神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・伏見稲荷大社。

2008年12月29日 | ◇京都府 -洛南
五穀豊穰・商売繁盛・交通安全


伏見稲荷大社

(ふしみいなりたいしゃ)
京都市伏見区深草薮ノ内町68

神仏霊場京都 楽土の道・第43番札所
全国4万余りの稲荷社の総本社


通 称
お稲荷さん




巨大な赤鳥居の先に全国4万ある稲荷社の総本宮・伏見稲荷大社が鎮座しています。



〔御祭神〕
宇迦之御魂大神
(うかのみたまのおおかみ)



 全国には「稲荷神社」と名のつく神社は大小併せて4万社を優に超えるといわれており、我が国に数多ある神社の中でもその数は群を抜いています。その全ての稲荷神社のルーツ、つまり総本社がここ伏見稲荷大社なのです。1300年もの長い歴史を持つ伏見稲荷大社は商売繁盛の神さまといわれており、正月3ヶ日にはその御利益を求めて実に270万人もの初詣客で賑わいを見せます。ちなみに270万人という参拝者数は関西で最も多く、全国でも4番目の多さを誇っています。

 奈良時代に発生したといわれている稲荷信仰は、その頃山城国一帯に勢力を伸ばしていた渡来系の秦氏が、自分たちの氏神である農耕神を祀ったのが始まりといわれています。「稲荷」という言葉は「稲生り(いねなり)」が転じて出来たものだといわれており、農耕を始めとした諸産業の発展と、一族の繁栄を願って秦氏が行っていた祭祀が、秦氏の勢力拡大に伴って各地に広がっていったと考えられています。





豊臣秀吉公が寄進したと伝えられる楼門(左)と、その奥に立つ外拝殿(右)。

1499(明応8)年に再建された「稲荷造」の本殿(左)と、その右手に立つ神楽殿(右)。



 稲荷山全体を神域とする伏見稲荷大社は、農耕神である宇迦之御魂大神を主祭神とし、佐田彦大神大宮能売大神田中大神四大神を配祀しています。927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳において名神大社に列せられた名社で、1871(明治4)年には官幣大社に列せられています。その創建は古く、711(和銅4)2月7日の初午の日に、勅命を受けた秦伊侶具が、古来より神域といわれていた「伊奈利山」の3つの峰に祠を建てて御祭神を祀ったのが始まりとされています。

 創建にまつわる伝説によると、非常に裕福だった秦伊侶具が、豊富に所有していた稲から餅を作って弓矢の的にするなどの遊びに興じていたところ、不思議な事にその餅は白鳥に姿を変えて稲荷山へと飛び去り、舞い降りた山の峰に稲が生じたといいます。食物を遊興の道具に用いたことを反省した秦伊侶具は、それにも関わらず再び稲を実らせてくれた御神徳に報いるために神社を創建したといわれています。





伏見稲荷大社といえば「千本鳥居」。びっしり立ち並ぶ朱塗りの鳥居は壮観です。

千本鳥居を抜けた先にある奥宮参拝所(左)と、「おもかる石」(右)



 稲荷神には、かの弘法大師空海も厚い崇敬を寄せていたと伝えられています。823(弘仁14)年に嵯峨天皇より東寺を賜った空海は、その4年後の827(天長4)年に稲荷神を勧請して東寺の鎮守神と定めています。今も、東寺の北東には伏見稲荷大社御旅所が鎮座するなど、その名残りが残されています。942(天慶5)年には正一位の神格を賜り、1072(延久4)年には後三条天皇が行幸されるなど、貴賎を問わず稲荷信仰は広がりをみせていきました。

 人々の崇敬を集めて繁栄していた伏見稲荷大社も、京都を中心に繰り広げられた応仁の乱の戦火に巻き込まれ、大きなダメージを受けました。西軍の糧道を断つために東軍が要害の地である稲荷山に陣を構えたため、この地も両軍の激しい戦闘の場となってしまい、1468(応仁2)年3月21日はに全山が火に包まれて、山上・山下を問わず社殿は悉く灰燼に帰してしまうという悲劇的な結末を迎えました。その年の末には仮殿が設けられ、かろうじて祭祀は続けられていきましたが、本格的な復興には30年以上の月日を要する事となります。全国を勧進して集められた資金をもとにようやく本殿が完成し、遷宮祭が行われたのは1499(明応8)年11月23日。しかしながら、この時には古来より祭祀が行われていた山上の上社と中社の復興までは及ばず、現在本殿がある下社の周辺のみが復興されるにとどまりました。





