考えるのが好きだった

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動物的であることと脳化社会の折り合い

2005年05月02日 | 養老孟司
 先日の「世界一受けたい授業」で、養老先生が出ておられた。途中、「おばさんが元気だ。好奇心が強い。決めつけない。同年代のおじさんに比べておばさんは元気だ。」という話があった。で、曰く「おばさんは好奇心が強い。生き物を見ているとだいたいああいう生き方していますよね。」とか何とか、蟻か何かがエサを運んでいる映像が入って、聞きようによってはおばさんを馬鹿にしてるようでもあるけど、実際は全然そういうことはなくって、養老先生は「おばさん」を身体を上手く使いこなして生活する、広ーい意味での「自然」の存在であると考えて発言されているのだ。

 人さまを見ると、うまく生きているか生きていないかは、身体をどう使っているかがやっぱり関わっていると思う。生きていくのが上手な人(←「世渡り上手」というのとはちょっと違って、生き生きと生きているかどうかということね。)は、確かにどこかで身体を動かして、外界に刺激を求め、刺激を受け、うまくバランスを取っている人だ。こういう人は、何かでじっとしていることが続いたりすると、自ずから外界に出向こうとするようだ。「こんなことしてちゃぁ、いけない。運動しよう。外に出よう。」とか言って。この感覚をほとんど本能的に持っている人は、皆、心身共に健康みたいだ。(養老先生だって、あんなにアタマを使って抽象的な思考をしていながらまともなのは、虫取りをして身体を動かしているからだろうなぁ。マメそうでもあるし。)でも、まあ、養老先生もおっしゃっていたけれど、こういう人は、端から見ると、時によっては確かに「軽い」「おっちょこちょい」に見えてしまう。で、そうじゃない人の目には「あんなマネ、したくない」類かもしれない。

 しかし、この健康的な感覚は、身体性に裏打ちされた本能のようなものだと思う。だから、普段から身体を使っている人は持ち合わせていて、そうでない人は、ついつい失いがちになる感覚のような気がする。それで、問題なのは後者、この感覚に乏しい人(あるいは、この感覚を何らかの形で押さえつけてしまっている人)だ。

 人はまだ身体性(動物的存在)と脳化の関わりをはじめとして、自分のこと、自分の存在のあり方をよくわかっていないんじゃないかと思う。だから、ここまで社会が脳化すると、上記の感覚をほとんど忘れている人は、日常生活で、自分の中の「身体を持つ動物的存在としての自分」と「脳化社会で暮らしている意識の世界だけで生きようとする自分」との折り合いをつけるのが、とっても難しくなるんだと思う。その象徴が「元気のないおじさん」なんだろうね。

 「元気のないおじさん」は、自分の身体性を忘れ、それゆえ無意識的なバランス感覚もなくしてしまっている。こういう場合、意識的にそこを補えればいいのだが、これがなかなか難しい。なにしろ身体性と意識の関わりといったかなり抽象的な事柄、無意識的なものの存在を認識しようとしない考え方が今の通常の思考法だもの。だから、ふつーの「元気のないおじさん」が自分の身体性の重要度を意識するわけがないのだ。それで、ひどいときには病気になっちゃったりする。最近は30代の若い人でもストレスで様々な症状が出ている人がいるらしいけれど、いずれも自分の動物的(身体的)側面と意識中心の脳化社会との折り合いがつかない状態なのだろう。

 現代の脳化社会はこの種の「本能」を抑圧させる方向に向かわせる。「おじさん」の方が、会社などの人間が作り上げたシステムに組み込まれている分、脳化社会の影響をもろに受ける。だから、養老先生は、「参勤交代」を主張されるのだろう。参勤交代は、生き物としての身体性を意識しろ、それで脳化との折り合いを付けろってことなんだよね。

 以上、養老先生のお言葉を自分の言葉で解説してみました。

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