神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・北菅大臣神社。

2006年03月29日 | ◇京都府 -洛中
学業成就

北菅大臣神社

(きたかんだいじんじんじゃ)
京都市下京区仏光寺通新町西入菅大臣町




菅原道真公の父・是善公を祀っています。


〔御祭神〕
菅原是善公
(すがわらのこれよしこう)



 烏丸通から仏光寺通に入り、与謝蕪村邸跡日吉神社に寄り道しながら、東へと歩を進めると、菅原道真公の父・菅原是善公を祀る北菅大臣神社へとたどり着きます。この神社には境内がなく、よくよく気をつけないと通り過ぎてしまうような奥まった住宅街のなかに溶け込むように建っています。




通りの角に立つ民家の片隅に「菅家邸跡」の石碑をみつけました。



 ここ北菅大臣神社と隣の菅大臣神社のある一帯は、平安のころ菅原家累代の屋敷が建っていました。平城京から長岡京、そして平安京に都が遷されたとき、菅原道真公の祖父・菅原清公公が居を構えたところで、「菅家廊下」と呼ばれる当時トップレベルを誇った私塾があったところでもあります。政界に多数の卒業生を送り込んだこの塾は、さしずめ「平安版・松下政経塾」といった感じでしょうか。




この奥に社殿のみが鎮座しています。


 
 菅原道真公の父・菅原是善公の代には、菅原院天満宮(京都御所の西隣)のあたりに住まいを移し、「菅家廊下」も菅原院 に移転したのですが、菅原道真公の代にはふたたび仏光寺通のこの場所に本拠地をもどし、「菅家廊下」や書斎「山陰亭」、白梅殿と呼ばれる屋敷などが建てられました。


東風吹かば にほひをこせよ梅の花 あるじなしとて 春な わすれそ

この有名な詩はこの地で詠まれたといわれています。この詩は、道真公没後1世紀を経た1006年あたりに編纂された『拾遺和歌集』ではじめて世に出たとされていますが、そこには

東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな

と記されていました。「春な 忘れそ」バージョンが出てくるのが1180年頃成立したといわれる『宝物集』以降のことです。


 神社は、菅原道真公の死後すぐ(10世紀初頭)に建てられましたが、もともと北菅大臣神社菅大臣神社は同じ敷地の中にあり、一つの神社として祀られていたそうです。創建後さまざまな戦火に巻き込まれるなどの被害を受け、鎌倉時代に入って現在のような別々の神社として再建されたそうです。



額には「紅梅殿」の文字が。歳月による汚れで読みにくくなっています。



アクセス
・阪急電車「烏丸駅」下車、南東へ徒歩15分
 北菅大臣神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


菅原道真の実像 (臨川選書)
所 功
臨川書店


神戸・春日神社(青木)。

2006年03月24日 | ■神戸市東灘区
地域守護・開運厄除け

春日神社

(かすがじんじゃ)
神戸市東灘区北青木4-20-1



1997(平成9)年に再建された鳥居。


〔ご祭神〕
天児屋根命
(あめのこやねのみこと)

藤原氏の氏神として信仰されています。




 岡本梅林公園の奥の八幡谷からJR摂津本山駅の西を抜け、魚崎浜へと流れる天井川。その流れのすぐ脇に、旧西青木村の氏神である春日神社が鎮座しています。春日神社は、本住吉神社が創建された際に西青木が供米の地に定められたのを機に建てられた神社といわれ、現在も本住吉神社が連絡先になっているように「住吉さん」との繋がりの深い神社です。







 青木と書いて「おおぎ」とよむ地名の由来は、神武東征時に青いカメに乗って水先案内を務めた神・椎根津彦命(しいねつひこのみこと) に関わりがあるのですが、それについては青木八坂神社を取り上げる時に詳しく書きたいと思います。というのも、青木の町は青木地区西青木地区に分かれていて、青木地区八坂神社西青木地区春日神社とそれぞれ氏神が違います。

 そして地名についても『西青木は本住吉神社創祀にあたり、日向の例をならい青亀村を置き、供米の地と定めた』という話があり、同じ「青木」という名前ですが、ただ単に青木の西だから「西青木」というのとはニュアンスが異なるんだ、という地域のプライドや対抗意識といったものが感じられます。実際、江戸時代には本住吉神社を総氏神とする山路庄(住吉・野寄・岡本・田中・魚崎・横屋地区)に属し、本庄に属する青木地区とは行政の面からも区分けされていました。




社殿の脇にある1938(昭和13)年に起きた阪神大水害の復興記念碑。
濁流に乗って流されてきた石を用いて作られているそうです。




 人のつながりは青木・深江、祭りは本住吉神社、といった感じだったのでしょうか。この神社にはダンジリもあるそうです。



アクセス
・阪神電車「青木駅」下車、北西へ徒歩10分
 春日神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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兵庫県神社庁神戸市支部
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神戸・厳島神社(花隈)。

2006年03月19日 | ■神戸市中央区
航海安全・芸能向上

厳島神社

(いつくしまじんじゃ)
神戸市中央区花隈町6-5




花隈公園の北側、少し路地に入ったところに鎮座する花隈厳島神社。


〔御祭神〕
市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと=弁天さん)
大物主命
(おおものぬしのみこと=金刀比羅さん)


 厳島神社 の御祭神は「宗像三女神」と呼ばれる多紀理姫命市杵島姫命多岐都姫命の3姉妹の神々です。元々は、北九州を基盤とする海人集団(筑紫国の海人族・宗像君という説があります)が信仰していた海の守護神だったといわれており、揃って"美人"の誉れ高い女神だったそうです。北九州で信仰されていた宗像三女神が全国的に崇敬を集めるようになったのは、朝鮮半島や中国大陸との交流が増えた4世紀末頃からだといわれています。波浪高く潮流も速い、荒々しい海である玄界灘を越えるために、朝廷の使者が渡航前に宗像三女神に航海安全を祈願するようになってその霊威が全国的に拡がりを見せていったといわれています。安芸国の宮島に厳島神社を築いた平氏も、西日本を勢力基盤とする海洋氏族だったことから、航海安全に多大な神徳を持つ宗像三女神への崇敬の心を強く持っていたのではないでしょうか。





