考えるのが好きだった

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内田先生と光嶋裕介氏の共通点

2012年08月16日 | 教育
 内田先生の思考の豪放磊落、というか、きわめて柔軟な態度は読者が大勢付いて当然であるように思う。で、そんな内田先生が家を建てるときに白羽の矢を立てたのが光嶋氏だが、はっと、気が付いた。ご両人には共通点がある。
 日本の中期高等教育を受けていないのである。
 内田先生は日比谷高校に入学したものの1年かそこらで退学している。東大に入ったのは大検で資格を取ってのことである。光嶋氏は帰国子女である。
 高校生の時期は、人生の分岐点に相当する。ちょうど本当の意味での「ものごころ」が付く。この時期をどのように過ごすかがけっこう人生観に影響を及ぼすことになるのではないのかな。

 という観点で、内田先生を見ると、彼の思考の自由は、何ものにもとらわれない。あくまでも、自分自身が直に観察する対象に接する。「接する」というのは物理的な接触ではない。こういう場合なら当然人間はこのように考え行動するだろう、という普遍性から対象を鑑みる見方である。世の人はどのように感じるかわからないが、真の思考の自由は、何らかの普遍に則ったものでなければ私は達成できないものだと思っている。時空をこえた「普遍」から導き出される思考だけが、高い蓋然性を持つと思う。ただ、その普遍は通常、目に見えない。だから、なかなかわからない。しかし、内田先生には見える。それを言葉に載せるから、読者はおもしろがる。

 建築のことは全然わからないが(全然わからなくても家を建てる過程の内田先生のtwitterだけでけっこう見えるところがあった気がする。)、「みんなの家」というコンセプトに対する光嶋氏の態度には、従来の概念を通り越す自由度を感じてならないのである。

 というわけで、両者はたぶん、「自由」という観点で通じ合っているのである。で、なぜ自由なのかは、きっと、日本で高校教育を受けずに、知性を活性化させたのであろう。
 てか、もともとめちゃアタマが良かったのだろうけど。
 めちゃ、アタマの良い人は、日本で高校教育を受けてはならないのであろう。
 高校に行って良いことがあるのは、凡人である。
 養老先生は高校に行っている。もし、行ってなかったら、もっと一般ウケし、かつ、希有な存在になっていただろう。

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