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障大連 セミナー 教育部会

2011-12-12 13:16:56 | インクルーシブ・ライフ 

12月11日(日)

障大連のセミナーがあった。

場所は、なつかしい市大のすぐ近くの大阪市民交流センター住吉南センターで。

発表は保護者の方2名

全盲のふたご(4年生)のお母さん。

中学2年生の自閉症の女の子のお母さん。

当たり前に地域で過ごして
友だちいっぱい。
いろんなエピソードはあるけれど
ふつうにそこで過ごしてる。

そうそう
そこにいることから
始まるんだよ。

学校で壁際をつたって歩いている
全盲の男の子。

壁の切れ目がきて
自分では歩けなくなると
「だれかたすけてくださ~~~~い!!」

叫ぶという。
そしたら、下級生でも同級生でも上級生でも
近くにいる子どもが
駆け寄ってくると。

当たり前に一緒に過ごすことが
とっても大事と
改めて思った。

また南大阪の学習会でも
会えると思う。

たくさんパワーをいただいたセミナーだった。


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4 コメント

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承服しがたいフレーズ (スナドリネコ)
2011-12-16 02:01:50
「そこにいることから始まる」とか「わからなくても一緒にいることが大切」とか「助けを求めると、近くにいる子供が近寄ってくる」とかいったフレーズは、いんちきインクルージョンを声高に主張する人達によっても声高に主張されます。
しかし、これらのフレーズは、私には承服しがたいものです。
「『あんたたちの脳内インクルージョンごっこにとっては都合の悪い子供や事柄』を無視しているから、こういうフレーズを言えるんだろ。」と、私は言いたくなります。

次のような点が無視されていると、私には思えます。

1.「その場で、今、自分がすべきことが何であるかがわからない」或は「頭ではそれらがわかっているつもりなのだが、行動がうまくいかない」ということに、苦痛を感じ続けている子供がいないかどうか。
また、苦痛を訴えた経験はあるのだが、「わからなくても一緒にいることが大切」とはぐらかされて苦痛は「あってはならないこと」にされた。そういう子供がいないかかどうか

2. 1のような状態にある子供は、えてして、「おまえはハタ迷惑な奴だ。だから、迷惑を最小限にとどめるために、出来の良い子をお前のお世話係として付ける。おまえはお世話係の指示に従って、人の邪魔にならないおとなしいお客様でいなければいけない。」というルールを課されることになります。
そのことに苦痛を感じている子供がいないかどうか。

3. 2で述べたルールが1の状態の子供に課されるのは、学校卒業までです。それ以降は、違ったルールに直面させられるハメになります。
学卒後に「おとなしいお客様」でいたならば、次のような言葉を浴びせられ続けます。
「あんた、いったい、今まで何をやっていたの。何もやらないじゃないの。あんたみたいな人のことをなんというか知ってるの? やらずぶったくりというんだよ。あんた、いったい何様のつもりなの?」
かといって、積極的な行動をとろうとしてもなかなかうまくいきません。「どうしておまえだけできないんだ。他の人の仕事を増やして迷惑をかけ続けてるではないか。」などと言われ続けます。
「新ルールへの変更説明や充分な移行期間が必要だ」などと主張することは、本人には許されていません。当然、新ルールへの講習会なんてことはなされません。
「本人にとっては突然のルール変更」であっても、周りの人にとっては、「周りの人を安心させる行動をとらなければいけない」ということで一貫しているルールなのでしょうから。
これらの「ルール変更」について検討されているか否か。

4.「助けを求めるということは、実はとても難しいことだ。実は高度な技術が必要だ。しかし、それらの技術がどうやった身につくのかわからない。」という状態にある子供がいないかどうか。
「助けを求め続けているのだが、『いじめではなくてふざけだ。ジョークのわからない暗い子供ではいけません。』とか『できないのも個性、いじめられるのも個性』とか『いじめなんかではありません。愛されている証拠です。無視するほうがずっと残酷です。相手をしてもらえていることに感謝しなければいけません。』とか『人を責めるより自分を責めなさい。』 
などと言われ続けるだけだった。」そして挙句の果てに、「助けを求めようとしても、助けてなんかもらえない。それどころか、お説教の材料を相談相手に提供するのがオチだ。」ということを学んでしまうケースもあります。
こういう状態になった子供がいないかどうか。