明治に入って現在地に落ち着いた厳島神社の社殿(左)と、嘉永3年建立の灯篭(右)。



 国際港湾都市として古来より海外との交流が活発に行われていた神戸にも、海の守護神である厳島神社が数多く祀られています。1180(治承4)年に福原京を築いた平清盛公は、都を造営する際に平家一門の氏神として深い信仰を寄せていた安芸国の厳島神社から、宮島の七浦にちなんで7つの社を神戸に勧請してきました。勧請されたのは宗像三女神の中でもとりわけ美人との誉れ高い市杵島姫命で、市杵島姫命は神仏習合の観点からから、仏教における弁財天と同神だとされていました。和田神社真光寺能福寺来迎寺済鱗寺恵林寺兵庫厳島神社氷室神社と、ここ花隈厳島神社の7社がその時に平清盛公によって建立された寺社だと伝えられています。

 もともと平清盛公が建立した頃は花隈村清水の地にありましたが、花隈城が築城される際に生田神社の境内に遷され、江戸時代の天明年間(1781~1789年)に宇治川の河口付近に遷されました。明治初期に神戸港が建設される際に今の神戸中央郵便局がある辺りに移転され、さらに郵便局が建設されることとなって現在の花隈の地に遷座されました。神戸ハーバーランドの近くにある「弁天町」という地名に、当時厳島神社があったという名残りが残されています。海沿いにあった頃を偲ばせる「神戸最初船場鎮守」と書かれた扁額が、現在も鳥居に掲げられています。





「神戸最初船場鎮守」の扁額(左)。地清女社・出雲大社・住広稲荷を祀る摂社(右)。


アクセス
・阪急電車「花隈駅」下車、北東へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車南西へ徒歩5分
厳島神社(花隈)地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


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京都・日吉神社(仏光寺通)。

2006年03月17日 | ◇京都府 -洛中
家内安全・五穀豊穣

日吉神社

(ひよしじんじゃ)
京都市下京区室町通高辻上ル山王町534



脇にある祠が気になって中をのぞいてみました。


〔ご祭神〕
大己貴命
(おおなむちのみこと)
大山咋命
(おおやまくいのみこと)
玉依姫命荒魂

(たまよりひめのみことあらみたま)



 烏丸通から仏光寺通にはいり、与謝蕪村邸の跡に建つ「京町家buson」の先を少し行くと、角に町屋と見まごう黒塀に囲まれた神社があります。堀河天皇の時、比叡山坂本の日吉大社の僧兵たちが強訴をするとき担いできた神輿をこの山王の森に捨てて帰ったことから、ここに社を建てて日吉神社を勧請したのが始まりだといいます。町の名前も、日吉神社を勧請してから別名である「山王」と名づけられたそうです。




「山王町」の名の通り、やはり「日吉神社」がありました。



 例年4月におこなわれる比叡山坂本の日吉大社での大祭・山王祭のとき、ここ仏光寺通の日吉神社から「未御供(ひつじのごく)」などをお供えしていたそうです。この御供は、御子神に対して、造花の椿や紙で作った筆・人形・鏡などを供えるという特殊なものでした。そんな比叡山坂本の日吉大社との結び付きもあってか、周囲の町が祇園さんに供する中にあってただ一つ明治維新までは坂本・天台座主の支配下にあったそうです。



アクセス
・阪急「烏丸駅」下車、南へ徒歩7分
・地下鉄「四条駅」下車、南へ徒歩7分
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拝観料
・無料

拝観時間
・普段は扉は閉じられています。


「京町家buson」 京都のおススメの店

2006年03月16日 | ◇京都府 -洛中



(きょうまちやぶそん)
京都市中京区仏光寺通烏丸西入ル南側






 昨日ご紹介した「与謝蕪村邸跡」には、「京町家buson」という町家が建っています。昭和9年から11年ごろに建てられた町家をそのまま利用している「京町家buson」は、美術品や和風雑貨を楽しんだり、京料理を味わうことが出来るお店にもなっています。

 ここでは入会金・年会費無料の「京都遊遊倶楽部」というものを主宰していて、会員を対象に京都を楽しむためのいろんなイベントを開いています。その場で登録すればすぐに会員メニューを楽しむ事ができます。




「京町家buson」の中庭。こんな庭のある家に住んでみたい!



 会員メニューには、本物の舞妓さんたちの京舞を楽しむイベントがあったり、おいしい京料理を食べられたり、茶室で京の和菓子が楽しめたり。また、ここを経営しているのが「啓明」さんという呉服屋さんなので、見事な着物の展示や代々の美術品コレクションなども楽しめるなど盛りだくさんです。




表千家の堀ノ内宗完さんより「明星軒」と名付けられたお茶室。中庭の景色を楽しめます。



アクセス
・阪急電車「烏丸駅」下車、南西へ徒歩5分
 京都市営地下鉄烏丸線「四条駅」下車、南西へ徒歩5分
 京町家buson地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

営業時間
・11時~18時(土・日・祝日のみ営業)

公式サイト
  「京町家buson」公式サイト


神戸・南宮宇佐八幡神社。

2006年03月16日 | ■神戸市中央区
厄除開運・産業守護・勝ち運

南宮宇佐八幡神社

(なんぐううさはちまんじんじゃ)
神戸市中央区脇浜町2-3-6




阪神高速3号線の高架の脇に立つ南宮宇佐八幡神社の外観。


〔御祭神〕
応神天皇
(ほんだわけのみこと=誉田別命


 神戸の灘区と中央区にまたがるように、海側に新しい町が生まれました。灘区側を灘浜、中央区側を脇浜といい、HAT神戸という住宅街も出来ていますが、その近くに古からの脇浜の鎮守社である南宮宇佐八幡神社が鎮座しています。1336(建武3)年、足利尊氏公追討のため兵を進めていた楠木正成公は、この辺りで休息をとって八幡大神に必勝を祈願したといいます。その後、村民たちがその地に八幡神社を建てたのが始まりといわれており、古老のかたの話では元来「南宮(なんぐう)」は楠木正成公にちなんで「楠宮」と呼ばれていたそうで、時代を経るにつれ「南宮八幡神社」という名に変化していったそうです。南宮宇佐八幡神社には常駐の宮司はおらず、秋の大祭の時(10月第三日曜日)などには生田神社から宮司がお見えになり、神事を執り行っています。社務所の脇の備品にも、大きく「生田神社」と書き込まれていました。




