賀正 2007年01月04日 | Weblog あけましておめでとうございます そろそろネタが尽きてきた気もする今日この頃ですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします ご挨拶まで (ホントに挨拶だけだなぁ。。。) « 繰り返しの妙 | トップ | ブータンは良い国らしい »
34 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 私は階層的に考えるのがきっと好き (ほり(管理人)) 2007-01-16 19:44:26 heisanさん、コメントをありがとうございます。>威を借りないやり方を試みられているほりさんはかっこいいと思います.恐れ入ります。でも、まあ、馬鹿とも言える。(笑)「人を説得する」ことそのものを第一の目的にしてないからかなぁ。。>これは,物理帝国主義に似た考え方があります.書き方が悪かったです。いわゆる「物理」だけじゃなくて、要は、「モノ」に還元できるモノに起因するものすべてで、生理化学なども当然入ります。譬えがどうしても能楽になりますが、能楽師一人が良い能を作るわけではないのです。舞台にいる他の人はもちろん、観客の視線とかも、まあ、いろいろ。それらをひっくるめて「物理」って言っちゃったんです。>> 能の面白さは多数決で判断されるものではないのです。残念ながら、能楽の面白さは万人受けするものではない>これは,要は「好悪の対象は人によって違う」ということですよね.えっと、これは、「好悪」ではなく、能楽(これしか譬えができなくてすみません。)そのものが持つ「特性」のようなものがあるんです。で、その特性を鑑みた上で、「面白さ」を捉える。「面白さ=特性」かもしれない。うん、そうだな。野球の「特性」と卓球の「特性」は異なるでしょう。何がその特性を作っているかとかを問題にしたい。だから、能楽の場合、そこから外れたモノが生じたときに歌舞伎が派生し、発展したと言う歴史があります。で、私が言いたかったのは、それなら、能を能たらしめているモノは何か、と言うことだったんです。でも、それはわからない。見て初めて、「ああ、これは能らしい能だ」とか、「ここがこうだともっと良い能になるな」などと思うんですよね。(野球と卓球の野球らしさ、卓球らしさは、私はよくわからないけど、「ルール」を決めるときには問題になるでしょうね。) う~ん、野球と卓球など、異なる物を比べてどうのこうのと論じるのではなく、野球だったら、野球に焦点を合わせて、考えるというか。「野球⊂チームプレー⊂スポーツ⊂楽しみ⊂人間にとっての楽しみとは何か」みたいな捉え方でどこまで行くか。逆に、「野球の野球らしさのさまざまな特性の階層性⊂野球」も考える。それで、どこまで考えられるかを考える。だから、左派と右派についても、「左派の考え方⊂それよりも上位の概念?⊂もっと上位の概念(こういった段階で、たぶん、人間とはどういう存在かが問題になる)⊂人間の幸せ⊂・・・⊂・・・」など、右派も同様に考える。それで初めて、「正しさ」の検討が出来るんじゃないのかな。それで、ここで初めてheisanさんが問題視する観点になったとおもいますが、「好悪」にしても、「正しさ」にしても、突き詰めて考えた方が面白い(?)と思うのです。私にとっては「好悪」は平面的な概念です。「正しさ」もただの多数決と考えると、これも平面になります。で、私の好み(笑)としては、同じ地平で捉えるのではなく、好悪にしても、じゃあ、「なぜ、野球が好きなのか」、「野球が好きとはどういうことなのか、どういった性質を隠し持っているのか」、「なぜ、卓球ではないのか」ということかな。そんな風に考えると野球を通してでも、「人間とは何か」が見えてくるのかもしれない。(私は全くわからないけれど。)で、能楽が持つ特性に関して、私は、極論すれば、「人間とは何か」を感じたわけです。で、「⊂」の右側に来るものは、具体的に何だかわからない。左側もわからない。でも、きっと何かがある。その意味で、左派も右派も能も、私の中では同じになる。(笑)>要はこれは,根本的な考え方の違いというよりかは,単にスタンスの違いに過ぎないかと思います.このあたりのことは、私は学がないのでホントはよくわからないです。タマタマ知っていた用語の「パラダイム」という言葉を使ってしまったのかもしれません。(ごめんなさい。)「スタンス」で良いのかもしれません。でも、人文科学も自然科学と同じように考えるという手だてはないものかなと思ったのです。「同じように」というのは、私にとっては、「階層的に」ということかもしれません。(で、「因果関係」のようなものもちょっとアタマにあったのかもしれないです。だから、それが「物理」という言葉になって出てきたのかな。)>> わかりやすい授業や効果的な学習はダメだ>いやいや,こんなのも全然アリだと思います.これについては、「現場」ではなかなか同意がもらえない。理屈ではそうだけれど、毎日の活動においては、いったん、ほとんどの人の意識が「わかりやすさと効果的なのは良いことだ」に向いてしまっているので、なかなかむずかしいのです。>その仮説自体が他の理由によってとても魅力的である場合,人はそれを信じる場合があります.私のはいずれの条件も満たさないので、きっと誰も信じないでしょう。(笑) 返信する Unknown (heisan) 2007-01-15 02:06:56 あ,一つ言い忘れました.> 仮説が妄想の範疇を超えて強い力を持つのは,確たる証拠又は証明を獲得したときであるこれには補足事項があります.確たる証拠又は証明を獲得していない仮説であっても,その仮説自体が他の理由によってとても魅力的である場合,人はそれを信じる場合があります.例えば,それまで積み上げられてきた成果の大半が失われるかもしれない場合(何人も自己に関わる伝統を否定する事は気分が悪い),自分の利害にかかわる場合,その仮説が正しいとするとタイムマシンがつくれるぞというような場合,など. 返信する Unknown (heisan) 2007-01-15 01:55:31 > 「自然科学も人文社会科学も同じように考える」という前提を新しく考える私はこの考え方が可笑しいものであるとは全然思いません.というのは,こういうのは要するに,「これまであまり採られることのなかった視点の設け方である」というのに過ぎないからです.> 能の面白さは何かこれは,野球が好きな人が「なぜ私はこんなに野球が好きなんだろう」と考えることと本質的に同じでしょう.で,この考察は,私が上で述べてきた「『好悪』と『正しさ』に関連する話」とはまた別の話であるように思います.上で述べた話は,例えば「Aさんは野球が好きだが,Bさんは卓球が好きだ」という事実を,自明なものとして扱っているからです.「なぜAさんは野球が好きか」は問うていない.> 「ないものの存在」を考えることが平気でできる学問も芸術も「いまはないもの」を求めて試行錯誤を繰り返すという点では同じだと思います.でもその「いまはないもの」を求める方法は,いくつかの「いまあるもの」に立脚したうえでしかありえないと思っています.> 「ないもの」を前提にものを考えようとすることに全く抵抗がないそもそも仮説なんてものは,妄想,空想とほとんど同義です(笑).つまい「ないもの」です.でもそれが時として,「もう妄想・空想であるなどとは言わせないぞ」とする強い力を持つとき,妄想であったはずにもかかわらず多くの人々がそれを信じだすときというのがあります.それは,仮説が確たる証拠又は証明を獲得したときです.人間の考えにおいては,順序としては「まず仮説ありき」ですから,その意味では,「ないものを前提にする」というのは,ごく自然なことだと思います.ただ,そこでいう「ないもの」の定義を明らかにしておくことが必要だと思います(私は前回「知らない事は知らないのだからどうしようもない」と言いましたが,それは,「ないもの」の定義を明確にできない場合はどうしようもない,という意味でそう言ったのです.).> 多くの方に、私の考えは「飛躍している」と思われるでしょう私自身,パラダイムシフトは大いに歓迎するところです.インパクトがありますし,それでこそ人間の世界だと思いますから(笑).> 万人が認める正統的な思考法でものを考えようとするか、これまでとは異なる思考法を求めようとしているのか私は,"出発点"は,正統的(というか伝統的・定説的)な思考法であることが多いかなと思いますが,やはり,定説ばかりしゃべっているのでは面白みがありませんね(笑).だからちょこちょこオリジナルっぽい考え方が入ってると思います.齋藤孝氏風に言えば「沿いつつずらす」に当たりますでしょうか.方法にはいろいろあって,最初(=出発点)にボーンとインパクトのある主張,大きなパラダイムシフトを喚起させるような主張をして,聴き手を惹き付けておいてから,「それはね,」と理由を述べていく,という方法もあるでしょう.要はこれは,根本的な考え方の違いというよりかは,単にスタンスの違いに過ぎないかと思います.> わかりやすい授業や効果的な学習はダメだいやいや,こんなのも全然アリだと思います.考え方というのは面白いもので,例えば,先日挙げました小林先生などは,子どもを生んだ者に課税すべきであるというようなことを主張されていたように思いますが,これは社会的にはインパクトがありますよね.今の国や自治体による政治の流れでは,子育ては大変だから,子を生んだ者に補助金を出すという考え方のほうが主流だと思いますから.でも,小林先生の説を読んでいると,ふむふむこういうのもありだよな,と思えてきたりするw 返信する Unknown (heisan) 2007-01-15 01:54:56 > プリントアウトして読み返しました。恐れ入ります(_)> 世間的に認められた考えを述べられておられるこの世の中において,(程度はさてあれ)なにか社会に浸透させることを目的とした主張を行う際には,定説を真っ向から否定すると,ほとんどの人員からみとめられず目的を達成できない事は目に見えています(もちろん,そのような主張法もありますが,それができるのは,定説を覆すほど凄い証拠or論法を持っているか,或いは,自分がその分野の世界的権威の一人であるか,このどちらかの場合に限られるでしょう.).だから,多くの人は,うんうんと相手の主張をまずは受け入れた上で,「でも,」って反論していくわけですね.これが,最もポピュラーなあり方・やり方だと思います.その意味では,僕はずるい(或いは普通すぎる)です.定説という威を借りてますからね(笑).威を借りないやり方を試みられているほりさんはかっこいいと思います.> 物理的存在としてここにいなければ、このブログに書くさまざまな考え方もないこれは,物理帝国主義に似た考え方があります.これは,平たく言えば,なんでも物理で解決できるという考え方ですかね.半世紀ほどまえに,人類は初めて原子を見ることに成功しました.そこでは物質を構成する要素は原子であり,ヒトを含む生物もその例外ではない(核酸,蛋白質,脂質,糖質といった生物の物質的構成要素も,さらに細かく見れば原子から成っている)ことから,物理学がこの世のあらゆる問題を解決してくれると多くの人々が期待したようです.しかし,その後の分子生物学の隆盛(≒物理屋さんが解決できなかったことを生化学屋さんがいっぱい解決した)にも見られるように,この考え方がどこまで妥当しているかは,(現段階における科学界の成果に鑑みる限り)怪しいです.> 能の面白さは多数決で判断されるものではないのです。残念ながら、能楽の面白さは万人受けするものではないこれは,要は「好悪の対象は人によって違う」ということですよね.