考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

学校の先生と塾の先生

2007年11月23日 | 教育
 塾は選べる。気に入らない先生だったら、やめてヨソにいくことが出来る。これをメリットだと捉える人は多いだろう。
 学校の先生は選べない。どんなに性が合わなくても、付き合っていかなければならない。これをコドモの不幸だ、学校のデメリットだと捉える人は非常多い。
 だから、塾の方が優れている、と。

 長年「学校の先生」をやっていると、「奇妙」なコトが起こる。
 「受け持ちの時は先生キライだったけど、後で大好きになった」とか。
 「最初は、授業で先生が言っていることがさっぱりわからなかったけれど、それでも言われてやっていくうちに、わかるようになって出来るようになった」とか。

 気に入る先生を求めて「先生ショッピング?」をする人には考えられないことだろう。こういった先生の求め方は、消費者としての行動である。

 しかし、学校で気に入らない先生と付き合わざるをえないとき、それでも、生徒は、何かを学ぶ力を秘めるようである。「成長する」には、このような「自身の変化」があるのだ。

 まあ、イマドキのご時世でこういうことを言うと、「ウチの子は病気になった」とか、まあ、いろいろでてくることではあろう。私は、私の常識の範囲内で申し上げている。そのように思われる方と前提条件は異なるかもしれない。

 「先生を選べない」メリットは「消費行動をとらせない」と言う点で、意外にあるものだと思う。これは、ギブアンドテイクではない関係である。

 コドモは、(実際にはあり得ない)最善の環境でなくても、十分に学ぶ力を持っているのではないか。大人はもっとコドモの成長する力を信じてやっていいのではないか。
 「好きな先生」「良い先生」「都合の好い先生」ばかりが「良い先生」ではない。


8 コメント

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不快なこともまた必要 (taketyann)
2007-11-24 12:34:29
「教育はサービス業である。」と言われます。要するに教師の独りよがりでなく、お客である生徒や保護者の意向を尊重しろ、という意味だと思うのですが、一理あると思うのと同時に、「ちょっと違うのでは?」とも感じるのです。

飲食業やホテルなどのサービス業は「娯楽」を提供する仕事です。客の払った対価に見合うだけの快適さや満足感を提供するのが目的であり、そのためには客の意向や要求が最も重要視されます。

これに対し、学校という場は「教育」というサービスを提供します。「娯楽」であればその人が満足したかどうかで判断できますが、「教育」の質は受けた本人がその時点で満足しているかだけでは測れません。

子どもが成長するには快適な経験だけでなく、不快なことも体験しなければなりません。反復練習を繰り返さなければ、漢字だって計算だってできるようにはならないのですが、こういう作業を喜んでやる子どもというのはそう多くはありません。
お客である子どもが嫌がるからといって、そういうことをやめてしまえば、教育の本来の機能や目的が達成されなくなってしまいます。

「いじめ」の問題にしても、多くの人間が集まる場所においては、多少なりとも何らかの人間関係のトラブルは起こるものです。自分に対して不快な人間がいるから、そいつらとは一緒のクラスになりたくない、ということを堂々と主張する保護者もいるそうですが、そんなことで将来、大人の社会で揉まれて生きていくだけの力がつくのか疑問に思います。
(もちろん、深刻な「いじめ」を放置しておいてよい、という意味ではありません。念のため。)

J.デューイは学校は「社会生活」をする場だと言いました。その中には当然他人とのトラブルや不快な体験も含まれていると考えるべきでしょう。曽野綾子も「悪い環境もまた子供を育ててくれる」と著書で述べています。

人間が小さい頃から何度も風邪をひいて、病気に対する抵抗力を付けていくのと同様に、学校という場は少しずつ不快な体験や苦労すること、緊張することを与えることによって、子どもの成長を促していく側面があると思うのです。

「やさしい」とか「親切」とかそういう口当たりのよさで教師を選んでしまうと、ご馳走しか口にしないような贅沢な心を持った子どもが育ってしまうように思えてなりません。もう一度「教育」というサービスの質について再考する必要があるのではないでしょうか。
(無論、教師側も日々自分のいたらなさを厳しく自省すべきなのは言うまでもありません。)