 
再建された白亜の鳥居(左)と、社殿の左隣に立つ脇浜稲荷神社(右)。


 
 一般に、八幡神社には応神天皇神功皇后がそろって祀られていることが多いのですが、南宮宇佐八幡神社には応神天皇だけが祀られています。右奥の摂社には海の近くだけあって住吉の3神が、左にはお稲荷さんが祀られています。南宮八幡神社は昭和7年に現在地に移転されて大々的に造営が行われ、この際に現在の社殿の100mほど東にあった宇佐八幡神社を合祀して南宮宇佐八幡神社となりました。境内の北を走る国道2号線沿いの「脇浜二丁目交差点」の南側には、宇佐八幡神社があったことを示す石碑が残されています。南宮宇佐八幡神社村社という社格だったため、官幣神社のように国の保護を受けることは出来ませんでしたが、この南に工場のあった神戸製鋼所をはじめとする地元企業の手厚い庇護を受けて数十年に一度の割合で社殿が建て替えられていたそうです。戦時中は食糧難から境内には芋などが植えられ、その蔓が社殿に巻き着いていたこともあったようです。また、別の記録を見ると、以前はこの神社にも地車(だんじり)があったらしいのですが、明治時代中期に廃絶されたとあります。ただ、秋季大祭が行われる10月第2土曜日には神輿や子供神輿の巡幸が行われています。




 
阪神淡路大震災のダメージから再建成った社殿(左)と、その右隣に立つ住吉社(右)。


アクセス
・阪神電車「岩屋駅」下車、南へ徒歩5分
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拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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京都・与謝蕪村邸跡。

2006年03月15日 | ◇京都府 -洛中


与謝蕪村邸跡

(よさぶそんていあと)
京都市下京区仏光寺通烏丸西入南側
  


昔ながらの落ち着いた町屋。




 京都という町は、すこし歩くだけで面白そうなものを見つけることの出来る町です。今回京都へ行った目的は、菅原道真公ゆかりの場所を行けるだけ行ってみよう、というものでしたが、それ以外のものもたくさん発見できました。

 阪急電車・烏丸駅で下車したあと、北菅大臣神社(紅梅殿跡)菅大臣神社(白梅殿跡)に向かいました。烏丸の大きな通りを曲がって仏光寺通に入ったとたん、昔ながらの街並みが広がります。そんな通りの左手の町家の脇に、石碑と案内板が立っているのに惹かれてつい立ち止まってみました。そこには、「与謝蕪村邸跡」と記してありました。




蕪村宅跡の石碑はつい最近建てられました。(平成10年)



 与謝蕪村は江戸中期の18世紀に活躍した俳人で、江戸俳諧中興の祖とよばれる巨匠です。摂津国東成郡毛馬村、いまの大阪市都島区毛馬町あたりで生まれた与謝蕪村は、20歳のころ江戸に下り、俳人・早野巴人のもとに弟子入りをして俳句を学びます。「宰鳥」という俳号を名乗っていたその頃は日本橋石町(いまの日本橋本町4丁目あたり)にあった「時の鐘」の近所の師匠・巴人 の家に居候の生活でした。与謝蕪村が27歳のとき師匠・早野巴人が死去。これ機に与謝蕪村は江戸を離れ、松尾芭蕉への憧れから「奥の細道」の足跡をたどる旅に出ます(この旅の手記『歳旦帳』をまとめた際に初めて『与謝蕪村』の俳号を用いています)。

 関東・東北を10年近く旅した与謝蕪村は、36歳のころ京都・知恩院の近くで暮らし始めますが、わずか3年ほどで丹後宮津の見性寺へと移り、画の勉強を本格的に始めます。42歳で再び京都に戻ってきた与謝蕪村は姓を「谷口」から「与謝」と改め、その3年後には結婚して娘を一人もうけます。与謝蕪村は句を教えたり、絵を描いたりして生計を立てていたそうです。その後、京都の町を何度か転居したあと“終の棲家”となるこの土地に引っ越してきたのは59歳の時。奥さんのともさんが見つけてきたこの閑静な住宅を気に入った与謝蕪村は、1783(天明3)年12月25日未明、ここで68歳の生涯を閉じました。


〔辞世の句〕  しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり



愛弟子・呉春による蕪村像。晩年の頃の蕪村だそうです。



蕪村にまつわるエピソード
 ひょんなことから自分の家の女中さんが、弟子の高井几董のところにいる下男に恋をしていることを知った与謝蕪村は、わざわざ用事をつくって女中さんを 几董 のもとに遣わして恋のお相手に会えるチャンスを演出してやったこともあったそうです。人情味あふれる温かい人柄(少し茶目っ気も感じます)の蕪村像が浮かんでくる逸話です。






明石・穂蓼八幡神社。

2006年03月15日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)
勝ち運・開運招福・厄除け

穂蓼八幡神社

(ほたてはちまんじんじゃ)
明石市大蔵八幡町2571-1



境内は月極駐車場になっています。


〔ご祭神〕
鴨部大神
(かもべたいしん=越智益躬

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后
八幡大神(はちまんたいしん=応神天皇
玉依姫命(たまよりひめのみこと)