野球が好きな人の集まりがある.卓球が好きな人の集まりがある.いくらでも挙げれますね.確かにこれは「多数決で判断されるものではない」.そして,その集まりの人数は,時代によって変わる.これが衰退と隆盛ですよね.あまりに衰退しすぎると「消滅」してしまうこともあるだろう.また,なにもないところから突然「発生」することもあるだろう.さて本題ですが,ここでポイントとなるのは,「好悪」は「正しさ」とは(少なくとも話し始めにおいては)別次元で語られるべきものであるという点です.> 右派と左派で、「右派が多いから右派が左派より正しい」と言う判断をしない 野球が好きな人たちの集団と卓球が好きな人たちの集団とがあって,野球の集団のほうが人数が多いからといって,「野球のほうが卓球より正しい」という主張を打ち出すことはナンセンスです. 俺は野球が好き,君は卓球が好き.これは,互いが好きなことをやっていてもデメリットが発生しないので,好きなことをやらせておけばいいわけですね.しかし世の中では,デメリットが発生する場合があります.例えば,いま挙げた「俺」と「君」が恋人同士でありデートをするという場合,別々に行動していては意味がないわけです.また,政策の場合は,特定の物事に関して定めるべき規則は一つですから,異なる複数の主張を共存させることは認められていない.「好悪」っぽい話の中に「正しさ」っぽい話が顔を見せるのはまさにこの瞬間です.物理の法則に関しても同じです.「俺もあなたも同じ物理的世界に生きている」という前提に立つとき,俺と地球の間に働く物理法則と,あなたと地球の間に働く物理法則は,必ず同じでなければならないわけです.(他の条件を一緒としたとき)10階から飛び降りると,俺は必ず死ぬけれど,あなたは必ず死なない,というのは可笑しいわけですね. 返信する 私の前提はきっと非常識 (ほり(管理人)) 2007-01-13 17:52:08 heisanさん、レスが遅くなって申し訳ありませんでした。プリントアウトして読み返しました。前に書いたように、私が言うことより、heisanさんのおっしゃることの方が明らかに正しいです。人文社会科学が自然科学と同様に説明できないのも、多数決を正しいと判断するのも、学問に関して定説が正しいとされるのも、全くその通りなんです。知らないことは、知らないのだからどうしようもない、論じようがないと言うことも、全く正しいことです。間違いないです。で、なぜheisanさんの方が正しいかというと、世間的に認められた考えを述べられておられるからです。しかし、私は、敢えて異を唱えようとしています。要は、天の邪鬼なんです。(笑)「ばか」かもしれない。世の中で、人との軋轢をさけてうまく回していくには、「多数決が正しい」とするのが得策です。でも、それは、私のコトバで言うと、原点を起点とするベクトルを同じ方向に進めていくことなのです。天動説にしても地動説にしても、左派にしても右派にしても、特定の「説」あるいは「派」でまとまる。その方がその場がうまくいく。天動説の世界観で地動説を唱えたり、キリスト教世界で進化論を唱えると迫害を受けます。でも、「動かぬ証拠」が固まると認めざるを得ない、これがパラダイムシフトです。で、動かぬ証拠で固めるための前提には、何らかの「新しい考え方」が存在しなければ、「新しい証拠」の集めようがない。新しいパラダイムの想定です。ちょうど、天動説に対する地動説や、キリスト教世界観に対抗する進化論のように、まず、新しい想定を考えた上で証拠集めをする。で、たぶん、私、通常の感覚だと笑われちゃうことだろうし、正真正銘の馬鹿だと思われると思いますが、「自然科学も人文社会科学も同じように考える」という前提を新しく考えるのです。(養老先生の影響でしょうけれど。)だって、私が物理的存在としてここにいなければ、このブログに書くさまざまな考え方もないわけですから。でも、「証拠集め」が出来ていない。(だから、説得力がない。)まあ、証拠集めはともかく、私のこの考え方は、実は、能楽鑑賞がきっかけなのです。数年前まで私は能楽鑑賞に夢中でした。もの凄い面白い能役者の能を見ました。なぜその能役者が、或いはその能が面白いのか、能の面白さは何かを、私は説明したかった。で、結局至ったのは、一、その能役者の物理的な存在がなければ面白い能は決して存在し得ないと言うこと。二、その能の面白さを理解する鑑賞者がいなければその能は面白くないこと。三、この両者(役者・鑑賞者)の感性が、「能」という表現様式そのものがもつ何らかの方向性に沿ったものでなければならないこと、です。どれ一つとして、既に定められた「何か」があるわけでないのです。しかし、たぶん、「何か」はある。でなければ、「面白い能」は存在し得ない。で、たぶん、こういった能の面白さは多数決で判断されるものではないのです。残念ながら、能楽の面白さは万人受けするものではないということです。(で、衰退の問題が絡む。これ、今、気が付いたけれど、数学の難しい定理の証明の理解みたいなものだなぁ。。。)能は、わかる人にはわかる、わからない人にはわからない、と言われることがあるのはそのためでしょう。(でもね、実際には数十番見たら、そこそこは誰だってわかるようになるんだけれど。)たぶん、こういう経験(?)をしているから、私は、「ないものの存在」を考えることが平気でできるのだと思います。上記、抽象的な意味合いでの「能」は存在し得ません。一つ一つの演目や具体的な舞台や表現形式はあっても、「これこそ能だ」と言えるような能はまず存在しません。抽象化された「実に能らしい能」は、通常、この世に存在しないのです。しかし、名手と呼ばれるような人は、間違いなくそのような能を目指しています。それで、観客としての私も、そのような「(存在し得ない)能らしい能」を求めていました。たぶん、私の根底には、そんな思いがあるのです。だから、私は、「ないもの」を前提にものを考えようとすることに全く抵抗がないのです。学者が未知に向かうこと、物理学者の統一理論の研究、芸術家の精進って、こんな感じではないかしら。また、極端に言うと、今まで考えていたやり方で考えるだけでは、新しい答えを求めることが出来ない、というのもあると思うんです。だから、敢えてはみ出す。多くの方に、私の考えは「飛躍している」と思われるでしょう。で、私はおそらく、敢えて飛躍をする。これは、異なるパラダイムを求めているのだと思います。天動説から地動説に変わったように。考え方の「枠組み」をわざと違わせようとしている。私のコトバで言うと、ベクトルの軸、次元を異ならせようとしている。ですから、まともな考え方をする方から見ると、私は、とっても、偏屈な馬鹿で始末に負えないヤツだと思います。(笑)でも、自分としては、結構真面目なつもりなんだよね。heisanさんと私の視点の取り方の違いは、万人が認める正統的な思考法でものを考えようとするか、これまでとは異なる思考法を求めようとしているのか、の違いだと思います。学校の授業に関して、私が敢えて「わかりやすい授業や効果的な学習はダメだ」と言ったりするのもそんなものなのかな。で、最初は、そうだね、と同意されるものの、しばらくすると「でも、じゃあ、どうするの? そんなんじゃ、実態に合わない。」と、ベクトルは相変わらず同じ方向をむき直す。(笑) 返信する 考え中というか (ほり(管理人)) 2007-01-12 22:16:04 heisanさん、しゅーさん、コメントをありがとうございます。ちょっとまだ考える余裕がないのが現状で、すみません。しゅーさんの視点は、これまた全然異質ですね。さすが法学部、人間関係の髄。 返信する あら (しゅー) 2007-01-11 19:02:22 お二人のコメントいつもながらおもしろいですね。なんだろう、個人の私的な選好の場面と個人の公共における意思決定の場面における対応(知見の参照等)という観点、それぞれの合理性(功利性)基準と一貫性の要不要、それと、多数決的了解。いまだに自分勝手に妄想中。ちーん。 返信する Unknown (heisan) 2007-01-11 05:09:36 素早いお返事ありがとうございます.> 正論で、もの凄く正しいなんか私が「やらせ」てるみたいでこそば痒いですね(笑そんな意図は無いのですが…,すみません^^;これからもよろしくお願いします(_) 返信する また考えます (ほり(管理人)) 2007-01-11 00:09:12 heisanさん、丁寧なコメントをありがとうございます。感謝します。ざっと読ませて頂いただけですが、heisanさんのおっしゃっることは正論で、もの凄く正しいと思います。>※ こういう真っ向から否定する切り返しは極めて心苦しいのですが,全然、気になりませんから、どうぞご心配なく。(私って、鈍感なんだな。心配おかけしてすみません。)自分が何をどういう風に考えているのかまた考えます。(笑)>どのように違うのか明らかにしたくなるところですね(^^)賛同します。(^^) 返信する Unknown (heisan) 2007-01-10 23:44:35 > 人文社会科学は、自然科学ほどにまだ発達していない途上にある、という考え方かな。まだ人間は人間についてあまりにも知らない状態にあるというか。 歴史や古典をひもとくと,ヒトの環境に対する応答の仕方というものが,いかに変わらないものであるかということに驚かされます.大昔に書かれた源氏物語という小説を現代人が読んで,いまなおうならされるのはなぜでしょうか.枕草子「にくきもの」を読んで,妙に共感できちゃうのはなぜでしょうか.ユークリッド原論やアリストテレスの哲学が,いまなお現在の世界における学問の起源たる地位を堂々と保っているのは,これはなんででしょうか? それは,我々人間という生き物が,いかに変わらないものであるかを物語っているのではないのでしょうか. 人間は変わらないが,しかし,環境は変わります(例:原始社会から文明社会への変遷).環境が変わると「環境への応答の仕方」も変わります.これが時と場合によっては「人間」が変わったのだと誤解されちゃうことがあるんですね.我々はこの点に注意しなければいけません.「ケータイを持ったサル」というキーワードも,或る意味では「人間」は変わらないことを教示しているように私には思えます. さて前置きが長くなりました.何が言いたかったのかと言うと,ほりさんの考え方を仮定すると,人文社会科学が発展するためには,人間が発展することが必要という帰結になっちゃうんですね.これは可笑しいだろうと(笑).いやもちろんこれを支持する選択もアリですが,そんなことが我々(60億人)の生きている間にできるのかと,疑問をぶつけたくなります.数万年後,数百万年後の人類ではなく,いまここにいる現生人類の幸福量をアップさせることを念頭に置くならば,この選択は妥当ではないと思われます. 「じゃあどんな考え方が妥当なのか」ですが,人文社会科学は,自然科学と比べると,より成熟した学問であるという考え方です.例えば哲学のような,アタマさえあればできるようなことは,数千年前の人間もやっとるわけです.その数千年前~現代までの人間のアタマの全てを凌駕する(凌駕するというか,ここ数千年間誰も思いつかなかったことを思いつく)ことを目的とするとすると,これは大変な事です.文学についてもそうです.小説でテーマになることもだいたいが決まっています.数千年前といまとで何が変わっていますか? 変わっているとすれば,それは「環境」であり,「環境の変化に付随した我々の構え方」です.それゆえ,現代において哲学や文学をやる人の大多数は,この新しい「環境の変化に付随した我々の構え方」を絡ませて,新たな境地を切り開こうとするのです. 