神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

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京都・西本願寺。

2009年09月20日 | ◇京都府 -洛中


龍谷山 本願寺

(りゅうこくざん ほんがんじ)
京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60


通 称
お西さん
西本願寺




堀川通沿いに立つ御影堂門。門の向こうには「目隠し塀」が見えます。


〔宗派〕
浄土真宗本願寺派 本山

〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)


 本願寺の源流となったのは、浄土真宗の宗祖である親鸞上人が入滅されたあとに建てられた御廟所です。1262(弘長2)年に90歳の長寿で入滅された親鸞上人は、京都・東山の大谷の地に葬られましたが、1272年(文永9)年になって末娘の覚信尼が大谷の西にある吉水の地に廟堂を建て、遺骨を安置されました。この御廟所は「大谷廟堂」と呼ばれ、廟堂を守る「留守職」には覚信尼が就きました。大谷廟堂に対しては、時の亀山天皇より「久遠実成阿弥陀本願寺」という寺号が下賜されています。

 1309(延慶2)年には、留守職の座を巡って内紛が勃発し、御遺骨と宗祖真影が持ち去られて廟堂が破壊されるという「唯善事件」が起こります。青蓮院の仲裁によって紛争が解決した後に第3代留守職に就任した覚如上人は早速再建に着手し、1311(応長元)年に復興。その翌年には寺院化を図って「専修寺」と名乗りますが、寺号に対して比叡山からの圧力を受けたためにこの名称の使用を断念します。しかし寺院化への努力は引き続き行われ、1321(元亨元)年には「本願寺」という寺号を掲げるようになりました。





1636(寛永13)年建立の御影堂。親鸞聖人の木像が安置されています。


 
 1457(長禄元)年に法灯を継承した第8代蓮如上人の代には積極的な布教活動を展開、近畿地方をはじめ東海・北陸へと門徒の数は飛躍的に増大していきます。しかし、急速な拡大に対して既存の寺院勢力は危機感を抱き、1465(寛正6)年、比叡山延暦寺が武装宗徒を率いて大谷本願寺を急襲、伽藍を徹底的に破却するという事態に至ります。難を逃れた蓮如上人は越前国の吉崎御坊に本拠を移転。ここでもその教えは古い支配体制に圧迫されていた民衆に熱狂的に受け入れられ、次第に権力者に対する反抗への機運を呼び、ついには門徒たちが武装して一揆を起こすまでになります。





境内の南にある色彩鮮やかな鐘楼(左)と、御影堂の前に茂る大銀杏(右)。



 争いを鎮めようとした蓮如上人は1475(文明7)年に吉崎を退去。京に近い山科の地に拠点を確保して1478(文明10)年から伽藍の造営を開始し、1480(文明12)年に諸堂の整備を終えます。こうして誕生した山科本願寺は「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国の如し」と呼ばれるほどの繁栄を見せましたが、寺勢を恐れた細川晴元公の策謀で攻め寄せた六角定頼公と日蓮衆徒の軍勢によって1532(天文元)年に焼き討ちを受け、堂宇は跡形もなく焼失。その後大坂に遁れて再興を伺うこととなります。





1760(宝暦10)年に再建された阿弥陀堂。御本尊が安置されています。


 
 大坂・石山に本拠を移した本願寺は、山科でのトラウマから強大な城郭を築き、再び勢力を拡大していきますが、ここで時の実力者・織田信長公と軋轢が生まれます。当初、両者の関係は穏やかなものでしたが、1570(元亀元)年に伊勢長島の一向一揆が尾張国の尾木江城を襲い、織田信長公の弟・織田信興公を切腹に追い込んだことから戦端が開かれ、11年間にわたる長い戦いが始まります。

 宗教勢力が本来の衆生を救う目的から離れ、武力を持って政治に圧力を掛ける姿勢に非常な不快感を持っていた織田信長公は、各地の一向一揆勢力を撃破するなど徹底的に対決。ついに1580(天正8)年に本願寺は仏法存続を条件に和議を受け入れ、大坂・石山を退去して紀伊国・鷺森に移転することとなって戦いに終止符が打たれました。この退去の際、和議を受け入れた顕如上人と徹底抗戦を主張した教如上人との間に対立が生じ、東西分裂の萌芽が芽生えます。





安穏殿と経蔵(左)。その向かいにも立派な銀杏が茂っています(右)。



 鷺森から和泉国の願泉寺へと本拠を移した本願寺は、豊臣秀吉公から寺地の寄進を受けて1585(天正13)年に大坂・天満に移転。さらに1590(天正18)年、七条堀川の現在地に寺基を移し、1592(文禄元)年に諸堂の落慶法要が営まれました。その後、石山退去の時から対立していた教如上人徳川家康公に接近。烏丸七条に寺地を寄進されて1603(慶長8)年に御堂を建立し、本願寺は東西に分裂することとなりました。教如上人が開いた寺院を東本願寺と呼んだことから、それまでの本願寺西本願寺と通称されるようになりました。

 その後、西本願寺は1596(慶長元)年に起きた慶長の大地震で阿弥陀堂を除く諸堂が倒壊。翌年に御影堂は再建されますが、1617(元和3)年には失火によって御影堂や阿弥陀堂が焼失してしまいます。翌年、阿弥陀堂が仮御堂として再建され、1636(寛永13)年には御影堂も再建。書院や飛雲閣、唐門もこの頃整備されています。1760(宝暦10)年、仮御堂だった阿弥陀堂も本格的に再興されて現在に至る偉容が完成されました。幕末には新撰組の本拠地のひとつにもなっています。





左は阿弥陀堂門。太鼓楼(右)には、新撰組の刀傷が残っているそうです。


アクセス
・JR「京都駅」下車、北西へ徒歩10分。
西本願寺地図  【境内MAP】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料  ※庭園の拝観には事前に申し込みが必要。

拝観時間
・5時30分~17時30分(3月~4月、9月~10月)
・5時30分~18時(5月~8月)
・6時~17時(11月~2月)

公式サイト






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