稲荷山の中腹に立つ熊鷹社(左)と、その前に広がる新池(右)。



 稲荷山全体が神域とされている伏見稲荷大社には、麓から山上まで氏子の皆さんから奉納された1万基以上の鳥居が所狭しと並んでいます。行程約4kmのお山巡りには2時間以上を要しますが、標高233mの稲荷山の最高峰に建つ上之社中之社下之社をはじめ、行方不明になった人を探す時に池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に行くと手懸りが掴めるという伝説のある新池、清冽な清水が流れ落ちる清瀧や、眼病に聞くといわれる眼力社、無病息災を祈願する薬力社など、数多くの社殿が鎮座していますので、余裕のあるスケジュールで、山上の景色を愉しみながらゆっくりと参拝される事をお勧めします。





三ノ峯の下之社(左)と、二ノ峯の中之社(右)。

一ノ峰の上之社(左)と、稲荷山の北麓にある「眼力社」(右)。


アクセス
・JR奈良線「稲荷駅」下車すぐ
・京阪電車「伏見稲荷駅」下車、東へ徒歩5分
(※車で参拝される方:年末年始には交通規制が行われますので、公式サイトでご確認ください)
伏見稲荷大社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト





京都・幸神社。

2008年12月26日 | ◇京都府 -洛中
縁結び・方除け・子孫繁栄

幸神社

(さいのかみのやしろ)
京都市上京区寺町今出川上ル西入ル幸神町303




寺町通から一歩入った住宅街の中に佇む幸神社。


〔御祭神〕
猿田彦命
(さるたひこのみこと)



 寺町通から西へ入った住宅街の中に建つ幸神社は、もともと現在地より北東へ300mほど離れた賀茂川のほとりに祀られていた道祖神で、昔は「出雲路幸神」とも「出雲路道祖神」とも呼ばれ、この辺りに居住していた出雲氏が氏神を祀ったのが始まりではないかといわれています。その後、桓武天皇平安京を開いた794(延暦13)年に鬼門の方除けの守護神とされて社殿が整えられたと伝えられています。京都御所の鬼門に当たる北東の角の「猿ヶ辻」には鬼門除けの猿細工がしてあり、猿ヶ辻から鬼門に向かって一直線で結ばれている幸神社には、それにちなんで名工・左甚五郎が彫り上げたといわれる御幣を持った猿の像が供えられています。




緑に囲まれた社殿には、猿田彦命とともに8柱の御祭神が配祀されています。



 奈良の都・平城京の頃から、都の鬼門の方角に方除けの意味で「賽の神」を祀る風習があったそうです。その風習を踏襲する形で祀られた幸神社ですが、現在社殿がある場所は、平安京創建当時の大内裏から見ると鬼門の方角からはズレがあることから、おそらく賀茂川のほとりを出発点に、方除けの幸神社は御所が移転するごとに祀られる場所を変えてきたと考えられます。現在の京都御所は、もともと藤原邦綱卿の邸宅だった土御門東洞院殿後白河上皇などの手を経て1331(元弘元)年に北朝の光厳天皇が里内裏として本拠を構えたのが始まりなので、その頃に幸神社も現在の位置に遷座されたと考えられます。

 応仁の乱の兵火によって大きなダメージを受けた幸神社は、荒廃しながらも何とか祭祀を受け継いできましたが、豊臣秀吉公による京都再興計画によって一町(約109m)四方あったといわれる境内が縮小の憂き目に遭います。その後、1682(天和2)年に会津藩出身の奥村右京仲之神主となって再興しますが、1788(天明8)年に起こった天明の大火で焼失するなど、名前に似合わぬ受難の歴史を耐え抜いて今日まで命脈を保ち、ようやく安息の日々を迎えて幸せを願う人々の厚い崇敬を集めています。