一方,自然科学の方は,「新しい技術」が次々とつくられるので,その技術によって測定・生産される実験データというのが簡単に存在することができます(カネと人手であれば簡単に存在することができます).このため,研究論文の数は,単純に見積もっても「技術の数×当該技術を適用可能な対象の数」個存在することができます. ここでポイントとなるのは,その新しいものができてくる速度です.「環境の変化に付随した我々の構え方」の年間生産速度よりも「新規の科学技術」の年間生産速度の方がはるかに上回っているのです.私が,人文科学は自然科学より成熟した学問である(=学問の成長速度は自然科学の方が速いということ.少なくとも今は.)という仮説を支持するのはこの理由からです.> heisanさんと視点の取り方が違うのだと思います。どのように違うのか明らかにしたくなるところですね(^^) 返信する Unknown (heisan) 2007-01-10 23:44:06 > 人文・社会科学には、選択、価値観などしかないええと,これは誤解でしてですね^^;,「しかない」のではなくて,自然科学では想定されていなかった概念が新出するという意味です.人文・社会科学も,数学や自然科学で言う公理系・仮定系に相当するものはあるでしょう.> 「幸福量」って、意外に、 ~ えるといいのかなと思います。 人文社会科学という言葉を定義せずに使っているのでややこしいのですが,ここでほりさんが言われているのは,「幸福って何?」という問いに様々な角度から(すなわち哲学的・歴史学的・教育学的などなど)検討するというようなものではないかと思います.幸福量を明確に定義できることが目的というような. 幸福量の指標はいまも世界中の人たちが,あれがいいんじゃないだろうか,これがいいんじゃないだろうか,と考えていると思います.これを考えることは,自然科学分野の人もするでしょうし,人文科学や社会科学の分野の人もするでしょう.> 「多数決が正しい」と判断しないからです。 ほんとですか?(驚 私は,確かな証拠に基づいた,緻密で十分な議論の末,最終的には「多数決が正しい」で判断されていると思います.世の中で「定説」と呼ばれているものも,別の説を唱える人が全く居ないということは稀ですし. 例えば,「温暖化の主因は大気中の二酸化炭素濃度の上昇である」というのは,定説かもしれませんが,異論を挟む者がいないわけではなくて,だから「である可能性が高い」という表現にすべきだ,という意見もあります(これは養老先生が著書の中で言われていたと思います). 以前「学問の定義」について考えた事がありますが,私なりの結論は「多くの人がそれを学問やと認めたらそれは学問である」というものですが(笑),いかがでしょうか?> 右派と左派で、「右派が多いから右派が左派より正しい」と言う判断をしないということです。「と言う判断をする」と思います(※).なぜなら,右派の多い時代には世の中は右派によって支配され,左派の多い時代には世の中は左派によって支配されるからです.地動説よりも天動説を支持する人が大多数を占める時代においては,この世の中は天動説に基づいた世界であるというのが定説となります.ダーウィンが進化論を唱える以前は,ヒトの起源が,ヒトよりも下等なサルだなどという説は,「ヒトは神が創造したものである」とするキリスト教の信者にとって,たいへん受け入れがたいものであったに違いありません.それでも,「動かぬ証拠」が時間とともに固められていき,それを説明する素晴らしすぎる理論の前に,彼らも頭をたれざるを得なくなった,というのが現在の状況でしょう.もちろん,今後どうなるかはわかりません.それは「今後どんな新たな証拠が見つかるか」と「人類が今後どれだけエレガントなことを考えつけるか」に依存しますから.※ こういう真っ向から否定する切り返しは極めて心苦しいのですが,どうか,どうか,ご海容下さい^^; 私は,自分がこれをされたら半切れになることを知っているので,罪悪感を以てこれをしたためます(笑)> 右派と左派を共に含有しうるより高度な次元から見て、右派・左派がどうであるかを判断できないのかな> 私たちの知らないことがある、そこから、見て判断する そういう高度な次元を手にすることができれば,誰も苦労はしないと思います.ただ,現時点で,その次元を我々は手にしていません,少なくとも右派・左派問題において.手にしているならば,すでに右派・左派の問題やその対立は現存していないはずです.その高度な次元を,現実の世界に適用させる事にそれほどコストがかかるとは思えませんから. 重要なことは,「私たちが知らない事」は,知らないのだから,どうしようもないということです.知らないのだから,論じようがない. 返信する 何が幸福か (ほり(管理人)) 2007-01-10 20:45:59 heisanさん、コメントをありがとうございます。>私はその点では「幸福量」という概念は,極めて革新的,今日的,新世紀的な概念だと思っています自然科学は、基盤たる「公理」を求めていると思います。しかし、人文・社会科学には、おっしゃるような選択、価値観などしかないと思われていますが、私はこれにも「公理」のようなものがあるんじゃないのかなと思います。(ただ、私たちはまだ知らないだけで。)で、「幸福量」って、意外に、人文・社会科学の「公理」(って言葉は、ちょっとまだ吟味がいると思いますが。)たり得るのではないでしょうか。じゃあ、幸福って何?とか、人間はどんな場合に「継続的な」(←ここが大事)幸福を感じるのか、とか。で、じゃあ、そのためには、子供はどんな愛情や教育を受けて育ったらよいのか、とか。そんなことを考えるといいのかなと思います。それから、「万人にわかる正しさ」に関しては、うまく説明できませんが、私は、それでも(苦笑)数学的な正しさも人文・社会科学的な正しさも同じ地平に置いて、数学の理屈と同じものと考えます。(すみません。)なぜなら、「多数決が正しい」と判断しないからです。右派と左派で、「右派が多いから右派が左派より正しい」と言う判断をしないということです。右派と左派を共に含有しうるより高度な次元から見て、右派・左派がどうであるかを判断できないのかな、と思うんですよ。う~ん、どう言ったらいいかな。。。だから、私たちの知らないことがある、そこから、見て判断する、というか。。。というか、人文社会科学は、自然科学ほどにまだ発達していない途上にある、という考え方かな。まだ人間は人間についてあまりにも知らない状態にあるというか。自然科学的な知識は世代を超えて蓄積するが、人文科学的なものは、一世代限りで蓄積しないから、大抵、人々は自然科学ほどの多くを学べない。(←どこかで読んだような。。。)だから、それを学べるようにならないものかと思います。でも、だからと言って、数学と同様に、全ての人がそれを理解できることにはならないと思うのです。うまく説明できなくて申し訳ありませんが、このことに関しては、heisanさんと視点の取り方が違うのだと思います。このブログについては、私の「愚痴」(笑)です。で、私の場合、昔、能の感想文を友人などに読んでもらっていた経験から、なんと、「人に読んでもらえないと文章が書けない体質」になってしまったのですよ。でも、公開で書くというのは、おっしゃるとおり、「ね、ね、私の言うことにも一理あるでしょ?」ってことです、はい。今後ともよろしくお願い致します。 返信する Unknown (heisan) 2007-01-10 01:57:41 > 自然科学と同様に説明できないそう思われるのは,人文・社会科学的な正しさは,価値の問題と選択の問題を孕むからではないでしょうか.大雑把な言い方ですが,自然科学は「こうなっている」を明らかにすることを目的としている.「こうなっている」を,なんとか人間の分かる形で表現できたら(また,かつそれを検証できたら)OKな世界.でも,人文・社会科学にくると「それを踏まえてあなたはどう行動するのか」が問われるわけです.「いまの学校あかん」と不平を言うのは自由.重要なのは,客観的に見ても不満が残る状況下で,「どう選択するか」でしょう.私はその点では「幸福量」という概念は,極めて革新的,今日的,新世紀的な概念だと思っています.(もはや古典となりつつある時代にその基礎がつくられた)社会主義や資本主義体制が原理的に抱える問題点を克服しうる希望は,そこくらいにしか見出す事ができませんから(苦笑).> 「万人にわかる正しさ」があると思いません。 ええと,「右派の人が左派の人の言う事を理解できない」というのと「私らが超高度な物理(数学)の内容を理解できない」というのはわけが違います.ここでいう「正しさ」とは前者の意味です.規則として定めるような事は,ある程度の割合の人に分かってもらわないと困るわけですよ.世界中で2,3人しか分からない超高度な数学の内容があって,でもそれは数学的には正しい,と言うのとはわけが違う. 翻って,日本は(少なくとも表向きは)法治国家ですから,例えば「教育」一つとってみても,およそ大抵の事は,明文化された決まりとして存在している. このblogで語られることは,ほりさんにとっては愚痴としての意味しかなくても,それに共感する人が一人また一人と増え,これはこうじゃないかな,あれはああじゃないかなと,その愚痴が発展していくことは,いまさっきまでほりさんただ一人にしか納得されていなかった事柄が,より有意義な形へと姿を変えて,何人もの人々に共有される事になるのです.これはすばらしいことだと思います.また逆に,そうならなければ,愚痴は愚痴で終わってしまうと思うのです.ほりさんも,公開形式で書かれているということ自体,愚痴が有意義化され,より多くの人々に共有されることを望んでられるのではないでしょうか.(# ぶしつけな態度を何卒お許しください(_))というのは,世の中が悪い,だから世の中を変えたい,と思ったとき,結局我々にできるのはそれくらいしかないからです.国民主権といっても,我々がその主権(統治権)を直接に行使できるわけではありませんからね(いやむしろ行使できたらヤバいですがw). 返信する 本年もよろしく (ほり(管理人)) 2007-01-09 23:17:32 heisanさん、ご挨拶をありがとうございます。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。自然科学における「正しさ」は、いずれかには検証可能になることだったり、理論的に証明されることだったりすると思います。しかし、人文科学(といって良いのかどうかわからないけど、要するに、私のコトバで言う社会科)に関係しては、自然科学と同様に説明できないと捉えるのが普通です。でも、私は、それは、まだ我々の知らないことがあるからではないかと思うのです。(笑)今では「自然科学」として原因がわかるような病気にしても、大昔はなぜそうなるのかわからなかった。で、人々はたぶん祟りだのなんだのと考えたことでしょう。私は、人文科学も、そんなものではないかと思うのです。何らかの原因や法則性があるのかもしれない、でも、まだわかってないだけだと。別に、人文科学を自然科学的なアプローチで迫っていこうと言っているわけではありません。ただ、「我々の知らないこと」が何であるか、少しでも知りたいと思うのです。で、身近なところから、自分で勝手にそれを考える。(笑)きっと、私は、そんな風に考えているんじゃないのかな?「万人にわかる正しさ」があると思いません。だって、私は物理がわからないから。(笑)ただ、その正しさが何であるかをはっきりさせて教えたりすることが出来るでしょう。ちょうど、わからない人間がいても、物理の授業プロセスが存在するように。