 推古天皇のころ、朝鮮から侵攻してきた鉄人を見事に討った越智益躬公は、伊予三島大明神を祀る稲爪神社を創建します。そののち、越智益躬公の子供である越智武男公が、父の偉業を称えるために稲爪神社の辰巳の方角に祠を建てました。これが越智神社です。しかし、この神社が意外なところに影響を与えることになります。越智益躬公が迎え撃つ前、鉄人たちの軍勢に敗れて都への道を突破されてしまった者たちの子孫です。

 「よくぞ防いでくださった」と、この神社の前を通るときには馬や籠から降りて最敬礼。これはまだ良いほうで、なかには先祖が異敵を防ぎきれなかったという気まずさから意図的にこの神社を避けて通ったり、陸路を避けて船で明石を通過する者もいたそうです。さすがにこういう状況を気の毒に感じた当時の明石城主・松平直常公は越智神社の名を穂蓼八幡と改めさせ、場所も少し東へと移させたそうです。1705(宝永2)年のことでした。これ以降、明石を通る諸大名はようやく通常通り馬や籠で通行できるようになりました。神代の昔の言い伝えとはいえ、こんな後の世にまで影響があったことに驚きますが、当時の人々の精神構造が垣間見える興味深いお話です。




八幡神社の拝殿。「大蔵の八幡さん」といったほうが通りがいいかも。



 この境内の東側は、幕末に明石藩の大砲の演習場ができたり、浜辺に砲台が築かれるなど軍事上の要衝として重要視された地域でもありました。当時はこの辺りも深い社叢に包まれていたそうですが、現在はその名残りすら残されていません。文献によっては「大蔵八幡神社」や「砂子八幡」などと呼ばれていたことも記されています。




拝殿脇には大正2年に改築が行われたときに建てられた石碑があります。



祭礼
秋の稲爪神社本宮祭では、越智益躬ゆかりの「牛乗りの神事」が行われたあと、この八幡神社から稲爪神社にかけての旧街道沿いに、行灯御輿や娘御輿や本御輿を担いで「よいやさじゃー」の掛け声とともに練り歩きがおこなわれます。


アクセス
・山陽電車「大蔵谷駅」下車、南東へ徒歩3分
・JR神戸線「朝霧駅」下車、東へ徒歩10分
 穂蓼八幡神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

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・無料

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菅原道真公⑧ 「仁和2年の除目・讃岐国司へ」。

2006年03月11日 | ★特集

⑧ 仁和2年の除目・讃岐国司へ







長岡天満宮の碑。道真公の人柄を簡潔に表しています。





 886(仁和2)年1月16日、毎年恒例の除目(人事異動)が行われました。名門に生まれ、着実に出世を重ねていることへの嫉妬や中傷など、様々な波風を掻き分けながらも10年近くの長きに渡って文章博士を務め、式部少輔加賀権守などの任に就いて精力的に活躍していた菅原道真公にしてみれば、42歳を迎えてそろそろ中央の要職への沙汰がある頃合いではないかと密かに期待していた除目でした。

 しかし、この年の除目菅原道真公に下った辞令は、「讃岐守の受領に任ず」、つまり都を離れて讃岐国(現在の香川県)に赴任し、国府のトップとして内政に当たれというものでした。想像だにしていなかったこの転勤の決定を聞いた菅原道真公の受けた衝撃は非常に大きく、「菅家廊下」の躍進を妬む他の学閥勢力が仕組んだことなのか、藤原氏以外の者の出世を快く思わない貴族たちの差し金かと疑心暗鬼に陥り、すっかり落胆してしまいます。今でいえば、東京の本社でエリートコースを歩んでいた者が、働き盛りの年齢になっていきなり地方支社への単身赴任を余儀なくされるという感覚でしょうか。当然、再び本社に戻れるのか、何か落ち度があって左遷されたのではないかなど、様々な不安に駆られたことは想像に難くありません。

 予想外の辞令に落ち込む菅原道真公は、衝撃の除目から5日後に行われた新春を祝う宮廷行司・「内宴」に足取り重く列席します。そこで菅原道真公は、太政大臣藤原基経卿から「明朝の風景、何れの人にか属けむ(明日からの新しい赴任地での風景が、きっとあなたの詩興をかきたててくれるでしょう)」"前向きに頑張ってきなさい"、という暖かい励ましの言葉を受けます。時の権力者の優しい気遣いに、菅原道真公は感激のあまり嗚咽するばかりで言葉を発することが出来なかった、と自ら「菅家文草」で述べています。よほど菅原道真公の憔悴ぶりが気になったのか、藤原基経卿は内宴の10日ほど後にもわざわざ私邸に菅原道真公を招いて送別の宴を開いてくれました。その心遣いに感謝しつつ、菅原道真公は新しい任地へと向かう心構えと切ない気持ちを「相国東閣餞席」という漢詩に乗せて詠みあげています。











 藤原基経卿による餞の宴の後、菅原道真公のあとを受けて文章博士の座に就いた学友・藤原佐世卿も日を改めて激励の宴席を設けてくれました。讃岐国は都に近く人口も多いなど国力のある「上国」とされ、中央政界で出世街道を進む者が地方行政を学ぶステップとして赴任する地だと位置付けされていました。しかしながらこの頃の讃岐国は厳しい財政状況に陥って国力の低下が甚だしく、一刻も早い国政再建が求められていました。これまで讃岐国司に就任した者のほとんどが四位以上の貴族だったことを考えると、従五位上という身分の菅原道真公がこのポストに任じられたのは決して左遷でも何でもなく、前例を無視してでも有能な官吏を抜擢して財政再建事業にあたらせたいという朝廷の危機感と菅原道真公の能力に対する大きな期待の表れだったのではないかと考えられます。しかし菅原道真公にとっては納得のいかない人事だったようで、藤原基経卿の開いた宴席とは異なり、肝胆合い照らした気の置けない友である藤原佐世卿の前では、ついつい正直な寂寥の気持ちを漢詩に詠んでいます。