 
「御石さん」とも「石神さん」とも呼ばれる神石。拝むと縁に恵まれるといわれています。



 幸神社に祀られている御祭神は多彩で、道祖神と同視されて祀られることの多い猿田彦命が主祭神として祀られているのをはじめ、天之御中主神少彦名命猿田彦命天孫降臨の際に道案内をしたとされる瓊瓊杵尊事代主命可美葦牙彦舅尊天照大御神大国主命天鈿女命が配祀されています。境内の北東の位置には疫神社と「大日本最初御降臨旧跡地・猿田彦御神石」と記された神石が祀られています。「御石さん」とも「石神さん」とも呼ばれるこの神石には、縁に恵まれ幸せが訪れるという御利益があるそうですが、触れると祟りがあるとも伝えられています。その南側に建つ摂社には、稲荷社天満宮淡嶋社春日社などが祠を構えています。



 
摂社にも多くの御祭神が祀られています(左)。幸神社の東の通りにある石柱が目印(右)。



アクセス
・京阪電車鴨東線「出町柳駅」下車、西へ徒歩10分
幸神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放





京都・平安神宮。

2008年12月24日 | ◇京都府 -洛東
厄除け・開運招福・縁結び

平安神宮

(へいあんじんぐう)
京都市左京区岡崎西天王町97



24mもの高さを誇る平安神宮の赤鳥居。1929(昭和4)年建立。


〔御祭神〕
桓武天皇
(かんむてんのう)
孝明天皇
(こうめいてんのう)



 1867(慶応3)年11月9日に徳川慶喜公による朝廷への大政奉還が行われ、その1ヶ月後の12月9日に出された「王政復古の大号令」によって260年にわたる江戸幕府の長い歴史に終止符が打たれた幕末。幕府亡き後、世界最大の都市であった江戸は首都機能を移転させないと衰退してしまうという前島密卿の「江戸遷都論」などに基づき、西の都・京都に対して東の都という意味で「江戸」の地名が1868(慶応4)年に「東京」と改められ、元号も「明治」と改められて遷都の地ならしが行われました。

 京都では強い遷都反対運動が展開されましたが、結局1869(明治2)年に明治天皇が活動拠点を東京に移され、政府機能も1871(明治4)年までにほぼ移転が完了し、それと相反して京都の人口は35万人から20万人余りへと激減してしまいました。そんな京都の危機に対して、京都市民の復興への情熱は非常に高く、繊維産業の近代化や琵琶湖疏水の整備など、数多くの復興事業が展開されて再び京都は輝きを取り戻していきました。



 
1895(明治28)年の創建時に建てられた応天門(左)と大極殿(右)。



 そんな中、京都市民の熱心な誘致運動が功を奏し、1895(明治28)年に第4回内国勧業博覧会を京都で開催することが決定され、桓武天皇による平安京遷都1100年を記念した記念事業の中心的建築物として平安朝時代の建築様式に基づいて同年に建立されたのが、大きな赤鳥居で有名な平安神宮です。

 平安神宮は平安時代の大内裏の正庁である朝堂院を約8分の5の大きさで再現した大極殿や応天門、蒼龍楼や白虎楼の建築は、政府からの資金ではなく京都市民を中心とした日本全国からの寄付金によってまかなわれ、まさに新生京都の象徴として市民の厚い崇敬を集めました。創建当初は平安京を創建した桓武天皇を御祭神として祀っていましたが、「皇紀2600年」とされた1940(昭和15)年には幕末の動乱期を支えた平安京最期の帝・孝明天皇も御祭神として合祀されました。



 
大極殿から向かって東側に建つ蒼龍楼(左)と、西に建つ白虎楼(右)。



 創建時から、名作庭家として数々の日本庭園を手がけてきた「植治」こと7代目小川治兵衛によって神苑の造営が始められ、20年以上をかけて花菖蒲が浮かぶ白虎池や豊かな植栽に囲まれた茶室「澄心亭」などが整えられた西神苑と、14個の丸い切石を蒼龍池に橋上に並べた臥龍橋が美しい中神苑が作庭されました。その後、1911(明治44)年からは東神苑の建設が着手され、1912(大正元)年に「橋殿」と呼ばれる泰平閣が建てられるなど着々と建設は進み、1916(大正5)年に広大な池泉・栖鳳池を含む東神苑が完成しました。

