今年も残りわずかになってきました。
何日か家を空けていたのでアップできていませんでしたが
今年中には、このシリーズ終わりたいなぁと思っています。
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その人の中での生死
その3年後くらい後。まだ8才位の子。当時ほとんど反応ができないようにこちらから見える子がいた。反応しないと、こっちからはできないように見えるけれど、本人は、そこで精一杯豊かな世界を切り拓こうとしている。わかり方というのは、他人のわかり方。今ここでその子が作っていることは何か。その子が切り拓いている豊かな世界がある。
欲しいものがあると、私たちは、今ゆったりと持っているものを見失って、「今ここさえ拓ければ」と欲が出る。この欲が、どの人にとっても危険。
さっき言った「反応しない」と、私たちに見えることと内実は違うというのは、その人の中での生死。私は、周りの寄り添っていると思っている側がが寄り添われているという、自分の母親の話のように、今はそうなんだと思うが、自分はそう思っていなかった。
養護学校行った子と、普通学級に行った子が、同じ頃亡くなった。養護学校行った子は、亡くなる前は家でずっと過ごしていた。
普通学級行った子は、親はずっと悩んでいた。先天的な心臓の病気と知的障害を持っていた。幼稚園保育所は無理だった。外へ出ると大変興奮して、酸素を入れるという暮らしをしていた。家から200メートルくらい散歩するということを繰り返していた。ところが、5才の秋かな、就学通知が来て,母親はそれを見たときに一度は捨てた。おつれあいが帰ってきて相談した。命を縮めるからやめようと思った。無理をすれば命が縮む。一日でも長く生きて欲しいと、親は思っていた。「どうしよう、やめよう」と悩んでいた。しかし、おんなじ年に同じ産院で生まれた子たちが、みんな行くんだと思うと、自分たちの思う幸せという考え方で本当にいいのかなと思った。寿命も8才とわかっている。とうとう教育委員会に相談にいった。教育委員会では、すぐ訪問指導という話になった。それを聞いたとたん、親の中で、何ヶ月も悩んだ思いが訪問指導とは全然違うと思って、何も言わず始業式に行って「普通学級」に入った。1時間2時間すごしては、疲れて家に帰るという学校生活だった。親としてはずっと心配しながら、「今日はやらんほうが良い。」とか迷いながら・・確かに寿命は一年ぐらい早く終わった。
その子が亡くなるときに、心臓が悪いので、酸素を送りながら、死期を前にその子が言った。「もう、僕おしまい、みんなに伝えてさようなら」と。親の「ごはん食べたから大丈夫よ大丈夫よ、黙っていなさい。」という言葉を振り切って。そう言って亡くなった。
もう1人の子は養護学校へ行った。養護学校へ行けなくなって、お家で寝ているとき、近所の子の登校班の声が聞こえるときだけ、なんか楽しそうに最後の数か月していたという。
私が二人の死の差を感じたのは、葬儀の時。
養護学校に行っている子のお葬式には、親や大人が遠くから集まった。普通学級に行っていた子の時は、子どもたちがお葬式にたくさん来た。
その時、父母は、「私たちはこの子といて幸せだった。この子とずっと一緒に生きていたかった。一日でも長く生きてほしかった。学校に行って命を縮めたことを後悔していた。でも、学校に行って良かったと思う。親はこの子が一人で死んでいく日が来ることをずっと恐れていた。この子が死んでいくときに『苦しいよ、つらいよ』という声をどう聞くのかと思うのが怖かった。つらい別れと苦しい思いをして欲しくないと思っていた。一番恐れていた、「生きる死ぬ」というのは、わたしたちとの関係がなくなるということだと思っていたけど、この子は、『みんなに伝えて、さようなら』と言って死んでいった。『楽しかったよ。ありがとう』『みんなは楽しく生きてね』というメッセージだったと思う。この子はみんなと一緒に生きていこうと思っていたし、今も生きている。そう思える。」と言われた。
同じクラスの子どもたちは、小学校⒉年生だから、どう受け取りどう育ったかは、それはわからない。誰もパーフェクトではない。できないものが、できない格好を肩寄せ合って生きていくというスタンスは、ほ乳類である以上譲れないし、失ってはいけない。
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養護学校に行きたくていく人に
それはやめなさいとは言えません。
それがそのこにとっていいことだと
親も周りの人も思っているから。
わたしは地域にいるのだから、当たり前に地域の学校に行けばいいのではと思っています。
隣の子や、隣の隣の子も一緒に過ごす学校。
兄弟姉妹と同じ学校に行く。
障害があるからと分けられる必要はないと。
そう思っています。