神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

大阪・豊国神社(大阪城)。

2008年06月27日 | ◆大阪府
出世開運

豊国神社(大阪城)

(ほうこくじんじゃ)
大阪市中央区大阪城2-1



大阪城本丸の南側、二の丸の南東部分に広がる境内。この鳥居から参拝します。


〔御祭神〕
豊臣秀吉公
(とよとみひでよし)
豊臣秀頼公
(とよとみひでより)
豊臣秀長卿
(とよとみひでなが)


 織田信長公の後を継いで、天下統一の偉業を成し遂げた名将・豊臣秀吉公。その遺徳を偲んで、豊臣秀吉公ゆかりの各地に「豊国神社」が建てられました。前回ご紹介した京都市東山区の豊国神社や、出生の地のある愛知県名古屋市中村区、領主となって手腕を振るった滋賀県長浜市にも神社が建てられ、さらには石川県金沢市にも、豊臣秀吉公と友情を育み豊家五大老の一人として律儀に誠実に豊臣政権を支えた前田利家公の遺命を受けて豊国神社が建てられています。石山本願寺が退去した要害の土地に築かれた、安土桃山時代を代表する巨大城郭・大阪城の二の丸跡地に建立されている豊国神社も、豊臣秀吉公の遺徳を偲んで建てられた神社のひとつです。



 
1905(明治38)年に建てられた二の鳥居(左)と、2007(平成19)年4月に
再建された豊臣秀吉公銅像(右)。高さは5.2メートルあります。


 徳川家康公によって京都・東山の豊国社が破却されるなど、江戸時代には豊臣秀吉公の遺徳を偲ぶものは悉く破壊の憂き目に遭いましたが、そんな不遇の時代も大政奉還によって徳川幕府が瓦解し、明治新政府が発足したことによってピリオドが打たれます。貧しい身分から位人臣を極める立身出世を果たしたということで庶民からの人気が根強かった豊臣秀吉公を高く評価することで、徳川幕府の歴史を貶め明治新政府の正当性を高める効果を狙った、という政治的思惑もあって、各地で豊臣秀吉公ゆかりの史跡の建立や復興が進められました。




豊国神社の社殿。1961(昭和36)年1月に遷座されました。


 1868(明治元)年、大阪に行幸された明治天皇によって、国家に対し大きな功績のあった豊臣秀吉公の遺徳を讃えるための神社建立の勅命が下されました。それによって、まず1873(明治6)年に京都に豊国大明神を祀る豊国神社が建立され、その別社として1879(明治12)年11月に大阪にも豊国神社が建立されました。このとき鎮座地に選ばれたのは、現在地よりもさらに市街地の中心に近い中之島地区でした。中之島に建てられた豊国神社は、1912(大正元)年に大阪市中央公会堂の建設に伴って現在大阪府立図書館が建っている西側の公園内に移転されました。  ※簡単な位置関係図



 
1879(明治12)年に豊国神社の摂社として遷座された白玉神社(左)と、
1927(昭和2)年に御堂筋の拡張に伴って移転された若永神社(右)。


 1935(昭和10)年あたりから、大阪市庁舎の増築を理由に、隣接する豊国神社の移転が検討されるようになります。戦争の激化に伴って一時下火になっていた移転計画は、終戦後の1956(昭和31)年から具体的に話が進められ、豊臣秀吉公ゆかりの大阪城への遷座が決定されて1961(昭和36)年、桜門南側の二の丸の跡地に社殿が建立されました。戦争中、陸軍第四師団司令部が設置されていた大阪城には、空襲や本土決戦に備えて各所に地下陣地が築かれており、豊国神社が遷座された二の丸にも地下司令部が構築されていたそうです。



 
名作庭家・重森三玲氏の指導のもと1972(昭和47)年に作られた「秀石庭」(左)と
社殿左奥に立つ鳥居(右)。1897(明治30)年建立の銘が刻まれています。



アクセス
・JR大阪環状線「森ノ宮駅」下車、北西へ徒歩10分
・JR大阪環状線「大阪城公園駅」下車、南西へ徒歩15分ほか
豊国神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト
  出世開運の神様 豊國神社ホームページ