 1929(昭和4)年には応天門の南方に24mもの高さを誇る朱塗りの大鳥居が建立され、孝明天皇が合祀された1940(昭和15)年には大極殿の奥に本殿や内拝殿、そして神楽殿や社務所などが整備されて社殿の大修理も行われました。1976(昭和51)年には過激派による放火によって本殿や内拝殿など9棟が焼失。国の文化財の指定を受けていなかったために国からの支援は受けられませんでしたが、平安神宮創建の時と同じく全国から有志による募金が集まり、1979(昭和54)年に見事に再建されました。主義主張の自由はもちろん保障されなければなりませんが、何も産まず何も変える事の出来ないこのような愚行は、断じて許されるものではなく、愚の骨頂としか言いようがありません。



 
小川治兵衛が手がけた南神苑を流れる曲水(左)と西神苑の白虎池(右)。



 平安神宮では、創建を記念して平安京遷都の日である10月22日に「京都3大祭」に列せられる「時代祭」が行われることでも有名です。祭のメインである時代行列は、明治維新時の維新勤王隊列・幕末志士列を皮切りに、江戸時代の徳川城使上洛列・江戸時代婦人列、安土桃山時代の豊公参朝列・織田公上洛列、南北朝の南朝方である吉野の楠公上洛列・中世婦人列、鎌倉時代の城南流鏑馬列、平安時代中期の藤原氏隆盛の頃の藤原公喞参朝列・平安時代婦人列、平安京遷都時(延暦年代)の延暦武官行進列・延暦文官参朝列というように、7つの時代と18の列で構成されてきました。

 それまで後醍醐天皇と対立して室町幕府を開いた足利尊氏公は「逆賊」とされ、時代行列からも排除されていましたが、ようやく2007(平成19)年から「吉野」の時代の前に室町時代の室町幕府執政列・室町洛中風俗列も参列が許されるようになりました。「先の戦争」が第2次世界大戦のことではなく応仁の乱のことを指すという話は聞いていましたが、このようなところにも長い歴史を誇る京都の歴史観が伺えます。2,000人以上が参加する時代行列は、正午に京都御所を出発し、丸太町通から烏丸通を南下して 御池通・河原町通といった中心地を進み、三条通から神宮通を通って平安神宮までの4・5㎞余りの行程を練り歩き、全ての行列が到着したのち16時から大極殿祭並還幸祭 が執り行われます。



 
中神苑の蒼龍池(左)と、南から眺める東神苑の栖鳳池の景色(右)。

 
栖鳳池に架かる泰平閣から見た平安神宮会館(左)と、植栽越しの泰平閣(右)。



アクセス
・京都市営地下鉄東西線「東山駅」下車、北へ徒歩10分
・京阪電車鴨東線「神宮丸太町駅」下車、東へ徒歩15分
平安神宮地図  【境内MAP】 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (神苑は大人600円、小人300円)

拝観時間
・境内拝観:6時~18時 (3月1~14日・9~10月は17時30分、11~2月は17時閉苑)
・神苑拝観:8時30分~17時30分 (3月1~14日・9~10月は17時、11~2月は16時30分閉苑)

公式サイト






京都・金地院(南禅寺塔頭)。

2008年12月18日 | ◇京都府 -洛東


南禅寺 金地院

(こんちいん)
京都市左京区南禅寺福地町86-12

南禅寺塔頭





〔宗派〕
臨済宗南禅寺派

〔御本尊〕
地蔵菩薩尊



 南禅寺の塔頭、金地院の創建は、室町時代に遡ります。応永年間(1394~1428年)、室町幕府第4代将軍・足利義持公は、深く帰依していた南禅寺第68世住持・大業徳基禅師を開山に迎えて洛北・鷹ケ峯の地に禅刹を創建しました。これが金地院の始まりだといわれています。その後、1605(慶長10)年になって以心崇伝金地院を賜り、南禅寺境内の現在地に移築されました。

 金地院の中興の祖である以心崇伝は、1569(永禄12)年、足利将軍家家臣の一色秀勝公の次男として生まれました。父の没後、南禅寺玄圃霊三和尚のもとで出家。靖叔徳林和尚に教えを学び、醍醐寺相国寺西笑承兌のもとで修行を重ね、建長寺などの禅刹で住持を務めたのち、1605(慶長10年)に南禅寺に戻って第270世住持の座に就き、南禅寺の再興に力を注ぎました。



