考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

偏差値50か55の壁

2012年06月02日 | 教育
 伸びる生徒と伸びない生徒の違いと言った方が良いと思うが、決定的に違うのが、自分変えていくことに貪欲か否か、また、知性に結びつく事項に好奇心を持って臨めるかどうかだ。
 近頃の学習方法は、参考書類を見ると明らかであるように、「これをやっておけば試験は何とかなる、高得点が狙える」という類いの「必ず出る事項」のまとめである。試験に出ないが参考になるより深い説明は少ない。よって、生徒の学習は、ただひたすら、参考書の理解と暗記になる。
 しかし、同じ「理解」「暗記」であっても、何らかの好奇心のようなものや獲得した知識を内面化する力があるかどうかで、習得のレベルが大いに変わる。この点、伸びる生徒は、単語一つであったとしても心の琴線に触れるような覚え方をして、確実に自分のものにする。応用できるほどに理解をして覚える、ということだ。ところが、伸びない生徒は「試験だから覚える」などの機械的な覚え方しかしない。あるいは、「追試や教師の叱責を免れるための必要悪」としての「その場限り」の勉強である。
 数値を出すのはイヤらしいが、このあたりが偏差値60に至るか否かの分かれ目になる。

 勉強の目的が自分の将来であっても大学入試であっても、「必要だからやる」という、一見合目的的な考え方を私が好まないのは同根である。この意味の「必要」とは、学習することによって得られる「社会的承認」、たとえば「試験の合格」などの必要であって、学習内容や学習内容を自分自身が習得する重要性ではないのだ。この意味の「必要だからやる」は、学習事項の習得そのものが「必要」の目的ではないから、他の目的(「合格」など)が果たされれば、覚えたことは霧散霧消する。伸びない生徒の学習がこれなのだ。
 人間は、こうした意味での「必要」では何も学べないものである。
 だから、「合格のため」「試験だから」だけで「これさえやれば叶う」のばかりの勉強で壁にぶち当たるのは当然である。日本が今の学習方法を続けていくと、集団としての平均的な学力、思考力や記憶力、注意力は、どんどん低下していくだろう。

 人年の能力は、何であっても限界がある。親からもらった脳みそにはけっこう上等なものもあればたいしたことがないものもある。それでも、伸ばせる限り伸ばすには、どうしても、学習することそのものを目的化しなければならないのである。それで、おそらく人間である限り、私は「脳みその刺激」そのものを快く思わない人は、知的レベルに関係がなく誰もいないと思う。(学生時代に、授業で、知的能力が低い人であっても知的好奇心を持つ、という内容の英語の論文を読んだことがあるなぁ。)「ゲーム」が好きな人は多い。みんな誰でも脳みそを使うのが好きだということだ。「方向性」がちょっと違うという事実はあろうが、今の学校の勉強では、本当の意味での「脳みそを使う快感」を味わわせていないから、学校の勉強もゲームに代わると言うことを知らない人が多いのではないか。
 もともと知的能力がある程度高ければ、自分だけの力でその面白さがわかる。しかし、そうでなければ、周りにいる人が知性を活性化させる方法を教えてやらなければならない。ところがこれができていない。伸びない生徒や伸びようとしない生徒の陰にある最大の要因はこうしたものではないかと思う。

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