4.について補足説明。
助けを求める際には、次のようなことがクリアできている必要があるケースが多いと、私には思えます。
・助けが必要な自分の状況が、把握できていること
・その上で、助けてもらう相手の力量について理解できていること
・助けてもらう相手が、そのときにおかれている状態を把握できていること
・助けてもらう相手が理解できるように、内容説明ができること

これらがクリアできていない状態で助けを求めた場合、下手をすれば、「図々しい要求をするフリーライダー」と認識されかねません。
「自分にとって良いものを得ようと思うのなら、その代価を支払うのは当然だろ。代価がないのに助けを求めるなんて、とんでもない奴だ。(念のための注 代価は必ずしも金品とは限りません)」などと言われ続けることになります。
返信する
スナドリネコさんへ (kliyoko)
2011-12-17 19:51:49
いつもご丁寧なコメントありがとうございます。

「承服しがたいフレーズ」
そうですか。その理由を丁寧に分析しながら書いてくださいましたね。

一緒にいたいと思っても、日本の法律や制度の中で、分けられたところでしか生活できない子どもにとって、一緒に過ごすことから始まるというのは大切なことだと思うのですが。。。

一緒に過ごす中で、苦しい思いをしている子どももいます。集団と言うのは、それだけで、一枚の壁のように立ちはだかっています。


教室の空気がいやと
教室には入れなかった子どももいました。
誘えば誘うほど、後ろに引っ込んでしまう。
誘うという行為そのものが、その子どもにとって
圧力になっていたのでしょうね。

わたしは昔、一生懸命にアプローチしたら
子どもはわかってくれると思っていました。
教師の思い上がりです。
一生懸命にアプローチすることが
その子どもにとって、
大きな負担になっていることに気づきませんでした。

また論点がずれるとご指摘を頂きそうなのですが、スナドリネコさんのコメントを読みながら、
なんでか思い出しました。

「わからなくても一緒にいることが大切」
とは言っていません。
子どもからの出発なので
わからないままほってはおきません。

場の共有が、初めから分けられて
それを望んでも叶わないことが
問題だと思うのです。

スナドリネコさんが気にしてくださっていることは、本当に大事なことです。
特に社会に出てからのことは、スナドリネコさんの体験からにじみ出てきた言葉なのですね。


助けてほしいときに、助けられる関係を築いていくのも大事だと思っています。その逆もありますが。

なんだかうまく書けませんが
思ったことです。
返信する
隔離型排除とみそっかす型排除 (スナドリネコ)
2011-12-21 02:18:57
「障害者が経験する排除」には、異なる2つのタイプのものが存在する。私はそう考えています。私はそれらを、「隔離型排除」と「みそっかす型排除」とよんでいます。
今までのコメント欄のやりとりやブログの他記事から、kiyokoさんと私の見解が次のような点で異なっているのでは……と思いました(的外れでしたらごめんなさい)。

1.kiyokoさんは前者に重きを置き、私は後者に重きを置いている。インクルージョン推進派の中には、後者をいないことにする・後者に対して言論弾圧をする者もたくさんいると、私は捉えている。

2.「隔離型排除を受けた障害者」と「みそっかす順応(あえて適応とは書きません)以外許されないまま、無防備な状態で集団に入れられた障害者」とでは、集団や社会の在り方が異なっている。私はそう考えている。

3.「普通学級等には本来参加が可能であるはずの障害者が、制度や社会の慣習や差別や偏見等によって、本人たちが望む社会参加を阻害されている」→「普通学級等の参加が、本人にとっての権利保障・社会参加保障・自己実現等につながる。とにかく、そこにいることから始まる。」
という見解をkiyokoさんがお持ちであるように、私には見受けられる。

4.一方私は、3の見解に対して次のような疑念を持っている。
・最初から「インクルージョンは正しい」と決めつけて、その前提に合わせて「モデルケース的障害者」と「分離教育を課された障害者」とを配置→「インクルージョンは正しい」という前提を補強するように、モデルケース的障害者(の家族等)が発言する
という構図になっているのでは?