大坂城 (PHPムック)
クリエーター情報なし
PHP研究所

神戸・舞子六神社。

2008年06月22日 | ■神戸市垂水区
開運招福・家内安全・交通安全・縁結び・海上安全

舞子六神社

(まいころくじんじゃ)
神戸市垂水区西舞子1-5-7




舞子六神社の鳥居。このすぐ南には海が広がります。


〔御祭神〕
伊邪那岐大神
(いざなぎのおおかみ)
伊邪那美大神
(いざなみのおおかみ)
天照皇大神
(あまてらすこうたいしん)
素盞男大神
(すさのおのおおかみ)
月夜見大神
(つくよみのおおかみ)
蛭子大神
(えびすたいしん)



 平清盛公が美しい景色を愛でて若い娘たちに舞を舞わせたとも、瀬戸内の潮の流れが入江に舞い込むようになっているからとも、海からの風に耐えながら砂浜に根を張る松の枝振りが舞を舞うように曲がりくねっていた様子から名付けられたともいわれる「舞子」。元々この辺りは明石郡垂水郷山田村と呼ばれていて、「舞子」という優雅な地名が生まれたのは18世紀半ば頃だといわれています。そんな垂水郷山田村の総鎮守社として人々の厚い崇敬を集めていたのが、海に面するように鎮座する舞子六神社です。





1890(明治23)年に再建された社殿。



 創建時期の詳細は分かりませんが、最も古い記録では、1689(元禄2)年に行われた神輿渡御の際に奉納された金幣に「六社大明神、播州明石郡山田村之住、施主敬白」という文が刻まれていることから、この頃には既にこの地に鎮座されていたことが分かります。明石郡の古社・岩屋神社と同じ御祭神を祀っている事から、江戸時代の前期に岩屋神社から御祭神を勧請して創建されたのではないかといわれており、その6柱の御祭神にちなんで創建当初は「六社大明神」と呼ばれていました。その後、明治時代に入って出された神仏分離令のために六社神社という名前に変わり、さらに1874(明治7)年には舞子六神社と改称されて今日に至ります。北にある旧多聞村多聞十二所大明神から6柱を遷座したために多聞十二所大明神は6をひいて多聞六神社に、そして舞子に建てられた神社も六社大明神と呼ばれたという説もあるようですが、根拠は全くないそうです。




 
「市民の木」に指定されている榎と、その脇に立つ大黒社・戎社。



 舞子六神社の境内には多くの摂社があり、社伝にもその創建時期が詳しく書かれています。社殿の左手に並ぶ摂社群の一つ、大歳神社は1880(明治13)年、菅原道真公を祀る菅原社(須賀原社)は1893(明治26)年に境内に勧請されました。これらを含め、白髭社稲荷五社の4つの摂社は、1965(昭和40)年に一つの社殿に祀られています。境内の西端に祀られている戎社大黒社も同じく1965(昭和40)年に現在の社殿が建てられ、その年の10月には恵比寿さま大黒さまの石像が寄贈されています。その後も1966(昭和41)年に社務所が、1968(昭和43)年には大鳥居が建てられるなど、舞子六神社は今もなお氏子の皆さんの厚い崇敬に支えられています。





4柱の神々が祀られている末社(左)と、その右手に立つ「お松大明神」(右)。



アクセス
・山陽電車「西舞子駅」下車、東へ徒歩5分
舞子六神社地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

このアイテムの詳細を見る


京都・豊国廟。

2008年06月15日 | ◇京都府 -洛東


豊国廟

(ほうこくびょう)
京都市東山区今熊野北日吉町



京都女子大へと続く「女坂」の登り口にある大きな石標。


〔被葬者〕
豊臣秀吉公
(とよとみひでよし)

〔神 号〕
豊国大明神

〔戒 名〕
国泰祐松院殿霊山俊龍大居士



 東山七条の交差点から智積院の北側を東に伸びる緩やかな長い坂の登り口に、「豊国廟参道」と彫られた大きな石標が建てられています。坂の途中に京都女子大学京都女子高校などがあり、平日には多くの女子学生で賑わうことから「女坂」と呼ばれているこの道を登りきった先に、「太閤さん」と呼ばれて今なお人々から愛され続けている天下人・豊臣秀吉公が眠る豊国廟がある阿弥陀ヶ峯が美しい稜線をもって人々の目を楽しませてくれています。

