テレビのさまざまな番組で「高校受験で勉強をしなければならないから塾に行く」といった言説が当たり前のように語られるのをかなり頻繁に耳にする。言っている中学生と思われる出演者も聞いているタレントだったり司会者だったりする人も違和感なく対話し番組が進む。
私は、受験だからと言って「塾で勉強」という思考法や生活に俄然引っかかりを感じるが、番組司会者がそんな番組の本質と関係ないことは何も問題にせず、お客さんの言うことは何でも「はいはい」と言う店員のようだ。
こういう番組の放映は、(たぶん)ほとんど全国規模で「中学生は高校受験のために塾に行って勉強をするのが常識である」と触れ回っているのと同じだろう。
「上手に塾を利用する」という言い方が聞かれることがあるが、学校の勉強は大なり小なり、学校で教えてもらっていることである。それが「塾」に頼らなければならないというのは、学校か、生徒かのどちらかが、あるいは双方に何らかの問題があるとみる方が良いというものだ。
ところが、こうした考えを聞かない。
まあ、中学の教科書を見ると、あんな絵本のようなので一体何が勉強できるのだ、と訝しく思われるし、実際、そうなのだろう。とてもわかりにくい。確かに、塾に行ってもっと違う方法で勉強を教わるのも悪くないかもしれないと、さすがの(塾などを嫌っている)私も思う。
ところが、学校の方は、なかなかなのか、少しもなのか、よくわからないが、変わらない。まあ、文科省の問題があると思うが、学校の先生は生徒ではなく、指導要領を見ていると言うことなのだろうか。(私も教員だけどさ。)
とても不思議なことである。
ただ、塾があると良いのは、大卒者の受け入れ先になっていると言うことである。もし、今、塾や現役生対象の予備校、模試業者、通信添削が機能しなくなったら、日本は失業者があふれるだろう。それは、学習指導関係者だけでなく、宅配業者や紙の卸?、さらには製本業者にまで影響は及ぶだろう。これは間違いない。
私は、受験だからと言って「塾で勉強」という思考法や生活に俄然引っかかりを感じるが、番組司会者がそんな番組の本質と関係ないことは何も問題にせず、お客さんの言うことは何でも「はいはい」と言う店員のようだ。
こういう番組の放映は、(たぶん)ほとんど全国規模で「中学生は高校受験のために塾に行って勉強をするのが常識である」と触れ回っているのと同じだろう。
「上手に塾を利用する」という言い方が聞かれることがあるが、学校の勉強は大なり小なり、学校で教えてもらっていることである。それが「塾」に頼らなければならないというのは、学校か、生徒かのどちらかが、あるいは双方に何らかの問題があるとみる方が良いというものだ。
ところが、こうした考えを聞かない。
まあ、中学の教科書を見ると、あんな絵本のようなので一体何が勉強できるのだ、と訝しく思われるし、実際、そうなのだろう。とてもわかりにくい。確かに、塾に行ってもっと違う方法で勉強を教わるのも悪くないかもしれないと、さすがの(塾などを嫌っている)私も思う。
ところが、学校の方は、なかなかなのか、少しもなのか、よくわからないが、変わらない。まあ、文科省の問題があると思うが、学校の先生は生徒ではなく、指導要領を見ていると言うことなのだろうか。(私も教員だけどさ。)
とても不思議なことである。
ただ、塾があると良いのは、大卒者の受け入れ先になっていると言うことである。もし、今、塾や現役生対象の予備校、模試業者、通信添削が機能しなくなったら、日本は失業者があふれるだろう。それは、学習指導関係者だけでなく、宅配業者や紙の卸?、さらには製本業者にまで影響は及ぶだろう。これは間違いない。
ここでいう塾の「利用」というのは(いわゆる【以下省略】)「いい学校に行く」ためということなんだろうけど,「いい学校に行っていい会社に勤めて」という単純な既定路線が通用しなくなったときに,インセンティブがなくなっちゃうんじゃないのかなあと心配をしてしまう。
今日twitterで「物理の講義で微積分を使って説明していたら,学生から『物理の時間に数学で習うことを使ってもらっては困る』と抗議された」という話を聞きました。いったい何のために数学を勉強したんだよ,と(答えは「試験で点をとるため」なんだろうけどさ)。
私、進路担当でないのに、時々顔を見せに来る○○○○には、やってることはマッチポンプだ、と言ってます。「日本の教育を良くしたかったら、縮小して撤退するのが一番良いよ。」とも。(笑)
にしても、物理で数学を使うな、の話は、すごいですね。
イマドキの教え方は、「1対1対応」だから、物理で数学を使われると、困るのでしょう、きっと。
日本の知性はもう終わりです。しかし、終わっても、「終わり」とは誰も気がつかないから終わりだとは誰も思わないのでしょう。
もう、終わりだと・・・
(だね、だっけ?)
そんな歌があったような。。
「終わり」とは、終わりだと思ったときなのかな。。
永遠は滅んで他の永遠に座を譲り、永遠の滅びが繰り返されていきます。始まりは終わりを、終わりは始まりを、古きは新しきを、新しきは古きを、誕生は死を、死は誕生を、美は醜を、醜は美を、内包しつつ存在します。知性だって、たかが知性、されど知性。
色即是空、空即是色。
「もう終わり」と呟きつつ、生徒たちと一緒に大発見と興奮する、ほり先生がだ~い好きです。
1つや2つの心の傷に、いった~いと嘆く自分もそろそろ卒業だ~!(^^)!
輪廻転生♪
でも、生徒はあまり「発見」をしようとしません。たまに、「こう思ったんですけど。。。」と言ってくる子もいますけど♪♪
たいてい、その通りなんだよね。