・3では、「参加が可能か否か」を問題としているように見受けられる。しかし、「どのような参加状況となっているのか」ということについて、華麗なスルーがかまされているのでは?
つまり、「分離教育は不当」「インクルージョンは正しい」という見解以外に、「いんちきインクルージョン」が存在する危険性について、華麗なスルーがかまされているのでは?
華麗なスルーを故意にかましたうえで「場の共有を望む」方向に誘導する、インクルージョン推進派もいるのでは?

「隔離型排除」と「みそっかす型排除」については、私は次のように考えています。
前者:「施設や障害者限定機関に閉じ込められ、地域社会への参加に制限が加えられ、多様な人々と触れ合う機会を奪われる」というタイプの排除。
支援と称して、専門家や福祉から過剰な管理や監視を受ける危険性もあるかもしれない。

後者:「確かに、施設や障害者限定機関に閉じ込められているというわけではない。しかし、実際の生活は迫害や暴力や(学卒後)貧困にどっぷりと浸からされる。」
「利用できる社会資源が見つからない。かりにそれらが存在するとしても、それらにアクセスすることが困難(申請主義の難しさ等)。」
というタイプの排除。

集団参加についてを語る際に、インクルージョン推進派は、前者の障害者に関して、「そこにいることから始まる」とか「助けを求めると、近くにいる子供が近寄ってくる」とかいった美しい見解を主張します。
しかし、後者にとっては、「集団に放り込まれる」ということは、「生きづらさを拡大再生産していくことであり、サバイバルスキルを身につける余裕をなくしていく」こととなっているケースが多いと思います。

かと言って、私は、分離教育に賛成しているわけではありません。
分離教育も「いんちきインクルージョン」も根本は同じです。例えていうなら、前者は「門前払い」で後者は「高所にあげられてから梯子を外す行為」です。
これについてを書くと長くなるので、今回は省略します。

「わからなくても一緒にいることが大切」というフレーズを書いたのは、ブログの他記事や前ブログを拝読して、kiyokoさんは「わからなくても一緒にいることが大切」主義者のようだな、と私が思ったからです。

「見解が異なるのは悪いこと」だとは、私は思いません。Kiyokoさんが真摯にコメントしてくだったことに、私は感謝しています。ありがとうございます。
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スナドリネコさんへ (kiyoko)
2011-12-21 19:31:19
すごい!
見事に分析して、
しかもわかりやすく書いてくださっている。

わたしとの見解の相違点をこうも理路整然と
整理してくださって、
そして私の立場も考えながらのコメント。
本当にありがとうございます。

後者の「みそっかす型排除」で書かれていることは、教育の根本的な部分です。
それを華麗にスル―してしまうことは
子どもをないがしろにして、
効率主義に陥った教育の様相です。

インクルーシブ教育を目指す以上
何よりも看過してはいけない大切なことです。
いつもアンテナを張り巡らせて
子どもと子どもの気持ちを見ていかなければ
ならないと考えます。
そういう思いも、学校と言う権威をふりかざした価値観から出ているのかもしれません。

スナドリネコさん
いつもほんとうに丁寧にコメントをくださって
ありがとうございます。
ずいぶん時間もさいて
前の記事を読んでくださったり
丁寧にコメントを書いてくださったり
ありがたい限りです。

いつもコメントを読むたびに考えさせられます。

今回、省略された部分もお聞きしたいです。
またお手数をおかけしますが、
お時間があれば、よろしくお願い致します。

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