「互いにわかりあえるものではない。」
と書いてしまうと
「なんだかなぁ」
と言う感じになる。
わからないから、
わかりたいと思うし
わかりあいたいと思う。
「きれいだね。」
って美しい花を見て共感できたり、
おかしいことには
「おかしい!!」
って一緒に怒れるような
そんなんがいいかなぁ。
「互いにわかりあえるものではない。」
と書いてしまうと
「なんだかなぁ」
と言う感じになる。
わからないから、
わかりたいと思うし
わかりあいたいと思う。
「きれいだね。」
って美しい花を見て共感できたり、
おかしいことには
「おかしい!!」
って一緒に怒れるような
そんなんがいいかなぁ。
「共感」と「共感と称した同調圧力」を区別する方法が、私にはわかりません。
コメントくださって、とてもうれしいです。
「共感と称した同調圧力」って、
どんなことなのですか?
同調を強要、強制するってこと?
同じにきれいって思えなかったらアカンと
無言の圧力をかけるってこと?
すみません。
わからないので
具体的に例をあげて教えてくださればうれしいです。
どこまでも世話の焼ける私ですみません。
どうやら、私の頭には「他者への共感をする機能」が備わっていないようなのです。
世間一般で言われている「共感」を、私は、「他の人の言動が引き金となって、発生する自己主張」としてしか、イメージできません。
「自分自身が感じていること・思っていること」と大きく重なる言葉や立場を、他人の言動から連想したときに、「私もそうだ」という形でしかイメージできません。
ここで私にとって重要なのは、「私もそうだ」の「も」の部分ではなく、「そうだ」の部分なのです。
相手の言動が存在しようがしまいが、「自分はそのように感じたり考えたりしている」ということなのです。
しかし、日本社会は、「ある程度の共感性を、すべての人が持っていること」が前提となっているようです。「共感というものがよくわからない」などと言おうものなら、「共感をバカにする、悪意に満ちた人」とか「非人間的だ」とか「反社会的だ」とか解釈されます。
そしてその結果、不利益を被ることになります。
こんな私が日本社会で生きていくためには、「自己主張の変形とは違う形で、共感らしき態度を示す」必要が出てきます。
違う形で示すために、私は「エミュレーター」のような方法をとっています。
「大多数の人は、こういう場面ではこのように考えたり感じたりする」ということを、if/thenルール的に片っ端から学んで、データベース化して頭に入れていく、という方法です。
こんな方法ですから、「条件反射的な感情移入」に失敗することもしょっちゅうです。
「無意識に適切な反応ができる」自信は、全くありません。
また、この方法では柔軟性に欠けるため、場の空気が急に変わった場合エミュレーターは壊れます。
つまり、私の場合は、「わかるわかる」という言葉を、わかっていなくても口に出すことが義務付けられるのです。
どうやら、共感らしき態度を示す際に重要なのは、他の人もスナドリネコも「同じことを一緒に」考えたり感じたりしていると認識することらしいです。
「共感」について、「他の人はネイティブ・スピーカー、私は外国人」というイメージも持っています。次のような意味です。
ネイティブ・スピーカーは、わざわざ意識しなくても文法的に正しい文章を作ったり話したりできる。しかし、私は、外国語の文章を文法知識を駆使してぎこちない作文を作る。しかも、素早い文章化ができない。
エミュレーターということばも初めて聞きました。
「共感」ということで、これだけたくさんのことを考え、意識して過ごされているのですね。
改めて「共感」って何だろう。「共感する」ってどんな事だろうと考えてしまいました。
ほんとうに「そうだよね」って思うときもあるし、共感しているふりをしているときもあるなぁと思ったり。
自分と他者との感じ方の違い、自己分析などがすごくて、ただただ感心しながら読ませて頂いています。
私の質問に、ほんとうに丁寧に段階を追って答えてくださって、ほんとうに有難うございます。たくさんの言葉を駆使して、思いを伝えてくださっているのに、よくわかっていなかったり、的外れなことを書いたりしてしまっていると思いますが、、、
考えるヒントをたくさん頂いていると思います。
生きているときにおこなう様々な行為、考えることも含めて、そのかなりの部分を無意識にできています。考えること、会話も。無意識とは、「意識しないで、慣れ親しんだあるパターンを採用してしまって」ということです。だれかが、あるいは、自ら疑問を投げかけない限りそれは意識されません。
人によっては、その人が採用しているパターンを指摘されたり、それに疑問を投げかけられると、怒ったりします。その人とは、ときに私自身です・・・
お返事遅くなりました。
>、「意識しないで、慣れ親しんだあるパターンを採用してしまって」
ほんとうにそうですね。家族の形もいろいろとあるように、その人の生活パターンというか思考パターンで、ごく自然で当たり前と思うことが
なかなか分かってもらえなかったり、わからなかったりします。
親子・夫婦・兄弟でも違うのだから
ましてや生まれ育った環境も違う人同士が
わかるというのは、ほんとうに難しいし、
自分のその慣れ親しんだパターンに
疑問を投げかけられたり、異論をはさまれると
なんだか納得もいかないし、腹立たしかったりしますね。
そこに問題を投げかけてくれる人の存在はありがたい。
今まで自分が思ってもみなかったようなことを
ずっと意識して、問題提起をしてこられていたり。
そういう見方もあるのかと、ハッとさせられます。
わからなさゆえに、無神経な言動をしてしまったり、論点がずれているように感じられたり
なかなか難しい所も多々ありますが、
立場、考え、感性の違いを踏まえて
広がっていくことができればいいなと思います。
自分では、その「慣れ親しんだパターン」が見えにくい。
意識して考えていきたいと思う今日この頃です。