考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

襟元の防備・無防備

2006年10月21日 | 教育
 学生服は軍服に由来するようだが、あの形は身体を包むように、身体を守るように作られているのだと思う。
 首もぐるりと囲って身体を包む。で、現代のテーラーカラーの上着は、胸元をはだけるように開けた形であろう。襟の飾り?のボタンホールはその名残だろう。下に着るシャツの襟は元々立っていたが、時代が下って折り襟に変わり、あのようにネクタイで飾るようになったのだと思う。(『名探偵ポワロ』の何かの話に、ヘイスティング大佐が「折り襟はラクだよ」と立ち襟のポワロに言う科白がある。)
 で、散々な評判のネクタイだが、なくなる気配はまだない。というか、私は余程でない限りあのネクタイがなくなることはないと思う。

 身体を包む衣服を着ない民族や時代であっても、人は首回りにネックレスを飾っている(、たぶん)。権威の誇示という目的もあろうが、もともとは何らかの呪術的な意味合いのお守りだったことだろう。
 女性は今もネックレスを着ける。肖像画などで、胸元が大きくはだけたドレス姿にあって、ネックレスの無い女性はまず見ない気がする。近頃は、胸元にアクセサリーを飾らないおしゃれがあるようだが、それであっても「美しいデコルテがアクセサリー」というフレーズを伴う。だから、たとえ何もなくても、感覚的にはアクセサリーで胸元を飾っているのと同じである。

 要は、人は首回りや胸元に何かを付けたがるということである。なぜか。

 動物が戦うとき、強者は弱者の首を食いちぎる。首は急所なのだ。
 さすがに人間がそのような戦いをすることはない。しかし、古来からネックレスで首の回りを飾る風習があるのは、「急所を守る」という隠れた目的があるのではないかと思う。それが呪術的な意味合いに通じるようになったのではないかと思う。

 男性が詰め襟を開いてテーラーカラーになったとき、たぶん、身体的にはラクになったはずだ。しかし、胸元がさらけ出され、無防備になった。それを補うのがあの「ネクタイ」ではないか。それで、バリアを張る。(だから、ネクタイの変わりに、バリアの役割を果たすモノが生まれない限り、ネクタイはなくならないと思う。)
 「クールビズ」としてネクタイ無しのシャツ姿がある。あのシャツは、ネクタイを着用するときのシャツとパターンは異なっている(と思う)。あのシャツは、襟元が開かないように、台襟も高く、首が詰まった構造になっているのではないのかな?(現物を知らないんだけど。)だから、「だらしがない」印象が少ない。(普通のシャツで第1ボタンを外すのは、ボタンダウンでない限りみっともないと思います、はい。)つまり、クールビズシャツは、襟元を守る構造になっているのだ。

 近頃、男女を問わず、ボタンを外す服の着方が流行っている。第2,第3ボタンまでも外すようである。で、男性でも、ネックレスを着ける。はだけた無防備な胸元では危なっかしくてしようがない、たぶん、無意識にそう感じて、ネックレスを着けるのだろう。
 それでも、シャツで、ネクタイで、詰め襟の上着でガチガチに身体を防備し、「敵」の襲撃に備えるのに比べて、なんと無防備な装いになったのだろうかと思う。良い時代になったものである。(笑)

 「胸襟を開く」は、「相手を敵だと認めない」からできることであろう。で、近頃は、開きすぎではないのだろうか、誰に対しても。今年のクールビズは、「ボタンを2つ外してもだらしなくならない」ものも目指したようだ。(新聞記事で読んだ。)これは、「たとえ誰と会うときであっても、自分の弱みも全てさらけ出せ」という指示(!)である。

 生徒を見ても、「暑い、暑い」と言って、平気でボタンを2つどころか3つ、生徒によっては4つも外す。(ちなみに、そういう生徒は下着を着ていないことも多い。)ボタンを掛けろ、と言っても、なかなか掛けない。ある意味、「丸裸」である。(ちょっと不良気味の生徒はネックレスをしたがる。もちろん、禁止。)
 女子も、ウチでも街を歩いて見かける生徒も、胸元をやたら開けたがる。大人の女性の真似ではあろうが、それにしてもと思われる。

 彼らに「防御本能」はないのだろうか。そんな無防備でいいのだろうか。そんなに自分が「強い」と思っているのだろうか。で、これが、「全能感」を持ちがちである生徒と重なるのがまた大変に興味深い事象である。

 う~む。こんなんでいいのかねぇ。。

 あれやこれや、なんだか感覚的というよりもっと深い本能的な生命力が減少していることを示唆するのではないかと思うのだが。。


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