 阿弥陀ヶ峯は、もともと鳥部山と呼ばれていましたが、行基上人によって山の中腹に阿弥陀如来像が祀られてのち「阿弥陀ヶ峯」と呼ばれるようになりました。平安時代、阿弥陀ヶ峯の麓一帯は淳和天皇の第一皇子である恒世親王をはじめ多くの人々の葬送地となって「鳥部野葬場」と呼ばれ、洛北の蓮台野葬場や洛西の化野葬場とともに京都三大葬場のひとつとして知られていました。



 
坂の中腹、京都女子大の脇に立つ石灯籠(左)と、登りきった先に立つ豊国廟の鳥居(右)。



 没後、後陽成天皇より正一位の神階と「豊国大明神」という神号を贈られた豊臣秀吉公は、自らの遺命通り阿弥陀ヶ峰に築かれた豊国廟に葬られました。阿弥陀ヶ峰の麓には神となった豊臣秀吉公を祀る豊国社(とよくにのやしろ)が創建され、鎮座祭が行われた4月18日と豊臣秀吉公の命日である8月18日に毎年執り行われた例祭「豊国祭」には、豊臣秀吉公の遺徳を偲ぶ豊臣家恩顧の大名たちや、貴族、町衆たちが詰めかけて大きな賑わいを見せていたそうです。このころの豊国社の社殿は、現在豊国廟の拝殿が立っている「太閤坦(たいこうだいら)」と呼ばれる平坦地に築かれていました。

 1615(元和元)年に大阪夏の陣豊臣家を滅亡させた徳川家康公は、豊臣秀吉公の遺徳の象徴である豊国社を潰して30万坪といわれた社領を没収します。このとき豊国廟も取り壊されることになっていましたが、豊臣秀吉公の正室で豊臣家恩顧の武将たちに大きな影響力を持っていた「北政所ねねの必死の嘆願によって破却を免れ、残されることになりました。しかし、徳川幕府の目を恐れて訪れる者も絶え、荒れるに任せていた豊国廟は長い年月の間にいつしか朽ち果てて往年の姿も見る影なく失われていきました。



 
「太閤坦」に立つ豊国廟の拝殿(左)。その先には山頂の豊国廟へと続く565段の石段があります。



 豊国神社の記事でも述べたように、明治時代に入ってから豊臣秀吉公ゆかりの史跡の再興が進められました。豊国神社の再興に続き、1897(明治30)年には豊臣秀吉公の300年忌に合わせて豊国廟の再建が行われました。もともと豊国社が鎮座していた太閤坦に拝殿や社務所、豊臣秀頼公の遺児・国松の墓所、豊臣秀吉公の側室・京極竜子(松丸殿)の墓が建てられ、山頂には豊臣秀吉公供養の五輪塔が、そしてそこに至る565段の石段や神門などが建てられて整備が完了しました。現在、豊国廟豊国神社の飛び地境内となっています。




565段の石段を登りきった山頂に立つ五輪塔。高さ約10メートルの立派な塔です。



アクセス
・京阪電車「七条駅」下車、東へ徒歩40分
・京都市バス206・208系統「東山七条」バス停下車、徒歩30分
豊国廟地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・拝殿無料(山頂廟所参拝50円)

拝観時間
・8時30分~17時

秀吉の京をゆく (新撰 京の魅力)
津田 三郎
淡交社

京都・豊国神社。

2008年06月10日 | ◇京都府 -洛東
出世開運・厄除招福・家内安全・商売繁盛

豊国神社

(とよくにじんじゃ)
京都市東山区大和大路通正面茶屋町530

通 称
豊国(ほうこく)さん




幹線並みの広さを誇る大和大路通に面して立つ「太閤さんの社」豊国神社の大鳥居。


〔御祭神〕
豊臣秀吉公
(とよとみひでよしこう)