そうそう、その通りで (ほり(管理人))
2007-11-24 15:46:30
taketyannさん、お久しぶりです。コメントをありがとうございます。

言いたいことを丁寧にお書きくださいましてありがとうございます。

パラパラ立ち読みしかしてないけど、堀川高校の校長先生が書いた?新書に、「学校は、客が要求する以上のものを提供するところだ」みたいなことが書いてありました。(というか、その辺りだけ読んだか・笑)

私のコトバで言うと、「自分の世界観を変える場所」なんですよね。もちろん、広く、大きく、深く、時空を越えるように。(でないと、勉強なんてできない。)

でも、逆に、昔ながらの教育?や先生を求める人もいるわけで、そう言う人には今の学校の「快楽提供のサービス業」的な側面、迎合的な側面がイヤなものだと思われているようでもあるようです。
まあ、私は真っ当な感覚だとおもっちゃいます。

ところで、O157で、大変な症状を出した子の家庭は、ものすごく清潔だったそうな。
腐りかかった?ものを喰って、タマにお腹を下すのも、ホントはカラダには良いことじゃないのかなとも。(笑・でも、現実的には、「明日」のことを考えるから、用心してしまう)

叱り方でも「頭ごなしはいけない」って誰が言い始めたのかなと思いますよ、私なんか。
言い聞かせる叱り方は、「想像力」が伸びませんよ。
(と言いながら、自分も迎合してるけど。苦笑)

>「ちょっと違うのでは?」とも感じるのです。

私は、「全く違う。それは、勘違い。」と、はっきり言い切ります。少なくとも、このブログでは。(笑)
Unknown (fryingpan)
2007-11-25 04:03:44
つまり、「快適・不快だけでは測れない見方がある」ということでしょうか。
例えば… (taketyann)
2007-11-25 11:38:57
例えば、レストランで客が飲み物をこぼしてしまったとします。普通のレストランなら、ウェイターがやってきて後始末をしてくれるでしょう。金を払った客にできるだけ快適に過ごしてもらうのが、彼らのサービスの目的だからです。
(「自分がこぼしたのだから、自分で始末しろ!」などと言う店があったら、おそらく潰れるでしょう。)

これに対し、子どもが給食の牛乳をこぼした時、多くの教師は「雑巾を持ってきて始末しなさい。」と言うでしょう。子どもが自力で始末できない事情がない限り、そうするのがおそらく通常の対応です。これは「教育」というサービスが、子どもに快適さを与えるよりも、自分の身の回りのことをきちんと始末できる人間に成長させることに重きをおいているからです。

でも子どもの側からすれば、こぼしてしまった牛乳を誰かが片付けてくれた方が快適に決まっています。場合によっては片付けてくれない教師を「冷たい」と感じることだってないとは言えません。(過保護な親に育てられていれば尚更です。)

同じようなことが宿題にもいえます。宿題が好きな人ってあまりいないんじゃないでしょうか?でも私は家庭で勉強する習慣をつけるために、ほぼ毎日宿題を出します。これも子どもたちからすれば、宿題なんか出さない先生の方が好かれるということだって、大いにあり得るのです。

まだ未熟な子どもが「快適・不快」でものを判断してしまうのは仕方ないとしても、親や教師がそういう見方で教育を捉えてしまうと、学校がレジャーランドと化してしまいます。

私も宿題大嫌いな生徒でしたが、妥協せず大量の宿題を毎日出した先生たちのおかげで今日があると思います。でもそれは学校を卒業して何年も経って気づくことでもあるのです。現在の快適さだけを基準に学校を選ぶようなやり方は、むしろ危険だと思います。
Unknown (fryingpan)
2007-11-25 21:25:01
解りやすくて勉強になります。
目先の「快適・不快」を超えるにはまず時間的変化を勘定に入れなければならない、と解釈してよろしいですか(付け加えると、「空間的変化=他者~コミュニティの存在/関係性を意識する」でしょうか)。

順序が逆になってしまいました。
管理人様並びに皆様、浅学ですがよろしくお願いします。
ようこそ! (ほり(管理人))
2007-11-25 22:05:22
fryingpanさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

taketyannさん、コメントのレスをありがとうございました。(私の説明より、ずっとわかりやすいもんなぁ。笑)