前回の記事はこちら

菅原道真公⑦ 「文人界のプレッシャー」。

2006年03月11日 | ★特集

⑦ 文人界のプレッシャー






姫路市の思案橋にある菅原道真公の銅像。





 順調に出世階段を登っていく者はいつの世も嫉妬の対象になるものです。都良香卿との一件にも見られるように、若くして立身出世の道をひた走る菅原道真公に対しても、その栄達を妬む者は少なくなかったようです。加えて880(元慶4)年に、それまで参議の地位にあって菅原道真公に対するプレッシャーの防波堤の役をしていた父・菅原是善公が亡くなった事も、その動きに拍車をかけたのかもしれません。父の死後、菅原家のトップとして「菅家廊下」の塾長も引き継ぐこととなった菅原道真公には、文人界特有の学閥争いや嫉妬・誹謗中傷などのプレッシャーがかかるようになりました。このことを菅原道真公は「南面することわづかに3日、耳に誹謗の声を聞けり」という詩で嘆いています。菅原道真公自身も血気盛んな若者で、王道を歩んできたプライドから遠慮せずにストレートに物を言うような性格だったことも、こういった逆風を煽る一因になっていたのかも知れません。

 「菅家廊下」で学んだOB官僚たちが多数活躍していたこともあり、「藤原家が主流を占める政界において孤立した存在だった」と巷間で伝えられるほど菅原道真公は孤独な存在ではなかったと思われますが、やはり名門の生まれという出自に対する妬みやズケズケ直言する性格を疎んじる者たちからいろいろと足を引っ張ろうとする動きはありました。その一例として有名なのが「匿詩事件」です。882(元慶6)年の夏、都に1つの落首が掲げられます。時の大納言・藤原冬緒卿を非難する内容のものでしたが、その詩の出来があまりにも良かったために「これほど優れた詩がかける人物は菅原道真以外にないだろう」という根拠のない噂が流れたのです。菅原道真公はこの悪質なうわさに強くショックを受け、天地神明に誓って己が無実であるという思いを「有所思」という長文の漢詩にぶつけました。




 この翌年には渤海国使が訪日した際に詠んだ歌が世間から厳しい評価を受けたこともあり、菅原道真公は「昨年の匿詩事件の詩は出来が良いから私の詩に違いないといい、今年の渤海国使に詠んだ詩は出来が悪いと叩かれる。いったい全体…」と愚痴のような「詩情怨」という漢詩を残しています。このときのショックは「出家しようかと思った」というほどのものだったようで、順調に昇進してきたエリートである菅原道真公の、挫折した時の脆さを窺わせるエピソードとなっています。しかし、その3年後には菅原道真公にとってさらに衝撃を受ける出来事が待っていました。




















前回の記事はこちら

菅原道真公⑥ 「順風満帆な官僚デビュー」。

2006年03月11日 | ★特集

⑥ 順風満帆な官僚デビュー






神戸・北野天満宮所蔵の道真公座像(土佐光起筆)





 史上最年少の26歳という若さでみごと官僚への関門・方略試をパスした菅原道真公は、翌871(貞観13)年の正月に行われた除目(人事異動)で、外交などを掌る治部省への配属が決まります。菅原道真公は治部省管内の玄蕃寮という部門の次官にあたる玄蕃助という役職につきました。この部署は寺院・僧尼の名簿の管理や、外国から訪れる公使の接待と在京外国人の監督などを担当するところで、今でいうところの外務省総務省を兼ねたような役所でした。

 入省した翌年には渤海国の国王が派遣した使節団を接待する「存問渤海客使」という役に任命されますが、直後に母が亡くなってしまいます。当時の社会は「死穢」を非常に嫌う傾向があり、身内を亡くしたものは喪が明けるまでの1年間は全ての役職から降りなければなりませんでした。この慣例に従って菅原道真公も任務から外れますが、体の弱かった自分のために懸命に観世音菩薩に祈願してくれたり、元服の折に和歌を詠んで将来の栄達を祈ってくれた優しい母の面影を思い浮かべながらの服喪の期間は、さぞかし心乱れる辛い日々だったことでしょう。しかしながら、菅原道真公はわずか4ヵ月後に職場復帰命令を受けて復職、渤海国王への返書の起草を任されました。詩文に造詣が深く、文章得業生時代の猛勉強で大陸の言葉にも長じていた菅原道真公の学識が比類なきものだと高く評価されていた証拠で、最愛の母の死の悲しみを多忙な日々で紛らわしていたのではないでしょうか。








 官吏となって中央政界にデビューしてからの菅原道真公は着実に昇進を果たし、わずか3年後の874(貞観16)年には従五位下となって昇殿を許される貴族の仲間入りを果たします。さらに兵部少輔に任じられ、次いで民部少輔に任じられるなど要職を歴任、得意の文才を生かしなら出世を重ねていきます。33歳になった877(元慶元)年には春の除目式部少輔に、そして10月には菅家累代の伝統である文章博士に任じられます。式部省の次官である「式部少輔」と「文章博士」は文章道における最高職で、ここでも菅原清公公以来3代に渡る輝かしい伝統を守ることになりました。

 国の官僚養成の最高機関である「大学寮」に入学を許された優秀な文章生20名を指導する教授である「文章博士」の座はわずかに2つ。文章博士を務めていた巨勢文雄卿が左少弁に任じられて空席が出来るというタイミングにも恵まれましたが、その座に菅原道真公が任じられたのはやはりその優秀な文才と豊かな教養が十分に評価されてのことだと思われます。文章博士のもう一つの座には菅原道真公が方略試を受けたときの担当官だった都良香卿が就いていました。11歳年下の、しかも自らが方略試を担当した菅原道真公が同じ文章博士という役職に選ばれたことには胸中複雑なものがあったと考えられます。翌年には都良香卿が詠んだ詩を菅原道真公が厳しく批判するといった事件も起こっていることから、やはり2人の関係は良好なものではなかったと想像できます。