 
1611(慶長16)年に伏見城の遺構を移築した方丈(左)と明智門へ続く敷石(右)。



 江戸幕府を開いた徳川家康公は、側近として活躍していた西笑承兌の推挙を受け、西笑承兌が入寂した翌年の1608(慶長13)年に以心崇伝を駿府に招きます。そこで外交関係の書記を務めるようになった以心崇伝は、その才覚を認められて重用されるようになり、宗教政策や内政・外交など多岐にわたってブレーンとして幕政にも参画するようになりました。キリスト教の禁止や寺院諸法度、幕府の基本法である武家諸法度や朝廷勢力をコントロールするために定められた禁中並公家諸法度など、江戸幕府の礎となる数々の政策の制定に尽力しました。

  しかし、豊臣家を滅亡に追い込むきっかけとなった方広寺銘鐘事件に関与したり、それまで僧録司が置かれて禅宗界のトップに君臨していた相国寺からその座を奪い、1619(元和5)年に自ら僧録となってその特権を占めるなど幕府の権力をバックに辣腕を揮った以心崇伝は、「大慾山気根院僭上寺悪国師」とあだ名されるなど世間や仏教界からはあまり人気はなかったようで、功罪評価は合い分かれていますが、戦国期から天下泰平の世に移りゆくこの時代の中で、圧倒的な存在感を放つ人物であったことは間違いありません。



 
1868(明治元)年に大徳寺から移された明智門(左)と、その奥に広がる弁天池(右)。



 入口で拝観受付を済ませ、生け垣沿いに敷石を進むと、1582(天正10)年に明智光秀公が母の菩提を弔うために黄金千枚を寄進して建立したといわれる明智門に辿り着きます。この明智門は、もともと大徳寺に寄進されたもので、その場所に御所にあった日暮門が移築されることになり、1868(明治元)年に金地院へと移築されてきました。

 徳川家康公が没した1616(元和2)年、神格化するにあたってその神号を決める際、吉田神道に従って「大明神」として祀ることを主張した以心崇伝に対して、同じく徳川家康公のブレーンを務めていた南光坊天海僧正が「山王一実神道によって祀り、権現とするように」との遺言があったとして「大権現」を名乗ることを主張して激しく対立し、最終的に「東照大権現」という神号にすることに決定されました。天海僧正の出自に関しては明確なものはなく、様々な説がありますが、一説には本能寺の変ののちに生き延びた明智光秀公が天海僧正の正体ではないかという説があります。それを考えると、金地院の境内に明智門が移設されていることや、徳川家康公の遺髪と念持仏とを祀って1628(寛永5)年に造営された東照宮が祀られているのは、なんとも不思議な縁だと感じます。



 
江戸時代を代表する庭園「鶴亀の庭」(左)と、方丈の障子越しに見た石組み(右)。



 金地院には特別名勝に指定されている「鶴亀の庭」があります。以心崇伝徳川家光公を招くために造営したといわれており、名作庭家である小堀遠州の意匠によって造られた枯山水庭園です。植栽と石組みで鶴と亀が表現されているこの庭は「祝言庭」とも呼ばれ、永劫の繁栄を意味する庭だといわれています。



 
1628(寛永5)年に造営された東照宮(左)と楼門(右)。



アクセス
・京都市営地下鉄東西線「蹴上駅」下車、北へ徒歩10分
金地院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・400円 ※八窓席茶室・書院襖絵の拝観は要予約(往復ハガキ)

拝観時間
・8時30分~17時 (12月~2月は16時30分まで)








京都・南禅寺。

2008年12月16日 | ◇京都府 -洛東


瑞龍山 太平興国南禅禅寺

(ずいりゅうさん たいへいこうこくなんぜんぜんじ)
京都市左京区南禅寺福地町86





〔宗派〕
臨済宗南禅寺派 大本山

〔御本尊〕
釈迦如来像
(しゃかにょらいぞう)



 錦秋の季節、最寄駅である京都市営地下鉄「蹴上駅」の地下深いホームから地上の陽の光のもとに出ると、赤や黄色に彩られた東山の峯々が目に飛び込んできます。その美景を眺めながら北へ向かうと、傾斜が急なために流れを遡ることが出来ない船舶を台車に載せて運搬したというインクラインのレールが走るレンガ造りのアーチに出会います。その先に、禅寺の最高格式を誇る古刹・南禅寺がそびえ立っています。