>親や教師がそういう見方で教育を捉えてしまうと、学校がレジャーランドと化してしまいます。

これはかなり進んでいると思いますよ。意識してないレベルではもう、かなりです。
「学校の生き残り」なんて言い始めてから、極端ですよね、たぶん。

>妥協せず大量の宿題を毎日出した先生たちのおかげで今日があると思います。でもそれは学校を卒業して何年も経って気づくことでもあるのです。

「何年も経って気付く」人は、たぶん、少ないと思います。
今の傾向は、「気が付かない人が多いから、こうなった」と見る方が良い。「嫌な思い出しかないから、コドモには楽しい思い出を作らせたい」と。

それと、やっぱり、コドモにそれなりでも苦労させようと思ったら、近くにいる大人もそれなりに苦労してないと、コドモは納得しませんから。
で、大人は、この快適さを捨てたくないから、自分が苦労したくなから、コドモにもラクさせてしまう、その方が自分がラクだから。子どもの成長より、自分のラクが先になっている。

>目先の「快適・不快」を超えるにはまず時間的変化を勘定に入れなければならない

この「時間的変化」が、正に「成長すること」で、「人が生きること」だと思います。私は、人間だけが、「時間」を勘定に入れることができる存在だと考えます。

「今、ここにないものを想像する力」を持つのが人間だと私は定義します。(あ、これも、どこかに記事があるはずだなぁ・・。)

どうぞ今後とも、気楽においでください。
なるほどなあ… (taketyann)
2007-11-25 23:18:09
>「嫌な思い出しかないから、コドモには楽しい思い出を作らせたい」

確かにそう考える親も多いんでしょうね。でもそうやって過保護にすればするほど、我が子が頼りなく、ひ弱な人間になっていくのがいつも傍にいてて(傍にいるから?)わからないのかと時々思ったりもします。

私自身、小学校3年の時に「いじめ」にあいましたが、苦しかったのと同時に貴重な教訓も学んだように思います。(見て見ぬ振りをしていた担任教師のことは今でも嫌いですが。)
こう思えるのも、その後いじめから開放されて立ち直ったからかも知れません。そういう意味では、学校に快適さばかりを求める人たちは、精神的に立ち直っていないのかも?


>コドモにそれなりでも苦労させようと思ったら、近くにいる大人もそれなりに苦労してないと、コドモは納得しませんから。

全くその通りだなあと感じます。中高生はもちろん、小学生でも大人の態度をしっかり見てますからね。
私のクラスでは毎日数行の日記を宿題に書かせているのですが、そのために私も毎日学級通信を出し、日記のコメント書きもほぼ毎日続けています。
結構きつい作業なのですが、こうしないと「先生も毎日書いているんだから、お前たちもちゃんと書いてこい!」と胸を張って言えないんですよね…。
オトナとコドモ (ほり(管理人))
2007-11-26 22:18:25
taketyannさん、コメントをありがとうございます。

>中高生はもちろん、小学生でも大人の態度をしっかり見てますからね。

これは、コドモが小さいほど大人の影響は大きいものでしょう。
高校生くらいなると、教師に対しても、「アイツはバカだ」と思ってくれたりする。まあ、まともな反応としての「アイツはバカだ」と、そうでない「アイツはバカだ」はあります。後者は困ったことですが。

記事やコメントで何度か書いてることですが、傘差し運転をしている生徒に注意をしたら、タマタマ外を傘差し運転にている大人がいて、「だって、大人もやっているじゃないか」と言われました。(何度か言われてるけど・笑)あるとき、「じゃあ、君は、あんな大人に、コドモから、あの人、傘差し運転なんかやってる、と言われるような大人になりたいのか」と言いました。そしたら、その生徒は、黙りました。
こういった生徒の「良識」を大事に育ててやりたいものだと思いました。

小さいコドモほど「モデル」が必要ですが、「完璧な大人」はいません。そのことに気付く年齢になったら、じゃあ、自分はどんな人間になりたいのか、なりつつあるのかを認識させることって、大事じゃないかと思います。それを決めるのは、他ならない自分なんだよ、と。周りの大人がどうであろうと、自分の生き方を決めるのは自分なんだと。

まあ、私が高校の先生になったのは、小学生の模範になれない自分を知ってるから。(笑)だから、生徒は、ある程度、オトナじゃないと、私、困るんだよねぇ。

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