 実在した人物を神として祀る神社としては、無念の思いで大宰府に没した菅原道真公の怨霊を鎮めるために祀られた北野天満宮や、数々の小説や漫画の題材にもなるなど高い人気を誇る陰陽師・安倍晴明公を祀る晴明神社、飛鳥時代を代表する歌人・柿本人麿卿を祀る柿本神社、「東照大権現」として神格化された徳川家康公を祀る日光東照宮などが有名です。

 今回ご紹介する豊国神社もそんな神社のひとつ。立身出世の象徴として「太閤さん」という呼び名で庶民から絶大な支持を受け、没後朝廷より「豊国大明神」の神号を贈られて神格化された豊臣秀吉公を御祭神とする神社です。



 
伏見城の城門を移築したといわれる唐門(左)は国宝。その奥に並ぶ神楽殿と本殿(右)。



 1598(慶長3)年8月18日、「つゆと落ち つゆと消えにし わが身かな なにわの事も 夢のまた夢」という辞世の句とともに61年の波乱の生涯を閉じた豊臣秀吉公。当時は1592(文禄元)年から6年に渡って行われた「文禄・慶長の役」が継続中で、将兵たちの士気が下がるのを恐れてしばらくその死は秘匿されていましたが、朝鮮半島からの撤退が完了し、ひと段落がついた翌1599(慶長4)年1月にようやく公表されました。伏見城内に安置されていた豊臣秀吉公の亡骸は、その遺志に従って京の町が一望できる東山・阿弥陀ヶ峰に築かれた霊廟の完成を待って4月13日に運び込まれました。同月17日には後陽成天皇より正一位の神階と「豊国大明神」という神号を贈られ、翌日には徳川家康公をはじめとする五大老や多くの諸大名、さらに多数の町衆の参列を仰いで「正遷宮」という鎮座祭が吉田神道によって盛大に執り行われました。これが豊国神社の始まりで、当時は「豊国社」と呼ばれていました。

 毎年鎮座祭のあった4月18日と豊臣秀吉公の命日である8月18日には「豊国祭」と呼ばれる例祭が行われ、豊臣秀吉公の7回忌にあたる1604(慶長9)年に行われた「豊国大明神臨時祭」では諸大名が競って馬揃えを行い、京都中の町衆たちが引きも切らずに詰めかけるなど、かつてない規模の賑やかな大祭礼となったそうです。死してなお豊臣秀吉公が京に住む人々から圧倒的な支持を集めていた証しで、次の天下を狙っていた徳川家康公が苦々しい思いでこの光景を見つめていたことは想像に難くありません。



 
社殿北側に建つ稲荷社(左)と参道脇の手水舎(右)。社殿の南には宝物館もあります。



 1615(元和元)年に大阪夏の陣豊臣秀頼公と淀君を自刃に追い込んで豊臣家を滅亡させた徳川家康公は、豊臣秀吉公の遺徳の象徴として不快の元であった「豊国社」を破却して30万坪といわれた社領を没収、「豊国大明神」の神号も廃するなど豊臣秀吉公の神格化を徹底的に否定しました。そんな中でも江戸幕府への反発から、豊国神社の御神体は密かに近くの新日吉神社に移されて祀られ続けました。

 不遇を強いられていた豊国神社に再びスポットライトが当てられたのは、江戸幕府が倒れて新政府が発足した明治時代に入ってから。1868(明治元)年に大阪に行幸された明治天皇によって勅命が下されたことで「豊国社」の再興が決定。1873(明治6)年に「豊国神社」という名前で復興されて別格官幣社に列せられた後、1880(明治13)年に方広寺大仏殿跡地に社殿が再建され、遷座が行われました。



アクセス
・京阪電車「七条駅」下車、東へ徒歩8分
・京都市バス206・208・100洛バス「博物館・三十三間堂前」バス停下車、徒歩5分
 豊国神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料(宝物館 大人300円)

拝観時間
・常時開放(宝物館 9時~16時30分)