過去記事については、考えている内容や捉え方が変化しているのもあるので、昔の記事だと今とはちょっとずれてしまっているかもしれません。でも、いつのであっても思ったことがありましたらコメントにして頂けたら幸いです。そこから何かまた発展するかもしれないし。待ってます。(笑) 返信する 新年の挨拶 (heisan) 2007-01-08 18:38:23 ほりさん,明けましておめでとうございます.今年もよろしくお願いします.小林和之(法哲学)先生が,正しさは万人に分かるように語られなければならないということを言われています.<cite>「正しさ」を定める規範とその原理は、誰にもわかるように語られなければならない。ここが自然法則と大きく違うところだ。引力の法則を理解していようがいまいが、ビルの窓から飛び出せば下に落ちる。だが、「正しさ」は人に理解されてはじめて「正しさ」としての力を持つ。納得して「正しい」と思うことによって人は規範に従うのだ。</cite>(http://thinker.jp/ororon/jo01.pdf)ほりさんは,或る意味,小林先生の言われる「目指すべき正しさの追求」をblogを通じてされているように思います.これが,いったいいつの日になれば「万人に理解される」のか見当も付きませんが,そのような日が来る事を夢見て,また,それを実現するためにはどうすればよいかを考える事に頭のリソースを割くことは,それ自体が楽しいと思える人にとっては,たいへん幸せなことではないでしょうか.今年もまた,そんな「夢」に一歩近づける,近づいた事を実感できる,私たちを取り巻く様々な環境の中にその実感を見出すことができる年でありますように.ここに祈念いたしますm(_)m追伸:過去の記事で,コメントしたいことがあるにもかかわらずサボっているものがあります,すみません.期待せずにお待ち下さいませ(笑) 返信する 風よ、吹け~ (ほり(管理人)) 2007-01-08 15:49:01 Damienさん、コメントをありがとうございます。捜してもわかんないし、雪は降っても、ここには「風」が吹いてきたとは思えないし。。。気長に待とう、っと。それから、ブックマークをありがとうございました。>寒い日々が続きます。(後略)お互いに♪ 返信する ご了承頂き・・・ (Damien) 2007-01-08 02:28:01 本当にありがとうございました。 『S・・・・・・・・』のブックマークにも登録させて頂きますね♪ ヒョッとしたら、お立ち寄り下さった方が・・・鴨・笑。 寒い日々が続きます。 お風邪など召しませぬように・・・。 寝不足にも、ご注意なさって下さいませ♪ 返信する 風~♪ (ほり(管理人)) 2007-01-08 00:36:35 Damienさん、コメントをありがとうございます。ブックマークの登録はご随意に。 私が知る限り、拙ブログをブックマークに登録してくださってる方、数名みえます。自分のブログを検索したら、全然知らない方のところで発見して、読んで下さってるんだ~とびっくりしたことがあります。さて、『S・・・・・・・・』、検索に掛かりませんでした。と、わかんないよ~。風よ、吹け~~。>見つけたら、コメントを是非ともポストして下さいね。はい。わかりました。ご安心?ください。 返信する ごめんなさい。 (Damien) 2007-01-07 00:13:44 いつも、やりすぎてしまうものですから。 風は、『S・・・・・・・・』から吹いてくるかしら。 そういえば、ほり様にご了解を頂かなければなりませんでした。ブックマークに登録してもよろしいでしょうか? 大サービス♪ 元旦から営業しており、ブログ・タイトルはお決まりのものです♪ しかし、何故か検索に掛からないんです。 でも、ヒョッとしたら、ほり様は見つけていらっしゃるかも知れませんね。 ExciteでもAmebaでも、勿論『○○♪』(2007)でもありませんが・・・、お心当たりがおありでしょうか? 見つけたら、コメントを是非ともポストして下さいね。 わからない、見つからないと言いつつ、黙って見てちゃイヤですよ・笑。 返信する いえいえ、 (ほり(管理人)) 2007-01-06 23:44:21 どうぞお気になさらずに、Damienさん♪しかし、このブログにそんな風が吹いてくるのだろうか。せっせと通わないと。。。(でも、わかんなかったときの方が多かった?からなぁ。) 返信する それは・・・ (Damien) 2007-01-06 21:03:28 大変申し訳ありませんでした。 じゃ、方向性としては、しゅーちゃんの推理で良かったんだ♪ って、ごめんなさい。 でもって、流石はしゅーちゃん♪ いつ、ご結婚なさったの???(笑) はい。この話題は終了~~~ 注目! 次、行くぞ~!! かな・笑。 そそ、わかんなくて良いんです♪ 誰にも教えてないから、そのうちに何処からか風の便りに、と云うのもよろしいかと・笑。 返信する 誤解 (ほり(管理人)) 2007-01-06 20:47:21 私って、誤解されやすいのよ。。。(って、笑ってないとやってられない。)>めずらしく、先生口調になられていらっしゃるしぃ~~~> 参照:“(この話題終わりね。笑)”えっ、これって先生口調なの??? 全然意識しなかった。検索して出てこなかったら、わかんないよ~。 返信する いえいえ (Damien) 2007-01-06 20:19:33 しゅーちゃん、そうではありません。 ほり様の何故か湧き上がるようなお喜びが、テクストのそこかしこに・・・、と言うことは、ヒョッとしてヒョッとしちゃいました!? めずらしく、先生口調になられていらっしゃるしぃ~~~ 参照:“(この話題終わりね。笑)” ねっ♪ でも・・・次の推理/推測をすると・・・廊下に二人並んで立たされる鴨♪(笑) そうでした。 現時点で、検索に引っ掛かりませんので・・・お時間を無駄になさいませぬようにお勧め致します♪ 返信する あけおめ (ほり(管理人)) 2007-01-06 19:35:53 何だか掲示板状態ですね~。大いに結構です。しゅーさん、コメントをありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。最近は、学生結婚、子育てが増えているそうですね。学内に保育園がないかな?早婚か晩婚かのどっちかみたいだから、早い方にしたら? がんばれ~~。>とか~さすが法学部生の発想か。残念ながら違うけど。まあ、どうなのでしょうね。(この話題終わりね。笑)Damienさんも、コメントをありがとうございます>でもって、『S・・・・・・・・』は・・・うふふ♪もう、意味深なんだからぁ。また捜さなきゃいけないのね。 返信する 流石に (しゅー) 2007-01-06 19:03:00 やりませんよ~お金がないですから(笑)。親戚の子ですよ。数年くらいしたら自分もやらかしているといいなとは思いますけども。まさか~とは。。。というのは、ついこういうのを想定してしまいましたうちのおばあちゃんが振り込め詐欺にひっかかっちゃったのよ~とか~ 返信する お久し振り~~~♪ (Damien) 2007-01-06 16:36:02 って、しゅーちゃん、いつ子供を??? 流石に、やるなぁ~~~♪ おめでとうございます・笑。 私は、 http://blog.goo.ne.jp/fox2011/ で遊んでます。 “プライベートも甚だしい”・・・??? 叫んで下さりませ♪ でもって、『S・・・・・・・・』は・・・うふふ♪ 返信する 今年もよろぴく (しゅー) 2007-01-06 15:55:01 あるき始めてそれ程経たない1歳4ヵ月くらいの子ってちょーかわいい。車の通る大きな道にすぐに出ようとするから、後ろから追っかけて背中をおさえるんだけど、坊はそれでも前に突き進もうとして、足だけはぱたぱたとひっしこで動かしてるいるんですもの。ちょーらぶりん。というわけでDamienさま、ほりさん、今年もよろしく帰省中(寄生虫)はだいたいこんな感じでした↓http://d.hatena.ne.jp/shootan/20070105/p1では~ふりーたーへ向けて猫まっしぐら鴨 返信する ははは。。 (ほり(管理人)) 2007-01-06 15:49:03 Damienさん、コメントをありがとうございます。昇進するわけないですよ。楯突いてるし。(笑)この間はついに記事にしょっちゅう出てくる管理職に「先生の考えは浅い」と言ってしまいました、はい。今の「昇進」は、「人間関係」なんです。だから、そういう「場所」に行くと、やたら飲み会が増えるらしいです(と、友人の言)。まあ、パブリックじゃない、偉い先生たちが集まる飲み会に行ったことが1,2度あるけど、そこは比較的話のわかる人がいないでない、でも、「○○さんがこう言っているからきっと正しい」という判断が大勢を占めます。自分で判断できないんですよ。で、その友人は、まあ、マトモな感性と思います。だって、私がここに書いているようなことをすっと理解して感心してくれるから。(ブログのことは言ってない。)でも、ふつーは、違うのですよ。まあ、要は、最大の問題は、こういうところにあることです。で、先だっての未履修問題でも、「必修教科が受験に対応していない」なんていう校長会の言が出てくる。「学校教育は受験のためではない」ということを理解している校長がいないということです。で、「状況」は、もうプライベートも甚だしいコトなのよん。信じれん。。。まさか我が身が巻き込まれる?とは。。 返信する 即訂正♪ (Damien) 2007-01-06 13:05:27 うむ。 “プライベート”とあるから・・・違うよね。 早とちりをしてしまいました。 ごめんなさい。 返信する ご昇進ならば・・・ (Damien) 2007-01-06 13:02:35 お受けなさいませ。 校長になら、是非とも♪ 此処にいらっしゃる皆様が、お待ちかねだったのですから♪ 違ったら・・・明かしましょうか・笑。 返信する へへっ (ほり(管理人)) 2007-01-06 12:12:41 Damienさん、コメントをありがとうございます。捜すのが大変よ~。これ以上難しい作り方しないでくださいね。ところで、プライベートで、「うっそー」という状況が生じまして、ブログどころでなくなるかも。ヨソの話と思っていたことがまさか我が身に。。。少なくとも、深く物事を考える余裕がなくなりそうな昨日今日なんです。「Damienさ~ん」と叫ぼうかと思ったくらいでした。(意味不明)終わり。 返信する 流石に・・・ (Damien) 2007-01-06 09:00:56 ほり様であらせられます。 壁に描いた布だと!? うふふ♪ 返信する こちらこそよろしく (ほり(管理人)) 2007-01-05 01:11:39 Damienさん、ご挨拶ありがとうございます。暮れに見たら、消えてるし、エライことだとまた探し出しましたよん。ご親切のお陰で3つちゃんと見て回りましたが、はて、果たして3つだけなのかしらん。。。本年もどうぞよろしくお願いいたします♪ 返信する 本年も・・・ (Damien) 2007-01-05 00:42:35 どうぞ、よろしくお願い致します。 あけまして、おめでとうございます。 遊び続けている奴ですが、ほり様のブログを拝読させて頂き、ご指導・ご鞭撻を賜り、少しでもおとなになれるように努めたいと願っております♪(笑) Damien 拝 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 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>威を借りないやり方を試みられているほりさんはかっこいいと思います.