 さらにその2年後の879(元慶3)年には菅原道真公が従五位上に叙せられたことから、それまで従五位下で並んでいた位階までも追い抜かれてしまい、都良香卿は「自らの家柄の低さゆえか…」と嘆いたといわれています。これで落胆したのが原因となったかどうかはわかりませんが、この1ヶ月後に都良香卿は急逝してしまいました。文章博士という要職の突然の欠員を埋める人材が簡単に見つかるはずもなく、それから実に5年もの間、菅原道真公がただ一人文章博士を務めて大学寮での指導を行うという状態が続きます。さすがにこの状況を放置することは望ましいことではなく、欠員補充の請願を行った結果、ようやく右大弁だった橘広相卿が文章博士に任じられて正常な状態に戻ることとなりました。しかし、この長い欠員状態はかえって文章博士の重責を1人で十分こなした菅原道真公の優秀さを証明することになりました。







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菅原道真公⑤ 「若き研鑽の日々」。

2006年03月11日 | ★特集

⑤ 若き研鑽の日々





菅原道真公坐像。




 幼い頃から英才教育を施され、それに応えて一心に文武に励んだ阿古は、859(貞観元)年に15歳で元服して「菅原道真」と名乗ります。元服を果たした菅原道真公は当時の貴族の慣習に倣って元服の「初冠」の儀式の後に結婚しました。相手は、幼い頃より家庭教師として菅原道真公を鍛えてくれていた島田忠臣公の娘・宣来子です。宣来子菅原道真公より5歳年下だったといわれており、さすがにまだまだ夫婦になったという実感はなかったかもしれません。父・菅原是善公の厳しい指導のもと、文章生文章得業生を目指して勉学に打ち込んでいた菅原道真公にとっては、とても夫婦のことに時間を割く余裕はなかったようです。のちに「菅家文草」の中でも「妻子と睦まじくすることをやめてしまった」と述懐しています。

 こうした猛勉強の甲斐あって、菅原道真公は若干18歳の若さで400人以上が受験したという省試に合格し、定員わずか20人という文章生となって大学寮に入ります。それ以前にこの年齢で合格したのは2人しかおらず、早熟の秀才の快挙に菅原家は沸き立ちました。秀才と称えられた祖父・菅原清公公が20歳、小野篁卿が21歳、大江音人卿が23歳での合格だったことを考えても、18歳で文章生となることの凄さは想像するに難くありません。




 大学寮に入ってからの菅原道真公は文字通り寝食を忘れるほど一心に勉学に励み、867(貞観9)には史上最速の23歳でたった2人の定員しかない文章得業生となって7年以内に最高の国家試験である方略試を受ける資格を与えられました。その翌月には正六位下の官位と下野権少掾に任じられます。これは遥授(遥任ともいう)といって実際に任地に赴いて執務することを免除された役で、多分に財政的なバックアップ、つまり奨学金のような意味合いがあったのではないかと考えられます。この時期には王度という中国人教授に師事してネイティブの漢音による「論語」の教授を受け、中国語を習得するなど方略試への挑戦に向けて着々と学問を修めていきました。

 870(貞観12)年、26歳となった菅原道真公は、ついに官吏への最終関門である方略試に挑みます。3月23日に行われた試験で出題された問題は「氏族を明らかにせよ」と「地震(ないふる)を弁ぜよ」の2題。いずれも国家政策との関連を問う難問でしたが、菅原道真公は見事にたった一度の試験で合格を果たします。なにしろ方略試が行われてから230年近くの間に合格したものがたった65人しかいないという難関中の難関を史上最年少で突破した菅原道真公の優秀さは群を抜いていました。このとき方略試の試験官だった都良香卿は、菅原道真公の答案に対して及第点である「丁第(中上)」の判定を下しています。国家の政策に関する重要問題であるために普通は満点に近い上上から上下といった高い判定が下ることはなく、非常に優秀だった父・菅原是善公でも方略試での判定は同じく「丁第(中上)」で、学生としてはごく一般的な判定だったといえますが、菅原道真公自身はこの判定に全く納得がいかなかったようで、採点に関する不満を詩に書いたこともあったそうです。菅原道真公のプライドの高さや愚痴っぽい部分など、人間臭い部分が垣間見られ、なんとなく微笑ましく感じてしまうエピソードです。















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菅原道真公④ 「栴檀は双葉より芳し」。

2006年03月11日 | ★特集

④ 栴檀は双葉より芳し







一説によると、菅原道真公生誕地とされる菅原院天満宮。




 845(承和12)年6月25日、この春に超難関である文章博士へと昇進を果たし、祝賀の雰囲気の残る菅原是善公の家に一人の男の子が産声をあげました。それまでに2人の子供を幼くして亡くし、今度ばかりはと伊勢神宮に安産祈願をするなど無事の出産を心から願っていた菅原是善公は大変喜び、この子に阿古という名を付けました。のちの菅原道真公の誕生です。


出生に関する伝説
 菅原道真公は、父・菅原是善公と母・薗文子姫(伴氏の出身と伝えられています)との間に生まれた3男ですが、出生に関しては様々な伝説が残されています。菅原是善公が菅原院の邸宅内を散歩していると、庭の桜の木の下に見知らぬ子供が草花を摘んで遊んでいるのを見つけました。そのあまりに才気に満ちた容貌をとても気に入った菅原是善公は、孤児だというこの子供を養子に迎え入れて育て、その子が成長して菅原道真公となったという説や、出雲国司を務めていた頃、菅原是善公は祖先・野見宿禰公の墓参りの際に道案内を務めた乙女をとても気に入り、傍に置いていたところめでたく懐妊。この乙女が出産した子供が菅原道真公だったという伝説があります。

