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246496 エジプト・トルコ対イスラエル:「完全な断絶」①

2011年03月03日 | アメリカ:闇の支配勢力と略奪闘争
246496 エジプト・トルコ対イスラエル:「完全な断絶」①
 
猛獣王S HP ( 不惑 営業 ) 11/03/01 PM11 【印刷用へ
『エジプト・トルコ対イスラエル:「完全な断絶」』(ROCKWAY EXPRESS)リンクより転載します。
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 ~前略~

オスマン・トルコの覇権を受け継いだのは、遠いアメリカから支援されているイスラエルではなく、トルコとエジプトのあるレベルでの協調関係であった・・・

エジプト革命は国内問題、つまりパンとバター、腐敗、圧政、などの問題であるが、その直接の影響は、国際的である。エジプトがこの中東で大きな影響力を示しだしたのはそれほど昔のことではない。22カ国で構成されるアラブ連盟の内少なくとも13カ国はその影響を受けている:アルジェリア、バーレーン、ジブチ、エジプト、イラク、リビア、モーリタニア、スーダン、シリア、チュニジア、イエメンだ。

しかしイスラエルでの影響も同じく大きなものだった。イスラエルはエジプトとトルコのような民主的ではっきりとした隣人をかつて持ったことはなかった。

アメリカがNATO(1949年4月設立)の総仕上げをしている時、トルコがイスラム国家として初めて1949年3月にイスラエルを公認した(イランは翌年公認)。自国の軍が注意深く見詰める中、トルコとイスラエルは外交、経済、軍事分野での密接な関係を冷戦時代を通して保持し続けた。

最初のトラブルは1987年にパレスチナ人に対する「イスラエルの弾圧」に対し、トルコが非難した時である。しかし、強い批判的声明が出されだしたのは、公正発展党が2002年に与党となった後である。2004年トルコは、イスラエルによるハマスのシェイフ・アハメド・ヤシンの暗殺を「テロリストの行為」として、またイスラエルのガザでのやり方に対し、「国家主導のテロ」と非難した。

サウジ王国の石油からの収入はアメリカのドルに全面的に依存しているのだから、アメリカ・イスラエルの覇権に対しサウジアラビアが同意したことは理解できる。アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官(当時)がビジネス・ウィーク誌に語ったように、1973年にエジプトがイスラエルと戦争している時、サウジがエジプトを支援するために対米石油輸出禁止措置を取った後、アメリカに「協力しなければ政治的不安定をもたらしたり、安全を脅かすような大規模な政治的戦争をサウジアラビアやイランのような国々に対し行う」ことになるような姿勢はとられなくなった。

彼の言葉は、根拠がないわけではなかった。エジプト人とパレスチナ人を支援するためにリスクを負ったファイサル国王は、その後暫くして暗殺されてしまった。そして彼のアメリカに対する反逆の行為はサウジによってなされた最後の反逆になった。しかしながら、エジプトは、イスラエルとの和平へと進んだ。トルコのイスラエルに対する反発が強くなってからでさえ、イスラエルは、敵との間の冷たい平和ではあるが、ムバラク大統領との関係を歓迎していた。

明らかに敵である。過去30年間、正式の外交関係とエジプトとイスラエルの指導者達の握手の写真があるにもかかわらず、2006年のエジプト政府による世論調査では、エジプト人の92%はイスラエルを敵と見ていることが分かった。ムバラクは恐らく、イスラエルと良好な関係を維持することに不快さを感じていたのだが、アメリカからの2番目に大きな援助(イスラエルが1番目)を貰うことで彼はアメリカの意思に従ったのだ。

今のイスラエルの軍事的戦略は、1980年代初期、軍事的脅威としてのエジプトを除去してから明確になった。アリエル・シャロンは1981年、レバノン侵攻の少し前に、イスラエルは隣国との平和を考慮するのではなく、自らの影響力を、「トルコ、イラン、パキスタンなど、更にペルシャ湾とアフリカ、とりわけ北・中央アフリカ」を含む地域全体に拡大することを求めることを公表した。イスラエルが地域大国になるというこの考え方は、シャロン・ドクトリンとして知られるようになった。

シャロンの1982年のレバノン侵攻は、直接侵略の伝統的帝国主義的戦略に倣ったもので、この場合では地域のエリート集団であるキリスト教徒のグループと共闘した。しかし、既にこの力の政策は見直されようとしている。レバノンではこれはイスラエルのためにならなかった。このようなグループがイスラエルに盾突いたり、転覆させられるリスクが常に存在している。

イスラエルをこの地域の覇権国にするという更に急進的な新イスラエルのゲームプランは、オデド・イェオンの「1980年代のイスラエルの戦略」である。イェオンは弱く依存的で、ある程度の民主主義的装いを持った小国群を生み出すため、「分断し支配する」彼の提案のため「不和の種まき男」というニックネームを持っていた。これは丁度アメリカの中央アメリカにおける戦略に似たものである。このような小国は互いに戦い、もし事態が悪化してポピュリストのリーダーが出てきても、簡単に妨害できる-サルバドール・オプションである。ヒズボラの指導者であるハッサン・ハスララは、イェオンの理論を基礎とするこのイスラエルの政策を評して2007年に、「民族と宗派によって分断された小国家群をこの地域に生み出そうとするものであり、それが新しい中東というものなのだ」と述べている。

イェオンは、オスマントルコのシステムをモデルとして利用している。そこでは、細分化された多様な宗教的共同体をモスレムのシャリア、キリスト教のカノン、ユダヤ教のハラカを使って裁判所が統治するものだ。レバノンは、スンニー派、アラウィ派、キリスト教徒、ドゥルーズ教徒に分けられる。イラクはスンニー派、クルド人、シーア派に分けられた。サウジアラビアとエジプトは、宗派ごとに分けられるであろう。イスラエルは議論の余地のない主人となるだろう。

「本当の共生と平和は、アラブ人たちが、ヨルダンと地中海の間をユダヤ人が統治する以外には彼らが生存したり安全であることはない、ということを理解する時にのみ達成できるのだ」
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続く
 

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