秀吉の京をゆく (新撰 京の魅力)
津田 三郎
淡交社

京都・方広寺。

2008年06月08日 | ◇京都府 -洛東


方広寺

(ほうこうじ)
京都市東山区大和大路通正面東入ル茶屋町527-2




戦国史における存在感とは裏腹に、現在は落ち着いた姿で佇む方広寺の本堂。


〔宗 派〕
天台宗山門派

〔御本尊〕
大日如来像
(だいにちにょらいぞう)


 戦国時代、明智光秀公の謀反によって天下統一の道半ばで本能寺に斃れた織田信長公。その織田信長公の天下統一の夢を引き継ぎ実現したのが、尾張国愛知郡中村の卑賤の身から関白まで駆け上がり、戦国時代の立身出世の象徴として庶民より「太閤さん」と呼ばれて親しまれた豊臣秀吉公です。豊臣秀吉公は、応仁の乱から長きに渡る戦乱によって焼き払われ、疲弊した京都市街の大規模な再建を推し進めました。1586(天正14)年より着工された豊臣政権の中心地・聚楽第とほぼ時を同じくして建立が始められたのが、皮肉にも豊臣家の滅亡を早める原因となった「国家安康の鐘」で有名な方広寺です。




本堂、大黒天堂、そしてこの鐘楼は創建当時の建造物だといわれています。



 天台宗山門寺派の寺院として豊臣秀吉公によって建立された方広寺。この地には、奈良や鎌倉の大仏と比肩される立派な大仏が建てられていました。1586(天正14)年、豊臣秀吉公は自らの権力の象徴として奈良・東大寺の大仏を上回る日本一の規模の大仏の建立を計画します。これには諸大名に用材などを供出させることで軍事的反抗を行う経済力を削ぐ意味合いもあったと思われますが、壮大で派手なものが好みだった豊臣秀吉公らしい発想だといえます。また、大仏殿に使用する釘に転用するという名目で刀狩令が出されるなど、全国の農民の武装解除を進める政策にも利用されました。

 もともと東福寺の北側が建設候補地に挙げられていましたが、1588(天正16)年に入り三十三間堂の北側の地に予定地を変更して建設が始められ、7年後の1595(文禄4)年に完成。五丈三尺(約16メートル)といわれた東大寺大仏を凌ぐ六丈三尺(約18メートル)の大仏の完成を受けて、豊臣秀吉公は亡き父母の追悼供養として各宗派より1,000人の僧侶を呼んで「大仏千僧供養」が行いました。この頃の方広寺の境内は現在の寺域よりさらに南、豊国神社京都国立博物館の平常展示館あたりまで広がる広大なものでした。南北約90m、東西約55mあったといわれる壮大な大仏殿は、豊国神社の社殿が建っているあたりに建てられていました。

 豊臣家の威信の象徴として建てられた大仏は、早くも翌年の1596(慶長元)年に発生した伏見大地震のために倒壊してしまいます。民心の動揺と威信失墜の危機を察知した豊臣秀吉公は、速やかに方広寺を訪れて倒壊した大仏に向かって弓矢を放ち、「うぬは京の町を守る役目を忘れ、真っ先に倒れるとは、何たる慌て者!」とパフォーマンスを行って「神仏をも叱咤する頼もしい権力者」としての姿を演出し、庶民の心を落ち着かせようとしたというエピソードが残っています。

 大仏倒壊の年の2年後の1598(慶長3)年に豊臣秀吉公はこの世を去りますが、跡を継いだ豊臣秀頼公が亡父の意思を継いで1599(慶長4)年に大仏を再建。しかし、この大仏も1602(慶長7)年に鋳造時のミスによる失火によって全焼してしまいます。それから4年後の1608(慶長13)年、徳川家康公の勧めによって再度大仏殿の復興事業に着手した豊臣秀頼公でしたが、この時に鋳造された梵鐘に刻まれた銘文が、皮肉にも豊臣家の運命を変えてしまう結果となります。