 また、天女伝説の残る滋賀県の余呉にも菅原道真公の出生伝説が残されています。この地に舞い降りた天女は、桐畠太夫という若者に「天の羽衣」を取り上げられたため、この地に残ることを決意します。次第に愛し合うようになった2人の間には1人の男の子が産まれますが、ある時「天の羽衣」を見つけ出した天女がこれを身に纏うと、みるみるうちに体が浮き上がって、天空へと昇ってしまいました。残された子供の泣き声はまるで経文のような不思議な響きをしており、菅山寺の住職・尊元和尚が唯の子供ではないと感じて引き取って育てられたそうです。その後、この話を聞いた菅原是善卿は菅山寺を訪れ、才気に溢れた立派な姿に魅せられて養子として引き取り、都に連れ帰って慈しみ育てました。この子供こそが菅原道真公だったという伝説も残されています。いずれにしても、菅原道真公が非凡な才智を持つスーパースターだったがゆえに生まれた伝説だと考えられます。


出生地に関する伝説
 さらには、菅原道真公の出生地に関してもいくつかの説があります。一つは、父・菅原是善公が邸宅を構えていた菅原院で生まれたという説。大内裏の東側にあったこの地には、「菅原院天満宮」が建てられていて、菅原道真公が産湯をつかったという井戸が残されています。菅原院は、父・菅原清公公邸から独立した菅原是善公が、妻の実家である伴氏の屋敷があったこの地に移り住んでいたという説もありますが、伴氏の屋敷がここにあったのかどうか、はっきりしたことは分かっていません。

 また一説には、現在「菅大臣神社」がある地で生まれたとも言われています。この地には天神御所あるいは白梅殿と呼ばれる菅原家の邸宅があり、「菅家廊下」があった場所だと伝えられています。ここにも菅原道真公が産湯をつかったという井戸が残されています。さらには西大路九条にある吉祥院天満宮の地が生誕の地だという説もあります。ここは土師古人公の代に平安京遷都に伴って奈良から移転してきたときに屋敷を構えていたところで、ここにも産湯をつかったという井戸の跡や、菅原道真公が生まれたときの胞衣(胎盤)を埋めたといわれる菅公胞衣塚があります。





菅大臣神社の「天満宮誕生水」。




 阿古と呼ばれた幼いころの菅原道真公は健康に恵まれず、何度となく病に倒れたそうです。すでに2人の子を亡くしている母・薗文子姫は我が子の病弱なことに心を痛め、日頃から厚く信仰していた観世音菩薩に無事の成長を一心に祈願していたといわれています。その甲斐あってか病を乗り越え、順調に齢を重ねていった菅原道真公は、菅原家の血を引く者にふさわしく、幼い頃から聡明さを発揮しはじめます。


うつくしや 紅の色なる梅の花 あこが顔にも つけたくぞある


この和歌は、わずか5歳のときに詠んだ詩で、自らの「阿古」という名を詠み込んでいるなど、幼い子の可愛らしさが感じられてとても好感のもてる微笑ましい詩です。この詩が「文章博士の幼き息子は、その血に恥じぬ神童である」と評判を呼び、ついには時の仁明天皇の耳にも達して「ぜひとも会ってみたいものだ」ということになりました。父・菅原是善公に伴われて参内した菅原道真公を見た仁明天皇はひと目で気に入り、「汝学問して父祖にも勝り家名を輝かすように」とのお言葉をかけられたといわれています。5歳で前述の和歌を詠んで周囲を感嘆させた菅原道真公は、さらに11歳のときに見事な漢詩を詠んでいます。









 菅原道真公の優れた才能を伸ばすため、菅原是善公は「菅家廊下」の門下生である島田忠臣公を指導にあたらせて、詩作などの英才教育を施しており、その成果がこの詩によく顕れています。また、14歳のときに書いた「朧月に独り興ず」という漢詩は秀作として「和漢朗詠集」に採用されています。現代医学では、9歳から12歳頃まで年代は人間の神経系の発達が一番伸びる時期で、この頃に習得したことは勉強であれ運動であれ最も吸収するのが早いといわれています。菅原道真公もこの時期に恵まれた環境の中で本物の教育をじっくりと受けたことが、持って生まれた才能を花開かせる礎となったのではないかと考えられます。また、とかく勉学の部分のみが注目されがちな菅原道真公ですが、幼い頃から弓道にも打ち込み、非凡な才能を発揮していました。26歳の時に師・都良香卿の屋敷に招かれた菅原道真公は、正月の弓始めの式で百発百中の見事な腕前を披露して居並ぶ人々を感嘆させたといわれています。幼い時期に真摯に努力したことの結果が文武両道の好青年を生んだのでしょう。







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菅原道真公③ 「優秀な父・菅原是善公」。

2006年03月06日 | ★特集


③ 優秀な父・菅原是善公







京都にある北菅大臣神社。菅原是善公を祀った神社も数多くあります。





 菅原道真公の父・菅原是善公は、文章博士菅原清公公の4男として、812(弘仁3)年に生まれました。11歳の時に嵯峨天皇の前で詩を詠むなど、菅原是善公も幼いころからとても優秀な子どもだったそうです。ちなみに兄で菅原清公公の3男・菅原善主 公も優秀な方で、遣唐判官として1隻の長を任されて唐に渡っています。父の菅原清公公は20歳で文章生、29歳で方略試をパスして国家官吏の道を歩みましたが、この菅原是善公も22歳で文章得業生になり、なんと26歳の若さで方略試をパスするなど父親に負けず劣らず非常に優秀な人物でした。

 菅原是善公は文章博士東宮学士大学頭などの要職を歴任、出雲や播磨など多くの国司も歴任するなど、官吏として成功を収めました。また、小野篁卿や春澄善縄卿、大江音人卿らとともに平安漢文学の黄金期を支えた学者のひとりとして高い評価を受けています。

 一方、菅原是善公には父・菅原清公公以来の私塾である「菅家廊下」の主宰としての顔もあり、この私塾で精力的に後進の育成にも努めていました。「菅家廊下」と呼ばれたのは菅原邸の書斎に続く広大な廊下を教室として授業を行っていたためですが、私塾とはいえ「菅家廊下」はかなり高いレベルの学校だったようで、ここの出身で文章生に合格した秀才・進士は100人に上ります。稀代の天才・菅原道真公が生まれ育つ素地は既に十二分に整えられていたのです。





