考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

ずれてる

2011年09月19日 | 教育
 「保護者の思考法、感覚」を推察するに、「小学校の先生」は、危ない気がしている。
 ほりの場合、対応時に、どうしても、「同業者」のつもりになってしまうが、ちょっと自分とは違うな、やっぱりどうなのだろうと思うことが多い。
 経験値であるし、統計的にどうのこうのというわけではない(そんな統計なんて、ない。)が、先入観だの何だの、ぬぐい去っても、どーしても、いぶかしく思わないと言わない。

 まあ、理由はわからんでない。
 今の小学校は、多くの場合、ものすごく、ねじれたことをさせられている(と思う)。集団教育の場で「不可能」なこと、あるいは、非常に効率の悪いことを、さも、それが新しい、素晴らしい、夢のような理想の教育であるかのように、実践させられているのではないかと、勝手に想像する。
 すべて、イマドキの高校生の日常を見ての判断である。
 なぜに、彼らは、あのような思考法で、あのような行動を取るのかを私が考え、類推すると、上記のような結論に達する。
 「ねじれ」の実践者である、先生の感覚が変になっても、ちっとも「変」じゃない。大変な物言いになろうが、でないと、もの凄い矛盾の中で、やっていけなくなるのではないか。
 と、ついつい、思い始めて、もう、何年にもなるほりである。

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