④ 栴檀は双葉より芳し
一説によると、菅原道真公生誕地とされる菅原院天満宮。
845(承和12)年6月25日、この春に超難関である
文章博士へと昇進を果たし、祝賀の雰囲気の残る
菅原是善公の家に一人の男の子が産声をあげました。それまでに2人の子供を幼くして亡くし、今度ばかりはと
伊勢神宮に安産祈願をするなど無事の出産を心から願っていた
菅原是善公は大変喜び、この子に
阿古という名を付けました。のちの
菅原道真公の誕生です。
出生に関する伝説
菅原道真公は、父・
菅原是善公と母・
薗文子姫(伴氏の出身と伝えられています)との間に生まれた3男ですが、出生に関しては様々な伝説が残されています。
菅原是善公が
菅原院の邸宅内を散歩していると、庭の桜の木の下に見知らぬ子供が草花を摘んで遊んでいるのを見つけました。そのあまりに才気に満ちた容貌をとても気に入った
菅原是善公は、孤児だというこの子供を養子に迎え入れて育て、その子が成長して
菅原道真公となったという説や、出雲国司を務めていた頃、
菅原是善公は祖先・
野見宿禰公の墓参りの際に道案内を務めた乙女をとても気に入り、傍に置いていたところめでたく懐妊。この乙女が出産した子供が
菅原道真公だったという伝説があります。
また、天女伝説の残る滋賀県の余呉にも
菅原道真公の出生伝説が残されています。この地に舞い降りた天女は、
桐畠太夫という若者に「
天の羽衣」を取り上げられたため、この地に残ることを決意します。次第に愛し合うようになった2人の間には1人の男の子が産まれますが、ある時「
天の羽衣」を見つけ出した天女がこれを身に纏うと、みるみるうちに体が浮き上がって、天空へと昇ってしまいました。残された子供の泣き声はまるで経文のような不思議な響きをしており、
菅山寺の住職・
尊元和尚が唯の子供ではないと感じて引き取って育てられたそうです。その後、この話を聞いた
菅原是善卿は
菅山寺を訪れ、才気に溢れた立派な姿に魅せられて養子として引き取り、都に連れ帰って慈しみ育てました。この子供こそが
菅原道真公だったという伝説も残されています。いずれにしても、
菅原道真公が非凡な才智を持つスーパースターだったがゆえに生まれた伝説だと考えられます。
出生地に関する伝説
さらには、
菅原道真公の出生地に関してもいくつかの説があります。一つは、父・
菅原是善公が邸宅を構えていた
菅原院で生まれたという説。大内裏の東側にあったこの地には、「
菅原院天満宮」が建てられていて、
菅原道真公が産湯をつかったという井戸が残されています。
菅原院は、父・
菅原清公公邸から独立した
菅原是善公が、妻の実家である
伴氏の屋敷があったこの地に移り住んでいたという説もありますが、
伴氏の屋敷がここにあったのかどうか、はっきりしたことは分かっていません。
また一説には、現在「
菅大臣神社」がある地で生まれたとも言われています。この地には
天神御所あるいは
白梅殿と呼ばれる菅原家の邸宅があり、「
菅家廊下」があった場所だと伝えられています。ここにも
菅原道真公が産湯をつかったという井戸が残されています。さらには西大路九条にある
吉祥院天満宮の地が生誕の地だという説もあります。ここは
土師古人公の代に平安京遷都に伴って奈良から移転してきたときに屋敷を構えていたところで、ここにも産湯をつかったという井戸の跡や、
菅原道真公が生まれたときの胞衣
(胎盤)を埋めたといわれる
菅公胞衣塚があります。
菅大臣神社の「天満宮誕生水」。
阿古と呼ばれた幼いころの
菅原道真公は健康に恵まれず、何度となく病に倒れたそうです。すでに2人の子を亡くしている母・
薗文子姫は我が子の病弱なことに心を痛め、日頃から厚く信仰していた観世音菩薩に無事の成長を一心に祈願していたといわれています。その甲斐あってか病を乗り越え、順調に齢を重ねていった
菅原道真公は、菅原家の血を引く者にふさわしく、幼い頃から聡明さを発揮しはじめます。
うつくしや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある
この和歌は、わずか5歳のときに詠んだ詩で、自らの「
阿古」という名を詠み込んでいるなど、幼い子の可愛らしさが感じられてとても好感のもてる微笑ましい詩です。この詩が「
文章博士の幼き息子は、その血に恥じぬ神童である」と評判を呼び、ついには時の
仁明天皇の耳にも達して「ぜひとも会ってみたいものだ」ということになりました。父・
菅原是善公に伴われて参内した
菅原道真公を見た
仁明天皇はひと目で気に入り、「
汝学問して父祖にも勝り家名を輝かすように」とのお言葉をかけられたといわれています。5歳で前述の和歌を詠んで周囲を感嘆させた
菅原道真公は、さらに11歳のときに見事な漢詩を詠んでいます。
菅原道真公の優れた才能を伸ばすため、
菅原是善公は「
菅家廊下」の門下生である
島田忠臣公を指導にあたらせて、詩作などの英才教育を施しており、その成果がこの詩によく顕れています。また、14歳のときに書いた「
朧月に独り興ず」という漢詩は秀作として「
和漢朗詠集」に採用されています。現代医学では、9歳から12歳頃まで年代は人間の神経系の発達が一番伸びる時期で、この頃に習得したことは勉強であれ運動であれ最も吸収するのが早いといわれています。
菅原道真公もこの時期に恵まれた環境の中で本物の教育をじっくりと受けたことが、持って生まれた才能を花開かせる礎となったのではないかと考えられます。また、とかく勉学の部分のみが注目されがちな
菅原道真公ですが、幼い頃から弓道にも打ち込み、非凡な才能を発揮していました。26歳の時に師・
都良香卿の屋敷に招かれた
菅原道真公は、正月の弓始めの式で百発百中の見事な腕前を披露して居並ぶ人々を感嘆させたといわれています。幼い時期に真摯に努力したことの結果が文武両道の好青年を生んだのでしょう。
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