北菅大臣神社の地にあったといわれる「菅家廊下」。



 菅原是善公には妻・大伴氏との間に2人の子供を授かっていましたが、どちらも幼くして夭折していました。菅原是善公は、新たに生まれ出てくる子供こそは健やかに育って欲しいと、伊勢神宮の宮司・渡会春彦公に願って豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に祈願をしました。そこで無事に誕生したのが菅原道真公です。この縁によって渡会春彦公は京都に上り、数十年にわたって養育係として菅原道真公の傍に仕え、大宰府での最後を看取ったのも度会春彦公だと言われています。若い頃から髪が真っ白だった度会春彦公は、人々から白太夫というあだ名で呼ばれていました。各地の天満宮には、度会春彦公の忠孝を讃えて境内に白太夫神社を建立し、共に御祭神として祀っているところが数多くあります。







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菅原道真公② 「祖父・菅原清公の学問立身」。

2006年03月03日 | ★特集

② 祖父・菅原清公の学問立身






平安時代の高等教育機関である「大学寮」の跡。
1177(治承元)年の大火事で全焼しました。




 名門「土師氏」の流れを引く土師古人公は、平安初期の光仁天皇の時代に生まれ、菅原氏の祖とされる人物です。土師古人公は、なかなか頭脳明晰な好人物だったといわれており、当時の「文書経国 (=学問を盛んにして国をつくる)」という国家方針の流れの中で、学問によって立身を図ろうと考えていました。しかし、『土師古人』では土を捏ねて土器を作ったり、葬送に携わる一族だというイメージがついてまわります。特に“死穢”に対する抵抗の強い我が国において、こういうイメージのまま王城で栄達を望むのは厳しいと考えたのかもしれません。

 そこでく土師古人公は、781(天応元)に自分たち一族が暮らしている「菅原の里」に因んで「菅原氏」と名乗ることを朝廷に願い出て、勅許を得ることができました。それ以来、学問の名門・菅原氏の歴史が始まります。菅原古人公は研鑽を重ねて学問を修め、地方を統括する国司である遠江介を皮切りに、文章博士大学頭と立身出世を重ねていきました。ただ、菅原古人公自身は学問以外のことには全く無頓着な性格だったために家計は苦しく、朝廷からの援助を受けてようやく生計を維持する暮らしだったといわれています。




 当時、律令国家の教育機関として最高の地位にあったのが大学寮です。大学寮には主に4つの学科があり、学科は「」と呼ばれていました。





 この中でも、明経博士(正六位下)明法博士(正七位下)算博士(従七位上)に比べ、文章道を教授する「文章博士」は最も高い従五位下という身分を与えられていました。五位以上を「貴族」、六位以下を「地下(じげ)」といい、五位以上になって初めて大内裏の清涼殿にある殿上の間に昇殿することが許されたといいます。政権中枢へと上ろうとする者たちにとっては天と地ほどの格差があっただけに、特に位の高い文章博士の地位を目指すものは数多く、そこに登りつめるには血の滲むような努力と、長い忍耐の日々を乗り越えなくてはなりませんでした。




 文章道を志望した場合、まず試験を受けて5問中3問以上を正解した者が「擬文章生」となって次の段階へと進む「仮免許」を得ます。さらに省試と呼ばれる試験で詩作を出題され、これに合格するとようやく定員20名ほどの「文章生」になることができました。ここまでは学生の進級テスト、といった感じです。

 次の昇級試験はわずか合格定員2名という難関の試験で、これを見事に突破した学生は「文章得業生(「秀才」とも「博士」とも呼ばれた)となり、いよいよ国家官僚への登用がかかった「方略試」という最終試験に挑戦する資格を得ます。しかし、この方略試は非常に難しく、慶雲年間(704~708年)から承平年間(931~937年)にかけての230年余りの間で、たった65人しか合格する者が出なかったというほどの厳しい試験で、現在の国家公務員試験や司法試験の比にもならないほどの狭き門でした。この厳しい試験を乗り越えたものだけが、定員2名である文章道 のトップ・文章博士に上り詰めることが出来ました。文章博士 はまさに日本の最優秀エリートだったのです。






京都市南区にある清公公の墳墓。
「菅原清公卿御墳墓通路」と記した石標があります。




 770(宝亀元)年に菅原古人公の子として生まれ、菅原道真公の祖父にあたる菅原清公公は、このような難関を乗り越えて見事に文章博士に就任し、大学寮の役人のトップである大学頭式部大輔左中弁弾正大弼など順調に出世を重ねていきました。804(延暦23)年には弘法大師空海最澄たちとともに遣唐使判官として唐へ渡り、彼の地で研鑽を深めることとなります。ここで唐の文化を学んだ菅原清公公が帰国してから行った施策が、意外な形で現代にまでその影響を及ぼすことになりました。

 唐から帰国した菅原清公公が818(弘仁9)年に行った建議によって、朝廷内の儀式や風習が次々に唐風に改められていきました。この際、人名に関しても唐の風習が取り入れられ、それまで藤原武智麻呂の「武智麻呂」や藤原葛野麻呂の「葛野麻呂」など4文字で付けられることもあった名前が、菅原道真の「道真」や藤原時平の「時平」、源融の「」や源順の「」など、漢字2文字や1文字の名前へと改められ、女子の名前に「」を用いる風習もこのころから導入されたといわれています。

また、菅原清公公は文章博士の地位を従五位下という貴族の位に引き上げさせ、それまで正六位下で大学寮の博士の最高位とされた明経博士からトップの地位を奪うなど、政治的にも優秀な手腕の持ち主でもありました。こうして大きな影響力を持つようになった菅原清公公のもとには教えを請う者も徐々に増え、その私邸で多くの学生が学ぶようになりました。これらの学生たちは、菅原家の広大な廊下に集って学問を深めたことからのちに「菅家廊下」と呼ばれる私塾の様相を呈して一種の学閥が形成されるようになりました。







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