恐れ入ります。でも、まあ、馬鹿とも言える。(笑)「人を説得する」ことそのものを第一の目的にしてないからかなぁ。。
>これは,物理帝国主義に似た考え方があります.
書き方が悪かったです。いわゆる「物理」だけじゃなくて、要は、「モノ」に還元できるモノに起因するものすべてで、生理化学なども当然入ります。譬えがどうしても能楽になりますが、能楽師一人が良い能を作るわけではないのです。舞台にいる他の人はもちろん、観客の視線とかも、まあ、いろいろ。それらをひっくるめて「物理」って言っちゃったんです。
>> 能の面白さは多数決で判断されるものではないのです。残念ながら、能楽の面白さは万人受けするものではない
>これは,要は「好悪の対象は人によって違う」ということですよね.
えっと、これは、「好悪」ではなく、能楽(これしか譬えができなくてすみません。)そのものが持つ「特性」のようなものがあるんです。で、その特性を鑑みた上で、「面白さ」を捉える。「面白さ=特性」かもしれない。うん、そうだな。野球の「特性」と卓球の「特性」は異なるでしょう。何がその特性を作っているかとかを問題にしたい。だから、能楽の場合、そこから外れたモノが生じたときに歌舞伎が派生し、発展したと言う歴史があります。で、私が言いたかったのは、それなら、能を能たらしめているモノは何か、と言うことだったんです。でも、それはわからない。見て初めて、「ああ、これは能らしい能だ」とか、「ここがこうだともっと良い能になるな」などと思うんですよね。(野球と卓球の野球らしさ、卓球らしさは、私はよくわからないけど、「ルール」を決めるときには問題になるでしょうね。)
う~ん、野球と卓球など、異なる物を比べてどうのこうのと論じるのではなく、野球だったら、野球に焦点を合わせて、考えるというか。「野球⊂チームプレー⊂スポーツ⊂楽しみ⊂人間にとっての楽しみとは何か」みたいな捉え方でどこまで行くか。逆に、「野球の野球らしさのさまざまな特性の階層性⊂野球」も考える。それで、どこまで考えられるかを考える。
だから、左派と右派についても、「左派の考え方⊂それよりも上位の概念?⊂もっと上位の概念(こういった段階で、たぶん、人間とはどういう存在かが問題になる)⊂人間の幸せ⊂・・・⊂・・・」など、右派も同様に考える。それで初めて、「正しさ」の検討が出来るんじゃないのかな。
それで、ここで初めてheisanさんが問題視する観点になったとおもいますが、「好悪」にしても、「正しさ」にしても、突き詰めて考えた方が面白い(?)と思うのです。私にとっては「好悪」は平面的な概念です。「正しさ」もただの多数決と考えると、これも平面になります。で、私の好み(笑)としては、同じ地平で捉えるのではなく、好悪にしても、じゃあ、「なぜ、野球が好きなのか」、「野球が好きとはどういうことなのか、どういった性質を隠し持っているのか」、「なぜ、卓球ではないのか」ということかな。そんな風に考えると野球を通してでも、「人間とは何か」が見えてくるのかもしれない。(私は全くわからないけれど。)で、能楽が持つ特性に関して、私は、極論すれば、「人間とは何か」を感じたわけです。で、「⊂」の右側に来るものは、具体的に何だかわからない。左側もわからない。でも、きっと何かがある。その意味で、左派も右派も能も、私の中では同じになる。(笑)
>要はこれは,根本的な考え方の違いというよりかは,単にスタンスの違いに過ぎないかと思います.
このあたりのことは、私は学がないのでホントはよくわからないです。タマタマ知っていた用語の「パラダイム」という言葉を使ってしまったのかもしれません。(ごめんなさい。)「スタンス」で良いのかもしれません。
でも、人文科学も自然科学と同じように考えるという手だてはないものかなと思ったのです。「同じように」というのは、私にとっては、「階層的に」ということかもしれません。(で、「因果関係」のようなものもちょっとアタマにあったのかもしれないです。だから、それが「物理」という言葉になって出てきたのかな。)
>> わかりやすい授業や効果的な学習はダメだ
>いやいや,こんなのも全然アリだと思います.
これについては、「現場」ではなかなか同意がもらえない。理屈ではそうだけれど、毎日の活動においては、いったん、ほとんどの人の意識が「わかりやすさと効果的なのは良いことだ」に向いてしまっているので、なかなかむずかしいのです。
>その仮説自体が他の理由によってとても魅力的である場合,人はそれを信じる場合があります.
私のはいずれの条件も満たさないので、きっと誰も信じないでしょう。(笑)
> 仮説が妄想の範疇を超えて強い力を持つのは,確たる証拠又は証明を獲得したときである
これには補足事項があります.確たる証拠又は証明を獲得していない仮説であっても,その仮説自体が他の理由によってとても魅力的である場合,人はそれを信じる場合があります.
例えば,それまで積み上げられてきた成果の大半が失われるかもしれない場合(何人も自己に関わる伝統を否定する事は気分が悪い),自分の利害にかかわる場合,その仮説が正しいとするとタイムマシンがつくれるぞというような場合,など.
私はこの考え方が可笑しいものであるとは全然思いません.というのは,こういうのは要するに,「これまであまり採られることのなかった視点の設け方である」というのに過ぎないからです.
> 能の面白さは何か
これは,野球が好きな人が「なぜ私はこんなに野球が好きなんだろう」と考えることと本質的に同じでしょう.で,この考察は,私が上で述べてきた「『好悪』と『正しさ』に関連する話」とはまた別の話であるように思います.上で述べた話は,例えば「Aさんは野球が好きだが,Bさんは卓球が好きだ」という事実を,自明なものとして扱っているからです.「なぜAさんは野球が好きか」は問うていない.
> 「ないものの存在」を考えることが平気でできる
学問も芸術も「いまはないもの」を求めて試行錯誤を繰り返すという点では同じだと思います.でもその「いまはないもの」を求める方法は,いくつかの「いまあるもの」に立脚したうえでしかありえないと思っています.
> 「ないもの」を前提にものを考えようとすることに全く抵抗がない
そもそも仮説なんてものは,妄想,空想とほとんど同義です(笑).つまい「ないもの」です.でもそれが時として,「もう妄想・空想であるなどとは言わせないぞ」とする強い力を持つとき,妄想であったはずにもかかわらず多くの人々がそれを信じだすときというのがあります.それは,仮説が確たる証拠又は証明を獲得したときです.人間の考えにおいては,順序としては「まず仮説ありき」ですから,その意味では,「ないものを前提にする」というのは,ごく自然なことだと思います.ただ,そこでいう「ないもの」の定義を明らかにしておくことが必要だと思います(私は前回「知らない事は知らないのだからどうしようもない」と言いましたが,それは,「ないもの」の定義を明確にできない場合はどうしようもない,という意味でそう言ったのです.).
> 多くの方に、私の考えは「飛躍している」と思われるでしょう
私自身,パラダイムシフトは大いに歓迎するところです.インパクトがありますし,それでこそ人間の世界だと思いますから(笑).
> 万人が認める正統的な思考法でものを考えようとするか、これまでとは異なる思考法を求めようとしているのか
私は,"出発点"は,正統的(というか伝統的・定説的)な思考法であることが多いかなと思いますが,やはり,定説ばかりしゃべっているのでは面白みがありませんね(笑).だからちょこちょこオリジナルっぽい考え方が入ってると思います.齋藤孝氏風に言えば「沿いつつずらす」に当たりますでしょうか.
方法にはいろいろあって,最初(=出発点)にボーンとインパクトのある主張,大きなパラダイムシフトを喚起させるような主張をして,聴き手を惹き付けておいてから,「それはね,」と理由を述べていく,という方法もあるでしょう.
要はこれは,根本的な考え方の違いというよりかは,単にスタンスの違いに過ぎないかと思います.
> わかりやすい授業や効果的な学習はダメだ
いやいや,こんなのも全然アリだと思います.