 
藤堂高虎公の寄進によって建てられた三門(左)と、三門から眺めた美しい紅葉(右)。



 もともと東山山麓のこの地には、大津にある三井寺の別院・最勝光院が建てられていましたが、その寺勢が衰えたのち、1264(文永元)年には美観を愛した後嵯峨天皇が開き、息子・亀山法皇が愛した離宮・禅林寺殿が営まれました。伝説によると、夜な夜な出没する妖怪変化たちに悩まされていた亀山法皇は、西大寺にいた叡尊上人に悪霊祓いを命じましたが効果がなく、困り果てて東福寺無関普門国師を招きました。国師が弟子たちとともに禅林寺殿に入って坐禅や掃除、勤行など普段通りの修行生活を行った途端、たちまち妖かしの者たちは雲散霧消したため、その法力に感嘆した亀山法皇は国師に深く帰依し、1291(正応4)年にここを寺院に改めて日本初の勅願の禅寺を建立しました。これが南禅寺の始まりです。

 開山として招かれた無関普門国師は、すでに80歳の高齢であったことから入寺して間もなく入寂。その後を継いだ規庵祖円禅師によって伽藍の整備が進められ、1299(永仁7)年には威容が整えられました。開山当初は「龍安山禅林禅寺」と呼ばれていた寺号が「太平興国南禅禅寺」と改められたのも、正安年間(1299~1302年)のこの頃の事です。



 
三門の奥の法堂は豊臣秀頼公が寄進したが1895(明治28)年に失火で焼失。
1909(明治42)年に再建されました(左)。右は、国宝指定の方丈。



 中国の禅寺の格式に倣い、1334(建武元)年に後醍醐天皇によって「五山之第一」とされた南禅寺は、1385(至徳3)年になって自らが創建した相国寺を五山の第1位としたいと欲した室町幕府第3代将軍・足利義満公によって別格に祀り上げられ、「天下五山之上」という格式を与えられ、同時に五山は京都五山鎌倉五山に分けられました。

 その後南禅寺は、1393(明徳4)年と1447(久安4)年に火災によって焼失、1467(応仁元)年の応仁の乱の兵火などで焼かれて衰退しましたが、1605(慶長10)年、かつて南禅寺の第266世住持を務めていた玄圃霊三和尚のもとで修行を積み、徳川家康公のブレーンとして活躍して「黒衣の宰相」の異名で呼ばれた以心崇伝が第270世住職になって以来、復興が進められました。



 
小方丈の大玄関(左)と、大方丈庭園(右)。「虎の子渡し」の石組みで有名です。



 南禅寺といえば、高さ22mを誇り、「天下龍門」の別名を持つ壮大な三門が有名です。1778(安永7)年に初演された歌舞伎「山門五三桐」の劇中、石川五右衛門がこの上から京の街を見渡して「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは値万両、万々両」と大見得を切ったという名台詞で世に知られる三門は、大阪夏の陣で戦死した一門の冥福を祈るために藤堂高虎公が1628(寛永5)年に寄進したものです。ちなみに、石川五右衛門が釜茹での刑に処されたのは三門が建てられる30年以上前の1594(文禄3)年のことですので、「絶景かな」の一節は完全なフィクションです。



 
小方丈の西にある枯山水庭園「如心庭」(左)と、北にある「六道庭」(右)。



 南禅寺で忘れてならないのは、国宝に指定されている方丈と、それを彩る素晴らしい庭園です。方丈は大方丈と小方丈とに分かれています。大方丈は、天正年間に豊臣秀吉公が寄進した京都御所の清涼殿で、慶長年間に京都御所が新築されるのに伴って1611(慶長16)年に移築されたものです。一方の小方丈は伏見城にあった小書院を移したもので、どちらも狩野探幽をはじめとする狩野派の襖絵で飾られています。

 大方丈庭園は小堀遠州の作庭といわれ、白砂を敷いた広い余白の中に鮮やかな緑苔と様々な大きさの6つの石組みを固めた枯山水庭園で、石組みは親虎と子虎に見立てられて「虎の子渡し」と呼ばれています。小方丈の庭園は如心庭と呼ばれ、白砂の中に「心」の字を表す石組みが目に鮮やかな枯山水庭園となっています。



 
小方丈の東にある「華厳庭」(左)。その南にも植栽に彩られた庭があります(右)。



アクセス
・京都市営地下鉄東西線「蹴上駅」下車、北へ徒歩10分
南禅寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・境内無料 (方丈庭園500円、三門500円)