 
東大寺・知恩院と並び「日本三大名鐘」と呼ばれる梵鐘(国の重要文化財指定)。



 1614(慶長19)年に再建された大仏殿の落慶法要を行おうとした豊臣家でしたが、ここで有名な「方広寺鐘銘事件」が起きます。再建された梵鐘に刻まれた銘文に対して徳川家康公から突如猛烈な抗議が行われたのですが、その内容は「国家安康」の部分が徳川家康公の「」と「」を分断して徳川家を呪詛し、「君臣豊楽 子孫殷昌」の部分が豊臣家を君主として子孫が繁栄していくのを楽しむという意味だというもの。このような難癖をつけて豊臣家を故意に挑発し、戦乱を起こして一気に息の根を止めてしまおうとする陰謀で、側近・金地院崇伝による発案だったといわれています。

 結局、この後も続けられた挑発に乗った豊臣家徳川家は、翌年の1615(元和元)年と1616(元和2)年に起きた「大阪の冬の陣」「大阪夏の陣」で激突、豊臣秀頼公と母・淀君の自害によって豊臣家の栄華は幕を閉じることとなりました。事件のきっかけとなった梵鐘は現存していますが、豊臣秀頼公によって再建された大仏は1662(寛文2)年に起きた地震によって倒壊してしまいます。豊臣家供養の意味も込めて徳川家によって1667(寛文7)年に再建された大仏(木造仏だった)は、1798(寛政10)年に落雷によって全焼。以後、方広寺の大仏は再建されることがありませんでした。




アクセス
・京阪電車「七条駅」下車、東へ徒歩8分
・京都市バス206・208・100洛バス「博物館・三十三間堂前」バス停下車、徒歩5分
 方広寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料(本堂拝観料200円)

拝観時間
・9時~16時

秀吉の京をゆく (新撰 京の魅力)
津田 三郎
淡交社

明石・明石神社。

2008年06月04日 | □兵庫県 -播磨(姫路以外)


明石神社

(あかしじんじゃ)
兵庫県明石市上の丸1



荒廃し、再建が進められる社殿。明石市の指定文化財である明石城太鼓が置かれています。


〔御祭神〕
徳川家康公
(とくがわいえやすこう)
松平直明公
(まつだいらなおあきらこう)
松平直常公
(まつだいらなおつねこう)
豊受大神
(とようけのおおかみ)
金山彦大神
(かなやまひこのおおかみ)


 明石城公園の東に位置する明石神社は、明石藩の第9代藩主・松平直常公が、祖父で越前松平家の始祖である松平直良公、その末子で本多政利公に替わって1682(天和2)年に第8代藩主の座に就いた父・松平直明公、松平直良公の祖父で江戸幕府の初代将軍・徳川家康公を祀った祠を明石城の城内に建立したのが始まりといわれています。

 1682(天和2)年創建と伝えられていますが、松平直常公が創建したという話が正しいとすれば、松平直常公が家督を継いで第9代藩主になった1701(元禄14)年以降の創建とも考えられます。この祠は松平家の守護社として祀られ、一般民衆が参拝することは許されていませんでしたが、1871(明治4)年になって廃藩置県によってこの禁制が解かれ、一般の人々も参拝することができるようになりました。

 この祠は、1886(明治19)年4月には「明石神社」という名が付けられて人々の崇敬を集めていましたが、1898(明治31)年に明石城一帯が御料地となったことから移転計画が進められ、20年経った1918(大正7)年に現在地への遷座が行われました。この時に人丸山にあった護穀神社が合祀され、豊受大神金山彦大神も共に祀られるようになったそうです。




拝殿部分は瓦葺き、本殿部分は銅板葺きになっています。


 明石神社は1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災で社殿や能舞台が半壊し、長らく手付かずのまま荒れるに任せた状態が続いていました。ここを訪れた当時は写真でご紹介したような状態で、資金面での折り合いがつかずになかなか再建が進んでいなかったのですが、2006(平成18)年に明石市から危険な建築物として撤去命令が出たのを機に改めて再建計画が練り直され、鉄筋コンクリート造の新社殿を建てるべく工事が進められています。



 
鬱蒼と茂る緑に覆われた手水舎(左)と参道(右)。現在は社殿の再建工事中です。



アクセス
・JR「明石駅」下車、北東へ徒歩8分
・山陽「明石駅」下車、北東へ徒歩8分
明石神社地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