考え方というのは面白いもので,例えば,先日挙げました小林先生などは,子どもを生んだ者に課税すべきであるというようなことを主張されていたように思いますが,これは社会的にはインパクトがありますよね.今の国や自治体による政治の流れでは,子育ては大変だから,子を生んだ者に補助金を出すという考え方のほうが主流だと思いますから.でも,小林先生の説を読んでいると,ふむふむこういうのもありだよな,と思えてきたりするw
恐れ入ります(_)
> 世間的に認められた考えを述べられておられる
この世の中において,(程度はさてあれ)なにか社会に浸透させることを目的とした主張を行う際には,定説を真っ向から否定すると,ほとんどの人員からみとめられず目的を達成できない事は目に見えています(もちろん,そのような主張法もありますが,それができるのは,定説を覆すほど凄い証拠or論法を持っているか,或いは,自分がその分野の世界的権威の一人であるか,このどちらかの場合に限られるでしょう.).
だから,多くの人は,うんうんと相手の主張をまずは受け入れた上で,「でも,」って反論していくわけですね.これが,最もポピュラーなあり方・やり方だと思います.
その意味では,僕はずるい(或いは普通すぎる)です.定説という威を借りてますからね(笑).
威を借りないやり方を試みられているほりさんはかっこいいと思います.
> 物理的存在としてここにいなければ、このブログに書くさまざまな考え方もない
これは,物理帝国主義に似た考え方があります.これは,平たく言えば,なんでも物理で解決できるという考え方ですかね.半世紀ほどまえに,人類は初めて原子を見ることに成功しました.そこでは物質を構成する要素は原子であり,ヒトを含む生物もその例外ではない(核酸,蛋白質,脂質,糖質といった生物の物質的構成要素も,さらに細かく見れば原子から成っている)ことから,物理学がこの世のあらゆる問題を解決してくれると多くの人々が期待したようです.
しかし,その後の分子生物学の隆盛(≒物理屋さんが解決できなかったことを生化学屋さんがいっぱい解決した)にも見られるように,この考え方がどこまで妥当しているかは,(現段階における科学界の成果に鑑みる限り)怪しいです.
> 能の面白さは多数決で判断されるものではないのです。残念ながら、能楽の面白さは万人受けするものではない
これは,要は「好悪の対象は人によって違う」ということですよね.野球が好きな人の集まりがある.卓球が好きな人の集まりがある.いくらでも挙げれますね.確かにこれは「多数決で判断されるものではない」.そして,その集まりの人数は,時代によって変わる.これが衰退と隆盛ですよね.あまりに衰退しすぎると「消滅」してしまうこともあるだろう.また,なにもないところから突然「発生」することもあるだろう.
さて本題ですが,ここでポイントとなるのは,「好悪」は「正しさ」とは(少なくとも話し始めにおいては)別次元で語られるべきものであるという点です.
> 右派と左派で、「右派が多いから右派が左派より正しい」と言う判断をしない
野球が好きな人たちの集団と卓球が好きな人たちの集団とがあって,野球の集団のほうが人数が多いからといって,「野球のほうが卓球より正しい」という主張を打ち出すことはナンセンスです.
俺は野球が好き,君は卓球が好き.これは,互いが好きなことをやっていてもデメリットが発生しないので,好きなことをやらせておけばいいわけですね.しかし世の中では,デメリットが発生する場合があります.例えば,いま挙げた「俺」と「君」が恋人同士でありデートをするという場合,別々に行動していては意味がないわけです.また,政策の場合は,特定の物事に関して定めるべき規則は一つですから,異なる複数の主張を共存させることは認められていない.「好悪」っぽい話の中に「正しさ」っぽい話が顔を見せるのはまさにこの瞬間です.物理の法則に関しても同じです.「俺もあなたも同じ物理的世界に生きている」という前提に立つとき,俺と地球の間に働く物理法則と,あなたと地球の間に働く物理法則は,必ず同じでなければならないわけです.(他の条件を一緒としたとき)10階から飛び降りると,俺は必ず死ぬけれど,あなたは必ず死なない,というのは可笑しいわけですね.
プリントアウトして読み返しました。
前に書いたように、私が言うことより、heisanさんのおっしゃることの方が明らかに正しいです。
人文社会科学が自然科学と同様に説明できないのも、多数決を正しいと判断するのも、学問に関して定説が正しいとされるのも、全くその通りなんです。知らないことは、知らないのだからどうしようもない、論じようがないと言うことも、全く正しいことです。間違いないです。
で、なぜheisanさんの方が正しいかというと、世間的に認められた考えを述べられておられるからです。
しかし、私は、敢えて異を唱えようとしています。要は、天の邪鬼なんです。(笑)「ばか」かもしれない。
世の中で、人との軋轢をさけてうまく回していくには、「多数決が正しい」とするのが得策です。
でも、それは、私のコトバで言うと、原点を起点とするベクトルを同じ方向に進めていくことなのです。天動説にしても地動説にしても、左派にしても右派にしても、特定の「説」あるいは「派」でまとまる。その方がその場がうまくいく。天動説の世界観で地動説を唱えたり、キリスト教世界で進化論を唱えると迫害を受けます。でも、「動かぬ証拠」が固まると認めざるを得ない、これがパラダイムシフトです。
で、動かぬ証拠で固めるための前提には、何らかの「新しい考え方」が存在しなければ、「新しい証拠」の集めようがない。新しいパラダイムの想定です。ちょうど、天動説に対する地動説や、キリスト教世界観に対抗する進化論のように、まず、新しい想定を考えた上で証拠集めをする。
で、たぶん、私、通常の感覚だと笑われちゃうことだろうし、正真正銘の馬鹿だと思われると思いますが、「自然科学も人文社会科学も同じように考える」という前提を新しく考えるのです。(養老先生の影響でしょうけれど。)
だって、私が物理的存在としてここにいなければ、このブログに書くさまざまな考え方もないわけですから。
でも、「証拠集め」が出来ていない。(だから、説得力がない。)
まあ、証拠集めはともかく、私のこの考え方は、実は、能楽鑑賞がきっかけなのです。
数年前まで私は能楽鑑賞に夢中でした。
もの凄い面白い能役者の能を見ました。なぜその能役者が、或いはその能が面白いのか、能の面白さは何かを、私は説明したかった。で、結局至ったのは、一、その能役者の物理的な存在がなければ面白い能は決して存在し得ないと言うこと。二、その能の面白さを理解する鑑賞者がいなければその能は面白くないこと。三、この両者(役者・鑑賞者)の感性が、「能」という表現様式そのものがもつ何らかの方向性に沿ったものでなければならないこと、です。どれ一つとして、既に定められた「何か」があるわけでないのです。しかし、たぶん、「何か」はある。でなければ、「面白い能」は存在し得ない。で、たぶん、こういった能の面白さは多数決で判断されるものではないのです。残念ながら、能楽の面白さは万人受けするものではないということです。(で、衰退の問題が絡む。これ、今、気が付いたけれど、数学の難しい定理の証明の理解みたいなものだなぁ。。。)能は、わかる人にはわかる、わからない人にはわからない、と言われることがあるのはそのためでしょう。(でもね、実際には数十番見たら、そこそこは誰だってわかるようになるんだけれど。)
たぶん、こういう経験(?)をしているから、私は、「ないものの存在」を考えることが平気でできるのだと思います。上記、抽象的な意味合いでの「能」は存在し得ません。一つ一つの演目や具体的な舞台や表現形式はあっても、「これこそ能だ」と言えるような能はまず存在しません。抽象化された「実に能らしい能」は、通常、この世に存在しないのです。しかし、名手と呼ばれるような人は、間違いなくそのような能を目指しています。それで、観客としての私も、そのような「(存在し得ない)能らしい能」を求めていました。
たぶん、私の根底には、そんな思いがあるのです。だから、私は、「ないもの」を前提にものを考えようとすることに全く抵抗がないのです。
学者が未知に向かうこと、物理学者の統一理論の研究、芸術家の精進って、こんな感じではないかしら。
また、極端に言うと、今まで考えていたやり方で考えるだけでは、新しい答えを求めることが出来ない、というのもあると思うんです。だから、敢えてはみ出す。
多くの方に、私の考えは「飛躍している」と思われるでしょう。で、私はおそらく、敢えて飛躍をする。これは、異なるパラダイムを求めているのだと思います。天動説から地動説に変わったように。考え方の「枠組み」をわざと違わせようとしている。私のコトバで言うと、ベクトルの軸、次元を異ならせようとしている。
ですから、まともな考え方をする方から見ると、私は、とっても、偏屈な馬鹿で始末に負えないヤツだと思います。(笑)でも、自分としては、結構真面目なつもりなんだよね。
heisanさんと私の視点の取り方の違いは、万人が認める正統的な思考法でものを考えようとするか、これまでとは異なる思考法を求めようとしているのか、の違いだと思います。
学校の授業に関して、私が敢えて「わかりやすい授業や効果的な学習はダメだ」と言ったりするのもそんなものなのかな。で、最初は、そうだね、と同意されるものの、しばらくすると「でも、じゃあ、どうするの? そんなんじゃ、実態に合わない。」と、ベクトルは相変わらず同じ方向をむき直す。(笑)
ちょっとまだ考える余裕がないのが現状で、すみません。
しゅーさんの視点は、これまた全然異質ですね。さすが法学部、人間関係の髄。
なんだろう、個人の私的な選好の場面と個人の公共における意思決定の場面における対応(知見の参照等)という観点、それぞれの合理性(功利性)基準と一貫性の要不要、それと、多数決的了解。
いまだに自分勝手に妄想中。ちーん。
> 正論で、もの凄く正しい
なんか私が「やらせ」てるみたいでこそば痒いですね(笑
そんな意図は無いのですが…,すみません^^;
これからもよろしくお願いします(_)
ざっと読ませて頂いただけですが、heisanさんのおっしゃっることは正論で、もの凄く正しいと思います。
>※ こういう真っ向から否定する切り返しは極めて心苦しいのですが,
全然、気になりませんから、どうぞご心配なく。(私って、鈍感なんだな。心配おかけしてすみません。)
自分が何をどういう風に考えているのかまた考えます。(笑)
>どのように違うのか明らかにしたくなるところですね(^^)
賛同します。(^^)
歴史や古典をひもとくと,ヒトの環境に対する応答の仕方というものが,いかに変わらないものであるかということに驚かされます.大昔に書かれた源氏物語という小説を現代人が読んで,いまなおうならされるのはなぜでしょうか.枕草子「にくきもの」を読んで,妙に共感できちゃうのはなぜでしょうか.ユークリッド原論やアリストテレスの哲学が,いまなお現在の世界における学問の起源たる地位を堂々と保っているのは,これはなんででしょうか? それは,我々人間という生き物が,いかに変わらないものであるかを物語っているのではないのでしょうか.