拝観時間
・境内は常時開放、方丈庭園と三門は8時30分~17時 (12月~2月は16時30分まで)
※12月28日から31日までは閉園

公式サイト









京都・南禅院(南禅寺別院)。

2008年12月14日 | ◇京都府 -洛東


南禅寺 南禅院

(なんぜんいん)
京都市左京区南禅寺福地町86

南禅寺別院



琵琶湖疏水が流れる水路閣の南に建つ南禅院。


〔宗派〕
臨済宗 南禅寺派



 東山山麓に抱かれた南禅寺の三門の南に、豊かな木々に囲まれたレンガ造りのアーチがあります。このアーチは、「哲学の道」沿いを流れる琵琶湖疎水を通す「水路閣」と呼ばれる建造物で、今でも豊かな疎水の水流がこの上の部分を駆け抜けています。モダンな造りの水路閣はすっかり周囲の植栽に溶け込み、「相棒」などをはじめ、ドラマの撮影などでもよく使われる名所となっています。その水路閣の奥にある石段を登ると、「京都三名勝庭園」のひとつにも賞される美しい庭園を持つ、南禅寺の別院・南禅院が旅人たちを待っています。



 
桂昌院の支援によって再建された方丈の全景(左)と西側の縁側からの眺め(右)。

 
方丈の西側に広がる風景。美しい苔庭(左)の向こうに池泉が見える(右)。



 南禅寺が建立される以前、この地には後嵯峨天皇が開き、息子・亀山天皇が愛した離宮「禅林寺殿」が建っていました。1264(文永元)年に造営された禅林寺殿は「上の宮」と「下の宮」とに分かれていましたが、亀山天皇はその「上の宮」に1287(弘安10)年に持仏堂を建立、1289(正応2)年には「上の宮」で落飾(出家)して法皇となり、この離宮も「南禅院」と呼ばれるようになりました。「南禅寺」という寺名はこの名をもとに付けられたため、南禅院は「南禅寺発祥の地」といわれています。



 
方丈の南の縁側からの紅葉(左)と、その先に広がる曹源池(右)。



 南禅院は、1393(明徳4)年と1447(久安4)年に南禅寺一帯を襲った火災や、1467(応仁元)年の応仁の乱の兵火などで焼かれて衰退していましたが、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉公の生母・桂昌院の支援を受けて1703(元禄16)年に再興されました。

 もともと京都堀川通西藪町の八百屋の娘として生まれたといわれる桂昌院は、幼い頃に仁和寺の僧侶から「将軍家の御生母様になる相がある」といわれ、そのお告げ通り、母が再婚した先での繋がりから江戸城に使える女中となり、その美貌から春日局に見出され、3代将軍徳川家光公に寵愛されて懐妊し、お告げ通り将軍家の生母となった日本版シンデレラストーリーの主役となった女性です。



  
池泉の横には亀山法皇分骨廟(左)と一山国師塔(右)が並ぶように建てられています。


 「玉の輿」という言葉は、「お玉」という幼名だった桂昌院のサクセスストーリーから生まれたという説もあるように、人々が羨む望外の幸せを手に入れた彼女は、この幸せは、ひとえに神仏の御加護によるものであると仏門に傾倒。さらに、徳川綱吉公になかなか跡継ぎの子が出来なかったこともあり、その祈願の意味もあって京都などの寺院の再興などに心血を注いだといわれています。南禅院の再興もそんな桂昌院の思いによって行われ、当時再建された総檜造りの方丈などは、今もその美しい姿を後世に伝えてくれています。



 
庭園の奥を流れる曹源泉(左)と、曹源池越しに眺める方丈(右)。



 南禅院は美しい庭園を持つことでも有名です。亀山法皇自らが心血を注いで作庭し、夢窓疎石国師が手を加えて完成させたともいわれている池泉回遊式庭園は、吉野山の桜、難波の葦、龍田の楓などを移植したといわれ、四季折々に様々な彩りを見せてくれる豊かな植栽に包まれた名園で、洛西にある西芳寺(苔寺)天龍寺と並んで「京都三名勝庭園」のひとつとして賞されています。青々と茂る新緑の季節でも、紅色や黄に色付いた楓に染められた錦秋の季節に訪れても、その時々でさまざまな美しい表情を見せてくれる南禅院の庭園は、時代を重ねた今でも多くの人々に愛され続けています。