京都・上品蓮台寺。

2008年06月02日 | ◇京都府 -洛北

蓮華金宝山 九品三昧院 上品蓮台寺

(れんげきんぽうざん くぼんざんまいいん じょうぼんれんだいじ)
京都市北区紫野十二坊33-1

通 称
千本十二坊



千本通を北上していくと、通りに面して建つ上品蓮台寺の山門を見つけました。


〔宗派〕
真言宗智山派

〔御本尊〕
延命地蔵菩薩
(えんめいじぞうぼさつ)


 千本釈迦堂(大報恩寺)釘抜地蔵(石像寺)千本閻魔堂(引接寺)などが立ち並ぶ千本通。「千本通」という名前は、かつてこの通りに沿って1,000本近い卒塔婆が立ち並んでいたことに由来します。この卒塔婆には冥界に近い場所といわれていた蓮台野葬場らしい伝説が残されています。

 醍醐天皇が崩御されてから4年が経った934(承平4)年8月のこと。吉野山で修行していた日藏上人は突然気を失い、気がつくと冥界の地に立っていました。そこには、菅原道真公を無実の罪で大宰府へと左遷してしまった罪のために地獄で苦しむ醍醐天皇の姿がありました。「船岡山の地に1,000本の卒塔婆を立てて供養してもらえればこの苦しみから救われる」という醍醐天皇の懇願を受けた日藏上人は、さっそく朱雀天皇に奏上して1,000本の卒塔婆供養を行ったといいます。ちなみに、地獄で醍醐天皇が詠んだという歌も伝えられています。


「いふならく ならくの底に 入りぬれば 刹那も首陀も かはらざりけり」



 
明るく咲き乱れる枝垂桜と、整然と伸びる石畳や銅像との美しいコントラスト。



 その千本通に建つ上品蓮台寺は、母の菩提を弔うために聖徳太子が創建し、蓮台野にあって皇族の葬送にも関わりがあったと伝えられる香隆寺がルーツだといわれています。960(天徳4)年に入り、宇多法皇から真言密教奥義の灌頂を受けた寛空上人が、その勅願を受けて寺院を再興して「上品蓮台寺」という寺号を定めたといわれています。再建当時は広大な境内に伽藍が建ち並び壮大なものでしたが、残念ながら1467(応仁元)年から10年以上続いた応仁の乱の兵火によって悉く焼失してしまいました。

 それから約1世紀後、16世紀末の文禄年間に入って紀州の根来寺の僧侶・性盛上人が中心となって上品蓮台寺を復興、真言宗智山派の寺院として再出発を図ることとなりました。この時、千本通の両サイドに12院の塔頭を持つ大寺院となったために「千本十二坊」という呼び名がつきました。広大な寺域を誇った上品蓮台寺も、明治時代に入って出された上地令によって寺領の多くを国家に納め、現在の規模に落ち着きました。




 
境内の至るところで咲き誇る枝垂桜。どれもみな立派な枝振りです。



 上品蓮台寺には、京都に現存する最古の絵巻物といわれる国宝の「絵因果経」や、重要文化財に指定されている「絹本著色六地蔵像」が所蔵され、境内には平安時代中期の仏師で、寄木造の手法を完成させて宇治・平等院鳳凰堂に納められている国宝・阿弥陀如来像を彫り上げたことでも知られる定朝の墓があります。また、多田源氏の祖である源満仲公の嫡男で、優れた武勇で有名だった平安時代の貴族・源頼光公の墓も境内に残されています。周辺にある観光スポットとは異なり、それほど知名度は高くありませんが、その分きれいな枝垂桜を心ゆくまで愉しむことができる隠れた名刹です。





境内の南側に建つ本堂。


アクセス
京都市バス1・12・204・205・206・101洛バス・102洛バスほか「千本北大路」バス停下車、徒歩3分
京都市バス6・46・59・206系統「千本鞍馬口」バス停下車、徒歩3分
上品蓮台寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料  ※観光寺院ではありません

拝観時間
・9時~17時

京都の寺社505を歩く (PHP新書)
槇野 修
PHP研究所