人間は変わらないが,しかし,環境は変わります(例:原始社会から文明社会への変遷).環境が変わると「環境への応答の仕方」も変わります.これが時と場合によっては「人間」が変わったのだと誤解されちゃうことがあるんですね.我々はこの点に注意しなければいけません.「ケータイを持ったサル」というキーワードも,或る意味では「人間」は変わらないことを教示しているように私には思えます.
さて前置きが長くなりました.何が言いたかったのかと言うと,ほりさんの考え方を仮定すると,人文社会科学が発展するためには,人間が発展することが必要という帰結になっちゃうんですね.これは可笑しいだろうと(笑).いやもちろんこれを支持する選択もアリですが,そんなことが我々(60億人)の生きている間にできるのかと,疑問をぶつけたくなります.数万年後,数百万年後の人類ではなく,いまここにいる現生人類の幸福量をアップさせることを念頭に置くならば,この選択は妥当ではないと思われます.
「じゃあどんな考え方が妥当なのか」ですが,人文社会科学は,自然科学と比べると,より成熟した学問であるという考え方です.例えば哲学のような,アタマさえあればできるようなことは,数千年前の人間もやっとるわけです.その数千年前~現代までの人間のアタマの全てを凌駕する(凌駕するというか,ここ数千年間誰も思いつかなかったことを思いつく)ことを目的とするとすると,これは大変な事です.文学についてもそうです.小説でテーマになることもだいたいが決まっています.数千年前といまとで何が変わっていますか? 変わっているとすれば,それは「環境」であり,「環境の変化に付随した我々の構え方」です.それゆえ,現代において哲学や文学をやる人の大多数は,この新しい「環境の変化に付随した我々の構え方」を絡ませて,新たな境地を切り開こうとするのです.
一方,自然科学の方は,「新しい技術」が次々とつくられるので,その技術によって測定・生産される実験データというのが簡単に存在することができます(カネと人手であれば簡単に存在することができます).このため,研究論文の数は,単純に見積もっても「技術の数×当該技術を適用可能な対象の数」個存在することができます.
ここでポイントとなるのは,その新しいものができてくる速度です.「環境の変化に付随した我々の構え方」の年間生産速度よりも「新規の科学技術」の年間生産速度の方がはるかに上回っているのです.私が,人文科学は自然科学より成熟した学問である(=学問の成長速度は自然科学の方が速いということ.少なくとも今は.)という仮説を支持するのはこの理由からです.
> heisanさんと視点の取り方が違うのだと思います。
どのように違うのか明らかにしたくなるところですね(^^)
ええと,これは誤解でしてですね^^;,「しかない」のではなくて,自然科学では想定されていなかった概念が新出するという意味です.人文・社会科学も,数学や自然科学で言う公理系・仮定系に相当するものはあるでしょう.
> 「幸福量」って、意外に、 ~ えるといいのかなと思います。
人文社会科学という言葉を定義せずに使っているのでややこしいのですが,ここでほりさんが言われているのは,「幸福って何?」という問いに様々な角度から(すなわち哲学的・歴史学的・教育学的などなど)検討するというようなものではないかと思います.幸福量を明確に定義できることが目的というような.
幸福量の指標はいまも世界中の人たちが,あれがいいんじゃないだろうか,これがいいんじゃないだろうか,と考えていると思います.これを考えることは,自然科学分野の人もするでしょうし,人文科学や社会科学の分野の人もするでしょう.
> 「多数決が正しい」と判断しないからです。
ほんとですか?(驚 私は,確かな証拠に基づいた,緻密で十分な議論の末,最終的には「多数決が正しい」で判断されていると思います.世の中で「定説」と呼ばれているものも,別の説を唱える人が全く居ないということは稀ですし.
例えば,「温暖化の主因は大気中の二酸化炭素濃度の上昇である」というのは,定説かもしれませんが,異論を挟む者がいないわけではなくて,だから「である可能性が高い」という表現にすべきだ,という意見もあります(これは養老先生が著書の中で言われていたと思います).
以前「学問の定義」について考えた事がありますが,私なりの結論は「多くの人がそれを学問やと認めたらそれは学問である」というものですが(笑),いかがでしょうか?
> 右派と左派で、「右派が多いから右派が左派より正しい」と言う判断をしないということです。
「と言う判断をする」と思います(※).なぜなら,右派の多い時代には世の中は右派によって支配され,左派の多い時代には世の中は左派によって支配されるからです.地動説よりも天動説を支持する人が大多数を占める時代においては,この世の中は天動説に基づいた世界であるというのが定説となります.ダーウィンが進化論を唱える以前は,ヒトの起源が,ヒトよりも下等なサルだなどという説は,「ヒトは神が創造したものである」とするキリスト教の信者にとって,たいへん受け入れがたいものであったに違いありません.それでも,「動かぬ証拠」が時間とともに固められていき,それを説明する素晴らしすぎる理論の前に,彼らも頭をたれざるを得なくなった,というのが現在の状況でしょう.もちろん,今後どうなるかはわかりません.それは「今後どんな新たな証拠が見つかるか」と「人類が今後どれだけエレガントなことを考えつけるか」に依存しますから.
※ こういう真っ向から否定する切り返しは極めて心苦しいのですが,どうか,どうか,ご海容下さい^^; 私は,自分がこれをされたら半切れになることを知っているので,罪悪感を以てこれをしたためます(笑)
> 右派と左派を共に含有しうるより高度な次元から見て、右派・左派がどうであるかを判断できないのかな
> 私たちの知らないことがある、そこから、見て判断する
そういう高度な次元を手にすることができれば,誰も苦労はしないと思います.ただ,現時点で,その次元を我々は手にしていません,少なくとも右派・左派問題において.手にしているならば,すでに右派・左派の問題やその対立は現存していないはずです.その高度な次元を,現実の世界に適用させる事にそれほどコストがかかるとは思えませんから.
重要なことは,「私たちが知らない事」は,知らないのだから,どうしようもないということです.知らないのだから,論じようがない.
>私はその点では「幸福量」という概念は,極めて革新的,今日的,新世紀的な概念だと思っています
自然科学は、基盤たる「公理」を求めていると思います。しかし、人文・社会科学には、おっしゃるような選択、価値観などしかないと思われていますが、私はこれにも「公理」のようなものがあるんじゃないのかなと思います。(ただ、私たちはまだ知らないだけで。)
で、「幸福量」って、意外に、人文・社会科学の「公理」(って言葉は、ちょっとまだ吟味がいると思いますが。)たり得るのではないでしょうか。じゃあ、幸福って何?とか、人間はどんな場合に「継続的な」(←ここが大事)幸福を感じるのか、とか。で、じゃあ、そのためには、子供はどんな愛情や教育を受けて育ったらよいのか、とか。そんなことを考えるといいのかなと思います。
それから、「万人にわかる正しさ」に関しては、うまく説明できませんが、私は、それでも(苦笑)数学的な正しさも人文・社会科学的な正しさも同じ地平に置いて、数学の理屈と同じものと考えます。(すみません。)なぜなら、「多数決が正しい」と判断しないからです。右派と左派で、「右派が多いから右派が左派より正しい」と言う判断をしないということです。右派と左派を共に含有しうるより高度な次元から見て、右派・左派がどうであるかを判断できないのかな、と思うんですよ。
う~ん、どう言ったらいいかな。。。だから、私たちの知らないことがある、そこから、見て判断する、というか。。。
というか、人文社会科学は、自然科学ほどにまだ発達していない途上にある、という考え方かな。まだ人間は人間についてあまりにも知らない状態にあるというか。
自然科学的な知識は世代を超えて蓄積するが、人文科学的なものは、一世代限りで蓄積しないから、大抵、人々は自然科学ほどの多くを学べない。(←どこかで読んだような。。。)だから、それを学べるようにならないものかと思います。でも、だからと言って、数学と同様に、全ての人がそれを理解できることにはならないと思うのです。うまく説明できなくて申し訳ありませんが、このことに関しては、heisanさんと視点の取り方が違うのだと思います。
このブログについては、私の「愚痴」(笑)です。で、私の場合、昔、能の感想文を友人などに読んでもらっていた経験から、なんと、「人に読んでもらえないと文章が書けない体質」になってしまったのですよ。でも、公開で書くというのは、おっしゃるとおり、「ね、ね、私の言うことにも一理あるでしょ?」ってことです、はい。
今後ともよろしくお願い致します。
そう思われるのは,人文・社会科学的な正しさは,価値の問題と選択の問題を孕むからではないでしょうか.大雑把な言い方ですが,自然科学は「こうなっている」を明らかにすることを目的としている.「こうなっている」を,なんとか人間の分かる形で表現できたら(また,かつそれを検証できたら)OKな世界.でも,人文・社会科学にくると「それを踏まえてあなたはどう行動するのか」が問われるわけです.「いまの学校あかん」と不平を言うのは自由.重要なのは,客観的に見ても不満が残る状況下で,「どう選択するか」でしょう.私はその点では「幸福量」という概念は,極めて革新的,今日的,新世紀的な概念だと思っています.(もはや古典となりつつある時代にその基礎がつくられた)社会主義や資本主義体制が原理的に抱える問題点を克服しうる希望は,そこくらいにしか見出す事ができませんから(苦笑).
> 「万人にわかる正しさ」があると思いません。
ええと,「右派の人が左派の人の言う事を理解できない」というのと「私らが超高度な物理(数学)の内容を理解できない」というのはわけが違います.ここでいう「正しさ」とは前者の意味です.規則として定めるような事は,ある程度の割合の人に分かってもらわないと困るわけですよ.世界中で2,3人しか分からない超高度な数学の内容があって,でもそれは数学的には正しい,と言うのとはわけが違う.
翻って,日本は(少なくとも表向きは)法治国家ですから,例えば「教育」一つとってみても,およそ大抵の事は,明文化された決まりとして存在している.
このblogで語られることは,ほりさんにとっては愚痴としての意味しかなくても,それに共感する人が一人また一人と増え,これはこうじゃないかな,あれはああじゃないかなと,その愚痴が発展していくことは,いまさっきまでほりさんただ一人にしか納得されていなかった事柄が,より有意義な形へと姿を変えて,何人もの人々に共有される事になるのです.これはすばらしいことだと思います.また逆に,そうならなければ,愚痴は愚痴で終わってしまうと思うのです.ほりさんも,公開形式で書かれているということ自体,愚痴が有意義化され,より多くの人々に共有されることを望んでられるのではないでしょうか.