 
水路閣を彩る楓(左)と、その上に今も流れる琵琶湖疏水の清流(右)。



アクセス
・京都市営地下鉄東西線「蹴上駅」下車、北へ徒歩10分
南禅院地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・300円

拝観時間
・8時30分~17時 (12月~2月は16時30分まで)  ※12月28日から31日までは閉園

公式サイト
  ※サイト内「拝観のご案内」→「南禅院」








京都・天授庵(南禅寺塔頭)。

2008年12月13日 | ◇京都府 -洛東


南禅寺 天授庵

(てんじゅあん)
京都市左京区南禅寺福地町86‐8

南禅寺塔頭



「天下之上」に列せられた禅刹・南禅寺の中門をくぐった先に建つ天授庵。


〔宗派〕
臨済宗 南禅寺派




 「絶景かな、絶景かな」という歌舞伎の名台詞で有名な南禅寺の三門。その三門の上に登って周囲を見渡すと、南西にひときわ美しい紅葉に囲まれた庭園があることに気付きます。この庭園を持つのが、南禅寺第一の塔頭である天授庵です。



 
書院(左)はライトアップ時のみ中に入れます。南からの風景も味わい深いものがあります(右)。



 南禅寺は、亀山法皇によって1291(正応4)年に開かれた我が国初の勅願禅寺で、「大明国師無関普門が開山となって創建されました。しかし、無関普門は高齢のため創建直後に入寂され、実質的な伽藍の整備は第2代住職の規菴祖円禅師の手によって行われました。このため、しばらくの間開山である無関普門の功績は顧みられることはありませんでした。こういった状況を憂えた南禅寺第15代住職・虎関師錬は、無関普門の功績を讃えるための開山塔の建立を朝廷に上奏し、1339(暦応2)年に光厳上皇より塔を「霊光」と名付け庵を「天授」と名付けるという勅許を賜り、翌年に見事に菩提を弔う開山塔が完成しました。これが天授庵の始まりです。



 
順路に沿って歩くと最初に広がる北庭(左)。夜には竹が美しく照らされます(右)。



 天授庵は、南禅寺同様1393(明徳4)年と1447(文安4)年の火災で焼失し、さらに1467(応仁元)年の応仁の乱による兵火によって焼かれて以来衰退していましたが、1602(慶長7)年に入って当時南禅寺の第266世住持を務めていた玄圃霊三和尚が中心となり、弟子であった雲岳霊圭和尚を天授庵の主に据えて再興計画を推進しました。

 足利将軍家に仕え、織田信長公や豊臣秀吉公、徳川家康公からも重用されていた戦国武将であると同時に、藤原定家卿の流れを汲む二条流の歌人・三條西実枝卿から古今伝授を受けるなど、当代一流の文化人でもあった細川幽斎(細川藤孝)公の義理の甥であった雲岳霊圭和尚は、天授庵復興のバックアップを細川幽斎公に依頼。その快諾を受けて再興工事が始められ、本堂や正門、書院などの整備が進められて威容が整い、細川家もここを菩提所として支援を続けました。方丈は長谷川等伯の襖絵で飾られています。



 
方丈の前庭は「淵黙庭」と呼ばれる枯山水庭園。昼の姿(左)と夜の姿(右)。



 天授庵には2種類の見事な庭園があります。東側に広がる方丈の前庭は「淵黙庭」と呼ばれ、白砂と緑苔のコントラストが鮮やかで、菱形の飛石や美しいサツキ・楓の植栽に囲まれた枯山水庭園です。もう一つは、南側の書院前に広がる庭園で、杉や楓など様々な彩りを見せる植栽に囲まれた地割に鎌倉時代から南北朝時代の特色が見られる池泉回遊式の名園ですが、明治時代に蓬莱島が設けられて風合いが変えられています。



 
方丈横の木戸(左)。心字池の蓬莱島に組まれた見事な石組み(右)。

 
書院の南に広がる池泉回遊式庭園。昼の姿(左)と紅葉美しい夜の姿(右)。



アクセス
・京都市営地下鉄東西線「蹴上駅」下車、北へ徒歩10分
天授庵地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・400円 (ライトアップは別料金、400円)

拝観時間
・9時~17時 (12月~2月は9時~16時30分)  ※毎年11月中旬から下旬にライトアップ (17時30分~21時)