがなら荷崩れしないメークインの方が良いけどポテトサラダなら男爵の方がいいとか。
 調味料の種類が増えた。洗剤も種類が増えた。「これにはこれ」。極端な話、寄せ鍋を作るなら、それ用の「だし」がないと鍋ができないと思う人が多くなっているってことはないのかなぁ。昆布でダシを取って、醤油や塩で適度に味付けして云々、という根本的なものがだんだん忘れられて今の時代になってるのだろう。

 えっ? それが「抽象」とどんな関係があるかだって?
 メークインも男爵も「ジャガイモ」。増えた調味料の種類の多くは「醤油」。もともとは、「同じ」だということ。醤油があれば、醤油ベースの調味料は作れる。わざわざ買う必要はない。それを、さも、別物であるかのように並ばせて売っているスーパーの棚を見ると(そりゃ、作る人がいて、買う人がいるから売ってるわけであるけれど)、レモンとオレンジが同じ果物に分類されることに気が付かないのと似てないかなぁと思ってしまう今日の「ほり」であった。。