(# ぶしつけな態度を何卒お許しください(_))
というのは,世の中が悪い,だから世の中を変えたい,と思ったとき,結局我々にできるのはそれくらいしかないからです.国民主権といっても,我々がその主権(統治権)を直接に行使できるわけではありませんからね(いやむしろ行使できたらヤバいですがw).
自然科学における「正しさ」は、いずれかには検証可能になることだったり、理論的に証明されることだったりすると思います。しかし、人文科学(といって良いのかどうかわからないけど、要するに、私のコトバで言う社会科)に関係しては、自然科学と同様に説明できないと捉えるのが普通です。でも、私は、それは、まだ我々の知らないことがあるからではないかと思うのです。(笑)
今では「自然科学」として原因がわかるような病気にしても、大昔はなぜそうなるのかわからなかった。で、人々はたぶん祟りだのなんだのと考えたことでしょう。
私は、人文科学も、そんなものではないかと思うのです。何らかの原因や法則性があるのかもしれない、でも、まだわかってないだけだと。別に、人文科学を自然科学的なアプローチで迫っていこうと言っているわけではありません。ただ、「我々の知らないこと」が何であるか、少しでも知りたいと思うのです。で、身近なところから、自分で勝手にそれを考える。(笑)
きっと、私は、そんな風に考えているんじゃないのかな?
「万人にわかる正しさ」があると思いません。だって、私は物理がわからないから。(笑)ただ、その正しさが何であるかをはっきりさせて教えたりすることが出来るでしょう。ちょうど、わからない人間がいても、物理の授業プロセスが存在するように。
過去記事については、考えている内容や捉え方が変化しているのもあるので、昔の記事だと今とはちょっとずれてしまっているかもしれません。でも、いつのであっても思ったことがありましたらコメントにして頂けたら幸いです。そこから何かまた発展するかもしれないし。待ってます。(笑)
今年もよろしくお願いします.
小林和之(法哲学)先生が,正しさは万人に分かるように語られなければならないということを言われています.
<cite>
「正しさ」を定める規範とその原理は、誰にもわかるように語られなければならない。ここが自然法則と大きく違うところだ。引力の法則を理解していようがいまいが、ビルの窓から飛び出せば下に落ちる。だが、「正しさ」は人に理解されてはじめて「正しさ」としての力を持つ。納得して「正しい」と思うことによって人は規範に従うのだ。
</cite>
(http://thinker.jp/ororon/jo01.pdf)
ほりさんは,或る意味,小林先生の言われる「目指すべき正しさの追求」をblogを通じてされているように思います.これが,いったいいつの日になれば「万人に理解される」のか見当も付きませんが,そのような日が来る事を夢見て,また,それを実現するためにはどうすればよいかを考える事に頭のリソースを割くことは,それ自体が楽しいと思える人にとっては,たいへん幸せなことではないでしょうか.
今年もまた,そんな「夢」に一歩近づける,近づいた事を実感できる,私たちを取り巻く様々な環境の中にその実感を見出すことができる年でありますように.ここに祈念いたしますm(_)m
追伸:
過去の記事で,コメントしたいことがあるにもかかわらずサボっているものがあります,すみません.期待せずにお待ち下さいませ(笑)
捜してもわかんないし、雪は降っても、ここには「風」が吹いてきたとは思えないし。。。
気長に待とう、っと。
それから、ブックマークをありがとうございました。
>寒い日々が続きます。(後略)
お互いに♪
本当にありがとうございました。
『S・・・・・・・・』のブックマークにも登録させて頂きますね♪
ヒョッとしたら、お立ち寄り下さった方が・・・鴨・笑。
寒い日々が続きます。
お風邪など召しませぬように・・・。
寝不足にも、ご注意なさって下さいませ♪
ブックマークの登録はご随意に。
私が知る限り、拙ブログをブックマークに登録してくださってる方、数名みえます。自分のブログを検索したら、全然知らない方のところで発見して、読んで下さってるんだ~とびっくりしたことがあります。
さて、『S・・・・・・・・』、検索に掛かりませんでした。と、わかんないよ~。
風よ、吹け~~。
>見つけたら、コメントを是非ともポストして下さいね。
はい。わかりました。ご安心?ください。
いつも、やりすぎてしまうものですから。
風は、『S・・・・・・・・』から吹いてくるかしら。
そういえば、ほり様にご了解を頂かなければなりませんでした。ブックマークに登録してもよろしいでしょうか?
大サービス♪
元旦から営業しており、ブログ・タイトルはお決まりのものです♪ しかし、何故か検索に掛からないんです。
でも、ヒョッとしたら、ほり様は見つけていらっしゃるかも知れませんね。
ExciteでもAmebaでも、勿論『○○♪』(2007)でもありませんが・・・、お心当たりがおありでしょうか?
見つけたら、コメントを是非ともポストして下さいね。
わからない、見つからないと言いつつ、黙って見てちゃイヤですよ・笑。
しかし、このブログにそんな風が吹いてくるのだろうか。せっせと通わないと。。。(でも、わかんなかったときの方が多かった?からなぁ。)
大変申し訳ありませんでした。
じゃ、方向性としては、しゅーちゃんの推理で良かったんだ♪ って、ごめんなさい。
でもって、流石はしゅーちゃん♪
いつ、ご結婚なさったの???(笑)
はい。この話題は終了~~~
注目!
次、行くぞ~!!
かな・笑。
そそ、わかんなくて良いんです♪
誰にも教えてないから、そのうちに何処からか風の便りに、と云うのもよろしいかと・笑。
(って、笑ってないとやってられない。)
>めずらしく、先生口調になられていらっしゃるしぃ~~~
> 参照:“(この話題終わりね。笑)”
えっ、これって先生口調なの??? 全然意識しなかった。
検索して出てこなかったら、わかんないよ~。
しゅーちゃん、そうではありません。
ほり様の何故か湧き上がるようなお喜びが、テクストのそこかしこに・・・、と言うことは、ヒョッとしてヒョッとしちゃいました!?
めずらしく、先生口調になられていらっしゃるしぃ~~~
参照:“(この話題終わりね。笑)”
ねっ♪
でも・・・次の推理/推測をすると・・・廊下に二人並んで立たされる鴨♪(笑)
そうでした。
現時点で、検索に引っ掛かりませんので・・・お時間を無駄になさいませぬようにお勧め致します♪
しゅーさん、コメントをありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
最近は、学生結婚、子育てが増えているそうですね。学内に保育園がないかな?
早婚か晩婚かのどっちかみたいだから、早い方にしたら? がんばれ~~。
>とか~
さすが法学部生の発想か。残念ながら違うけど。
まあ、どうなのでしょうね。(この話題終わりね。笑)
Damienさんも、コメントをありがとうございます
>でもって、『S・・・・・・・・』は・・・うふふ♪
もう、意味深なんだからぁ。また捜さなきゃいけないのね。
親戚の子ですよ。数年くらいしたら自分もやらかしているといいなとは思いますけども。
まさか~とは。。。というのは、ついこういうのを想定してしまいました
うちのおばあちゃんが振り込め詐欺にひっかかっちゃったのよ~
とか~
って、しゅーちゃん、いつ子供を???
流石に、やるなぁ~~~♪
おめでとうございます・笑。
私は、
http://blog.goo.ne.jp/fox2011/ で遊んでます。
“プライベートも甚だしい”・・・???
叫んで下さりませ♪
でもって、『S・・・・・・・・』は・・・うふふ♪
というわけでDamienさま、ほりさん、今年もよろしく
帰省中(寄生虫)はだいたいこんな感じでした↓
http://d.hatena.ne.jp/shootan/20070105/p1
では~
ふりーたーへ向けて猫まっしぐら鴨
昇進するわけないですよ。楯突いてるし。(笑)この間はついに記事にしょっちゅう出てくる管理職に「先生の考えは浅い」と言ってしまいました、はい。
今の「昇進」は、「人間関係」なんです。だから、そういう「場所」に行くと、やたら飲み会が増えるらしいです(と、友人の言)。
まあ、パブリックじゃない、偉い先生たちが集まる飲み会に行ったことが1,2度あるけど、そこは比較的話のわかる人がいないでない、でも、「○○さんがこう言っているからきっと正しい」という判断が大勢を占めます。自分で判断できないんですよ。
で、その友人は、まあ、マトモな感性と思います。だって、私がここに書いているようなことをすっと理解して感心してくれるから。(ブログのことは言ってない。)でも、ふつーは、違うのですよ。
まあ、要は、最大の問題は、こういうところにあることです。
で、先だっての未履修問題でも、「必修教科が受験に対応していない」なんていう校長会の言が出てくる。「学校教育は受験のためではない」ということを理解している校長がいないということです。
で、「状況」は、もうプライベートも甚だしいコトなのよん。信じれん。。。まさか我が身が巻き込まれる?とは。。
うむ。
“プライベート”とあるから・・・違うよね。
早とちりをしてしまいました。
ごめんなさい。
お受けなさいませ。
校長になら、是非とも♪
此処にいらっしゃる皆様が、お待ちかねだったのですから♪
違ったら・・・明かしましょうか・笑。
捜すのが大変よ~。これ以上難しい作り方しないでくださいね。
ところで、プライベートで、「うっそー」という状況が生じまして、ブログどころでなくなるかも。ヨソの話と思っていたことがまさか我が身に。。。
少なくとも、深く物事を考える余裕がなくなりそうな昨日今日なんです。「Damienさ~ん」と叫ぼうかと思ったくらいでした。(意味不明)
終わり。
ほり様であらせられます。
壁に描いた布だと!?
うふふ♪
暮れに見たら、消えてるし、エライことだとまた探し出しましたよん。ご親切のお陰で3つちゃんと見て回りましたが、はて、果たして3つだけなのかしらん。。。
本年もどうぞよろしくお願いいたします♪
どうぞ、よろしくお願い致します。
あけまして、おめでとうございます。
遊び続けている奴ですが、ほり様のブログを拝読させて頂き、ご指導・ご鞭撻を賜り、少しでもおとなになれるように努めたいと願っております♪(笑)
Damien 拝